あなたの笑顔が見たいだけ



「誰やねんお前」

付き合ってくださいとまでは、確かに言えなかった。
多分私の顔と名前が一致しないだろうな、ってこともわかってた。

一方で彼は誰もが知っている有名人だった。
宮侑。学年内で唯一の双子で、とにかく声が大きくて目立つ人。
それでいて、バレーのとても巧い人。バレー一筋で、いつも上を向いている人。

ずっと尊敬してた。彼にとって私が顔がぼやけたモブだとしても、私にとって彼は他人に代えられない唯一の人だったのだ。
だからまずは私のことを知ってもらって、気軽に話ができるようになって、仲の良い友達になれたら…それだけで十分だ、って思ってたのに。
それ"だけ"ですら、どうやら驕りだったらしい。

目の前の憧れの人は、私が勇気を出して「連絡先を交換してもらえませんか」と頼んだその言葉を、バッサリと切り捨てた。これ以上会話を続ける気はないと言わんばかりの口調で。目も合わせずに。そしてそのまま、呆気なく去ってしまう。

「…ごめんなさい」

結局私の唇が漏らしたのは、届くことのない、情けない謝罪の言葉だった。
どうしてだろう。宮くんの連絡先を持っている友達なら、何人もいるのに。その子達はみんな、「普通に教えてくれたよ」と言っていたのに。

普通に聞いたら教えてくれるのか。
そんな甘い見立てで臨んだのが、きっと間違いだったんだろう。
────だって私は彼女達ほど可愛くないし、強気にもなれないし、ちなみにおっぱいも小さい。
きっと彼女が連絡先を簡単に交換できたのは、彼女の持っているものが彼の…宮くんのお眼鏡に叶うものだったから。
それに引き換え私には、何もない。彼の目に留まるようなものを、一切持っていない。

私は結局、彼の視界にすら入れない通行人Aだった。
あーあ…私、フラらたんだ。友達にすらなれないまま。

考えているうちに、目頭が熱くなってきた。
泣いてしまう前に、ここを去らなきゃ。

どうしよう。もう時間は放課後、本来なら帰るべき時間帯だ。
でも、まだ下校している生徒も多い中、ひとりで惨めに泣きながら歩きたくない…というか、こんな顔を誰かに見られること自体願い下げだ。

4階にある特別教室にでも行こうか。あるいは図書室に行って、本の陰に隠れながら感動して泣いているふりをしても良いかもしれない。
そう思いながら前も向かずに階段を上っていると、トンと何かに軽くぶつかった衝撃が走り、私の体が思わずよろめいた。

「っ…と、あれ、なまえ。前は向いて歩いた方が────え、泣いとるん?」

私の体を支え、止められないと思っていた足を止めてくれたのは────同じクラスの宮…そう、あの宮侑の双子のきょうだいである宮治だった。
同じ宮でも、2人の中身は結構違う。自分が目立っていることを知っており、ファンが一定数いることを多少誇りにも思っており、交友関係を広げる時は必ず自分からアプローチするタイプの侑に対して、人並み(あるいはそれ以上に)周りを見て、空気を読んで、誰とでも平等に仲良くなれるタイプの治。
同じバレー部の名物でありながら、治は私とも親しくしてくれている全く"彼"とは違う人だった。それこそずっと前から、私が宮くんを好きになったその時から、私の気持ちを知っていてくれた唯一の人でもあった。

「…みやくんに、ふられた…」

今言えるのは、それだけだった。なんとか言葉を絞り出した結果が、それだった。
そしてそれを言った瞬間、堪えていた涙が零れ出す。

治はそれを見た瞬間あからさまにぎょっとした顔をして、「ちょ、こっち来い」と言って人目のつかない階段裏の陰まで連れて行ってくれた。

「フラれたって…告白したんか」
「告白っていうか…ううん、友達になりたいって言っただけ」
「…それで、ツムはなんて?」
「"誰やねんお前"って、それだけ」

そのままを伝えると、治はあからさまに呆れた顔をして、頭をかきむしりながら溜息をついた。

「ほんっまにあいつはしょーもない……」
「良いよ、期待してなかったし」
「期待してへんかったら泣かんやろ」

そう言われては、返す言葉もない。だって私は、"せめて友達に"というところは確かに期待していたのだから。

「…ごめん、こういうことでは泣かへんって絶対決めてたんやけど…。……今日だけ、泣いてもええ?」

そう言っている間に、もう下瞼には悲しみの雫が溜まってしまっている。
酷いことだってわかってるけど、治がここで私を拒まないことなら知っていた。

だって、最初から彼は私の味方でいてくれたから。





初めて宮くんを見たのは、1年生の夏の頃。
バレー部がインターハイ予選に出るというイベントをきっかけに、熱心な"宮ツインズ"のファンから一緒に試合に行こうと誘われたのだ。
もちろん、宮くん2人の存在はその名前と顔なら知っていた。まず恵まれた体格と顔からして目立つし、声は大きいし、よく食べるし先生に怒られるし廊下は走るし先輩らしき人から怒られてるし…むしろ知らない人の方が珍しいくらいの存在だったから。

特に治とは1年生の時から同じクラスだったから、既に互いに「宮くん」、「みょうじさん」って呼び合えるくらいにはお互いを認知していた。
…という縁もあったので、せっかくならクラスメイトの雄姿でも見に行くかと別の学校の体育館まで赴いたのが────今にして思えば、それが終わりの始まりだったのだと思う。

広いコートの中で縦横無尽に駆け回る選手達。バレーのルールを詳しく知っているわけではないが、ひとまずボールを落とさなければ負けないということだけは認識していた。
だからこそ、誰もが必死に走るのだろう。床に這いつくばって、高く飛んで、ひとつのボールを追っている。

誰もが鮮やかだった。華やかで、躍動感があって、存在感を見せつけられる。
────そんな中、"目立つ"ほどに"静か"な選手がひとり。



それが、宮侑だった。



「ええかなまえ、侑のサーブの時は絶対に音立てたらあかんよ」
「なんで?」
「集中しとるから」

すると、それまで吹奏楽の音楽と手拍子で盛り上がっていた会場が彼女の言葉通り急にシンと静まり返り、代わりに恐ろしいほどの緊張感が身を震わせた。
キュッ、キュッと靴が床に擦れる音。ダム、ダムとボールをバウンドさせる音。トッと軽くボールが上がり、それから人間の手からはとても出せないような、バァンという破裂音────と共に、放たれるボール。

ボールは相手側のコートに入り…そのまま床に着くのかと思いきや、向こう側の選手がすんでのところでそれを跳ね上げた。遠くからのトス、それを受けて強いスパイクが入り────ああ、こちらだって負けていない。上級生の先輩が、まるでそこにボールが来るとわかっていたかのような余裕の構えでそのスパイクを受け止めると、まっすぐ宮くんのところに直線上に上げる。

…まただ。

それまでスピードを重視した臨場感ある場面が繰り広げられていたのに、その瞬間、私の耳は音を失った。

ふわりと放物線を描くボール。今まで爆弾回しでもしているかのように巡っていたそれは、急にガラスの彫刻を扱うかのように繊細な指に触れられ、そして打ち上げ花火のように細い残像を伴って次の選手の手に渡った。

