Salvation



あ、待って、駄目かもしれない。



1日の半分以上をしたくもないことのために費やして、定時を越えても降る仕事もこなして、その疲労回復のために帰ったら即眠って。土日は平日の間に片づけられなかった家事をこなして、買い出しに行って、時には緊急案件や金曜日までに終わらなかった業務を消化するために出社して、また同じように────週明けに備えて休む。

自分のための時間なんて、ない。
やりがいなんて、ない。
それでも生きていくためにはお金をもらわなければいけなくて、だから働かなければならないのに────月に一度入ってくるその生きるための資金は、雀の涙のようなもの。

私の人生って、なんなんだろう。
社会の歯車って、本当にあったんだな。

学生の頃は、未来も希望もあったはずなのに。こうして毎日を消化していく中で、すっかり私は、持っていたはずの幼い夢を全て忘れてしまった。

────そして、そのことに気づいてしまった時、私の中の何かがパリンと音を立てて割れた。

好きだったはずの音楽で、涙が流せなくなった。
毎週欠かさず見ていたバラエティで、笑えなくなった。

気になっていた映画も見に行かないし、新作の可愛い洋服にも興味がなくなった。

それでも、日々は続いていく。
生きなければならないから、今日も会社に行って働く。
与えられた業務を機械のようにこなし、上司の承認を得て、別の部署に回す。その間にこれまた別の部署から仕事が回ってきているので、デスクに戻ったら即同じことを繰り返す。

それについても、何も感じなくなってしまっていた。
それが当たり前だから。それが、生きるということだから。

そう思って、信じて、感情を殺しながら日々が過ぎていくのを無駄に待っていた、ある日のこと。
コーヒーでも淹れて一息つこうと思ったその瞬間、足元がぐらりと傾いた。
頭の先からさっと血の気が引き、思わず蹲る。

そして同時に、世界が急に────私を、襲った。

お湯の沸騰する音。給湯室の外の廊下を歩く人の靴音。話し声。シンクに蛇口から時折落ちる水音。
その全てが、耳を伝って脳に凶器のように刺さる。
痛い。痛い。音が、痛い。

どうして。
だって、昨日だって帰った後はすぐに眠ったし、朝…はほとんど食べられなかったけど、ゼリー飲料でエネルギーは補給しているはずだし、今日は何も変わらない、ここ数年ずっと変わらない、歯車の1日に過ぎないはずなのに。どうして、今日だけこんなにも辛くなってしまうの。

手足が痺れて、うまく動かない。頭が膨張したみたいにぼやけて、顔が熱い。
もう枯れたと思っていた涙が、勝手にぽたりと落ちる。

どうしたの、私。
もう感情も、健康も、全て殺して捨ててきたはずなのに。
どうして今、このタイミングで、その全てが押し寄せてこようとするの。

助けて。
誰か、助けて。
自分でもどうしたら良いのかわからないこの状況を、私を、救って。

明日どうなったって良い、会社なんて爆発してしまえば良い、その前に自分が死んだって良い────そこまで考える夜だっていくつもあったのに、まるで反動が押し寄せてきたかのように、心と体が両方とも私に無意識の警告音を鳴らす。
助ける、救う、って言ったって、どうすれば私は助かって、救われるかわからないのに。
それに、"社会"ってこういうものなんじゃないの? 私はまだ、誰かに助けられなきゃいけないほどじゃない。誰かに救いを求めなければいけないほど弱っているわけじゃない。

もっと、世間には困っている人がいて、助けが必要な人がいて────。

だから、立たなきゃ。
立って、コーヒーを飲んで、また仕事に戻らなきゃ。

「みょうじさん!? どうしたの!?」

その時、折悪く給湯室に同僚が入ってきてしまった。蹲って涙を溢している社員がいたら、そりゃあ驚かれてしまうことだろう。

「ど、どうもしてないよ。ごめんね、さっきこの辺でコンタクトを落としちゃった気がしたから、一応探してたの」

蹲っていた言い訳も、涙の言い訳も、全部視力補正器具のせいにしてやった。

「び…っくりしたあ、みょうじさん、いつも真面目に働き詰めてるから、疲れで倒れちゃったのかと思ったよ」
「心配かけてごめん、大丈夫だよ。それに…んしょ、あ、コンタクト、ちゃんと入ってたみたい」

