届かない背中



初めて会ったのは、東京に引っ越してきた翌日のこと。当時小学生だった俺達は毎朝近所の子供を集めて"登校班"なんて小さいグループを作り、集団で登校していた。
まだ周りに馴染めず、黙って歩く俺。すると道中、周りの小学生達がある一点を見るなりわいわいと騒ぎ出した。

「なまえちゃん!」
「今日はあされん、ないの?」

その先にいたのは、ひとりの女子中学生だった。

初めて見た時、綺麗な黒髪だな、と思った。黒いけど、太陽の光に透かすと少しだけ毛先が茶色く輝く。その煌めきが眩しくて、思わずぼーっと見惚れてしまったことを覚えている。

「おはよ、みんな元気そうだね! …あれ、知らない子がいるけど、転校生?」

聞けば、彼女は2年前まで俺達が通っていた小学校の生徒で、この地区の登校班の班長を務めていたらしい。なるほど、道理で上級生達が慕っているわけだ。
彼女はすぐに俺の存在に気づいた。ただ、当時まだ全く周りに馴染めていなかった俺は、突然知らないお姉さんから話しかけられて完全にアガってしまっていた。

「ええと…その…」
「私、みょうじなまえ。君の名前は?」
「く…黒尾鉄朗…」
「鉄朗君か! 学校、楽しんできてね!」

彼女はそう言うと、セーラー服の短いスカートをひらりと翻して去って行ってしまった。
まだ8歳だった俺にとって、その背中はとても大きくて、そしてとても格好良いものに見えていた。

あれから姉さんはちょくちょく研磨の家を訪ね、俺のことも気にかけてくれるようになった。
元々面倒見は良い性格だったらしい。彼女がまだ6年生だった頃、小学校に上がりたくないと泣いていた研磨に"いかに小学校が楽しいところか"プレゼンしている間に仲良くなったのだと聞いた。

「鉄朗君はどう? そろそろ学校、慣れた?」
「うん、バレー始めたの」
「バレー!? 格好良いね! 好きなの?」
「! うん!」

彼女はとても朗らかな人だった。
俺のバレーの話も、研磨のゲームの話も、いつも興味深そうに聞いては嬉しい相槌を打ってくれる。
────俺が彼女に懐くまでに、そう時間はかからなかった。俺もあの子みたいに、みんなの話を笑って聞いて、場を明るくするようなやつになりたい。楽しい冗談も言えるようになって、今度は姉さんのことを笑わせてあげたい。

それが拙いながらも確かな初恋なのだと気づいたのは、小学校を卒業する頃になってからのことだった。そろそろクラスの間でもやれ誰が好きだの誰に告白するだの、そんな会話が交わされるようになった頃、俺は自分が彼女のことばかり考えていることを自覚した。

初めて見た時の、あの黒髪が忘れられない。屈託なく笑う時、目がなくなるところが可愛い。「黒尾は? やっぱマキちゃん派?」と言われた時、「ううん、なまえ姉ちゃん」という答えがあまりにもあっさり口から滑り出してきたものだから、「え…誰…?」と戸惑う同級生に向かって俺はもう笑うしかなかった。

ただ、そこにはひとつだけ問題があった。
俺と彼女の間には6年の差がある。

翌年から中学に上がり、ようやく初めて彼女と会ったあの日と同じ制服を着て、同じステージに立てると思っていたのに────その頃にはちょうど、彼女の制服期間は終了し、ラフな格好で大学に通うようになっていた。

追いつけない。どれだけ頑張っても、姉さんはいつも先へ行ってしまう。

そんな焦燥感があったせいだろうか、それまでは気まぐれで彼女が遊びにきてくれるのを待っているに留まっていたが、俺はいよいよ自分から彼女に近づくことを画策し始めた。

「姉さん、勉強教えて」
「姉さん聞いて、バレーの試合、勝ったよ」

姉さんは大学に入っても、どれだけ新しい友達ができても、俺のことを決して邪険に扱ったりはしなかった。随分と大人びた顔になり、メイクも覚えてとても綺麗になった別人のような彼女。でも、その中身は出会った頃から全く変わっていなかった。

