今日、またあなたを好きになる。



「おか……どしたの」

いつも通り帰ってきた俺を出迎えてくれたと思ったら、玄関の鍵を開けたままの前傾姿勢でなまえは固まった。

「どうしたのって、何が?」
「今日、すごい疲れてるじゃん」
「そんなわけ…」
「あるの。自分で自覚がないなら強制的に布団連れて行くけど、どうする? 話す?」
「……話す……」

昔っからいつもこうだった。付き合う前から周りの空気や顔色を敏感に窺い、流れに合わせて求められた役割に徹することがうまい人だと、ずっと思っていた────だからこそ、好きになった。

付き合う前のこと、つまり俺がなまえに片思いを拗らせていた時のことは、あまり思い出したくない。とにかく俺が痛い奴だったし、今の若者は「好きバレ(つまり、自分の好意を相手に知られること)はありえない」という価値観の下で生きているらしいと知って、好きバレ上等で突っ込むことしか知らなかった当時の俺にその言葉は随分と刺さったものだった。

でも、なんとなく好きだなあと思った瞬間のひとつひとつ────。
例えば、休んでいたクラスメイトに自然に話しかけて自分からノートを貸してあげるところとか、一方でその善心に付け込んで情報をたかろうとしていた不真面目な奴らのことは一蹴してるところとか。
定年退職する先生に寄せ書きを書こうという話になった時、『先生の読む"源氏物語"にはいつも情景が込められていて大好きでした』って綺麗な字で書かれていたところとか。先生が当時、そんなに情景込めて熱心に解説していたかは思い出せないが、その源氏物語の音読をさせられていた授業中、なまえが正確な音節で言葉を噛みしめるように、深い呼吸をしながら言葉を連ねていく横顔が、何か本当に高貴な身分の人の告白のように思えてドキッとしてしまったことなら、頻繁に思い出す。

同じクラスだったのは、たった1年。それも、高校生活最後の1年。
ろくな関わりなんてない中で、やけに目がついたそんな彼女の一挙手一投足。俺もまあ…それまで育ってきた環境的に、"周りを観察して流れを読む"っていう豊かな感受性は生かしていくべきだと考えていたから、そんな彼女の、よく言えば視野が広く…悪く言えば抜け目のない言動に一目置くのは、当たり前のことだと信じて疑わなかった。

運命だって、思ったんだ。仲間には散々笑われたけど。

もっと知りたい、もっと話したい、もっといろんな顔を見せてほしい、その一心で、俺は運命様にいつも我儘を言っていた。俺よりずっと上手に八方美人を演じる彼女の、"一方"になりたくて。その中身が美しかろうが醜かろうが、惚れ込んでいる間にそんなことはどうでもよくなっていた。

「俺、このままお前と会えなくなるの嫌だ」

そう言って、卒業と同時に「付き合ってくれ」と真面目に告白した。好きだ、とは毎日のように言っていたのに、「付き合ってほしい」とその先も続く明確な関係性に名前をつけようとしたのは、その日が初めてだった。

「…私、重いよ? って、最初に好きだって言われた時散々脅したの、忘れた?」
「覚えてる。でも、好きだし、付き合ってほしい」
「黒尾が散々この1年私のことを好きだって言ってくれたのに、手に入った瞬間餌をやらなくなり始めたら、浮気しちゃうかも」
「浮気は悲しいけど、餌をやらない…っていうか適当な扱いで済むような女性のことを好きになった覚えはないので」
「…私が浮気する女だっていう覚えならあるの?」
「ない! つーか今無理だってお前のその揚げ足取るやり方でいちいち反論されてたら俺墓穴しか掘らない! 今日だけは優しくしてください!」

仮にも男が人生賭けて告白してる時だっていうのに、彼女は相変わらずの頭の良さで俺を揶揄う。好きだって言っていた時もいつもそうだった。躱したり、それこそ揚げ足を取って反論して俺を潰したり────とにかく本気にしてくれたことなんて、一度もなかったのだ。

だから、今日だけは真面目に聞いてほしかった。

「────本気にしたら、絶対痛い目見るって思ったから適当にあしらってたのになあ…」
「どっちが?」
「こっちが。…ねえ黒尾、その質問がこの場で出るってことは、やっぱり黒尾は私の気持ちになんてひとっつも気づいてなかったんだよ」
「…え?」

