てのひらの運命



浮き立った気持ちで潜った校門の先には、見ただけで同じ学年だとわかるような集団がわんさと掲示板の前に群がっていた。着崩される様子のない制服、これだけの人がいるのにどこかよそよそしい雰囲気、そして────中学の中では大人っぽい方でも、改めて高校生の中に放り込まれると一気に幼く見えてしまう、顔。

その日は、音駒高校の入学式だった。新入生達が掲示板の前に集まっているのは、十中八九そこに貼り出されているのであろうクラス分けの表のせいだ。
時間に余裕を持って出たつもりだったが、それでも意識の高い周りの生徒よりは出遅れてしまったようだった。私が着いた頃にはもう掲示板なんて見えないほどの人だかりができており、とても自分の名前を見つけることなどできなかった。

自分のクラスが判明したならさっさと退いてくれたら良いのに、どうやらそこで友達作りも始まってしまったらしい。そこかしこで「同じクラス?」「名前何て言うの?」なんてやり取りも聞こえだすようになった。
そこまで背が低いというわけでもないが、今日ばかりは女であるが故のこの身長を恨まざるを得なかった。ひょこひょこと周りの頭の隙間を縫うように、奇妙な動きと自覚しながらもなんとか掲示の内容を視界に入れようと四苦八苦していると────。

「う、わ!?」

突如、私の体がふわりと浮き上がった。脇の下にぐっと引力に反する衝撃が走り、ぶらんと足は宙に浮く。
持ち上がる視線の先には、願ってやまなかったクラス分けの表。しかし思いもよらない突然の浮遊感に、私は当初の目的を忘れて恐怖に支配されてしまった。

「なななな何!?」

本能的に全身でもがくと、「わ、ちょっと!」という焦った声がすぐ後ろに聞こえ、すぐに私の体は重力を取り戻す。脇の下に差し入れられた何かが離れ、支えを失った体はお尻から思いきり地面に叩きつけられる────と思ったのだが、私の貧弱で支える筋肉もないペラペラな体は、何か柔らかいものに衝突しただけだった。

痛…く、はない。ただ、衝撃に驚いた。
ゴムまりのように跳ね返って立ち上がり、急いで自分の下敷きになったものを確認する。

「────えっ、人っ!?」

それは、長身の男性の姿だった。
年頃は同じくらい…というか、制服を着ているので間違いなくうちの生徒だ。色素の薄い髪に、日本人離れした彫の深い顔立ち。とても綺麗な────男、の子?

私に押し倒されるように転んでいた男子は、「あてて…」とお尻を払いながら立ち上がった。手足が長いのは一目見てわかったが、前に立たれるとその異常なほどの身長の高さに私は一気に気圧されてしまう。え、何cmあるんだろうこれ、もしかして2mくらいある…?

というか、この異様な状況は何なのだろう。
突然持ち上がった私の体。倒れたところに下敷きにしてしまった、謎の男子学生。

「え、と…すみません、その…」
「びっくりしたー、怪我ない?」

男子学生は屈託のない笑顔でそう話しかけてきた。見た目からして外国の方かと思っていたのだが、その口から発せられたのは流暢な日本語だ。

「あ、大丈夫、です…」
「良かった。なんか人混みに埋もれて前が見えないみたいだったからさ、持ち上げたげたら見やすくなるかなーって思ったんだけど」

…それじゃ、なんだ。
この人は"親切"のつもりで、見ず知らずの私を…持ち上げた? ということか?
訝しく思いながら、彼の手元を見る。状況から察するにこの大きな手が私を脇から持ち上げた、ということ…なんだろう…と思うんだけど…。

え、見ず知らずの人よ? 普通知らない人のことを赤ちゃんみたいに持ち上げる?
それとも私がおかしいの? この人にとってはなに、単に「困ってる人を助けてあげたった」みたいな感覚ってこと? 背の高さを生かしてチビに手を貸してあげてるんですよ〜、みたいな…。