「わからないところあるの? 良いよ、見せて」
「応援行ってたよ! 鉄朗、大活躍だったね!」

姉さんが俺のために時間を作ってくれることが嬉しい。太陽のような笑顔で笑いながら褒めてくれることが嬉しい。

「なあ黒尾、3組の友紀ちゃん、可愛くね?」

だから、中学に上がって色恋沙汰の話が増えてきても、俺の心は全く変わらなかった。

「俺、好きな人いるから他の子見てもあんまどうとか思わない」

年は追いつけないかもしれないけど、その分早く中身だけでも大人になって、姉さんの彼氏になりたいんだ。同級生の女子がみんな子供に見えていた俺は、脇目も振らず、彼女のような大人になれるようにとそれだけを考えて努力を続けた。大好きなバレーには、常に全力で、ひたむきに。苦手な勉強でも、克服できるよう誠実に。

姉さん、今すぐにとは言わなくて良いから、いつか俺のこと、見て。子供の鉄朗じゃなくなったら、俺と付き合って。

その笑顔を、俺だけに見せて。

────そう思いながら日々を過ごして更に3年が経った。中学の最上級生になったことで、少しは後輩も増え、視野が広くなったような気がしていた。
今なら姉さんも俺のこと、男として見てくれるかな。ちょっとは成長、できたかな。

そういえば姉さんはここ最近、就職活動に追われていると聞いた。日中は面接を受けて、夜にはバイトをしているらしい。スマホから連絡をしてみても返って来るのは2、3日後だし、直接家に行ってみてもいないことがほとんど。
大学生って忙しいんだなとぼんやり考えながらその日も彼女の家の前を通る。チラリと2階にある彼女の部屋の方を見上げてみるが、やはりそこに電気はついていなかった。

こちらもそろそろ冬の受験に向けて本格的に準備を始めなければいけない。こうやって距離が離れていくことが"大人になる"ということなら、そんなもの、一生ならなくて良いのに。

そう思っていた折だった。

彼女の家のすぐ目の前にある、小さな公園。
そのベンチに腰掛けて、蹲るように屈んでいる女性の細い背中が見えた。

夕陽に照らされて茶色く煌めく自然な黒髪。いつも見ていた、小さいはずなのに大きな背中。

「────姉さん」

堪らず、声をかけていた。

彼女ははっと身を起こすと、こちらを振り返った。
────その目は、赤く充血していた。

泣いて、いたのだろうか?

しかし彼女はすぐに笑顔を浮かべると「鉄朗! 久しぶりだね、あ、返事溜めちゃっててごめん!」とよく知っている元気な声をかけてきた。

「…どうしたの、姉さん」
「ん? 何が?」
「泣いてる」
「泣いてないよ。ちょっと目が痒くて擦っちゃってただけ。ほら、花粉症だから」

嘘だ。そんな話、聞いたことない。
それに、彼女の声は、少しだけ震えていた。わざと明るく振る舞おうとしているのは明白。

「就職活動、大変なの?」
「んー、まあでも、みんな通る道だからね。私だけ落ち込むわけにもいかないし」

言外に辛いことを認めながらも、彼女は笑っていた。
思えばいつも彼女は笑っていた。俺達の話を聞くばかりで、彼女自身の話を聞いたことがほとんどなかった。

もしかして、辛い時はいつもこうやってひとりで泣いていたんだろうか。
生きていて毎日何も悩み事なんてないまま笑っているだけなんて、普通は無理だ。
俺だって泣きたくなる時はあるし、あの研磨でさえ交友関係に悩みながら悔し涙を滲ませていた日もあった。
それなのに、俺達の前ではいつも明るく振る舞って。そうやって、涙を隠してぎこちない笑顔に変えて。

俺は何年も彼女のことが好きだったはずなのに、そんな簡単なことにすら気づけずにいた。

「傍にいたい」、「話を聞いてほしい」、今まで抱いていた身勝手な願望が、徐々に俺の中で形を変えていくのがわかった。
────彼女を支えたい。

「ねえ姉さん、しんどいなら俺を頼って。辛いんなら、俺の前で泣いてよ」

姉さんは目をぱちくりと瞬いて、それから────もう一度、目をくしゃっとなくして笑った。

「────ありがとう。頼りにしてるね」

────それでも、彼女から助けを求める連絡が来ることは、一度としてなかった。










あれから更に3年が経つ。
俺も今や高校3年生。バレー部の主将を務め、冬の大会には全国出場まで果たした。
無茶な練習だってこなしてみせたし、癖の強い後輩達だってそれなりにうまくまとめられていると思う。体も大きくなったし、脳の使い方も覚えた。