眼球に指を当てて、コンタクトの位置を確認するふりをする。

「それなら良かったけど…。もし体調が悪かったら、早退するんだよ? 課長に言いづらかったら、私も一緒に言うから」
「ありがとう、助かる」

そんなの、何の助けにもならない。同僚の厚意に対して随分と無礼なことを考えながら、私はそれでも笑顔を作ってみせた。
早退なんかできるものか。デスクにはまだ、私がこなさなければならない仕事が大量に積まれている。それに、今日は既に病欠しているメンバーが2人もいるのだ。その分の仕事は皆で分け合っているとはいえ、通常より多い業務量をこなさなければならないとわかっているのに、ここで更に私が離脱するわけにはいかない。

社会人、5年目。新卒の頃に比べたら当然仕事のスピードは上がったし、ある程度の昇格だってあった。
でも、そんなもの、何も嬉しくなかった。
「そろそろ慣れたでしょ、もっとできるよね」っていうプレッシャーにしか、感じられなかったから。

同僚は昼休みを使ってカップ麺を食べるつもりだったらしい。「ケトルのお湯、ちょっともらって良い?」と言って自分の分を注ぐと、「みょうじさんはいつものコーヒー?」と、私の分までコーヒーを淹れてくれてから給湯室を去った。

湯気の上がるコーヒーを見ながら、私はぼうっと立ち上がる。まだ末端の感覚はうまく取り戻せていないけど、それ以上に「早くオフィスに戻らなきゃ」という気持ちにせっつかれているせいで、勝手に体が動いてしまっていたのだ。

首にかけていたスマホを見て、時間を確認する。
13時。定時までは、あと4時間。残業の時間を考えたら、きっとあと9時間くらい。
────まだ、出社してから半分も経っていないんだ。

画面はすぐに閉じようとしたのだが、時刻の下にメッセージアプリの通知がついていることに気付いた。

『今日仕事何時頃終わりそう?』
『こっち、若干早く終わりそうだから帰り迎えに行くよ』
『せっかくの週末だし、なんか食ってこ』
『んで、そのまま俺ん家泊まりなよ』

「……てつろう」

送り主である彼氏の名前が、ぽつりと口から零れる。

黒尾鉄朗。私とは正反対の人。
付き合い始めたのは、高校生の時。あの時は毎日一緒にいるのが当たり前で、くだらないことで笑い合って、煽り合って、明日のことなんか気にせず夜通し電話をしたり、体力が尽きるまでの時間なんて考えず1日中遊んだり────少なくとも、同じ歩幅で、同じものを見ながら生きていたと思う。
バレー一筋だった彼のことを、ずっと応援していた。
対して多趣味で飽き性な私が次から次へと新しいものに手を伸ばす度、彼も同じように興味を持って一緒に触れてくれた。

起きたことは、なんでも分かち合っていた。
同じ感情で、同じ熱量で、日々を"謳歌"していた。

卒業してからも、隣にはいたけど。
思えば、あの頃から少しずつ歩む道は違っていたのだと思う。

素直に興味のある学問をふらふら勉強しに行った私と、『バレーボールのネットを下げたい』という難しくも大きな夢に向かってまっしぐらに進み始めた鉄朗。
それでも、お互いそれなりに真面目に勉強をして、サークルにも入って…といわゆる普通の大学生らしい生活は送っていたから、そこまでの違和感は覚えなかった。月に一度くらいは会って、ご飯を食べたり買い物をしたり、互いの家に泊まりに行ったり、会う頻度が減っただけで、高校生の時と変わらない生活を送っていた。

でも、日々は残酷に過ぎて行って。
就職をすることになって。

私はまたも、興味関心だけで選んだ会社に入る。そこまでは良かったのだが、たとえ事業内容や理念が自分の考えと一致していたとしても、実務において自分のやりたいことがやれるとは限らないところが会社の仕組み。それに私は、仕事に対して夢を持つことはできなかった。
それよりも、自分の時間を大切にして、もっと新しい趣味を見つけて、生きるためのお金を稼ぎながら"楽しく"毎日を過ごしたかった。