……うーん……。

「…いや、おかしいですよね!? 声もかけずに脇から持ち上げるって!」
「えー? でも実際見えるようになっただろ?」
「普通にビビり倒して見るどころじゃなかったんですけど!?」
「そうなの? じゃあ君の名前教えてよ、俺が代わりに見てやるから!」

最初からそうしてくれと言いたいのは山々だったが、流石に全く知らない人を相手に怒り続けるのも気が引けた。加えてあまりにもその人が邪気のない顔で笑うものだから、私は恐怖と不信感の狭間に立たされつつも「みょうじ…なまえですけど」と呟いた。

「みょうじ…みょうじ…あ、3組だって。俺と一緒だ! よろしく〜」
「え、じゃああなたも…」
「うん、今日からここの新入生。灰羽リエーフって言います、よろしくね」

────それがリエーフと私の、奇妙と言うにはインパクトが足りず、かといって普通と言うには明らかに常軌を逸している出会いだった。










「なまえーー!! おはよーーーー!!!!」
「こっち来るなやめろ両手を差し出すなワァアアアアアアアッ!!!?」

朝一番に、今日の分の酸素を全て使い切ったかと思った。
リエーフは"いつも通り"私の脇にガッと手を差し入れ、下駄箱のど真ん中でぐるぐると振り回してくる。

…これが、私と彼の朝の恒例行事だった。
いや、私は全くもってそんな行事望んでいないのだけど。

「ちょっ…も…あの…いい加減これやめません…?」

ぎゃあぎゃあ騒ぎながらぶんぶん回されたせいで、朝から私の体力は限界を迎えていた。床に這いつくばって喘ぎながらなんとか反抗するも、リエーフはにっこりと目を細めて「なんで?」と言うだけだ。ついでに周りで靴を履き替えている同級生達も、初日の2、3日こそ心配そうに(あるいは不審そうに)見ていたものの、3ヶ月経った今ではすっかり見慣れた様子でスルーしていくだけである。

「うーん、でもさ、なまえ見ると高い高いしたくなるんだよなあ」
「一言一句心から意味がわからないんだけど」
「こう…持ち上げやすい感じ、わかる?」
「それで喜ぶのはせいぜい5歳くらいまでじゃないかな!?」

リエーフ曰く、入学式のあの日に私を持ち上げた瞬間「なんかピンときた」のだそうだ。大きくも小さすぎもせず、まさに"持ち上げやすかった"とのこと。
ただ、私は生まれてこの方誰かを持ち上げたことも誰かに持ち上げられたこともない(それこそ幼少期の朧げな記憶であったかどうかというくらいだ)。そんな気持ちに共感しろと言われてはいそうですかと納得できるわけがないのだ。

というか、普通に考えてクラスメイトを"持ち上げやすい人"として認識するなんてこと、ある?

「でもなまえもいつも喜んでるじゃん。きゃああって」
「それぎゃああの間違いだから」

疲れ果てていたとしても、そこでリエーフに好き勝手言わせ続けているといつの間にかそれが"同意を得た話"になってしまうので、今日も私は頑張って抗議を続ける。同じクラスに配属されてしまったが故に、その口論は教室に入っても続いていた。

「だいたい、今はまだクラスメイトだから怒られるだけで済んでるけど、見ず知らずの人にそんなこと平気でしてたらそのうち本当に捕まるからね」
「うん、でもなまえにしかしないからダイジョーブ」
「私にも初対面の時から同じことやってきたの忘れたとは言わせないからね!?」

チャイムの音で、朝のラウンドは終了。今日も決着がつかないまま、私達はそれぞれの席に着いた。
普通なら、そこから授業が始まり、お昼はそれぞれの友人と過ごし、また午後の授業を受けて放課後は別の部活へ────と、朝の段階で私達の関わりは終わると思われることだろう。実際私だって、入学してきた当初はこちらがリエーフを避け続ければ、朝のどうしたって顔を合わせざるを得ない時間以外は平穏な学生生活を送れると思っていた。思って"いた"。