優しくしてください、そう言いながら下げた頭を少しだけ上げ、素直に彼女に言葉の意味を問うと、初めて見る彼女のこちらを見下ろす視線が優しく、柔らかく…俺のことを焼いた。薄く開かれた唇はリップで少しだけ色づいており、花のように美しく笑みを浮かべた。

「────私、黒尾のこと、ずっと好きだったんだよ」

あ、駄目だ。
俺、本気でこの人に落ちた。

────という、恋を知ったあの日から約10年と少し。
大学卒業を機に一緒に暮らすようになり、お互い別の会社に就職してから数年が経つ。どちらかといえば"仕事は生活するための手段"である彼女は何度か転職した後、自分にとって害のより少ない環境で安定した働き方をできるような仕事に行き着いた。
対して俺は、今も夢を追い続けて毎日のように走り回っている。

バレーボールの、ネットを下げるために。

考え方も価値観も違う俺達だから、学生の頃は衝突だってした。結局はバレーのことしか考えない俺と、物事も人生も全てを多角的に見る彼女。「鉄朗の隣に私がいる必要なんてないよ」と言わせたこともあったし、「最近帰り遅くねえ? この間一緒に歩いてた男、誰」と盛大な勘違いをしたこともあった。毎年の試験や就職に関するあれこれ、卒論なんかが絡む一大イベントではあえて距離を置こう、と連絡を取らずにおくことを決めた時すらあった。

でも、最後には俺も彼女も、互いに顔を見合わせてまず発する言葉はひとつだった。

「ごめん、言いすぎた」
「俺も、頭に血が上りすぎた」

「私が鉄朗の隣にいたい」って言い換えてくれたことも、「遅くまでレポート頑張ってたんだな。ゼミの教授が遅くなった生徒を駅まで送ってくれる人で良かったよ」って誤解の真相にちゃんと納得したことも、よく覚えている。
一時の感情で相手や状況に否定的になることがあっても、その度やり直しの機会を与えてもらえていたことが、俺達にとって何よりもの幸せだったのだと思う。俺達────お互いに、空気と流れを読み、相手の感情に寄り添うことを得意としている身だからこそ────熱くなることより頭を冷やすことの方が合理的であるとすぐに気づくし、ひとたび冷静になれば、相手の主張と自分の主張をすり合わせ…その上で、"今もなお相手と居たいと願う自分の想い"に基づいて、問題を解決できるから。

これが嫌だったから、こうしてほしい。
あの時ああいう言い方になったのは、外的要因にこういうことがあったから。

喧嘩というよりは、建設的な話し合い。
それらを繰り返していった大学4年のお陰か、社会人になってからは衝突する機会もだいぶ減ったと思う。
お互いが大事にするものは違って当たり前、どんな理屈や感情であっても"お互い"を大切に想っていることに変わりはないから、2人の関係を語るならいつどんな時であってもそれを主軸に据える。

彼女が転職すると言っても、応援しかしなかった。
逆になかなか成績の芽が出ない俺に対しても、なまえは悲観的な顔を見せなかった。

お互いを尊重していても、結局は他人であることを良い意味として捉え────"その人が理想を叶えるために"自分にできることは何なのか考える。5年以上一緒にいて、だんだんとその思考回路も当たり前のものになってきた。

そうして、自然に相手の幸せだけを考える生活が身に染みてくると、こういう────話を戻そう────俺のちょっとした不調にも、彼女は一発で気づいてしまうのだ。もちろん、遠慮をするような期間はとうに超えて、"俺が不調"であることに彼女は絶対の自信を持っているので────ここで意地になって口を閉ざしても、彼女は本当に俺をそのままベッドまで連れて行って投げ捨てるのだろう。「まだシャワー浴びてない」とか、「着替えたい」とかぼそぼそ言っても、「明日の朝で良いよ」、「新しいスーツまだあるでしょ。今日のは週末クリーニングに回すよ」と跳ね返され、挙句の果てには俺が好きな音楽を遠くで流しながらホットココアを持ってきてくれてしまう。

…自分があまりに情けなくて話したくないことができた時、彼女は何も聞かずに実際そうしてくれた。

「ひとりの方が良い? 人、いた方が良い?」

その時はまだ新卒として入社したばかりで、変なプライドがあった。仕事がうまくいかなかったことを家に持ち込みたくないと思ったので「一人が良い」と突っぱねたのだが、それに対しても彼女は顔色ひとつ変えずに「わかった。私、自分の部屋にいるからなんかあったら呼んでね」とだけ言って、俺の部屋のドアを閉めたのだ。
寝室は絶対別にしよう────ここで、そう提案された時の意味を知ることになるとは思わなかった。