今、一瞬時が止まったかのように見えた。
音が消えただけじゃない。何かこう、空間を切り取ったような、時空から隔離されたような、そんな"美"を見てしまったのだ。

今の宮くんからの長い距離のトスを受け取って、ド直下へのスパイクを決めたのは治だ。プレーの華だけで見るなら、断然治の方が目立っていたのだろう。

でも私には────あの心臓ごと止められてしまったかのようなあの瞬間を、忘れることができなかった。





治は翌日、わざわざ私に「昨日来てくれてありがとう」と言いに来てくれた。よくあんな群衆の中で気づいたね、と驚いて返すと、顎で一緒に試合を見に行った友達が「なまえと試合見に行ってん〜!」と楽しそうにあちこちで言いふらしているところを示される。成程、あんなに目立つことを言われていたら知らずにいる方が難しいか。

「バレー、好きやったん?」
「正直他のスポーツとそんな変わらへんくらいの位置やったけど、昨日は楽しかったよ」
「結構良い試合やったろ。相手もそこそこ強かったし」
「うん。皆が止まる瞬間と動く瞬間のギャップがな────」

それから、素人目線ながらにたどたどしく試合の感想を語る私を、治は優しい笑みで見ていた。遮ることも、「的外れなことを」というような顔もせず、最後まで。

ただ、宮くんの────侑くんの話を始めたところで、徐々に治の顔から表情が消えていった。

「あれ、私変なこと言ってる?」
「いや…随分侑のこと気に入ったんやなあ、って…」
「え、そんな…そんなこと…」

ないよ、と言いきれなかったせいで、治にはすぐ本心を見抜かれてしまったようだった。
恋愛感情なのかと言われたら、まだわからないけど。

「気に入ったっていうか…すごいなあ、って」
「…ふうん」

治はなんともいえない表情で、冷めた相槌を打った。

「みょうじさんに侑は合わんと思うけどなあ」
「何、突然貶すやん。わかってるし、最初からあんな眩しい人に私が釣り合わんことなんか────」」
「違う、逆。侑にみょうじさんはもったいない」
「ええ、怖…もっとありえへんこと言いなや」
「だって侑はガサツやし、見栄っ張りやし、そのくせ人からどう見られとるか全然気にせんし。みょうじさんみたいに丁寧で、ものよく見てて、誰にでも進んで優しくするような子には────」

やたらと褒めてくれるな。というより、ただのクラスメイトのことをよくそんなに持ち上げられるな。
その時思ったのは、気恥ずかしさと治の目の良さへの尊敬。

だって私はまさに、"物事を丁寧にやって、視野を広く持って、誰のことも傷つけないような優しい人になりたい"と表いたのだから。お世辞とは言えその言葉の選び方をしてくれたことが、嬉しかった。
だからつい否定もせずに聞いていたのだが、治は変なところで言葉を止めた。

「…私みたいな子には?」
「………まあ、例えば北さんみたいな人やったら許してやらんでもない」
「誰、キタサン」
「俺らの先輩や。すごい人」
「やばいやん」
「やばいで」

その場は結局、笑いで収まった。でも、私は────顔も名前も素性も知らない先輩より、宮くんとお似合いだと言ってもらえた方がきっと喜んだのだろう。たとえ自分でそれがどうしようもない高望みだとわかっていても。

治とは、それ以来よく教室で話をする仲になった。バレーの話が弾んだだけでなく、私の憧れの人を見抜き、更にその憧れの人が自分の双子の片割れだったと知った。治からすればあの日の会話は、特別扱いには至らずとも、"クラスメイトのみょうじさん"から"しょーもない片思いしてるなまえ"に看板を鞍替えするに十分だった、というわけだ。
私は私で、治に宮くんの話をする時に「宮くん」と言う度ややこしそうな顔をされるので、そう時間が経たないうちに潔く「治」と呼び捨てるようになっていた。
治だって宮くんと同じくらい存在感があるし、宮くんと一緒にいる時はまるで小学生みたいに騒ぐし、変なところで負けず嫌いだし(購買のパン競争とか)、双子だなあと思うことが多々ある。見た目だけで言えば全く同じにしか見えないのだから、もっと緊張したっておかしくないのかもしれない。

でも、治は結局宮くんとはやっぱり違う。
例えば、混んでいる廊下でたくさんの荷物のうちひとつを床に落としてしまった女子がいたとして。何にも気づかず友達と笑いながら人混みを上手にかき分けながら歩いていくのが宮くんで、「落としたで」って拾ってあげてからお礼を言わせる暇もなくフラッとどこかへ消えているのが治。
例えば、付き合っていた女の子にこっぴどくフラれた男子がいたとして。「俺が代わりにシバいてきたるわ!」って怒ってあげるのが宮くんで、「まあ向こうにも理由があったんやろ。次いこや」と宥めるのが治。

どっちが良いとかない。どっちが悪いとかない。
ただ私の性格的に"合う"、"付き合いやすい"って思うのは、毎回治の方。

それがわかっているのに、私はどんどん宮くんに惹かれていくことしかできないのだから、本能とは本当にままならないものだと思う。同じ顔なのに、治には「おはよう」と笑顔で言えて、宮くんには視線を向けることすらできない。同じ声なのに、治の言う「なまえ」にはすぐ反応できて、宮くんからは名前を呼ばれる想像すらできない。

「なあ、宮くんさっきこっち見てたと思う?」
「思わん」
「じゃあ何見てたって言うん」
「お前の後ろにおった中条さん」
「安定のカースト上位…」

だから、宮くんの話をいつも聞いてもらっている…とは言ったって、せいぜいそんな程度のじゃれあいが関の山。治は最初から私の宮くんに対する憧れの情を良く思っていなかったから(まあ、伊達に双子として十何年も生きていないわけだから、盲目的なファンでしかない私を諫めたい気持ちはわからないでもない)、だいたい私の発言は適当にあしらわれてばかりだ。

「宮くんってもしかして男子と好みの女の子しか目に入ってへんタイプ?」
「バレーしか目に入ってへんタイプ」
「まあ…いっそそんくらいの方が潔いかもしれへんな。友達とかは結構おるイメージやけど、なんかこの間豊島ちゃんが気軽に話しかけたら"うるさい"って一蹴されたて嘆いとったんよ」
「豊島さんは申し訳ないけど侑の苦手なタイプやろからな。あのアホ、自分のスペックが高いの無駄に鼻にかけとるから、スペック目当てでテンション高めに近づいてくる子に冷たいんよ」

友達は多そうだし、その場のテンションで盛り上がる様子もよく見ているのに、やっぱり宮くんが友達ないしそれ以上の関係性を許すゾーンはそこそこ狭いらしい。有名人だから宮くんを巻き込んだコミュニティは大きいものの、彼自身がそこに能動的に入るシーンはあまり見たことがなかった。

「治も同じ顔しとるしスペック高いんやからキャーキャー言われとるのにな。なんで治はそんなにあしらうのが巧いん?」
「誰にでも分け隔てなくありがとお言っとけばええねん。別に俺は自分に向けられる好意を嫌やと思ったことないし。スペックしか見てない子には求められるスペックを見せたって、中身を知って仲良くしようとしてくれとる人にはこっちもそれなりに心を開く。ただ単に侑が人付き合い下手なだけなんよ。アホやから」

だから宮くんの周りには一方的な取り巻きか、いつもの仲が良さそうな男子のメンバーしかいないのか。だから治は、私みたいに────そう、中身を好んで付き合っている人間に対して正直なことをいつも話してくれるのか。

そうやって彼らの違いを間近で見ていくうちに、いつしか私は"宮兄弟"というどこか遠い存在に見えていた2人に対して、"手の届かない宮くん"と"信頼できる治"という全く違う印象を持つようになっていた。