それなのに。

「それじゃあ授業を始める────が、あれ、なんか人少なくないか」
「先生、灰羽君が戻って来てません」
「またあいつか…みょうじ、ちょっと連れ戻して来い」

良いですか皆さん、いっせーのでお願いします。
はい、いっせーの。

「なんで私なんですか」
「お前ならあいつの居場所知ってるだろ。保護者だし」

仮にも教師がこの言葉である。いやまあね、担当授業でしか顔を合わせない生徒ひとりひとりの居場所を常に把握しろという方が無理なことはわかっていますよ。
でもそれを他の生徒に押し付けた挙句「保護者だし」は些か暴論が過ぎるのではないでしょうか。

…という反論なら、既に2ヶ月前に済ませた。
そしてその時既に私は玉砕している。なぜならその時たまたま「ちょっと周り探してみたんですけどいませんでした」と言うつもりでぶらぶら人気のないところを巡っていたところ、早々にリエーフを発見して連れ戻してしまったという前科があるためだ。

お生憎だが、ここで「リエーフならどこにいたって見つけられます」と言えるほど私は男前ではない。ただ私は────。

「────…そんなことだろうと思った」

…どうせリエーフが授業に出ない理由なんて、"その辺の猫を追いかけていたら戻れなくなった"程度のことだろうなあと…そう、つまり彼の考えなし具合が人智を超えていることを多少理解しているだけだ。

「あ、なまえ!」
「あ、なまえ! じゃないよ。授業のチャイム鳴ったの、聞こえてなかったの?」
「え、まじ? 先生怒ってる?」
「呆れてる。ほら、戻るよ」
「はーい。またな」

律儀に猫に挨拶をして(猫も律儀に「にゃあ」と返していた)、大人しく私についてくるリエーフ。平気で秩序を破るこの男だが、決して悪気があるわけではないのだ。

「リエーフのせいでいよいよ今日私先生から保護者呼ばわりされたんだからね」
「…どっちかっていうと俺の方が保護者じゃね?」
「一応聞くけど、どこが?」
「ほら、よく一緒に遊んであげてるし」
「私が一方的におもちゃにされて遊ばれてるだけなんですけどそれは」

ものの5分で教室に戻ると、クスクスと笑っているクラスメイトと(誰だ「本当の親子みたい」って言った奴は)「ご苦労、みょうじ」と平然とした顔をした先生が私達を迎え入れ、そのまま何食わぬ顔で授業を始めていった。

「ねえなまえ、なまえ」
「静かなのにうるさいな。今度は何」
「シッ。ちょっと聞かれたくないから声抑えて。…教科書忘れたから、見せてくれない」
「せんせー! はいばくんがきょうかしょわすれましたーーー!!!!」
「ちょっと待ってなまえー!!!」

…最も残酷なのは、まだこの時点で9時ということだった。
これから終業までの約7時間、平穏無事に終われるというのならもう私はこの先誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも一生なくて良い。










「リエーフ、もう日誌書いた?」

その日はたまたま、私とリエーフが日直の担当だった。ちなみに、それが本当にたまたまなのかは知らない。というのも、前回リエーフが日直を組んだ女子に何かをしでかし(あるいは何もしなかったか)しこたま怒られた挙句先生に「灰羽君の手綱はなまえにしか取れません!」と直訴したらしいという噂を聞いたからだ。

「にっし?」
「何その初めて聞いた単語ですみたいな反応。朝お願いしたよね、黒板消しは私がやっておくから日誌はお願いねって」
「あー、うん、日誌ね、日誌」

このリエーフ、面倒なことは本気で頭からすっぽ抜かせる器用さは持っているのに、嘘をつくのが恐ろしいほどに下手だった。大きな目を泳がせ、長い指をもじもじと絡ませ、綺麗な声を震わせている。

「あ、俺これから部活あるからさ、部活の間に書いておいても良い?」
「リエーフってバレー部だよね、いつ書くつもりなの」
「うーん…ミーティングちゅ」
「ミーティング中はミーテイングに集中しなさい」

発言自体はとんでもないのだが、彼には決して悪意があるわけではない。そういう意味で言えば、灰羽リエーフという人間はそこら辺の子供よりずっと純粋無垢で汚れを知らない存在だ。だから一生懸命責務から逃げようとしながらも、私にその仕事を押し付けようという発想には至らないようだった。