対して鉄朗は、一貫した夢のためにバレーボール協会という狭き門の採用試験を突破し、『ネットを下げる』ための活動を日々続けている。毎日忙しそうだし、時折仕事終わりに会う機会を作った時、明らかに顔に疲労の色が浮かんでいた時もあったけど、「でも、これが俺のやりたいことだから」と楽しそうに笑っていた。

仕事に、夢を託せた鉄朗。
夢を、仕事に潰された私。

いつの間に、こんなに差が開いてしまったのだろう。彼は社会に貢献しながら、自分の夢も叶えようとしているのに。
私は何の生産性もない日々をただただ咀嚼しながら、自分自身の望みさえ何一つ叶えられず燻っている。

それが、情けなくて、情けなくて。
いつも考えないようにしていることが、今日という限界の日を迎えたことで一気に溢れ返ってしまう。

「────……」

私は通知をタップして彼からのメッセージを表示し、返信しようと文字のパネルに手を当てたところで────止めた。

…無理だよ。
鉄朗に合わせる顔なんて、ない。

それに今、私、何て返そうとしてた?

『助けて』

そう、送ろうとしてなかった?

急いで指をスマホから離し、そのまま画面を閉じた。
駄目だ。今の私が誰かに助けられる資格なんて、ない。

生産性のあることをしなきゃ。仕事をしなきゃ。生きるために、誰かの役に立つために────自分を救うのは、それからじゃなきゃ。

私はそこから綺麗に鉄朗からのメッセージのことを忘れ、デスクへと戻った。
ついでに、淹れてもらったコーヒーのことも忘れてしまっていた。










夜、22時。
時計の長針が少し回ったところで、ようやく切り上げても良いと言えるレベルのところまでの業務が終わった。見れば、同じ島にいる同僚もほぼPCを閉じているか、要らない書類をシュレッダーにかけているか、それぞれ帰り支度を始めている。
ここで後輩がまだ忙殺されていようものなら総出でまだ仕事を再開しなければならなかったところだったが、今日はなんとか全員同じタイミングで帰れそうだ。

「お疲れ様〜」
「また明日ね」

そんな挨拶を交わしながら、私もさて帰ろうと鞄を肩にかける。
しかし習慣でスマホを開いた時、思わずぎょっとしてしまった。

鉄朗からの不在着信が、5件も溜まっている。

慌ててオフィスから出て、掛け直す。電話はツーコールで繋がった。

「ごめん、サイレントにしてたから気づかなかった。どうかした?」
『それはこっちの台詞だよ。既読のままこの時間になるなんて初めてだったから、何かあったんじゃないかと思って────大丈夫か?』
「だいっ、大丈夫!」

大丈夫じゃない、また無意識にヘルプを求めようとしてしまっていた私は、一度言葉を呑み込み、腹の底から元気を繕って声を出した。

「単純に忙しかっただけだよ。心配かけてごめんね」

あ、そういえば帰りに一緒にご飯を食べようって言われていたんだったっけか。それの返信をする余裕がないまま、仕事に戻ってそれきりになってしまっていたから────。

「鉄朗、もう家に帰った? ご飯行こうって誘ってくれてたのにごめ────」

オフィスから駅までは、徒歩30秒くらい。立地だけは良いその建物に感謝しながら駅の改札前を見ると────。

「……なんで、いるの」

とても悲しげな顔をした鉄朗が、私の方を見ながらスマホに耳を当て、切符の券売機の隣に立っていた。
もうこの時間になると、通勤する人の数もだいぶ減り、飲み屋もろくにないようなオフィス街の一角にあるこの小さな駅はかなり閑散とする。だからこそ、長身で姿勢も良い彼の姿は、よく目立って見えた。

『なんかあったら、すぐ駆け付けられるように』
「何時に終わるか、一切私…連絡できなかったのに? ずっと待ってたの? 鉄朗、定時過ぎてからここに来ても20時には着くよね」