「お互い、ひとりになりたい時があるのは当たり前だと思うから」
「えー、俺はせっかく一緒に住むならずっとなまえといたいけどな」
「一緒にいるのと、一緒に住むのは別」
「…なまえさん、もしかして過去誰かと同棲したことあります?」
「ええ、家族と一度ね」

この家に住む前、内見に行きながら交わしたそんな会話を思い出して、ふっと小さな笑みが布団の中で零れる。ホットココアの湯気と甘さに触れて、少しだけ余裕を取り戻したところで────。

「…やっぱ、俺はなまえと一緒にいたいけどな…」

という己の甘えもころりと一緒に転び落ちる。
ただ、一人でいたいと言ってしまった手前、それに応じた気遣いをしてくれた彼女を呼び戻すのはなんだか違う気がする。彼女もたまにはひとりでいたいと思っているだろうし、今日がたまたまそういう日と重なっていたのなら、尚更弱っている俺のお守りをさせるわけにはいかない。

そう思って、冷たいフローリングに足をつけ、マグカップを台所まで持っていこうと扉を開けた時。

「────やっぱ、一緒にいたくなった?」

先月新刊が出たのだと嬉しそうに言っていた彼女が、分厚い文庫本を読みながら俺を見上げた。

「や…え、てか、自分の部屋に戻ったんじゃなかったの?」

予想外の光景に俺が固まると、彼女は立ち上がり、俺の手からマグカップを取り上げてテーブルに置くと、そっとよれたスーツに着られている俺のことを抱きしめた。

「鉄朗が本当にひとりになりたい日だったら、マグカップをわざわざ持ってくるためだけに部屋を出たりなんてしないでしょ。それがわかった後だったら、きっと私も自分の部屋に戻って寝てただろうね」
「…そこまで読まれてんのかあ…」

嘘やハッタリは、苦手じゃなかった。でも、恋をして、嘘をつきたくないと思い始めて。付き合って、彼女を守るための嘘ですら見抜かれ始めて。
一緒に住むようになってからは、嘘も無言も貫通したその更に先の一手を取られるようになって。

「待って、俺、汚いよ」
「大丈夫だよ。私も明日の朝、もう一回シャワー浴びるから」
「一緒に風呂入る?」
「ははは、次の休日にね」

ああ、敵わないなあって。
この人には、何年経っても落とされるだけだと、そう思った。

それ以来、俺の口も少しは彼女を相手にした時だけ軽くなったように思う。大抵のことは彼女を心配させたり一緒に悩ませるようなことだとわかっていても、話すようになった。

「それで、朝は特に心配してなかったけど…仕事中に、なんかあった?」
「んー、他部の偉い人とちょーっと揉めてね…」
「鉄朗がそこまで引きずるってことは、鉄朗の根幹の主義主張を否定された、とかかな」
「ほんと、話が早くて助かるよ」

自分の抱えたものを話すことは、あまり得意ではない。でも、ひとりで抱え続けるのも、少し苦しい。彼女の適格な指摘と、相変わらずのホットココアの温度は、その一見矛盾した俺の心情をどちらも柔らかく、優しく解してくれた。
嫌なことがあった日にはいつもホットココア。気づけば、ココアを飲むだけで、喉の滑りと心の重りが少しだけ良い方へ向かうような気がしていた。

「世の中には百人百通りの価値観があるし、同じ環境にいたって自分と正反対の考えを持ってる人は存在して当たり前なんだから、それらを排除しようとは思わないし、むしろそういう人にも納得してもらえるほどの実績を上げてやろう、とは思ってるんだ。別に俺の考え方がルールにならなくたって良い、ただ、"こういう選択があっても良いな"っていう"可能性"を示すことができれば、あとは時代が流れに合わせて"正"を取ってくれるって信じてるから」
「うん」
「でもさ、やっぱ何歳になっても────…自分の信じてきてるものを真っ向から否定されるのはやりきれなくなる時があるよな。まっすぐ信じてきた夢だからこそ、理論も何もなく立てた目標だからこそ、いざ有用性を問われた時にうまく論破できない。本当はそういうロジックの部分もちゃんと固めなきゃいけないし、普段の会議や営業ではそれなりに言葉選びできてるつもりでいるんだけど…」
「"感情"に乗せられた"真っ向からの否定"には、少し弱くなる?」
「そんな感じ」