…ここまで衝突しているリエーフのことを、それでもいまいち嫌いになりきれないのはそういうところがあるせいだ。

「はあ…もう良いよ、日誌くらい私が書いといてあげるから」
「マジ? ありがとー!」
「明日購買のスペシャルメロンパン奢ってね」
「わかった!」

無理矢理彼に書かせても良かったが、1年生が部活に遅れるなんてことになっては色々と大変だろう。仕方なく肩代わりしてやろうと手を差し出すと、嬉しそうにリエーフは私に日誌を手渡し────そして、そのまま私の前の席を後ろ向きにひっくり返して座った。

「……?」
「?」

シャーペンを取り出しかけた私の体が、固まる。リエーフはその様子を見て、にっこり笑ったまま首を小さく傾げた。

「…部活、行かないの?」
「うん、提出が終わるまでちゃんと付き合う。俺も日直だし」
「…遅れたら先輩に怒られたりするんじゃないの?」
「うん、怒られる」

いや、平然と言ってますけども…。

「でも、そもそも仕事忘れてた俺が悪いし。なまえの方が俺よりずっと字綺麗だから書いてもらうのは任せたけど、ひとりで教室居残るのってなーんか気が滅入らない? 先輩達も日直の仕事が長引いただけって言えば許してくれると思うから、気にしなくて良いよ」

…これがリエーフのせいで居残りを強制させられているわけでなければ、うっかりキュンとしてしまっていたかもしれない。転げ落ちそうになってしまった心をなんとか繋ぎ止め、冷静に私はぶんぶんと頭を振る。違う、リエーフが私のために居残ってくれてるわけじゃない。あくまで私がリエーフの尻拭いをしているだけなのだ。

それでも…。
日誌をちまちまと書く私の手元ではなく、私の顔を眺めながらまるで道端の猫でも見るように顔を綻ばせるリエーフの表情を見ていると、どうにも力が抜けてしまうのも事実だった。

「…なに、なんかついてる?」
「なんにも。ただ俺、なまえの顔見てるの好きだなーって思って」
「何それ。見世物じゃないよ」

悪態をついても涼しい顔でリエーフは笑っている。狭い机に頬杖をついて、飽きもせず。

開いた窓から流れこむ乾いた風が、リエーフの色素の薄い髪をさらさらと揺らしていた。その頃にはすっかり秋も深まっていて、だんだんと早まっている日没に向けて辺りを薄墨に染めている。
顔…はわからないけど、オレンジ色の光を受けて輝くその髪の動きを見ているのは…まあ、私も嫌いじゃないなあ、なんて思ったりして。

穏やかに流れていく放課後の夕暮れ、私はいつもより自分の筆が遅く進んでいることを感じていた。
それでも、たった1ページ、それもただテンプレートをなぞるだけの作業が終わるのは早かった。時計の針が大きく回る前に最後の連絡事項を書き終えると、私はどこか名残惜しい気持ちを抱えながら日誌を閉じた。

「はい、終わり。あとは職員室に持って行くだけだから、今度こそリエーフも部活行って良いよ」
「ありがと! 助かったー!」
「連絡入れてる様子もなかったけど、本当に大丈夫? 心配して迎えに来られたりとか────」

冗談めかしてそう言いながら、冗談のつもりで振り返って教室の入口を見る。
すると────。

「…………」

────そこには、見慣れない長身の男性が立っていた。
壁から顔だけを覗かせて、まるでこっそりとこちらを盗み見るように。

「…リエーフ、あの人知り合い?」
「あ、黒尾さん!」

唇を動かさないようこっそり耳打ちすると、リエーフは私のそんな気遣いを全て無に帰すかの如く勢いでばっと立ち上がり、黒尾さんとやらに大きく手を振り始めた。

「迎えに来てくれたんですかー!?」
「え、マジで部活の人なの…」
「うん、うちのキャプテン!」
「しかも一番偉い人!」

先輩はリエーフに呼ばれると、ギロリと眼光を鋭く光らせてその巨体の全貌を露わにした。おお、怒ってる。さっきまで憧れの先輩を覗き見る後輩女子と見紛うほどの慎ましさで気配を消していたというのに。