喋りながら、機械音と生の声が溶け合っていく。私が言葉を言い終える頃には、もう彼の目の前まで来ていた。2人揃って電話を耳から離し、通話ボタンを切る。

「待つのくらい、平気。それより、お前のことが心配だったから」

鉄朗は泣きたくなるほどに悲しい顔をしていた。
────私は今、どんな顔をしているのだろう。

「…仕事、お疲れ。今日は外食なしにして、一緒に俺の家帰ろ。出前でも取ってゆっくり食おうぜ」
「そ、それは良いけど…。待たせてごめんね。それに、返事もしなかったせいで心配もかけて…。この時間じゃあんまり飲食店もやってないし、せっかく誘ってくれたのに…」
「ううん、謝ってほしいことなんてひとつもないから良いんだよ」

鉄朗は何も聞かず、それ以上のことは何も言わず、私の手を黙ってそっと取った。彼に手を取られていると、駅構内の無機質で汚い階段ですら宮殿のレッドカーペットを歩いているよう。ちょうど来た電車に乗り、同じく帰る人の波で混み合っている社内の轟音の中で揺られていると、彼がそっと私の頭を自分の胸元に引き寄せたので、ありがたく私は、車内の空間を詰めているふりをしながら彼の温かくて広い胸に体を預けた。電車の耳障りな音より、直に耳を叩く彼の心臓の音。香水やお酒の臭いより、鼻孔に吸い込まれていく慣れた彼の匂い。

あれだけ五感を刺激するもの全てが凶器にしか思えなかったのに、今は安心して目を閉じることができる。何も、私を攻撃するものがないと信じられたから。

車内でも、鉄朗は何も喋らなかった。ただ私の呼吸する道だけを開けながら頭をそっとおさえて、他の何も目に入らずに、他の何も耳に入らずに済むようにしてくれながら、揺れにも狼狽えることなく電車の隅で私を包んでくれている。

乗り換えの間も同じ。私の手を引いて、疲れたヒールの足でも無理なく歩ける速度でゆっくりリードしながら、次の電車に乗る。
1時間弱の電車の旅を終えて、彼の家の最寄り駅に着く。駅からは徒歩10分程度。駅前の店もほとんど閉まっていて、駅から離れた途端、住宅街の静けさと穏やかな月明かりだけが世界を覆う。

片手はずっと私の手を引いたまま。もう片方の手で器用に鍵を開け、靴を脱ぎ、私を先に家に入れてくれた。

「夕飯、適当に頼んじゃって良い?」
「うん、ありがとう…」

饒舌な彼がここまでの間一言も発さなかったことに、安心するような、不安になるような、両極端な感情を持つ。私が無理に話さなくて良い環境を作ってくれたのはありがたかったものの、やはりこの状況に対して何かしら不満を持っていたんじゃないかって、どうしても申し訳ない気持ちが募ってしまうのだ。

鉄朗はスマホで手早くフードの注文を済ませると、所在なく立っている私に笑いかけ、先程までのように優しい手つきで手を取ると、ソファに一緒に座った。

「もう、我慢しなくて良いよ。お疲れ」

額に、優しく口づけられる。
そのままこつんと、彼の額と私の額がくっついた。

「今日もよく頑張ったな。大丈夫か?」

何が大丈夫なのか。私は、何を訊かれているのか。

わからないのに、わからないまま、私の目尻から涙が一筋流れた。

あ、我慢しなくて良いって────このこと、だったのか。

「返事が来なかった時は、確かに少し心配したよ。何かあったんじゃないかって。でも、だからこそ、駅で待ってて良かった。お前の顔を見た瞬間、限界だったんだなって気づいた。毎日毎日、頑張ってるもんな。"やりたいこと"じゃないことをそれでもやってるの、知ってるし、それがどれだけしんどいことかも、わかるよ。だからいつかこういう日が来るってのは、なんとなく予想してた。むしろ"その日"を避けられないっていうんなら、せめてそれが今日みたいに…俺が余裕のある日で良かった、って思った。お疲れ、なまえ。もうここでは、何も我慢しなくて良い。何も、強がらなくて良い。俺が全部、受け止めるから」