面白い。双子で、客観的にはとても似ているのに、全然違う人だ。
宮くんは見れば見るほど遠く感じてしまうのに、治は話せば話すほど親近感が湧く。
だから良い友人であった治とはどんどん仲良くなれていた…それなのに────。

「…やっぱ、話しかけんかったら良かった…」

本命だったはずの宮くんとは、終ぞ一歩もお近づきになれなかった。

────溜まった涙が、ぽろぽろと無機質な廊下に小さな水溜まりを作る。

治は困ったように眉根を寄せていた。わかっている、治は"誰とでもそれなりの距離感"を作れる代わりに、"一線を越えた距離感"に順応するのが苦手な人だ。彼が戸惑うのも仕方がないことだと…そう、頭では思う。

でも、知ってた。

「こんなこと、わざわざ言うべきやないのはわかってるんやけど」
「…なに?」
「…お前、ツムのこと、本気で好きになっとるやろ」
「……なってない」
「理性ではそうやろな。けど、本能を抑えつけて現実から逃げ続けたところで余計に辛くなるだけやで」
「ほんまに嫌やねん。叶うわけがないことなんて、わかっとるから。────もうこれ以上、私の感情を高まらせたくない」
「────お前も、難儀やな」
「…お前"も"?」
「…お前と似とる、報われへん想いを抱えとる奴のことを思いだしただけや。気にしなや」
「…そ、う」


治はきっと、私がいつかこうなる日を迎えると知っていたのだろう。
そして私も、治が一瞬驚いた後に、"そうなる日"が今来てしまったことをすぐに察知したのだろうと気付く。

馬鹿なのは、私だ。
付き合えない、友達にもなれない。わかっていたのに、ただ認知されたいという望みを捨てきれず、半端な覚悟のままアタックしてしまった私が悪い。

「────ただの憧れなら、そのまま見とるだけにしたかった。欲なんか、出したなかった」
「…わかるよ」
「なんでやろうな。なんで人間って…こんな強欲なんやろな」

言葉にしていく度、どんどん自分の惨めさが露呈していく。それが悲しくて、虚しくて、私の涙はいつまでも止まってくれなかった。
拭う。拭う。零れる涙を何度も拭き取る。乱暴に。痛みを覚えるほどに。止まらないのなら、涙腺そのものをぶち切ってやりたかったから。

目が痛い。頭が痛い。
それでも涙が止まらないから。本能が、ここでも私の理性を邪魔するから。

治は私の顔を覗き込んで────それから、そっと私の肩に手を伸ばしてくれた。

その時私は、何という言葉を掛けてほしかったのだろう。
「まだチャンスはあるで」? それとも、「俺から侑に一言言っといたる」?

ううん。治には、何も負担をかけたくない。ここにいてくれるだけでありがたいのだから。
やっぱり治は、私の一番の理解者だ。感情が昂った時にも、想いが溢れて辛かった時にも、いつも隣にいてくれた。呆れながら、笑いながら、全てを受け止めてくれた。

「…何も求めなければ、また宮くん宮くん言うて笑ってられたのに。なんで私、こんなことしてもうたんやろ」
「気持ちが…抑えきれへんかったんやろ」
「今までずっと、見てるだけで良かったのに」
「そろそろ新学期迎えるしな。クラス替えもあるやろ、何かと環境が変わる前に一歩踏み出したいって気持ちはわかるで」
「治…全部、わかってくれるんやな。ほんまに」

笑おうとしたけど、無理に表情を作ったせいなのか、強張った筋肉が再び新鮮涙を溢す。

いよいよ蹲り、俯いて涙を乱暴に拭う私を見て、治は隣にしゃがみこんでくれた。
そして彼は腕を私の肩に回しかけ────少しの間を置いて、結局背中を優しく摩ってくれた。

「────……腫れるからあんま泣きな」

色々と、言葉を迷ってくれたのだろう。色々と、手の置き場所に困ってくれたのだろう。それが却って申し訳なくて、情けなくて。

「ごめんね、いつも…」

治は何も言わず、まるで私の気持ちを映しているかのように悔しそうな顔をして────何かを噛み締めながら、ぽんぽんと背中を叩き続けてくれた。落ち着くまで。涙が止まるまで。

「────ありがとう」

結局それから、2時間くらいに及んで私の気持ちが鎮まるまでの間、治はずっと隣にいてくれた。必要以上に心配する空気を出すわけでもなく、なんなら飽きたタイミングで背中を摩るのもやめて、黙ったまま私の涙が止まるのを待っていてくれた。途中からくしゃくしゃのハンカチを渡してくれて、私が無駄に目を擦らずに済むようにまでしてくれた。

「ええよ。どうせお前がこうやって辛い思いするんなら、その時傍におれて良かった」

そう言う治の声は、止まりかけた涙がもう一度戻ってきてしまいそうになるくらい優しかった。どうしてそんなに、掠れるような声を出すんだろう。どうしてそんなに────彼の方が泣いてしまいそうなほど唇を震わせているのだろう。

私はその時────また、余計なことを聞きたくなってしまった。
よせば良かったのにと、すぐ後に思ってしまうようなことを。

「────どうして、そんなに私の傍にいつもいてくれるん。どうして、どんな時でも私の話聞いて、私の味方でおってくれて、私のことを肯定してくれるん」

だって、彼にとっての私はあくまで"たくさんいる友達のうちの1人"に過ぎないはず。たまたま双子の片割れに想いを寄せていたから、ちょっとだけ身内判定に入れてもらって何かと贔屓してもらっていただけ。あとは、多分性格の相性が良かったから、お互いに"他の奴よりちょっと話しやすい"っていう優位性もあったのかも。
でも、それにしたって、ここまで面倒を見てもらう筋合いはない。

だからどうして、と────あまりのショックに難しいことを考えられず、ただ思ったままを尋ねてしまう。すると治はまたしても困ったように、今度は自分の頭を掻いた。何か言葉を迷っているみたいだ。そんなにも重い理由があるのだろうかと思い、言葉を挟めずにいると────。

「────その理由、話してもええんか?」

予想外なところで、質問に質問を返された。覚悟を試されているとしか思えないその言いぶりに、私の背筋がピンと伸びる。

「…話したく、ない?」
「俺は話せる。でも、お前がそれを聞くことで────余計に迷うことは、あるかもしれん」
「……」

治はいつも、私のことを想ってくれていた。きっと私が必要以上に傷つかないように、宮くんの情報を遮断してくれていたところもあったのだろう。いつも茶化されていたけど、それで私が嫌な思いをすることは絶対になかったから。

その治が、私に"後悔するかも"と言っている。
治はきっと、これから話すことに対する覚悟を決めている。だからそれが私の気分を上げる"理由"ではないことを知った上で、それでも私に尋ねているのだ。"治の本音を聞く覚悟が、治の────私に構い続ける理由を聞く覚悟があるのか"と。

「……」

それなら、私には────いくら傷心していたとしても、それを聞く義務がある。
今までずっと傍にいてくれた治。私のどんな言葉でも受け止めてくれた治。

今度は私が、治の言葉を聞く番。

「……聞かせて」

すると治は、ひとつ大きく息を吸って、吐いた。

「────お前がツムのことを好いとるのが、ほんまはずっと気に入らんかった。でもお前が本気やって言うなら────そんで、お前がその末に幸せになれるんなら、諦める気持ちも作っとった」
「諦める、って…何を?」