深い溜息が、波紋を呼んだ。テーブルの向かいに座る彼女は、俺に視線を定めることなく、ぼうっと宙を見ている。

こういう時、彼女は特に何も意見を言わない。
意見ならずっと一貫していることを俺が知っていると、彼女もまた知っていたから。

彼女は、俺が夢を持っていること自体に尊敬を寄せてくれている。
そしてその夢が叶う日を、俺の次に楽しみにしていてくれている。
否定されることも、困難が伴うこともわかっている。そして彼女は、その状況を覆す力は持たない。

それでも。
どれだけ偉い人にこてんぱんにされたって、彼女はずっと俺の味方でいてくれる。

もし俺が夢に破れたと言って全てを諦めたところで、彼女は何も言わないだろう。
俺がどんな想いでこの夢に命を託しているのか、知っているから。
その上での決断ならば、彼女はその結論だけを引き出した上で、きっとそれ以上は何も言わない。

ただ黙って自分の全てを受け入れ、隣にいてくれる人がいることの、なんと幸せなことか。

「俺、甘やかされてるなあ〜…」
「社会の軋轢に苦しんでる時間じゃなかったの?」
「それはさっきまでのこと。でもなんか、いつものココアといつものお前が"当たり前"にいてくれて、俺の嬉しかったことも嫌だったことも全部平等に聞き流してくれるって…本当は全然当たり前じゃないし、本当に恵まれてるなあって思ってさ」
「そうやってすぐに冷静な評価に立て直せるところは美点だけどね。嫌なことがあった時くらい、もう少し感情に任せて凹む時間があっても良いと思うんだよなあ…。私、たまに心配になるよ。鉄朗がそうやって"幸せ"で押し込んで蓋をした"嫌なこと"達が、いつか爆発しちゃわないか」
「さあ…」

あんまり、自分を感情で制御できなくなるという経験に遭った試しがないのだから、想像するのも難しい心配だった。である以上、それを指しても杞憂だとしか言えず。

「世話かけるけど、その時は…まあ、頼むわ」
「甘えるねえ」
「甘やかしてもらってるからねえ」

彼女はまだどこか心配そうに俺を見ていたが、その存在がある時点で俺のだいたいの悩みや不満は解消されているのだということを、もっと自覚してくれても良いと思った。その後は何事もなく、一緒に夕飯を作って食べ、順に風呂に入り、「今日はひとりでいたくない」と再びの甘えをわざと出して彼女を寝室に招き、一緒に寝た。

どれだけ心配は要らないと言っても、彼女の性格上気にせずにはいられないらしい。俺が寝付くまではそれこそ最大限甘やかそうとしてくれたのだろう。ただ、俺の髪を撫でている間に先に意識を手放したのは彼女の方だった。

お互い大人になって、少しずつ変わっていく顔や身体。目に見えるところが変われば、当然見えない部分である心の内はもっと変わっていく。
────俺は、時が経てば経つほどに彼女への恋心が深くなっていくことを感じていた。

元から大人びているとは思っていたものの、年を取るにつれ、そういう素質を持っていた人が存外この世には少ないのだということを知った。それを知った上で付き合っていると、彼女が自他の間に明確に引いた境界線は、俺を常に慢心させることなく唯々安心させてくれ…そして、"願った時"にだけ線を取り払って、こうして寄り添ってくれる。

元より誰かに甘えることに慣れずに育ってきてしまった。親からの愛情は惜しみなく注がれてきたという自信があるものの、子供にも一応、子供なりの気遣いはあるわけで。
父親が幼い時から俺を男手ひとつで育ててくれることに対し、ふとした時に覚える感謝と…時には反抗と、そして根底にはいつも、遠慮のような感情を抱えていた。

だから、自分は子供の頃から自立している方だと思っていたし、世話もされるよりはする側だと疑わなかった。
それに不満を持ったことはない。ひとりでも生きていける、なんだったら誰かの面倒を見続けながらだって生きていける。そう思って、特定の誰かに"頼る"ことはしないよう意識すらしていたかもしれない。