「リエーフ!!!!! 俺朝の時点で言ってたよな!? 今日は放課後一発目に大事なミーティングやるから絶対参加だって!!」
「あ、そういえばそうでした! 黒尾さん自ら迎えに来てくれるなんて珍しいな〜って思ってたんですよ!」
「お前がいなきゃ始められるもんも始まんねえからだろうが!!」
「すいません! 日直の仕事してて!」

黒尾さんはまだ何か言いたげに口を開いたが、私の顔をちらりと見た後空気が抜けた風船のように深い溜息をついた。流石に初対面の後輩の前でいつまでも怒鳴り続ける気にはなれなかったのだろう、確かに怖かったが、理性的な人だ。

「あ、黒尾さん見て! この人がなまえですよ!」

怒られているのだから大人しくついて行けば良いものを、リエーフは何を思ったのかおもむろに私の肩をぐっと掴んで紹介し始めた。

「あー母…じゃなくて、いつも面倒見てもらってるクラスの子な?」

今この人、私のこと母親って言いかけたな。

「はじめまして、バレー部の黒尾鉄朗です。いつもリエーフから話聞いてるよ、お互い苦労するなー」

黒尾さんは最初の印象をごっそり覆すような大きい笑顔で私と向き合った。包容力があり、親しげな笑みを浮かべるその姿は、むしろそちらの方がリエーフの親のように見えるくらいだ。
それより、今彼は何て? いつも話を聞いてる?

…何の?

「…ちょっとリエーフ」

私はなんとか愛想笑いを捻り出すと、そのままリエーフの腕を掴んでがくんと私の目線にまでその顔を引きずり下ろした。

「いたいいたいいたいいたい、えっ、なに?」
「あんた先輩に私の何を言ってるの、恥ずかしいこととか言ってないでしょうね」
「言うわけないだろそんなこと〜」

ダメだ、この男に常識を求めてはいけない。リエーフ基準で恥ずかしくないことでも、人類の恥である可能性は大いにある。
嫌だなあ、よく知らない上級生(しかもちょっと格好良い)に知らぬ間に悪評が広められてたら…。毎朝この巨人に振り回されてるとか…無駄に声を荒げて校内を駆けずり回ってるとか…ああ、そう思うと私、普段からリエーフの前では本当に醜態しか晒していないなあ…。

「なまえなら俺がどこ彷徨ってても見つけてくれるとか、なんやかんやで俺の失敗をいつも挽回してくれるとか、そういうありがたい話しかしてない!」
「そりゃ母親だとも思われるわ!」

ついいつものノリで声を荒げてから、すっかり置いてけぼりにしてしまっていた黒尾さんの方を恐る恐る見やる。黒尾さんはなんだか生温い顔で私達を見ていた。

「ああもうすみません! リエーフならもうこの通り仕事も終わってますので、どうぞどこにでも連れて行ってください!」
「ごめん、俺も2人の仲邪魔したくはなかったんだけど…さっきもこいつに言った通り、今日だけは大事なミーティング控えてるからさ。お言葉に甘えて連れてくな、ありがとう」

先程引き掴んだリエーフをそのまま黒尾さんの前に差し出すと、優しい言葉に反して潰れそうなほどの強い力でその腕を掴み、そのまま彼を引きずるようにして教室を出て行った。

「ああ〜〜〜なまえ〜〜〜〜」
「お前なあ、好きな子にあんな甘えっぱなしで良いのかよ? もうちょい男見せろ、男」
「黒尾さんだってこの間クラスの女子に"黒尾はだいたいのスペックが高いのに寝癖が残念すぎる"って噂されたって言ってたじゃないスか!」
「ハァァ〜〜ン!? そんなこと言ってねぇし〜!? 良いんだよ俺はこの髪型も受け入れてくれる子と付き合うんで〜!!」