中学の頃より「大変だ」と思うことは増えたが、それでもそんなあれこれをなんとか乗り越えて、少なくとも子供だったあの頃よりは着実に成長しているはず。

今なら姉さんも、辛いことを打ち明けてくれるだろうか。今度こそ、俺は姉さんを支えられるほどの男になれただろうか。

6年以上経っても、俺はまだ姉さんのことが好きだった。

ある冬の日、山本からの頼みで遅くまでバレー部の面倒を見て、とっぷりと日が暮れてからようやく帰路についた時のこと。
彼女の家の前を通りがかった時、ちょうど姉さん本人が帰ってきているのが見えた。

「姉さん」

声をかけると、彼女はすっかり疲れ切った顔でこちらを振り向いた。それでも声の主が俺だとわかると、無理やりに笑顔を浮かべて「お疲れ様、部活帰り?」と変に上擦った返事を寄越してくる。そういう姉さんは仕事帰りだろうか。土曜日なのに?

「そうそう。もう朝から晩までバレー漬けでやんなっちゃうね」
「またまた、大好きでしょうがないくせに」
「ま、好きじゃなきゃできないな。姉さんは今日も仕事?」
「そ。これから夜ご飯作らなきゃなんだけど…そだ、鉄朗、久々にうち来る?」

その顔は、完全に子供を見る大人の目だった。おじさんやおばさんは今日家におらず、これから彼女が夕飯を作るのだという。きっかり1人分を作るのは難しいので、食べ盛りの高校生がいてくれると作りすぎても余らないから助かる────というそんな理由は、あまりにもあっさりとしすぎていた。それはもう、悔しいほどに。

「────じゃ、ご相伴にあずかります」

まるで売られた喧嘩を買うような気分だ。俺は素知らぬ顔をして、彼女の家に上がり込んだ。
ここに足を踏み入れるのも随分と久しぶりな気がする。昔は中学生の間で流行していた小物や同級生との写真が飾られていたはずの彼女の部屋は、随分と殺風景なものになっていた。必要最低限の家具しか置かれていないことに加え、かつて研磨も一緒に3人で顔を突き合わせてゲームをやっていたローテーブルの上に無機質なノートパソコンが置かれているところに、嫌な時の流れを感じる。

30分程待った後、彼女が階下の台所から料理を乗せた大皿を持って来てくれた。配膳くらいは手伝おうと、再び台所に戻る彼女についていくと、「飲み物、好きなもの持って行ってね。私の分のビールもよろしく」と言われた。
冷蔵庫には、日頃から常備しているのだろうと思わされるいくつかの缶ビールがしまってある。まだ俺には手の出せない冷たい銀色のアルミ缶に、透明の境界線を見たような気がした。

一通りの準備を終え、一緒に食卓を囲む。「簡単なものしか作れないんだけど」と言われた言葉通り、皿の上に乗っているのは手間のかからなさそうな炒め物。

「でも、仕事が終わった後にやれ食材買ったり野菜切ったり味付けしたり…って、意外とエネルギー使うもんでないの? あ、せめて洗い物は俺やるわ」
「お気遣いありがと。一緒にやるよ」

仕事終わり、父親がよく「疲れて帰って来てるのに家事までやりたくない」と零しているのを偶然聞いたことがあった。祖父母はあまり元気に動き回れないし、うちには母親がいないから、外で働くことも家の仕事も全て父がひとりで回していた。気を遣わせまいとしていたのか、俺の前でそういった文句を言うことは決してなかったが、ひとりごちているところを隠れて聞いて以来、積極的に家の手伝いをするようになったことをふと思い出した。
────俺にはいつも、想像しかできなかった。仕事ってどんなことをするんだろう。どれくらい疲れるんだろう。家の手伝いをすることは嫌いではなかったが、だからこそそれを全て放り出したいと嘆く父の気持ちを真に理解してやれることはできなかった。

「まだ部活、現役なの?」

味を知らないビールを美味そうにあおりながら彼女が尋ねてくるのは、予想通り俺のことだった。

「いや、まさか。今日は後輩に頼まれて面倒見てただけ」
「へえ、頼られてるんだ」

そうだよ。引退しても引きずり出されるほど、ちゃんと頼られてるよ。

「まあ、名主将だったからなー、俺ってば」
「その様子じゃお受験の方も順調そうですね?」
「痛いとこつきますね…」
「とか言ってそんな心配はしてないけどね。鉄朗、頭良いし」

そりゃあ、追いかける背中がありましたからね。
俺の気持ちなんて全く知らないまま、彼女はビールを立て続けに2缶空けた。その頃には頬にほんのりと朱が差し、少しばかり気分が良くなっているようだった。