"頼る"ことを覚えたのは、それこそなまえと一緒に暮らすようになってからだ。
彼女も俺と同じくらい…いや、ひょっとすると俺以上に自立している人かもしれない。ひとりでも生きていける、というのはまさにこういう人のことを言うのだろうと思う。

でも、俺はできることなら、この人に"ひとりでいるより楽しい"気持ちを味わっていてほしい。世話をするなんて、そんなおこがましいことは考えていないさ。
ただ、俺が彼女といることで、"ひとりでいるより幸せだ"と思えている、この充足した感情を、少しでも分けられることができたのなら────。





更に、落ちていく。





「…おかえり」

ある日、定時で仕事を終えられたので早足で家に帰り、夕飯の支度をしながらキリの良いところで風呂掃除を済ませたところで、鍵の開く音がやけにゆっくりと鳴った。その時点で、少し腹の中で心積りを作っておく。

帰宅に時間がかかる時。かける動作のひとつひとつに緩慢な雰囲気が見られる時。
────彼女が俺の不調をどこで見分けているのかは知らないが、俺が彼女の不調を見分けるのはだいたいそこだ。

今日は多分、あまり良い顔をしていない。
朝の時点でどことなく顔色が悪いのは察していたので、体調の面でもケアが必要だろうか…と、洗面台の引き出しからとっておき用の入浴剤をいくつか出してみた。

脱衣所からぱっと顔を出すと、「…ただいま」と彼女の疲れ切った視線とかち合った。俺がすぐ出迎えに行かなかったせいで、彼女は俺がもっと奥の方にいると思い込んでいたのだろう。目が合った瞬間表情を取り繕おうとするので、咄嗟に俺も手にしていたバスグッズ全てを取り落としながら彼女の前へ駆けて行った。

そのままの勢いで、彼女の冷たい両頬を俺の両手で包む。

「む」
「もうこの敷居を跨いだ瞬間から、一切頑張らなくて大丈夫。むしろここまでよく帰ってきてくれました」
「う…」
「お風呂にする? ご飯にする? それともわ・た」
「鉄朗にする」
「甘えた姫からご指名いただきゃした〜」

彼女の鉄仮面を剥がすのにも、随分な時間が必要だったように思う。俺のことを言えないくらい、最初は彼女も自分の不満や悩みを打ち明けてくれなかったから。

曰く、「話してしまうことで離れていくのが怖い」とのこと。自分では普通だと思っていることでも相手が引くような内容だったり、「立ち直るのに時間がかかる」から、その間に相手のことも鬱屈とした気持ちの巣に引きずり込んでしまったり…一度や二度なら許されても、同じことが続けば相手も「疲れた」と思い、彼女の弱い姿から文字通り離れていく。

何度、「俺は何回同じことを聞いたって、どれだけ長くお前が弱っていたって、気にせず傍に居続けるから」と説き伏せても、嫌々と首を振られてきた。小さい頃、それで大切にしてきた人を何人も失った経験があるから、怖いから、と泣き出した彼女の頭を撫でるだけで夜が明けたこともあった。
それでも、朝が来て、「ごめん、こんな泣き言に付き合わせるつもりなんてなかったのに」と焦って起き上がろうとするので、俺は彼女をもう一度布団の中に連れ戻し、「今日は俺も急ぎの案件ないし、一緒に休むから、ゆっくりしよ」と囁いた。

「嫌だ、こんな風に優しくしてもらえるような人間じゃない。こんなの、もったいない」

幼子のように嫌だ嫌だと自分の掌に顔を押し付ける彼女の腕をやんわり解き、小さな頬にまだ残る涙を俺の掌で吸い取った。

「もったいなくないよ。俺が優しくしたいって思ってやってるんだから、その優しさが伝わってるなら十分」
「これが当たり前になるわけなんてないのに、いつか求めちゃう日が来そうで怖い…。鉄朗のことも、疲弊させちゃう…」
「疲れたなって思ったら、俺も一緒に泣くから。それまでは、"当たり前"で良いよ」

当たり前に、させてほしかった。
俺がしんどい時、彼女の存在がどれだけ活力になってくれているか。俺がひとりで休めない時、"休息を取る"という選択肢を持って無理やりにでも無理させずにいさせてくれることが、どれだけありがたいことだと思っているのか。