そんな2人の言い争う声は、静かな廊下にいつまでも響き渡っていた。
…危なかった。ちょっとだけ、夕暮れマジックにかかってしまいそうな自分がいた。










それからまた月日は流れ、気が付けば私達は再び春を迎えようとしていた。

「なまえ〜〜〜!」
「はいおはよう」

1年も経つ頃には、私を持ち上げたがるリエーフを躱す術だっていい加減身についてくる。今日は登校中に元気な声が聞こえてきたので、早めに振り返ると声同様に元気良く腕を伸ばすリエーフの手を叩き落とし、さっと横に退けてぎゅっと体を縮こませた。

「うわ、遂に完封された!」
「そりゃもう毎日飽きもせずに襲われてたら自衛のスキルも上がるよね」

そのままなし崩し的に学校までの道を一緒に歩きながら、すっかり見慣れた横顔を見上げる。
彼は今日もご機嫌だった。どれだけ憂鬱なイベントが待っている日でも、どれだけ体調が優れない日でも、彼はいつも笑っている。嫌なことも楽しむ気概を心得、些細な日常にも喜びを見出す。最初はその能天気ぶりに呆れることもあったが、こうして毎日一緒にいると、自分の機嫌を自分でとれる(しかも無意識に)存在には助けられることの方が多い。
感情とは、人から人へ伝播していくもの。リエーフの隣にいると自然と私も笑えるようになっているので、冬になる頃には私の方が進んで彼の元に行くようにさえなっていた。

「えー、じゃあそろそろ手を変えた方が良い?」
「いや普通に言語コミュニケーション取ろうよ。会話ができないわけでもないんだし」
「あ、見て桜が咲いてる! 今年めっちゃ早咲きじゃね!?」
「会話できなかったわ〜…」

リエーフは私の言葉を完全に無視したまま、うっすらと桃色に染まっている桜の木の下に駆け寄った。一瞬その高身長を生かして枝に手を伸ばしかけていたのだが、去年のこの時期に「枝は触っちゃダメ」と私が散々言い聞かせていたのを思い出したのか、すっと触れる直前に手を引っ込めた。代わりに、根本に植えられていた低木の葉に乗っていた5枚付きの花を拾い上げる。

「ねえ」

花びら1枚ではなく、花ごと落ちているものを見つけられて嬉しかったのだろう。適当に生返事を返そうとしたら、彼の手がすっと私の耳元に伸びた。

「…?」

優しく、横髪に触れる感触。ただそれは本当に一瞬のことで、すぐに彼の手は離れていった。そして、割れんばかりの笑顔が彼の顔に浮かぶ。

「めちゃくちゃ似合う、すっげえ可愛いよ」

…どうやら、彼は拾った桜の花をご丁寧に私の頭に飾ってくれたようだった。ねえ見て、とは言われていたが、自分の顔は自分で見ることができない。花を女子に飾ってみせるなんてお洒落なイケメン男のような行動をするくせに、そういうところで間の抜けたことを言うんだからリエーフらしい。彼の方が、余程桜の淡い色と同調していて綺麗だと思ったが、それはなんだか悔しかったので黙っておくことにした。

「…ありがと」

そんな私も、1年過ぎてみてすっかりそんな彼の調子に感化されてしまったようだった。頭がどうなっているのかはわからないが、リエーフが可愛いと言ってくれているからそうなのだろう。この人は、面白いくらいに嘘をつけない人なのだから。

「で、ごめん、何の話してたっけ?」
「んー? リエーフはどうして私と会うと子供みたいに持ち上げないと気が済まないのかなって話」
「って言われてもなあ…なんかもうそれが恒例行事になっちゃったし」
「今はそうかもしれないけど、常習化するまでの間とかよく飽きずにやってたよね。っていうか初日もかなり怖かったけど、まだ2日目くらいの時とか本当になんであれやってたの?」
「言ったじゃん、なんかピンと来たって」
「それがわからないんだよ。私と同じくらいの身長の子なんてそこら辺にいるし、私が特別ノリ良かったってわけでもないだろうし」