何を諦めることがあるのか。つい言葉を挟むと、治は逆に泣きそうな顔をして笑ってみせた。

「…俺な、お前のことがずっと好きやってん。やから、ツムなんかに渡すくらいなら、俺んとこ来てくれたらええのにってずっと思っとったんよ。諦めるつもりやったけど────ツムがお前のことをそんな風に傷つけるなら…俺がお前のことを癒してやりたかった。"大丈夫やで、俺がおるよ"って安心させたかった」

目尻に涙が浮かんでいるような気がしたのは、気のせいだろうか。私も視界がぼやけているので、本当に気のせいなのかもしれない。でも、困った顔で眉を下げて、波打つように唇をへしょ曲げて首を傾げる治の顔は、本当に今にも泣き出しそうな────少年の表情そのものだった。

「ごめんな、純粋な友達のふりしとって。応援してるふりしとって。いつかお前がツムに見切りつけんのを、ほんまは待っとった」

…わからなかった。こんなに近くにいたのに。
だって私はただの平凡な女子だ。宮くんのお眼鏡に叶う子が"ああいうタイプ"なら、きっと治が選ぶのも"そういうタイプ"だと思い込んでいたから。

────私はどれだけ残酷なことをしていたんだろう。双子の片割れが好きだという話をずっと聞かせ続けて、ちょっとすれ違っただけできゃあきゃあ騒いで、毎日のように格好良い格好良いと一方的に言い続けて…。治の気持ちが本物だったとしたら、私は────本当に無神経な人間だった。

「────でも、きっとそれは無理なんやろうな。お前はきっと…どうしてもツムのことを好きでい続けるんやろうな。たとえ俺がここで、お前に"俺を選んでくれ"って言ったとしても」

治はきっと、そんな日々の中でその答えを既に掴んでいたのだろう。
私が何かを言うより先に、治は勝手に私の言葉を代弁し始めた。

そして────それは…。

「────……うん。ごめんなさい」

友達だから。大切だから。
誠実に、そう言いたかった。嘘も偽りもなく、宮くんの代わりに治を選ぶなんて不義理なことも絶対にせず、自分の気持ちを正直に伝えるしかなかった。

「わかっとったから、もうそれ以上惨めな顔すんな。あんまりにも歪んどるけど…もうこうなったら、フラれたもん同士傷の舐め合いでもしよか。────心配せんでも、俺はすぐ新しい好きな子に出会うし」
「……ふっ、なにそれ」
「やからお前も、好きなだけツムのこと引きずりや。そんで、また────」

治は、決して言わなかった。

「────また、次の好きな人ができたら、今度こそ成功せえよ」

"今度は俺のことを好きになれ"、とは。

優しさに付け入っていたのは、私の方だった。人を傷つけたくないと良い顔をしていたつもりなのに、一番傷つけたくなかった友人に絶対嫌な思いをさせてしまった。でもその理由が"私のことが好きだから"なんて────…そんな難しいことに対応できるほど、私の情緒は育っていない。だって、治が本当に明日新しく好きな人を作ってくる可能性だって、ゼロじゃないんだから。そのことで私が申し訳ないと思うことが、いつ驕りになるのか…誰にもわからないのだから。

「…さて、泣き虫のムシがどっか飛んでったとこで、俺は帰るわ。お前も気い済んだら早めに帰れよ」

だから私は、「ありがとう」とだけ言って、ひとり去り行く治の背中を見ることしかできなかった。

そして翌日も────。

「おはよう」
「…おはよう」

当たり前のように話しかけてくる治に、当たり前の顔をして挨拶を返すことしかできなかった。

…つもり、だったのだが。

「ツムツムダメージは消えたか?」
「…え、これって"昨日の話は全部なかったことに"ってなるやつちゃうの」
「アホ。惚れた女が一番近づいてほしくないやつに見事にフラれたんやぞ。俺からしたら歓喜の大パーティーウィークの始まりやで」
「自分だってフラれとるくせに」
「そうやな。それ考えたら歓喜の"失恋"大パーティーかもしれん」

真面目にそんなことを言われたものだから、心に痛みを抱えながらも私には笑うことしかできなかった。憧れの人と同じ顔を見ながら。憧れの人とよく似た声を聞きながら。こんなの、癒えない生傷を膿ませながら、点滴で栄養を補給している気分。

治を見ていると宮くんのことを思い出してしまうのに、治がいないと寂しくてしょうがない。だってこの憧れは、私と治の間にしか共有されていなかった小さな小さな秘密だったのだから。

結局治はあの日からもずっと、ずっと私のことが好きだった。一週間が経ち、二週間が経ち、いよいよ本当に1年生の最後の日を迎えるその日まで、ずっと。
そして私も、懲りずにずっと宮くんのことを目で追い続けていた。二週間が経ち、三週間が経ち、春休みに入ってしまってからも、ずっと。

『なまえ』
『なに』
『ツムの寝起きの写真、いる?』
『なんでそんな傷抉るようなことしてくんの』
『代わりにお前の自撮りもらえへんかなとか思って』
『キショ。てかそれ、治も大概やけど、その条件呑んで自撮り撮って好きな人の寝起き写真貰う私の方がキショいやろ。ありえへん』

休みに入ってからも、治とのやり取りはメッセージで続いていた。不思議なことに、お互い心の内を晒してからの方がぐっと距離が縮まった気がするのだ。
治は"私のことが好きだ"と言いながらも、私に気を遣わせないようにすることがとても上手だった。私が少しでも申し訳なくなる前に、「俺がほんとに失恋すんのはお前がツムと付き合い始めた時やからな」と茶化して、私に"宮くんとの可能性はない"と釘を差しながらもこちらに怒る権利をずっと譲り続けてくれていたのだ。

こういうところが、彼の美点だと思う。きっと私だけが知っている、傲慢な秘密。

『なあ、それより治、私の数学の課題テキスト持ってへん?』
『なんで?』
『ないねん、鞄に。よう考えたんやけど、終業式の日に2人でふざけてプリント机にばらまいて遊んだやろ。あの時ごっちゃになったんやないかなって』
『は? そんなガキみたいなこと』

────…。

『あったわ』
『ほらー! 取りに行くから!』
『ええよ俺が届けに行くから』
『なんでわざわざ届けに来てもらわなあかんの。自分の忘れ物くらい自分で回収するし』

それからしばらく(電話をすれば良いのに)メッセージでの喧嘩が続き、結局私が宮家に行くということで落ち着いた。

────そして家の場所を教えてもらってから、激しく後悔した。

喧嘩の最中だったからつい我を忘れて「家に行く」の一点張りをしてしまったが、治の家に行くということは、宮くんの家に行くということにもなる。
私は連絡先の交換すら拒絶された身だ。それなのにいきなり家に行って鉢合わせでもしてみろ────"治の友人"という肩書きが一体どこまで通用するのか、私にはさっぱりわからなかった。

どうしよう。やっぱり素直に頭を下げて、持ってきてもらおうか。
そう迷っているところに、ぽんとひとつのメッセージが入る。

『一応言うとくけど、今日ツムおらんから安心し』

きっと治は、私の感情まで汲み取った上で家に来ることを拒んでくれていたのだろう。でも、そこで私が押し切っちゃったから────きっと私が冷静になったところで足踏みするとわかっていたから────こう言ってくれたんだ。

うーん、何か今度ご飯でも奢った方が良いかもしれないな。
そんなことを考えているうちに彼の家に着いたのでインターホンを鳴らすと、すぐに治が顔を出した。

「いや、早」
「待っとったからな」

別に玄関で渡してくれるだけでも良かったのだが、「ついでやしツム帰ってくる前まで一緒にやろや」と誘われたので、ここまで来た以上もう何も断る理由のない私はそのまま家に上がらせてもらうことにした。
治の部屋は、宮くんと共同のようだった。二段ベッドに机がふたつ。やっぱり、なんだかんだでやはりこの2人は仲が良いんだろうか。

「ツムのもん勝手に持って帰ったらあかんで。あいつそういうとこだけ細かいから」
「治ちゃうんやから、私はそんなことせんよ」
「俺もしたことないわ」

初めて入った男の子の部屋なのに────相手が治だったからなのだろうか、至るところから治の気配がするようで、なぜか私は安心感に包まれていた。でもその空間のその半分はろくに素性を知らない好きな人の陣地なのだから、もっと緊張したって良いはずなのに…。

春休みに入って、毎日宮くんの背中を追うことがなくなったからなのだろうか。
私の中で、宮くんの存在が少しずつ薄れているから────だから、彼の部屋に入ってもそこまで狼狽えることがないのだろうか。

そんな些細なことに"気づいて"しまった瞬間、私の手がふと止まる。

「? なんかわからんとこでもあったん?」
「や────…」

心の中で、微細に変化していた感情。
言葉には力が宿ると、そんなことを言っていた人がいたっけ。宮くん宮くん、とあれだけ毎日言っていたから、それだけで彼のことが"今まで通り"に好きだと思い込んでいただけなのかもしれないと────…今このタイミングで、思ってしまった。

私、今でも宮くんのこと、好きなのかな?

「あのさ、治────」

その答えを問うことが合っているのかわからないまま、それでも"治の安心感"にいつも通り甘えて脳を経由しない言葉を発そうとした時────。

「────おいサム、部屋に女連れ込まんって約束させたのお前の方────…」



ガチャリと、扉が開いて。



大きな男の子が、入ってきて。



その顔は、今私の隣で教科書に向き合っている親友と同じ顔で。



「────なんで、ツム…帰ってきたん」

"いない"はずの宮くんが、そこに"いた"。

治に言おうとしたことなんて、全部頭から飛んでしまう。

どうして。いないって聞いてたのに。どうか私を認識しないで。それか少しでも時が巻き戻るのなら私がそっと消えるから。

だから。だから。だから────「お前、何しとんねん」────。

宮くんの言葉が、見えない刃となって私の胸をまっすぐ貫く。

「この間の子やろ。先月くらいに俺に話しかけてきた」

ぐりぐりと、刃が心の中で捩れていく。

「あの時は機嫌悪かったからさすがに悪いことしたと思っとったけど────…、やっぱあの時、お前なんかと連絡先交換せんで良かったわ」

ねえ、一度傷口を刺した刃物が、傷口から抜けないまま大きくなるなんてこと、あると思う?

「いくらなんでも浅はかすぎるやろ。なんや、俺がダメならサムで妥協しようとでも思ったんか」

どんなに食いしばっても、刃物は抜けない。傷口を広げて、広げて尋常でない量の血を流して、それでもまだ殺してはくれない。生かされたまま、ただただ痛みだけが広がる。

そんなつもり、ないのに。

「サムは確かに俺よりちょこっとだけ出来が悪いけどな、けどな! 俺の替わりになんかなるわけがないやろ! サムのことナメんな! だいたいサムもサムや、俺目当てで寄ってきた女のことなんかホイホイ受け入れて────」
「お前はほんっっっっま人のこと見てへんのやなこのボケカス!!!!」

「違う」と、どこかで言いたかった。
でも、それより先に宮くんにかみついたのが────治だった。

「自惚れんなよ、結局大したことないやろが俺もお前も! 何が"俺目当てで寄ってきた女を受け入れる"や! ええかよく聞けクソブタ!!!!」

大きな声で啖呵を切ると、治はガタッと立ち上がった。

「────この子は、俺が惚れた女や! お前みたいなしょーもないやつに憧れて、同じ顔の俺が止めても止まらんかった子なんや!」

そう言って、彼は私の腕を掴む。勢いだけは強かったけど、心の痛みに比べたら全く肉の痛みなんて感じない。

「お前は知らんやろ、この子の笑った時に左手丸めて口隠す癖も、照れる時に唇尖らせる癖も、泣く時に────瞼剥がれるくらい目を擦る癖も────全部"ツム"は知らん! 俺が────俺がこの子のことをずっと見とったから知っとんねん! 俺となまえには、俺となまえだから築けた関係があんねん!! 干渉すんな!!」

そのまま彼は、私の腕を引っ張って部屋を乱暴に出て行った。
────結局課題は、彼の机の上に置きっぱなしになったままだった。










治は走って、私の足がもつれても走り続けて、きっと歩けば20分くらいはかかるのであろう道を10分で駆け抜け、広い公園へ私を連れて行った。

「…すまん。いきなり走らせて。疲れたよな。足とか、捻ってへん?」
「だい、じょぶ…でも、ちょっと…休みたい」

身体も、心も。休ませてあげたい。
あの3分にも満たない兄弟喧嘩、しかもその原因が私────そんな地獄のような状況をすぐに整理しろと言われても、今の私には到底そんな余裕などなかった。

「飲み物、買ってくるわ」

治は気まずげな顔をしており、私と決して目を合わせようとしなかった。それでも私を走らせたこと、その前に私を巡って────あれは宮くんの言い方もかなり酷かったが────それでも、誰からの反論も許さないほどの勢いで私に対する感情をぶちまけてきたこと…その全てに、後悔を感じているのだろう。
正直、あれは私自身も驚かされることがあった。日頃から当たり前のように「私のことが好きだ」と伝えてくれていたけど、それを挨拶代わりに言えるということは、彼の中ではある程度の折り合いがついていることと同じだと思っていたから。

だって、もしそれが"恋愛"の意味のまま保たれていて、私に下心を持ったまま家に誘われたのだとわかっていたら、私はきっと彼の家になんて行っていない。
────治はずっと、あんな感情を持ったまま────それでも私が、絶対に気負うことのないよう────"今まで通り"の距離感に、"軽口での好意"を交えて接してくれていた。私が素直に治を頼り続けられるように。どうしようもない片思いを拗らせ続ける私を、どうしようもないと言いながら守り続けられるように。

私────どうして、気づけなかったんだろう。
きっと、気づこうという意識に欠けていたんだろうな。
自惚れを承知で言うなら、彼は私のことを好いている身。それでいて、よりによってそんな彼の惚れた女は彼の片割れを好いている身。
普通だったら、こんなに気遣い、そして気を遣わせないような言動はできないはず。

宮くんが自分の思ったままの行動を貫ける芯の強い人だったとしたら、治は人の機微を聡く察してうまくフォローに立ち回れる優しい人なんだろう。これもまた、良いも悪いもない────双子なのに全然違う、彼らが"2人"として生まれてきた意味を示すのだろう。

私だけが、子供だ。

治が冷たいスポーツドリンクを渡してくれたところで、ようやっと私の口から言葉が漏れる。

「治…ごめんね。全部私が半端で、さっきだって私が宮くんにはっきり"そういうつもりちゃう"って言ってやりたかったのに…。治は、宮くんの代わりなんかじゃない、私の────」

私の────なんなんだろう。
親友? でも、そう呼ぶには私はあまりにも彼に心を預けすぎている気がする。
人に見せたくない弱さも、涙も、安心できるが故の軽口も、全部治になら見せられるから。

今までこんな風に心を曝け出せた人なんて、いた試しがなかった。
きっかけはあんなにも些細なものだったのに、今の治の私の中における立ち位置が、わからない。
こんな風に庇われて…きっともう、謙遜する必要はないのだろう────こんなにも愛されて。

私はそれを、どう思っているの?