そのお返し、というつもりではないけど。自分がしたいからやっている、結局は自己満足に過ぎないけど。

お互い様で、いこうじゃないですか。

今もまだ、彼女の口は固い。態度こそ軟化してきたものの、行動が素直になった代わりに口数が更に減った、というところか。

「飯食えそ?」、「作ってくれたものは食べたい」、「明日にするのでも良いよ」、「…ごめん、明日食べる」、「オッケー。風呂は入れそ?」、「………」、「一緒に入浴セットいただきました〜」────そんな会話をもそもそとしながら、ささっとシャワーだけ浴びさせ、俺の部屋のベッドに包んだ後、あとは味付けと火加減の調節をしながら煮込むだけだった鍋をそのまま冷蔵庫に入れる。
その後は、彼女が俺にいつもしてくれているように、牛乳たっぷりのホットココアを作って。電気を間接照明以外全て消し、足元だけが見える明かりの中で、マグカップをサイドボードに置くと、べそをかく3秒前のような表情をした彼女をそっと上から覆い被さるように抱きしめる。

「今日は何があったの」
「……元々」
「体調が悪かった?」
「って、ほどじゃないんだけど」
「悪化しちゃったのかな」
「…わかんない」

彼女からの聞き取りは、大体俺の誘導になる。これまでの経験と、彼女の思考回路のトレース。だいたいそんな不確実な根拠を基に、体の内側では既に流れているのであろう涙の原因を探っていく。

わかんないと言われているし、実際そう言っている日の彼女は、自分の不調の原因を本当にわかっていないことが多い。だから、適当に言い訳を俺の方で作って、少しの納得感が得られたところで「そっかあ」と納得したようなふりをする。彼女が頑なにこちらに背を向けようと頑張るので、仕方なく俺は自分から彼女の後ろに回り込み、その小さな背中を抱きしめた。

「まあ、わかんないよなあ」
「ごめん…」
「いつも言ってるけど、なまえ、お前が謝ることは何もないんだよ。今日も無事に帰ってきてくれて嬉しい。俺が何か言うとするなら、そんだけ。心は傷ついてるかもしれないけど、そっちは俺に頼ってくれたら…なんとかなるまで、なんとかするつもりはできてるから。なんとかならなくても、一緒になんとかならないとこまで行くから」

言い聞かせながら、とんとんと包んだ頭に優しく手を乗せる。俺の体温と彼女の体温が程良く混ざる頃、ようやく彼女の目から大粒の涙が零れ、俺の手を僅かに濡らした。

「鉄朗の優しさ、怖い…嫌だ…」
「そんなこと言わないでよ〜。甘やかされるの、嫌い?」
「きらい、だって、」
「いつか失ってしまうから────ってやつなら、もう聞き飽きたんだけどな」

ぎゅうと丸まってしまった小動物のようななまえを、ごろんと転がして俺に向き合わせる。何もかにもに傷ついた顔で怯えたようにこちらを見上げる様には、無性に庇護欲をそそられるものがあった。

「失わせないよ。こんなに好きで好きで堪らないのに、捨てることがあるか」
「でも、いつか限界は来るし」
「10年以上付き合ってきて、一回も限界を感じたことなんてないね。それに言ったでしょ、もし疲れたって思ったら俺も一緒に泣くって。疲れることがあっても、それでお前から離れるなんて馬鹿な真似、しないよ」
「────…そっちの方が、馬鹿だってわかっても?」
「ううん、何を差し置いても、お前を手放す方が馬鹿。絶対後悔する。それがわかってるのに、そんな愚かなことしません」

それでも、なまえは不安そうな表情を崩さなかった。今日の彼女の悩みの種は、割と頑固強い汚れのようだ。

「鉄朗は誰にでも優しいから、そうやって言えるんだよ…」
「心外だなあ。優しく"見せてる"のと、優しく"したい"と思って特別扱いするのは全然違うんですけど」
「私が重いって言った理由、よくわかったでしょ。こんなに良くしてもらってて────……そうだよ、特別扱いしてもらえてるってわかってるのに、私、ずっとこんなウダウダしたことばっかり言って、全然元気になる努力してないの。鉄朗の愛を、いつまでも吸収しようとしてる」
「別に良いよ。足りないって言うなら足りるまで愛を注ぐし、そんなところもちゃんと好きだから。だって可愛いじゃん、俺にどこまでも甘やかされたい、なんてさ。元気になれる時は勝手になれるもの、努力してなるもんじゃないよ」
「……ごめんね」

だから、謝らないの。笑いながら、彼女の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
そんなに俺が離れていくことが不安で仕方ないのなら、いっそ────と、"とある"極論が脳裏によぎるが、この提案は確実に"今"すべきじゃない。
今は、納得しない彼女をそれでも無理に腕の中に閉じ込めて、涙が枯れるまで拭って、夜が明けるまで一緒に無為な時間を過ごすだけで良い。嘘だと言われても構わない、怖いと拒まれても構わない。

「…この間さあ、お前が俺に、もっと凹んで良いって言ってくれたよね。幸せで蓋をされた感情が、いつか噴き出さないか心配だって」
「え…? う、うん…言ったけど」
「多分ね、俺、蓋をした中身の感情も、蓋された幸せの感情も、全部ここでうまく循環してるんだと思うの。嫌なことがあって一時的に濁したものはね、なまえ、お前の涙が一緒に溶かしてくれるんだよ。そんで、お前があの時俺にくれた幸せは、俺の中に確かに残ってて、今泣いてるお前にまた戻っていく。なまえから貰ったもんは全部俺が独り占めしたいような気もするけど────…同じものを分かち合って、あの時俺が感じた"幸せ"はこれだけあったかかったんだよって、少しでも返せたら良いなって思う」

同じように、人の感情を真面目に受け止めすぎてしまうきらいがあるから。空気を読んで、自分が場をうまく流すことができれば、それで良いと思ってしまうところがあるから。
だから、理解されずに溜まっていく淀みはどうしたって、ある。

その淀みがどう表層化するのかは、その人次第と言う外ないが────。

俺の場合は、大好きで大切ななまえの弱さが、こういう目にわかりやすい形で表れてくれて助かる、とさえ思えるくらいだった。
存在を肯定するだけで良いのなら、誰よりも肯定する。愛してほしいと言ってもらえたら、潰れるほどに愛せる。

どんな我儘だって良い、俺に叶えられることだったら、なんだってする。
どこか似たものを抱えている俺達、それでも惹かれ合った俺達。

凛とした姿に憧れて、好きを伝え続けて────…それで実際、手の内に入ってきてくれたものは、無条件に俺を癒してくれる聖母、臆面なく冗談を飛ばし合う悪友────…そして、愛に怯え飢え、震えながら小さく啼いている雛鳥。
あまりにも、与えられすぎていやしないだろうか。

本当に、"人間"らしい素敵な人を好きになったと思う。
多分、どれかひとつの要素しかなかったら、ここまで続けられなかったと思う。聖母も過ぎればきっとどこかでその善性を疑ってしまっていただろうし、悪友相手じゃあここまで純粋な恋情を保てなかった。かといって、彼女の弱さしか知らなければ、今のように何も考えずこちらも無条件に抱擁していたか…つくづく、自分の厄介な性格に苦笑いが滲み出る。

彼女は自分の弱さをやけに嫌がるが、そんなものは言ってしまえばこちらだって同じだ。できるだけ笑顔を見せていたいと思う。でも、人間なら誰しも"そう"あれない時だってある。でも、長い時間をかけた末、今腕の中には"他人に見せたくない"と思うそんな部分でさえ曝け出してくれて、頼ってくれる愛しい人がいる。

「なあ、なまえ」

泣き疲れて半分眠りに入り始めた、うとうととしたなまえ。その額に自分の額をこつんとくっつけ、さながら子守唄のようにゆったりと聞かせる。

「好きなだけ凹んで良いし、泣いて良いよ。その分、俺が全力をかけてお前のことを笑顔にできるように頑張るし…俺の力なんかなくても、きっとなまえはひとりでも前を向いて歩ける子なんだとは思う。…でも、さ」

一生懸命起きようとしながら、「うん、うん」と頷くのに精一杯になっているなまえ。いじらしい姿だけど、明日起きてそのことを笑ったら、流石に怒られるんだろうな。

「せっかく幸せになってくれるんなら、隣に俺を置いてほしいよ。そんで、たとえ幸せになれない時がこの先また訪れたとしても…その時もやっぱ、隣に俺を置いてほしい」

病める時も、健やかなる時も────って、こういうことは言わないように、気を付けてたのにな。どうしても、この先味わうのであろうなまえの喜びも苦しみも、全て俺と共に分かち合ってほしいと願ってしまうんだ。

弱くて良い。
最初は上品で芯のあるなまえの姿に惹かれた、それは事実だ。
でも、付き合ってから見せてくれる彼女の新しい面を見る度、俺は何度でも彼女に惚れ直してきたから。

もしかしたら、こんなにも愛が深まってしまっているのは俺だけなのかもしれないけど…。でも、何度も何度も、彼女という"人間"に心を掴まれ、何度も何度も、この恋心が深いところまで落ちていってしまっているのを感じたから。

あの時、付き合えて本当に良かった。
俺はどうせ、結婚したところでうまくいかないって……誰か一人の女性への愛を貫き通したり、このクソ重い感情をそれでも受け入れてくれる人に出会えるなんて、思ってもみなかったから。

だからこれは────10年以上経っても思う、"運命"なのだと。

手放したくない。
だから、弱くて良いんだ。その弱さを俺だけに見せてくれるなら、俺にとってはそれこそが幸せなことだから。彼女を幸せにしたいと思えるその原動力が、俺にとっての幸せだから。

彼女は俺が思考に耽っている間に、完全に寝落ちてしまったらしい。
愛おしいよ。この寝顔も、涙の痕も。俺に縋る小さな手も、くっついて離れようとしない華奢な体も、全部。

「全部、俺だけのになってくれたら嬉しいな…」

本当は俺の方が重たいのだと教えたら、彼女は一体どんな顔をするだろうか。



次の休み。
俺達は冷たい風の中、手を繋いでちょっとした森林公園を歩いていた。

「この間はごめんね」
「少しは持ち直した?」
「うん、お陰様で」
「それは良かった」
「────…ごめんね」
「何回もそんなに謝らないの。俺はお前の泣き顔に寄り添えることが幸せだし、その後笑ってくれたらもっと幸せなんだから」
「……私も、だよ」

ぽつぽつと話しながら、やっとなまえは笑ってくれた。ずっと後ろめたいような表情をしていたので、「散歩にでも行くか」と言い出したのは俺の方。気乗りしない雰囲気ではあったが、外の空気を取り入れたことで少し心にも風が吹いたのだろうか。

当然、俺ひとりだけの力じゃなまえを幸せにすることはできない。こういう気分転換だとか、彼女自身に考える時間を与えることや、もしかしたらある程度ひとりにするタイミングをあえて取ることだって必要なのだろう。

でも、もし彼女が誰かを必要としている時が来るのならば────。
その役目は、いつだって俺でありたい、と思う。

「────なあ、なまえ」

前を向いていたなまえが、ゆっくりこちらを見上げる。俺からすれば大抵の女子はこちらを見上げる身長になるのが常だったが、俺にとっては彼女が俺を見上げるその角度が一番好きだった。

「…このまま俺達さ、ずっと一緒にいねえ?」

それは、先日言おうとして呑み込んだこと。弱っているところに付け込みたくなかったので、こういうお互い冷静な時に、真面目に、伝えたかった。

「ずっと、一緒に…?」
「うん。その、つまり…」
「結婚する、ってこと?」

あれ。
冷静な時に、真面目に、格好良く伝えるつもりだったんだけど。

先に肝心なワードを、彼女の方から言われてしまった。そのことに、俺は一気にたじたじになってしまう。格好良さも何もかもが形無しだ。

「あー…ハイ、そういうところ、デス…」
「っふふ……あの私を見て、まだそんなこと言ってくれるんだ」
「っ、当たり前だろ。むしろああいうところを見て、俺はこの子の傍にずっといたいって思ったわけだし…。好きになった時から、俺にはお前しかいないって思ってたし…。強いところも、弱いところも全部含めて好きだったし…。今までは肩書きとか収入面とかを考えたら、"好き"ってだけで言えることじゃないって思ってたけど、でも、そろそろ言うくらいは良いかな…って…」

一生懸命喋っている間に、繋いだ手から汗がじわじわ滲み出てきた。急いで放そうとしたのに、なまえはその手に力を込めて離すまいとしてくる。

「不束者ですが、よろしくお願いします」

立ち止まり、俺の足も止めると、彼女はまっすぐこちらの瞳を見つめて笑った。
────まるで、俺が高校生の時、初めて彼女に「好きです」と言った時に浮かべた笑顔をそのまま再現するかのように。

ああ────敵わない。
俺は困った笑みを浮かべることしかできず、かといってそれだけの反応では物足りなかったので、黙ったまま彼女を抱きしめた。





今日もまた、彼女に落ちていく。









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