────それはまるで、絵に描いたような"大人"の姿を見ているようで、少しだけ切なくなる。

「それより姉さんは? 土曜出社までして何してんの?」
「んー、代わり映えのない営業だよ。お客さんに電話すんの。平日捕まんない人でも土曜なら構ってくれるだろーって、上司が」
「無茶苦茶だな」
「よくあるよくある」

なんてことないように言うが、その目の下にくっきりと残った隈は隠せていなかった。どう考えても疲労やストレスが溜まっているのは明らかなのに、彼女は今も昔と変わらない笑顔を浮かべている。

「なー、やっぱ金融機関ってブラックなの?」
「うーん、どうなんだろう? 他の会社のこと、わかんないからなあ」

思えばいつもそうやって煙に巻かれていた。彼女のことをいくら聞き出そうとしても、のらりくらりとはぐらかされてしまう。ましてやそれが彼女の弱点になりうる話となると、どれだけの変化球を投げても見事に躱される。これでも口は巧い方だと自負していたが、彼女にかかればそれでさえ"子供の戯言"になってしまうらしい。

それが、何よりも悔しかった。

「…なあ、覚えてる? 中学の頃言ったこと」
「たくさん話したから全部は覚えてないよ」
「俺、姉さんに頼られたいんだけど。今の姉さん、めっちゃ疲れてるように見えるし、辛いことがあるんなら俺に話してほしい。知ってる? もう俺、18になるんですよ。そろそろ甘えてばっかりじゃなくて、甘えられるくらいの甲斐性は身に着けたと思うんだけど」

だからそれは俺なりの、精一杯の告白のつもりだった。
心臓がうるさいほどに鳴っている。ねえ、俺、少しは大人になったつもりなんだけど。
今日だって、こんなに簡単に誘われたくなかった。
もっと意識してくれよ。もっと警戒してくれよ。そんで────もっと、俺に寄りかかってくれよ。

「あはは、10年経ってからやり直しておいで」

────返って来たのは、そんな残酷な言葉だった。

10年経ったって、姉さんの時が止まるわけじゃない。俺が28になったら、彼女は34だ。どうせまた"近所の子供"扱いをされて、こうやって家に簡単に上げられてしまうんだろう。
どうしたら良いって言うんだよ。

「10年経ってもこーやって俺のこと簡単に家に上げるような寂しいおばさんになるつもりですかあ?」
「おばさんって言うな! 34の大人の女、格好良いでしょうが!」

格好良いと思ってるよ、いつだって。でもそこは、俺"だから"上げるって言ってほしかった。なんて、そんなことを願うのがどれだけ女々しいかはわかっている。それでも、埋められない年の差を前に、俺はいつまでも子供っぽいことしか考えられなかった。

その後、出された料理を完食し、「一緒にやるよ」と言う彼女を半ば無理やり部屋に留めてから、俺は台所を借り洗い物に取り掛かることにした。
ひとりになると、脳裏に彼女と交わした会話が蘇る。自分のことはほとんど語らず、結局俺や研磨がどうしているのかということばかり尋ねられた。まるで、小さい頃から面倒を見てきた弟の成長を喜ぶ姉そのもののように。

「…残酷だよな、ほんと」

たった6年。たったの6年なのに、こんなにも遠い。

最後の皿を洗い終え、彼女の部屋に戻る。やけに静かだと思っていたら、彼女は机に突っ伏して居眠りしているようだった。

「…普段からこんくらいの隙なら見せてくれても良いのにな」

何年も近くにいたのに、居眠りしている様すら見せられたことはなかった。どうせ今のこれだって、酒の力を借りているだけなんだろう。

「ほら、風邪引くから風呂か布団に入っちゃってくださーい」

肩を叩いて耳元で声を掛けるも、反応なし。かといって放っておくわけにもいかず、仕方なく俺は彼女を抱きかかえてベッドまで運ぶことにした。思っていた以上の軽さに、却って驚きから落としてしまうかと思ったほどだった。

本当はこんなに小さくて細くて、か弱かったんだ。それなのに、その両肩にいつも重たい荷物を抱えて、顔に分厚い仮面を被って…。

「…申し訳ありません…」

ベッドに寝かせたその時、彼女が唸るようにそう呟いた。ぎゅっと寄せられた眉根には深い皺が寄っており、よく見るとその目尻からは一筋の涙が流れている。

「────……」

一向に語ってくれない彼女の"本音"を思い遣りながら、そっと小指の先で涙を拭う。

「…俺、よく周りから頼りがいがある、って言われるんだけどな」

──── 一番頼って欲しい人には、そんな俺の声など届かなかった。









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