それまで黙っていた分を埋めるかのように、優しい言葉がシャワーのように降り注ぐ。耐えようとしていた涙は、彼に誘導されて治まるどころかどんどんその量を増していった。

「ごめん、ごめんなさい…。返事、しなくて…。気を、遣わせて…。私、わたし、自分でもわからなくて、別に…今日だっていつも通り消化してただけで、変わったことなんて何もなくて、鉄朗を困らせるつもりなんて、なくて…」
「困ってないよ。謝らなくて良いとも言ったでしょ。それに、1日いちにちを切り取ったら変わらない日常かもしれないけど、疲れやストレスは積もっていくものなんです。頑張れるゲージに毎日少しずつでも負荷がかかっていったら、いつかそれが壊れるのは当たり前のこと。わからないことなんて、ないよ。俺がわかってるから、大丈夫」
「でも、鉄朗だって、毎日…頑張って、それでも、いつも笑って、私の我儘に付き合ってくれて…」

ああ、情けない。
そうだ。なんなら、彼の方が私よりいつもずっと忙しそうなのに、一瞬の仕事の連絡が入った時以外、私と一緒にいる時の彼から笑顔が消えたところを見たことがない。
高校生の時より、ずっと大人になった顔。少しだけ、目尻に皺が増えたかな。肌の乾燥も、少しだけ目立つかも。髪も定期的に整えているお陰なのか、あの頃より大人しくなっている。そして、圧倒的に性格が落ち着いた。口から先に言葉が飛び出すようなことはだいぶ減ったし、煽りにも簡単には乗らなくなった(身内以外に限るけど)。

少しずつ変わっていっているのに。それでも、彼の目の輝きだけは衰えない。
夢に向かって。明確な目標を掲げて。未来のために。まだバレーボールを知らない人達のために。

バレーボールは面白いのだと、証明するために。

朝早くから夜遅くまで走り回り、時には休みまで返上して現地の視察に行ったり。
絶対に疲れているはずなのに。あまりに残酷な話だから直接言ったことはないけど、彼ひとりの力ですぐにどうにかなるような世界でもないのに。

それでも鉄朗は、毎日上を見続けている。

「…私、自分のことが大嫌い」

そんな鉄朗に、見合う人生を送りたかった。私も、毎日を笑って過ごしたかった。忙しくても、理不尽でも、「いつか叶える夢のためだから」って、綺麗な汗を流したかった。うまくいかなくても、悔しくても、立ち上がる気力がほしかった。

現実はどうだ。笑うも悔しがるも、一切の感情が湧かないまま、疲労に押し潰されて給湯室なんて狭苦しいところで倒れる始末。何も目指せない。何も叶えられない。誰かの役に立つことも、自分を満足させてあげることも、できない。

私には、何もない。

「私、鉄朗に相応しくない。私なんかが鉄朗の隣にいる資格、ない。自分とバレーのために頑張る鉄朗の、荷物でしかない。私なんか────」

消えてしまえば良いのに。

「こんな風に迷惑をかけるくらいなら、いっそ、別れた方が────」

"別れた方が良い"。

そう口に出そうとした瞬間、震える唇が荒々しく塞がれた。視界が暗くなったのは、唇を塞いだのが鉄朗の少しかさついた唇だったせい。彼の、ずっと大好きだった顔が、私の顔ごと食べそうな勢いで迫っている。

「んっ…」
「それ以上、言わないで」

それだけ言って、彼は何度も何度も私の唇を自分の唇と重ねる。何を言おうとしていたのか忘れてしまうほど荒く、濃く、そして、力強く。

優しい彼らしくない、意地悪なキスだった。

「いつか言われるんじゃないかって、思ってた。俺は毎日、好きなことをのらくらとやってるだけだし、『わかってる』なんて言っていてもそれはただの想像の範疇に過ぎない。苦しい思いをしながら頑張ってるお前の心を、本当の意味で理解できてるわけじゃないから」

私が反論することをやめたと伝わってから、ようやく彼はそう言った。とても悲しそうな顔で、なんなら、泣きそうなほどに眉尻を下げて、私の肩に手を乗せている。そしてそのまま、ぎゅうと私を抱きしめた。ソファに座る私に体重をかけすぎないよう、床に膝をついて、縋るように。座高の差があるせいで、彼の額が私の肩にちょうど乗る。肩というよりも上半身ごと抱きしめられる感覚は、まるで本当に幼い子供に「捨てないで」と懇願されるような気持ちになってしまう。