桜の花が落ちてしまわないよう、歩き出すと同時に髪からそっと掌に移す。風に飛ばされないよう両手で囲むように花を柔らかく持ち、手の中でころころと転がしながら素朴な疑問を口にすると、私以上に困ったようなリエーフの声が飛んできた。

「うーん…そう言われても…。なまえのこと見ると気分がワッと上がって、なんかくるくる回したくなるんだよなあ。俺、なまえと喋るのも、なまえに触れるのも好きだから」
「また漠然とした答えだなあ…」

その気分がワッと上がる理由を聞きたかったというのに、リエーフの答えは何度聞いても堂々巡りになるばかりだった。今なら私だってリエーフと喋るのも戯れるのも好きだと返せるが(諦めたとも言う)、そこまでの交流がなかった頃に同じだけの熱量を返せたかと言われたらそんなことはない。

この距離感は、あくまで時間の経過と共に作られたものだ。
自由で、無秩序で、どうしようもなくいい加減。最初の印象は、お世辞にも良いものとは言えなかった。
そんな彼の純粋で、優しくて、誰よりも人生を楽しんでいる側面に気づいたのは、何の大きなきっかけもない、無為に過ぎ行く日常の中でのことだった。リエーフが懲りずに毎日構ってくるから、嫌でも彼のことをどんどん知るハメになっただけ。ただ、それだけのこと。
裏表がないから、安心して傍にいられる。どんな時でも笑っていてくれるから、こちらもつられて笑顔になる。いつだって私の名前を呼んでくれるから、私も彼を見つけるのが早くなる。

理由もなく積み重ねられていた毎日が、だんだん私にとって何よりも重くて大切なものになっていた。理由もわからず許していたこの距離が、だんだん私にとってかけがえのない"当たり前"になっていた。

「────あっ、そうだ、わかった!」

リエーフと一緒にいると、騒がしいはずなのに心が穏やかになってしまう。
鮮やかで、賑やか。そんな世界で過ごす時間を、幸せだと思ってしまう。

ああ、なんだかそれって、まるで────。

「俺、なまえのことが好きなんだ!」

私の心の声が静かにひとつの仮説を呟いたと同時に、リエーフも全く同じ言葉を口から本物の声に乗せて発した。

「一目惚れってやつじゃない? あの時そんなことまで考えてたかはわかんないけど、今の気持ちは多分"好き"、なんだと思う! だって俺、なまえとずっと一緒にいたいし、なまえにはいつも笑っててほしいし…ね、これって好きってことだろ!?」

キラキラと、太陽も顔負けの笑顔でベラベラと喋り立てるリエーフ。
…きっとここで可愛い女の子なら顔を赤らめて、びっくりしたような顔をして、もう一度同じセリフを吐かせたりするのかもしれない。

でも、可愛くない私が返した反応は、小さな笑い声ひとつだった。

「…そっかあ」

だって、そう言われたら今までの行動全てに理由がついてしまうんだから。
そしてその真意を深く訊くこともなく付き合ってきた、私の行動の理由も。

「ねえねえ、なまえは俺のこと好き?」
「うん、好きだよ」
「やったー両想いだー!! 夜久さんに報告しよっと!!」

でも、待って。
せっかくこの日常に、この感情に名前がついたのなら、もう少し浸った方が良い?
ちゃんとお互いの気持ちを落ち着いて確認して、それから噛みしめた方が良い?

「わーい!」
「ちょっ、わ、待ってええええ!?」
「隙ありー!!」

────なんて思っていたら、不意打ちでリエーフに脇から持ち上げられた。勢いよく回る視界が、1年前の記憶とどこか重なる。

…まあ、疑う余地なんてないか。
それに躊躇って止まってしまっていたら、この人にはあっという間に置いて行かれてしまいそうだ。

私達の恋はあまりに唐突に始まり、そしてあまりに唐突にぶつかった。
こんな話をしたら周りには子供っぽいと笑われてしまうのかもしれない────でも、突飛と言うにはありきたりで、かといって味気ないと言うには明らかに慌ただしいこの関係が、私はきっと、ずっと前から好きだった。









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