「…いや、ツムの行動は俺にも正直読めん。それがわかっとったのに、軽率に家に呼んだ俺が悪かった。────ごめんな、よりによって2人の部屋でツムの顔なんか…見たくなかったよな」
「ううん…治に悪いとこなんかいっこもないよ。私がいつまでも宮くんに未練タラタラなとこばっか見せてなかったら、きっとあそこまでのことにはならんかったと思うもん」

まさか宮くんが私のことを覚えていたなんて、思わなかったけど。
もうこの際、私のことを覚えていて"くれた"なんて思わない。
いっそ忘れていてくれた方が良かったのだ。それを、「あの時機嫌が悪かったから対応が酷かったことを悪く思っている」なんて…そんな今更すぎる誠意なんか、聞きたくなかった。私の中で、宮くんはずっと"カースト上位の子にしか興味がない典型的なモテ男"という嫌なポジションでいてほしかった。

「────なあ、なまえ」

もらったスポーツドリンクを半分くらい一気に飲み干したところで、隣に座っていた治が居心地悪そうに口を開く。

「…俺ら、多分…もうちょっと、距離置いた方が良いと思うんやけど、どうやろ」

────そう言われた瞬間、私は思わずペットボトルを取り落としてしまった。
砂場に零れ落ちていく水分が、土を吸ってドロドロになりながら広がっていく。でも、それを拾い上げる様子はどちらにもなかった。

「…どうして?」

わからない。もしかして、やっぱり治に酷なことをしすぎていた? 私、甘えすぎていた?

「────ずっと迷とったんやけど…なまえ、今の顔、鏡で見てみ」

言われるがまま、スマホのカメラを立ち上げインカメにしてから、自分の顔を映す。

「────…何、このブス」

そこには笑ってしまえるほど情けない顔をした私が映っていた。
多分これは、宮くんに酷いことを言われたせいなんかじゃない。それより、治があんなに必死に私のことを守ってくれて、あの地獄のような空間から連れ出してくれたことに対する感謝と…苦しさと…それから、宮くんと治の間で揺れ動いて定まらない自分の心をそのまま映した顔だ。

「ツムのこと、やっぱり好きなんやな。最近はネタにできるくらいには癒えたんかと思っとったけど…すまん。多分、俺がお前に付きまとってた間、ずっとツムの影────感じとったやろ」
「そんなこと…私やって、治は"治"だと思って付き合ってきたつもりやで。告白に応えられなかったのはあの頃の本心だったけど────」

だったけど────もしそれが、"今"だったら?

でも、私の迷いは誤解されたまま伝わってしまったらしい。

「今も、それが本心やろ。見んふりしとったけど、やっぱさっきの顔見て確信した。多分、俺の存在は────お前にとって、きっと辛いもんでしかない」
「そんなことない。私がどれだけ今まで治に助けられてきたか────…。治だって言ってくれたやん。私と治の関係は、"私と治"やから築けたものや…って」
「そりゃ、ツムなんかよりは俺の方がよっぽどお前のこと知っとる、その自信ならあるで。でも、俺はこうも言ったやろ、この関係は、俺がお前に惚れたせいで勝手に振り回した結果、なんとかお前の優しさで成り立ってるだけやって」
「そんなこと、ない────!」

何度同じことを言わせるのだろう。治の言葉は、見当違いなものばかりだ。
さっきから私は、宮くんにも治にも「そんなことない」、「そんなつもりじゃない」と言い続けている気がする。どうして伝わらないのだろう。そんなに私の態度は、曖昧なのだろうか。

「お前にそのつもりがなくても────もう、ごめんな。正直、俺が辛いんや」
「────…っ」
「お前がツムに片思いするのは自由やで。フラれてもまだ好きでい続けるのだって自由や。だって俺もそうしとるんやから。でも────…俺のせいで、今日遂にツムがお前に喧嘩を吹っ掛けた。"俺とお前"で傷の舐め合いしながらのらくら過ごしてたとこに、ツムが割り込んできた。それはもう────俺の許せる範囲を超えとる。この日常が続けられんって言うんなら、俺は────もう、お前と明確な距離を取りたい」

そう言われてしまったら────今までずっと甘えさせてくれた治が「辛い」と言うのなら────私には、もう────。

「そっ…か。負担かけて、ごめん。治が一番疲れる立場やったよな。私、治に甘えてばっかで…」
「それはな、それでええんよ。ただ…今後のなまえのことを考えたら、いっぺん俺と離れた方がええ…って思ってもて」

私はそれに対して、一体どう反応するのが正しかったのだろう。私の幸せを勝手に決めないで、とでも言えば良かったのだろうか。誰よりも────それこそ自分よりも、私のことを見て、幸せを願って、近い距離にいるくせに遠い目線で見ていてくれた彼に対して?

「…治がそう思うなら、そうしてみる」
「……おう」

治がそう言うのなら、それが正しいのかもしれない。あるいは、それを少なくとも試す義務が、私にはあるのかもしれない。

「────せめて最後に、家まで送ろか」
「…ううん。大丈夫。ありがとう」

"最後"まで、気を遣ってくれて。
もし今まで通りの付き合いを辞めたいと本気で思われるなら、もうこの場で別れた方が良い。きっと情けをかけられてしまったら、私はまた治に甘えて…新学期を迎えてもまた、同じように話しかけてしまうような気がする。

これは…課題は未提出かなあ…それか、部活で学校の空いているタイミングで職員室にでも行って、もう一度先生にテキストを貰い直しても良いかもしれない。

そんなことを考えながら、家に帰る。
そして、そんなことを考えられたのは────自分の部屋に戻る、それまでの間だけだった。

なんだろう、この虚無感。
この前宮くんに突き放された時の純粋で身勝手な悲しみとは、ちょっと違う気がする。

春休み、結局治からメッセージが来ることは一度もなかった。そうである以上、私からも何かを送ることはできなくて。
なんだか体も心も離れてしまったような感覚を抱えたまま、私達は2年生に進級する。

クラス替えの表を見ると────なんなんだろう、この安心したような、不安になるような結果は────。
私はもう、宮くんとも…そして治とも、違うクラスに配属されていた。

別に、他の友達が全くいないわけじゃない。新しいクラスにだって、1年生の時からの友人はいた。だから、寂しいとは思わなかった。
なのに────どうしてだろう。"寂しい"という感情はないはずなのに、心にぽっかりと穴が空いてしまっている気がする。

「今年も同じクラスかい! 先に言うとくけど、俺の弁当横取りすなよ!」
「ええやろいっこぐらい! お前のおかんに玉子焼きめっちゃ美味いです言うといてくれ!」

治の声が聞こえて、反射的に振り返ってしまう。でも彼はいつものように私の方を向いて、笑って手を挙げてはくれなかった。私なんて全く視界に入っていないかのように、1年生の時に同じクラスだった────今は他クラスの男子と仲良さそうに笑い合っている。

「なまえ? 何見とるん?」
「あ────んーん、なんでもない」

そう、なんでもないのだ。もう私と治の間には、何もない。

私もくるりと踵を返すと、声をかけてくれた友人の方に向かった。

「────……」

新学期が始まってから、2ヶ月ほど経つ。
新入生の部活勧誘や上級生からの引継ぎ作業なんかもだいたい終わって、ざわついていた学校が"日常"を取り戻した。

そして5月末、何を考える暇もなく生きることだけに集中することができていた私にも、少しの余裕が生まれて。

私の心に、再び虚ができた。

なんだろう。この物足りない感覚。
友人と一緒にいる間、確かに楽しいと感じているはずなのに────どこかでずっと気を張っている自分がいる。自分の言動で不快に思う人がいないように。誰も傷つけることがないように。それは確かに今まで私が"自然に"やっていたことだし、別にそれを負担だと思ったこともないはずなのに。

うまく息が吐けないのだ。いや、それが苦しいとかそういうわけではないのだが────たまに、呼吸が詰まる。そのせいで、言葉が遅れたりしたりして。

「なんか最近、なまえ調子悪ない?」
「いや…わからんけど最近こう…うまくテンションが上がらないっていうか…なーんか胸につっかえてるような、スッカスカになってるような…難しい感じになっとる、かも」

ある昼休みに投げられた友人の心配にも、要領を得ない答えしか出てこなかった。彼女達は少し考える素振りを見せると────全員同時に箸を止め、ぱっと閃いたように私の方を見つめた。

「なあ、それ恋煩いとちゃう?」
「なまえ、宮ンズの治と仲良かったやろ。クラス離れてさみし〜みたいな」
「いや、でもそれやったら普通に会いに行けばええやろ」

私を置いて進行していく会話────その中で、私の耳はいくつかの単語を拾い上げていた。

恋煩い。
治と仲が良かった。
クラスが離れてさみしい────…。

────そうか。

唐突に、気づいた。

私に足りないもの。日常が戻ってきた途端、急に虚ができた理由。

────治、だ。

おはようがない。
宿題やった? がない。
お昼ご飯、あるいはおやつのパンをどっちが買いに行くかの戦争もない。
小テストの点数を競うことも、授業中の居眠りを指摘し合うこともない。

そして、お互いの恋の話をすることも────ない。

離れてみて、意識的に関わることをやめてみて、気づいた。
私の"日常"には、治の存在が"当たり前"になっていたと。

そういえば、春休みの頃から薄々勘づいてはいたけど…いよいよ2年生になってから、めっきり宮くんの姿を見なくなった。

だって私、2年生になってから宮くんのこと────少しでも思い出した?

そりゃあ、あれだけ目立つ人なのだ。存在は多分見ていたと思う。"他の男の子と一緒に"楽しそうに笑っているところとか、それこそ────"治"と喧嘩しているところとか。
でも、それを見たところで────私の心が弾むことはなかった。もちろん今だって格好良いとは思っているし、きっと私は初めて宮くんの試合を見たあの感動を忘れることは一生ないだろう。

でも────その記憶を思い出すとするなら、どうしても一緒に思い出されてしまう過去もあるのだ。

治と一緒に課題をやっつけていた時。不意に帰って来るなり、私がそこにいた"だけ"で怒鳴りつけてきた彼のことを。
もちろん、彼の言い分は冷静になれば十分に理解できるものだった。私のことを覚えていた、ということは確かに想定外だったが、そんな女と大切な片割れが家に一緒にいれば、"そういう関係"と勘違いされてもおかしくない。

それに彼は言っていたじゃないか。
「俺の替わりになんかなるわけがないやろ! サムのことナメんな!」と。

彼は、治のために怒っていた。
私にとっては良い記憶じゃない。でも、宮くんは結局治のことを大切に思っているのだと、そこでわかりにくい"宮くん"の優しさを感じてしまったから、結局嫌いになれなくて。

そしてその記憶を思い返すと、連鎖的に反応するのが、そんな宮くんに対して今度は"私のために"激怒して家を飛び出していった治。半年近く傍にいながら、目の前であそこまで激しく怒鳴る治の姿は初めて見た。

全員、本気だったのだ。大切な人のために。
私だけが、ブレブレなまま。宮くんへの憧れを捨てきれず、治への情も捨てきれず、流されるままに逃げ続けてしまった。

だから今、こんなにも感情が絡まってしまっているのだと思う。胸に空いた穴をどう埋めたら良いのか"わからない"ことはわかっていたのに、考えることすら諦めて、"わからない"ままにしていた。

「やけどそう考えると、治とあんなに仲ええのに侑とは全然接点ないなまえみたいなタイプも珍しいよな」
「わかる。宮ンズの双子推しとか、かたっぽの一方通行とかはようあるのにな。なまえはそういう痴情の縺れに巻き込まれへんの?」
「痴情の縺れって…」

巻き込まれたか巻き込まれていないかと言われたら、全ての元凶を私とした上で、その元凶が一番無責任なままに争いを生んでしまったというのが正解なのだろう。

「治の方とあんま話さなくなったん、なんで? 喧嘩?」
「そういうわけやないけど…」
「え〜、歯切れ悪っ」

そういうわけじゃ、ないんだけど。
でも────今、久々に宮きょうだいのことを思い出して────そして、無意識に"会いたい"と思ったのは────。





きっと、宮くんに対してはずっと"憧れ"を持っていたんだろう。今も前も、変わらない感情を。
彼のことをよく知らなくても良い。名前も顔も、知られなくて良い。気軽に話ができなくて良いし、友達にも────もうならなくて、良い。

私、今でも宮くんのこと、好きなのかな?

ううん、そうじゃない。私はただ、バレーに一生懸命で、友情に厚くて、いつも自分の意見をはっきり言える彼の姿を尊敬した。だから、きっと遠くから見ているだけで良かったんだ…最初から。

でも、治は私の人生に"干渉してほしい"人だった。
治と一緒にいる時、私はお腹から大きい声を出して笑うことができた。泣き言も、文句も、軽口も気にせず言えた。

思い出したのは、私を蔑むような目じゃなくて。目尻に皺を作ってくしゃっとパーツ全部を使って笑う顔。
思い出したのは、冷たく拒絶するような声じゃなくて。全てにおいて肯定も否定も持たない平坦な声。
感じたのは、恐怖でも緊張でもなくて。平穏と優しさに包まれた安心感。

天上の人にないものねだりをしたいわけじゃなかった。
地上で隣にいてくれる人の手を、ずっと取っていたかった。

治は、宮くんの代わりなんかじゃない、私の───。

大切な、かけがえのない人だった。

私は────"憧れ"と"恋心"を、いつの間に間違えていたんだろう。

私は、誰に傍にいてほしい?
私は、誰の傍にいたい?

私は、誰がほしい?
私は、誰に求められたい?

馬鹿みたいだ。こんなことになるまで、気づけなかったなんて。離れるまで、その大切さに気づけなかったなんて────そんな小説みたいなことが、本当に自分の身に降りかかるなんて。

でも、小説みたいに離れたまま二度と会えない、なんてことにはさせない。
だって私は、"まだどうにかできるかもしれない"段階で気づいたから。

だって治、ずっと私に言ってくれたでしょう。

まだ信じても、良いかな。まだ、私のことを許してくれるかな。

「────治!」

昼休みが終わるその間近、私は隣のクラスに駆け込んで"久々に"腹の底から声を張った。治はちゃんとそこにいた。突然鬼の形相で飛び込んできた私を見て、牛乳パックのストローを咥えたまま目を大きく見開いている。

「来て! 話、させて!」

この行き当たりばったりな行動がどんな結末を迎えるのかは知らない。
こんなにも勢いに任せて行けてしまうのは、全部相手が治だから。
これが最後の甘えになるかもしれない。そうなったら…どうしようかな。その時こそ、本当の失恋だって言ってワンワン泣いて────もう今度は縋れる人なんか誰もいないから────ひとりでいっそ派手に泣きながら、帰り道をヨタヨタ蛇行してしまおうか。

治は慌てた様子で、でもお弁当とサンドイッチと焼きそばパンと購買のおにぎりを器用に全部かき集めて教室を出てきた。

「な、なんやねん突然…」
「ええから、ちょっと人のいないとこ行きたい!」

"あの時"とはまるで真逆だ。私の力なんてたかが知れているけど、これだって全力。感情の方向は全く違えど、治もこのくらい必死に私を連れて行ってくれようとしていたのかな、なんて今更すぎる淡い期待が私の中で勝手に膨らんでいく。
期待するなって、半年前に学んだばっかりなのに。ささやかな期待ですら簡単に大袈裟な驕りと成り果てるって、この身に沁みたばかりなのに。

でも、あの時と何かが違うのだとしたら。
今の私には、絶対に"伝えてみせる"という意思がある。答えがあろうがなかろうが、"言いたい言葉"がある。

そして、言いたい言葉を伝えられるという自信が、ある。

私は治を普段使われてない特別教室に連れ込んだ。まだ事情が呑み込めていない治は、それでもおにぎりを頬張ることをやめないまま「なんやねん」と繰り返す。

「────私、気づいた」
「は? 好きな男でもできたんか?」
「そう!」

反射で答えた瞬間、治の口の動きが止まる。そしてわかりやすく眉根を寄せ、疑いと落胆を混ぜたような表情をした。

「…なんでわざわざそんなこと、昼飯食いながら報告されなあかんねん」
「昼飯食っとるのはそっちの都合やろ。私は今言わなあかんと思って呼び出したんやから」
「はあ? 俺の飯の時間邪魔しといてええ度胸しとるやん。言うとくけどな、その手の報告は"治くんが好きです"以外の答えは聞かへんことにしとるからな。だいたい何のために────」
「それなら聞いてくれるやん! 万事解決!」
「────…は?」

あ、治がパンを腕から落とした。極端に視力が悪い人なのかと思うほど更にぎゅっと眉をひそめ、今度は口をぽかんと開いている────せいで、申し訳ないがあまり綺麗な状態とはいえない米粒が丸見えだ。

「ちょお待て、やっぱ聞く。もっかい最初から言え」
「やから私、治のことが好きやったってことに、今気づいたの」
「────…は?」

全く同じ反応を返され、私はようやくそこで少しの冷静さを取り戻した。
圧倒的に、説明が足りていない。そりゃあ、は? とも言われるし、米粒だって丸見えになることだろう。
だってこれは、私が長い時間気づけずにいて…わかりきっていたその答えに突然辿り着いたという、完全に自分勝手な茶番だったのだから。

「…いつからかは、わからん。多分最初は、ほんとに宮くんのことが好きやったんやと思う。フラれた直後も素直に悲しかったし、もうどうなったってええ、くらいには思っとった。けど────…」

気づいたところで、どう説明しよう。この長い時間をかけて微細に変わっていった気持ちに、どんな言葉を添えたら良いのだろう。

「けどな、最近…宮くんのことが、目に入らなくなったんよ…」
「……」
「その代わり、治の声ばっか聞くの。治の背中ばっか見んの。なあ、距離置こうやって…私のために言ってくれて…私もそれに"うん"って返したのに……」

伝える勇気と自信は、持ってきた。それでも、自分の心に素直になるということは存外難しいもので────生まれたての感情を外に出そうとする度、どんどん声が震えていく。

「…────今更"傍にいてほしい"って言ったら、嫌?」
「…それって…」
「私…"ほんとに好きな人"が誰なのか、さっき気づいた…。宮くんに対する"よくわからへんけど格好良い"っていうぼやけた憧れと違くて…治に対する"よく知っとる、大好きな人"ってむちゃくちゃな気持ちの方が、ずっと大きくて…大事やった…。なあ、治…────私のこと、好きって言うてくれたのって、もう昔の話になった? もう私のこと────…嫌いになった?」

覚悟していたはずだったのに。もう泣かないって、宮くんに拒絶されたあの日に"今日だけだから"と言って最後の涙を流したはずだったのに。
心臓が熱い。体中の脈がうるさい。泣きたくなんてないのに、勝手に涙がぽろぽろと零れ出す。悲しくないし、感動なんかしているわけでもない。ただ、涙が自然に出てきてしまうほど────私は、"本気"だった。ただ、それだけだった。

「そ、んなの────…そんなこと、あるわけないやろ…俺は…傷ついとるお前の傍にいて慰めるふりして…傍にいれる自分に優越感持って…そんな状況を散々楽しんどいて、いざって時にお前と離れることしかできなかった…ただの弱虫なんや…。今やってずっと、お前がそう言ってくる時を、心のどっかで…ずっと────…」
「そんなら、この苦しいやつ、どうにかして。好きにさせたんは、治自身よ。治が好きになってくれた私はな……こんだけの回り道して、結局治のこと好きになってもうたんやで…」

堪らずワイシャツの裾をぐしゃりと握りしめながら涙と共に絞り出すと、米粒を全て(きっと呼吸の合間に)呑み込んで、今度こそ全ての食べ物を落っことした治が私を衝動的と言って余りあるほどの勢いで抱きしめた。

あ、治の匂いがする。

「────…治、私…治のことが好き。ずっと私の傍にいてくれて、いろんな表情見せてくれて、いろんな話してくれて…笑ったり怒ったり呆れたり、治のこと知るたんびにきっと、治のこと好きになってた…。なあ、"私と一緒にいてくれてた治のことが好き"なんて言い方したら…私、いい加減自分勝手すぎって、罰当たるかな」
「アホ。そんなら俺が、これからもずっとお前と一緒におれば良い話やろ。そんな当たり前のことで罰が当たるんやったら、カミサマに喧嘩売りに行くわ」

治が私を抱きしめる力に、ぎゅうと力を込める。

「そんなこと言うたら、俺やってずっと"お前がこっち振り向いてくれたら"って、お前の相談に乗るええ友達ヅラしながら下心持ってたんやで。罰が当たるなら、先に俺の方が当たる」
「…あは、はは…っ。それこそアホやな、結局私、振り向かされてしもたんやから…罰が当たるどころか、大当たり引いとるんやで、治くんは」
「おうおう、強気なこと言うやん。この傲慢女。人の好意散々利用しよって」
「お互い様、やな」
「…やな」

いつの間にか、昼休みの時間なんて終わっていた。多分、どっちもそのことには気づいていたと思う。
それでも私達は、久々に感じる、そして初めてここまで近くに感じる互いの温もりを、手放そうとはしなかった。

回り道をして、ずっと微妙に隙間風の通る距離感を保っていた私達。
お互いがお互いを利用しながら、傷の舐めあいなんていう嫌な言い方でお互いの心を保っていた私達。

それが今、ようやく一本の線で繋がった気がした。
振り返ればそれは────とても簡単で、逆にどう迷えば良いのかわからないほどの短い道。でも、迷わなかったらきっと、最後まで辿り着くことができなかったであろうゴール。

ああ、やっぱり────私達はずっとお互いにきっと、同じことを考えていたんだろうな────。









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