「でも、俺はお前のことが好き。今も昔も、変わらずずっと好き。中身のないことで一緒に笑ってた時も懐かしいし、くだらない喧嘩でわざとお互い無視してた時だって、今じゃ良い思い出だって思ってる。────最初から、俺に相応しいとか、隣にいる資格があるとか、そういうのを求めたことなんてないよ。そもそも俺自身が、そんな大層な人間じゃないし」
「そんなことない。鉄朗は、全然のらくらなんてしてない。いつもいつも、明確な夢のために頑張ってる。キラキラしてる。その横で、死んだような目で同じことばっかり繰り返してる私は…すごく惨めな生き物でしかないんだよ。鉄朗にも、社会にも貢献せず、二酸化炭素だけ巻き散らかして、資源を食い潰してるだけの害獣と一緒」
「それは流石に下げすぎ」

怒った顔の鉄朗に、軽いでこぴんをされてしまう。痛くはなかったけれど、行き過ぎた卑下に気付いてハッと顔を上げると、私を見上げる鉄朗の不安げな顔と視線がぶつかった。

「俺が好きになった人のことを、害獣なんて言わないで」

自分でも、行き過ぎたことを言った自覚はある。でも、強いのは言葉だけであって、中身に照らし合わせたら私は────そのくらい、ちゃんと自分のことが嫌いだった。

「俺はただ好きなことと生きるための手段が一致してるから、元気でいられるだけ。好きなことと生きるための手段が違うのに、元気でいられないのに、それでも頑張って生きてくれてるなまえが摂取してる酸素も栄養も、無駄なわけがないでしょ。たとえ俺が普段楽しく生活できてたとしても、お前がそこにいてくれなかったら、俺の人生の半分は削がれるんだよ」
「…鉄朗ひとりのために、私みたいな存在を残してたら、割に合わないよ」
「人間ひとりのために人間ひとりが存在してくれてるって、割に合う…どころか、こっちからしたら随分贅沢な話だと思うけどな」

私の冗談と飛ばされても仕方ないような自虐に対し、鉄朗は思いの外真面目に取り合ってきた。

「俺の毎日と、お前の毎日じゃ、必要な"頑張りゲージ"が全然違うんだから、そもそも比べるのがお門違いなんだよ。なあ、だから、自分のことをそんなに責めないで。俺と比べて、俺を捨てないで」
「────……」

2人揃って涙をぽろぽろ溢す、その光景のどれだけ滑稽なことだろう。気づけば私だけでなく、鉄朗の目からも静かに涙が伝っていた。

「なまえは、何かしたいこと、ない?」
「もう、何も思い出せないよ…」
「じゃあ、俺と一緒にいるのも、もう嫌?」
「ううん、それは嫌じゃない…。ただ、私が引け目を感じちゃうっていうだけで……」
「それなら、一回仕事、休んじまえ」

ぐ、と私を抱きしめる腕に力がこもる。

「いっそ今のやりたくない仕事なんか、辞めても良いよ。俺だってそう言ったからには、なまえがやりたいことを見つけられるまで、ちゃんと責任取ってお前が不自由なく生きられる環境を整えるから」
「っ……それは嫌だ、鉄朗には鉄朗のしたいことだけに集中してほしい。私のことなんか、背負わないでほしい」
「うん、お前はそう言うよな、知ってる。ごめん。わかってて、言った。でも、俺は…ひとりで叶えられる夢も確かに持ってるけど、"お前を幸せにしたい"っていう、お前がいないと成り立たない夢も持っちまってるんだ。お前からしたら"俺がやりたいことと生きる手段としての仕事を両立させていてすごい"って話になるのも頷けるけど、俺からしたら"やりたいことをやってるだけでお金をもらえる"っていう、ただの楽な人生送ってるだけとも言えるんだ。だから、お前が何か引け目を感じることなんて何もないし、何度でも言うけど、俺から見たらお前の方がよっぽど頑張ってるし、すごいことをしてるんだよ」
「それは違う、そうじゃないでしょ」

終わらない言い合い。お互いがお互いを尊敬しているからこそ、違う視点でお互いの屁理屈を押し潰そうとする。
鉄朗の言ってくれることを素直に受け入れられたら、"やりたくないことでも頑張っている自分はすごい"と私も認めてあげられたなら、もっと楽になれるんだろう。そんなことは、わかっている。
でも、それができないから私は苦しんでいた。頑張っているなんて、思えなかったから。すごいとも、思えなかったから。だって生きる手段のためだけに仕事をする私が、一体どうやって夢を叶えるために仕事をする楽しそうな鉄朗の顔を見て、夢を叶えるためだからと苦しい局面でもへこたれない鉄朗の顔を見て、それと自分が同等だなんて言えるのだろう。

「なあ、なまえ」
「何…?」
「結婚、してくれませんか」

────……は?

「な、なに、とつぜん、そ、け、結婚…?」
「お前の人生を豊かにする権利を、俺にくれませんか。お前が苦しんでる時、"休んで良いよ"って言う権利を、俺にくれませんか」
「────だから、そういうのは嫌だって」
「ううん。それだけじゃないよ。お前にも、負担はかける。今のお前にやりたいことが見つからなくて、でも俺と一緒にいるのが嫌じゃないって言うんだったら────俺が疲れた時や、"夢のためだから"って苦しいのを誤魔化して帰ってきた日、少しだけ温かく迎えてほしい。俺は夢とお前のために頑張るから、お前はお前自身を大事にして、ついでに…俺のことも、ほんの少しだけで良いから、大事にしてくれない…かな」

私を救済する、鉄朗の言葉。
なんとなくイメージしていたプロポ―ズの言葉なんかとは、全然違った。
お互いに余裕ができて、この先もお互い対等に自立した存在として成長した頃、夜景の見えるレストランでディナーをしている時にそっと指輪を渡される────そんなシチュエーションとは程遠かった。涙に濡れて目も当てられないような顔をした私と、ソファに座る私を離すまいと言わんばかりに縋りついてくる鉄朗の見上げた顔。

あまりにも、浪漫がなさすぎるよ。

「俺、もう嫌だよ。お前がそんな風に擦り切れていくのをただ見ているだけなんて。大好きな人の人生を背負うくらい、俺にとっちゃ苦でもなんでもないんだから────だから、俺を頼って。俺に、もっと寄りかかって。俺が、お前を幸せにする。お前の笑顔を、ちゃんと取り戻す。俺がお前の人生に責任を持つから────なまえ、お願い、俺の隣で、ずっと笑っていて」

なんて無茶苦茶なことを言うんだろう、この人は。
だって、このまま私が頷いて彼の手を取ってひと時の幸せを得たとしても────その先の未来で、私が彼に別れを告げられたら、私はまたひとりで生きていかなければならなくなる。私が"鉄朗を温かく迎え、彼の隣で笑う人生"に楽しみや、生きがいを見出してしまったら、それを失った時、私は今よりずっとずっと孤独になってしまう。
人生に責任を持つって、どういうことかわかっているの? 他人の人生を背負う、自分の人生の中心を他人に据える、お互いにとってそれがどれだけリスクの高いものなのか、本当にわかっているの? 絶対に私を一生離さない自信が、あるの? 私がもし明日、うっかり夢を見つけてしまって、それがどうしても鉄朗の隣にいられないような状況を生むとしたら────どうするの?

「この人のために生きたいって思ったのは初めてだから、うまくできないかもしれない。お前の人生を背負う覚悟があっても、それがうまくいかなかったり────お前にとっても、お前の…本来ならたくさんあるはずの人生の選択肢を俺ひとりのために絞らせるのは、めちゃくちゃリスクが高いかもしれない。それに、俺ひとりがお前を幸せにするって覚悟を決めてても、お前がそれについてこられなくなるような日が、いつか────来るかもしれない。それでも────それでも、いつ、どうやって起きうるのかわからない、そんな確率の低い"もしも"に悩むくらいなら、俺は今、決断したい。お前のことを幸せにするって。お前の人生を背負うって、"今"、約束したい」

私の頭の中で渦巻いていた迷いを見透かしたように、彼はまっすぐな目でその全てに答えを出した。

「それが嫌だって言うなら、断って。尊重する。でも、それがなまえにとって甘えになることだって思うなら────それは違うって、当事者である俺が否定する」

止まったと思った涙が、はらはらと再び流れ始めた。
甘えだよ。甘えでしかないよ。

でも、甘えて、良いの?

これを甘えだと自責するのではなく、彼の本懐を叶えることに繋がると信じても、良いの?

「────本当に、私で良いの?」
「隣にいてくれる人がなまえじゃなきゃ、嫌だ」
「私に、できると思う?」
「既にしてもらってることでもあるよ。それを、法律で縛りたがってるのは俺の方」

鉄朗はいつの間にか居住まいを正し、私の手をそっと取っていた。
想像していたのとは少し違う、でも、心のどこかできっと憧れていた、王子様に跪かれてプロポーズされているかのような感覚。

救われてしまっても、良いのだろうか。
それは、彼を救うことにも、なるのだろうか。

わからない、わからないからこそ────。

「────ありがとう、鉄朗。不束者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

私も、自分の気持ちに素直になることにした。










3ヶ月後。

私はそれまでの職場を辞め、鉄朗と籍を入れ、ようやく2人で住まう新居の準備を整えることができるようにまでなっていた。
新生活が始まったばかりではあるものの、それまでも互いの家はよく行き来していたし、そもそもの付き合いが長いので、そこまでの環境ストレスはなかった。

「何見てんの?」

休日の昼下がり、彼がコーヒーの入ったマグを両手に持ちながら私の隣に座る。

「転職サイト。3ヶ月休んじゃったし、そろそろまた動く頃かなって」
「えー、良いって。俺が養うって言ったじゃん」
「養うとは言われてない。責任を取ってくれるとは言ったけど、せめて自分がひとりになってもちゃんとやっていけるくらいの収入はないと駄目だよ。それは鉄朗に否定されようがなんだろうが、私にとっては行き過ぎた甘えになるから」
「…俺のこと捨てるんですか…?」
「だーかーら、そういうことじゃないって、わかってるでしょ」
「さすがにもう騙されないか〜。でも、俺がお前のこと離す気ないっていうのも、そろそろ信じてくれて良いんじゃないかって思うけどね」

私だって、それはわかっている。
でも、人生は何が起きるかわからない。高校生の頃は自分が病んで会社を辞めることになるなんて思わなかったし、馬が合うからっていう理由でなんとなく付き合い始めた鉄朗と本気で結婚するとも、まだ思っていなかったし。

それに、起きてほしくないことではあるけれど、鉄朗が突然怪我をして働けなくなることだって────あるかもしれない。
きっかけは、彼が私を支えると言ってくれたところからだった。でも、結婚して夫婦になるというのなら、私だって彼を、精神面だけでなく、ちゃんと何かあった時に実際の手を差し伸べて支えたいと思うくらいの気概はあった。

「本当に何もできなくなったら、その時は頼らせてもらうかもしれない。でも、それは鉄朗にだって起こりえることでしょう。だから、やれる間は私も、やれることをやるよ」

世の中にはもっと重い症状に苦しみながら、更に孤独を重ねてそれでも頑張っている人だっている。
私はまだ────やれるのだから。だったら、やれる間だけでも、愛した人のために、そして愛した人が愛してくれた自分のために、できることの全てを尽くしたい。

「────お前のそういうところ、尊敬してるよ、昔から」
「もしそう思ってくれるのなら、それは鉄朗がいてくれるお陰だよ。ありがとう」
「うっ…俺にはもったいないお嫁さんすぎる…」

わざとらしく目頭を押さえる鉄朗を見て、私は笑う。
あの頃よりだいぶ老いた笑い方にはなってしまったけど、それでも。

夢を追い続けるこの背中がいつまでもまっすぐであり続けられるよう。
そして私も、大嫌いな自分のことを、少しでも好きになれるよう。
一緒に生きるために。誰かの役に立つのではなく、この細い腕のできる限りで鉄朗のことを支えて────そうしていつか、一緒に幸せになれたら良いと思う。鉄朗にはもう十分すぎるくらい救ってもらってしまったから、あとは自分の力で立ち直ることができたら、良いと思う。

「そんなことないよ。いっぱい迷惑も心配もかけると思うし────全然、良いお嫁さんなんかじゃない。でも…」

もう少しだけ、頑張ってみるから。

だから。

「…いつか私も、あの時もらった言葉と同じくらい強い力をお返しするから…それまでの間、少しだけ……助けてね」

あの時言えなかった『助けて』という言葉を。

「もちろん、そのつもりしかないですよ」

私はようやく、素直に口にすることができた。









×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -