Unhappy Wedding



仕事帰り、いつものルーティーンでポストを覗くと、普段は絶対見ない華奢な封筒が入っていた。このご時世にスマホのメッセージではなくわざわざ手紙を送って来るなんて、一体どこの誰だろう。

差出人の欄を見るも、そこは空白だった。いよいよ不審に思い、マンションのエントランスに突っ立ったまま封を破く。

『Wedding invitation』

それは、ごくありふれた結婚式への招待状だった。
普通こういうものは、招待状が届く前に一言本人から連絡が来るもの。だから後から見返せば招待状だとはっきりわかるような封筒の装飾を見ても、実際に開くまではその正体に気づけなかった。

うっかり忘れたのだろうか。それとも、わざとだろうか。
俺の友達、いい加減な奴多いしなぁ。お前ならどうせ来るだろって要らないサプライズとか平気でしてきそうだもんなぁ。

拝啓から始まる堅苦しい言葉を飛ばし読み、最後の新郎新婦の名前欄に目を走らせる。

新郎の方は、知らない名前だった。
そして首を傾げながら新婦の名前を見ると────。

『新婦 なまえ』

結婚式に呼ばれるほど仲の良い女性は、そう多くない。
その中で、なまえと言われて心当たりがある人なんて──── 一人しかいなかった。

指先が急に感覚を失ったようだった。視界が狭まり、嫌な汗が出る。

その瞬間、ポケットに入れていたスマホが突然振動し始めた。

「うお!?」

情けない声を上げながら、震える手で着信を見る。

『なまえ』

招待状の差出人と、同じ名前。

無視をするわけにもいかず、その場でなんとか応答する。

『あ、仕事終わった? 今平気?』

よく知った、聞くだけで安心するような落ち着いた声が鼓膜を緩やかに刺激する。
いつもなら一声聞くだけで疲れが飛んで、なくなったはずの元気が湧いてくるはずなのに────その時の俺は、うまく言葉を返せなかった。

「お、おお…」
『良かった、お疲れ様。それで…そろそろ届いた? 招待状』

そわそわとした口調から、見なくても彼女の表情が浮かぶ。
名前を見た瞬間からきっと確信は得ていたが、やはりこの新婦はなまえのことだったのか、と内臓が一気に沈んだような感覚に陥った。

「え? あ…ああ〜、それな。今ちょうどポストから出したとこ」
『今? 私すごい、タイミングぴったりじゃん。今日辺りそっち着くだろうなって思ってたんだ。────私、結婚するの』

結婚するの。

その言葉が、がらんどうの体内にガラガラと響く。

おめでとう、とすぐに言えなかった。その代わり、出てきたのはいつもの憎まれ口。
それが、精一杯の抵抗だった。

「お前さ〜、こういうの普通前もって言わねえ?」
『クロは前日に呼び出しても来るでしょ。びっくりサプライズだよ』
「前日は流石に無理ですね」

"いつも通り"軽口を叩きながらも、口の中はカラカラに乾いていた。

『それで、来れそう? まあぶっちゃけ仕事忙しいのはわかってるから来られなくてもしょうがないなーとは思ってるんだけどさ』
「────いや、行くよ。2ヶ月後の今日だろ? ちょうど仕事休みだし」
『良かったー。親族とごく親しい友達だけの小さな式なの。研磨もいるからね』
「俺、それどっち枠?」
『親族』
「いや薄々そんな予感はしてたけども……大丈夫かそれ、新郎さんに嫌がられねえ?」
『そういう人じゃないから大丈夫。じゃあ参加ってことで…あ、でも一応返信はよろしく』
「おーう」

電話を切る間際、遠くにいる誰かの声が聞こえてきた。それは明らかに男性の低い声で────きっとそれが、"新郎さん"なんだろうと思う。

俺、ちゃんと喋れてたよな。声裏返ったりとか、変な間が入ったりとか、なかったよな。

静かになったエントランスで、長い溜息をつく。

────2ヶ月後の今日、10年以上想い続けていた女性が、知らない男性と結婚することになった。










そもそも俺達に出会いらしい出会いはなかった。
家が近いから、年が近いから、一緒にいただけ。

「今日何するー?」
「バレー」
「昨日したじゃん。今日はゲーム」
「一昨日したじゃん。今日こそ交換ノートやろうよ」
「なんで3人揃ってるのに会話しないでノートに書かなきゃいけないの」

家族が家を空けがちな俺と、そもそも両親が共働きでいないことが常のなまえは、よく揃って研磨の家に預けられていた。引越してきた当初は2人に対して人見知りしていた俺も、半年もする頃には打ち解け、毎日のようにお互いのやりたいことを譲り合うことなくぶつけては、なんやかんやでバドミントンやらボードゲームやらお人形ごっこやら(人形で遊ぶのではなく、俺と研磨が人形になってなまえに遊ばれる)、最初の計画と少しズレた着地点で遊んでいた。

もちろん、学校に行けばそれぞれの友達がいる。研磨はひとつ年下だったし、同い年のなまえは女子だったから、常に一緒にいるというわけじゃない。
それでも俺は、この3人で遊ぶ時間が一番好きだった。出不精でマイペースな研磨と、世話好きで何にでも興味を示すなまえ。ちぐはぐで、凸凹で、それなのにあっという間に夜になっている、そんな空間が。

小学校を卒業して、同じ公立の中学校に通うようになっても、その関係は続いていた。
一足先に俺となまえが入学した時には、よく一緒にいたせいで「付き合ってるの?」と訊かれることもままあったが、1年経って研磨が入学し、再び3人行動が増えると、そんな噂もすぐ消えた。
その代わり────。

「黒尾とみょうじと一個下のあの髪の長い奴…なんだっけ、孤爪? とにかくお前ら3人揃うとなんか家族みたいだよな」

クラスメイトからは、そう言われることが増えるようになった。

「何それ」
「ろくでなし旦那黒尾を尻に敷いてる奥さんみょうじ、それから自立した子供孤爪、の図」
「いやツッコみたいとこ色々あんだけど…まずなんで俺がろくでなしなの? こんな出来た旦那そうそういないよ?」
「中2の段階でそういうこと言う奴にろくな奴はいない」
「────あ! いたクロこら! 昨日あんた私の教科書間違えて持って帰ったでしょ! 1限で使うのにどこ探してもなくて困ったんだから!」
「お、噂をすれば鬼嫁登場」
「佐々木君、それはもしかしなくても私のことでしょうか」
「うん、ちょうど今お前らって夫婦みたいだなって話してたとこ。今の会話とか完全に"私の洗濯物持って行ったでしょ!"のノリだった」
「やめて佐々木、なんか本当に俺がろくでなしみたいになる」
「なんでも良いけどクロはさっさと教科書返して」

認めたわけではないものの、わざわざ必死になって訂正するような話でもなかった。周りが冗談で言っていることはわかっていたし、中学生だった俺にとって恋だの愛だのそういう話はまだ現実味がなかったから。

ただ、なまえもそれを平気な顔で流していることは、少し意外だった。

なまえだけに限らず、クラスの女子は大抵どの先輩が格好良いだの、他校に彼氏がいるだの、そういう話でいつも浮足立っていた。女子の方が男子より成長速度が速いとはいうが、未だにモデルや女優(人によってはアニメキャラ)の話で精一杯な俺達に比べ、彼女達は早々に現実の人間を見始めるようになっていた。
そんな彼女にとって、軽率な"夫婦"という言葉は少しばかりセンシティブなものだったのではないだろうか。もっと言えば、要らない足枷になってしまうのではないだろうか。

「なまえにはそういう奴いねーの?」
「そういう奴って?」
「好きな奴とか、付き合ってる奴とか」
「そんな素敵な人がいたら今日の夫婦イジりなんて全力で拒否してます」
「なんだろう別に構わないけどちょっと複雑な気持ち」
「まあ、私はクロと研磨の面倒見るので手一杯だからね。聞いてるだけで良いや、そういう話は」

放課後、お互いの部活がたまたま同じ時間に終わったお陰で一緒に辿る帰り道。なまえはあっけらかんとそう言いながら、俺の心配を吹っ飛ばす。

「お前それ、10年とか経って彼氏ができなくても俺のせいにするなよ」
「するか! 今に素敵な彼氏作って自慢してやるわ!」

その時既になまえに対して特別な感情を持っていたのか、それともただ単に"仲良し3人組"の構図が崩れてしまうことに寂しさを覚えただけなのかはわからない。
ただ、笑いながらも俺は、そんな日なんて来なくて良いと確かに思っていた。

高校まで同じ道を辿ったのは、半分示し合わせて行ったことであり、半分運に恵まれた結果だった。

「へー、ちゃんと高校生に見えるじゃん。似合う似合う」
「ありがとう。クロはなんかアレだね…ちょっとコスプレっぽい」
「俺そんな老けてなくない!? ちゃんと22時には寝てるし3食食べてるし適度な運動もしてるんだけど! 超健康的で年相応な生活送ってるんだけど!」
「子供か」

全く新しい環境に放り込まれても、俺達の距離感は変わらなかった。
いつまでも出会った頃のようにじゃれ合う俺達に対して、変わったのは周りの態度。

高校生にもなれば、多くの人間が恋愛を意識し始める。もちろん全ての人間がそうというわけではないが、どうやら特定の男女が2人で行動を共にし、近距離で笑い合っている姿は傍目に"そう見えやすい"らしい。

「黒尾君ってなまえと付き合ってるの?」

そう訊かれる回数が、圧倒的に増えた。特に女子。

「付き合ってないよ。幼馴染なだけ」

俺の答えはいつもこう。無難に笑って、無難な正解を教えてあげるだけ。

「じゃ、じゃあさ…その、私…とか、ダメかな…」

たまに、これだけで会話が終わらない時もある。顔を赤らめて俯きながら言うその姿を可愛いと思わないわけではなかったが────。

「ありがとう。気持ちはすげえ嬉しいけど、俺、彼女作る気ないんだ」

────俺の心が動かされることは、一度もなかった。

「よう、この女泣かせ」
「…なまえ。見てたのか」

高校に入ってから1年が経とうかという頃、告白してくれた女子が涙を滲ませながら立ち去った跡地を、こんな風に偶然見られてしまったことがあった。

「見てたっていうか、通りがかりで気まずい現場に鉢合わせてしまったから息を殺してました。今月入って何回目? 地味にモテるよね、クロって」
「そんな大袈裟なもんでもねえよ。彼女作る気ないって毎回割と残酷に言ってるんだけどなあ」
「発言が一人前のモテ男のもので腹立つ。恋する女の子からしたら君の意思なんて関係ないんだよ。時間が経てば気が変わるかもしれない、って期待もするし」
「お前の方が知ったような口利いてんじゃん。経験値俺と同じ癖に」
「残念でした。私、彼氏できた」

もうそろそろ桜が咲くかなあ。この間研磨が無事に同じ高校に通うことが決まったし、そろそろお祝いの準備してやんねえとなあ。あ、今日の部活、そういえばちょっと早めに行かなきゃいけなかったんだっけ。

全く関係のないことが急に頭にいくつも浮かび、なまえの発言の衝撃を少しでも緩和させようとしていく。それでも彼女の言葉はどんどん俺の思考を浸蝕していき、1秒経つ頃にはそれしか考えられないようになった。

「…なんで?」
「告白された」
「お前が?」
「失礼だな」

聞けば、それは隣のクラスのサッカー部の奴らしい。俺も名前と顔くらいは知っていたが、それ以上の接点はないような男だった。

「よく知りもしねー奴と付き合うの?」
「だから、考え方が小学生の頃から変わってないんだよ、クロは。人間なんて最初はみんな知らないところから関わっていくんだから、付き合ってるうちに好きになれるかもしれないでしょ」

知らねえよ、そんな大人の意見。
お前のことなら、俺の方がよく知ってるじゃん。
そいつより、絶対俺の方が近いところにいるじゃん。

それが醜い嫉妬だということに気づいたのは、それから1ヶ月が経って────。

「別れた」

────久々に一緒に帰ろうと誘われた日、そう言われて嫉妬と同じくらい醜い安堵を覚えた時のことだった。

「全然気が合わない。下心ミエミエでどんどん冷める。無理だった」
「ほら見たことか」

勝ち誇ったような顔をしながらも、その少し前にデートに行ったという彼女の私服姿を見て傷ついていたことを思い出す。見たこともないような可愛い格好をして、髪も巻いて、化粧も少し派手になっていて。
そこには、俺の知らないなまえがいたから。

それを、面白くないと思った。
だから今こうして、口を尖らせながら俺の隣を歩く彼女を見て、心から俺は安心していた。
戻って来てくれた。俺の隣に、俺の知ってるなまえが。

「私、恋愛向いてないのかね」
「まあ一回じゃわからないだろ、当たって砕けてこうぜ。なんなら次は俺でも────」
「クロみたいに惚れたの腫れたの気にしないで一緒にいられる人の方がよっぽど楽だわ」

────冗談のつもりで渡そうとした告白を、取り出す前に拒否されたような気分だった。

いくらなんでも、16になってここまで明白な自分の気持ちに気づかないほど馬鹿じゃない。俺は彼氏ができたなまえに嫉妬した。彼氏と別れて真っ先に俺の元に帰ってきたなまえに優越感を抱いた。

あの可愛い格好も、特別も、全部俺に向けてくれれば良いのにって思った。
まだ俺の知らない彼女がいるのなら、これからの時間でそれを知る権利は俺にだけあれば良いと思った。
いつも当たり前のように隣にいたから麻痺していたのだ。1ヶ月近く離れていて────俺は、長年かけて積み重ねられてきていた気持ちにようやく気づいた。

それなのに。

「……まあ、もう俺達は今更だもんな」

出てきたのは、乾いた笑い声と彼女の言葉を後押しするような自爆のための言葉だった。

わかってる。本当に格好良い奴だったら、ここで彼女の笑顔を壊してでも自分の気持ちを素直に伝えられたのだろう。
でも、俺はそこまで勇敢になれなかった。そこまで自分に自信を持つこともできなかった。

「────もし私がこの先ひとりのままだったら、お嫁に貰ってね」

そこで素直に頷いておけば良かったのだ。冗談だったとしても、想いが本物なら約束を交わしてしまえば良かった。

「残念ですが僕はちゃんと結婚の予定があるので」
「は? 彼女いらないって言ってたじゃん」
「いやこれから多分運命の出会いあるから。運命の出会い果たして運命の付き合いの果てに運命の結婚をするから」
「運命運命うるさいな。そういう奴が一番残るんだよ」

馬鹿な俺は、今にして思えば大チャンスだったその場面で強がってしまった。
彼女は笑っていた。その顔がどこか沈んでいるのは、期待していた初めての彼氏と思うように恋愛ができなくて少なからず傷ついたせいなんだろうって、そう思ってた。

それからも、なまえは何度か彼氏を作っていた。
毎回経緯は同じ。相手がなまえに告白して、「よくわかんないけどそのうち好きになる予定」と言いながら付き合う。そして、「やっぱ無理だった」と半年以内に別れる。

別れる度に彼女は俺のところで愚痴を零していた。付き合っている間は流石に彼氏に配慮してか連絡を寄越して来ないのだが、ある日突然『別れた』とメッセージが来るので、それが俺達の再会の合図になっていた。

「ていうかお前、なんで毎回失恋する度に俺に言うの?」
「報告義務があるからです。付き合った時も毎回言ってるじゃん」
「なんか俺、お前に彼氏がいない時だけ都合良く呼び出される男みたい」
「呼び出してなんかないよ。来なくて良いって毎回言ってるのに、わざわざパーティー開くみたいにやたらお菓子とジュース持ってうちに来るのはクロの方じゃん」
「いや、だって流石に彼氏と別れた直後は落ち込んでるかなって…何か励ましてやれねえかなって…」
「優男か」

嘘だよ。
本当は毎回お前が一番弱ってる時に付け込む機会を窺ってるだけ。

高校を卒業して、別の大学に通うことになって、なまえはどんどん綺麗になっていく。
男も女も関係なくグラウンドで転げまわっていた頃とは決定的に違う。身に着けるもの、見た目、喋り方、所作、その全てが大人になっていって、女性らしくなっていく。

周りの男は案の定、そんななまえを放っておかなかった。
告白されれば付き合う。何か違うと思ったら別れる。
いい加減成人する頃には、俺だってその思考回路は理解するようになった。というか、周りのほとんどのカップルがそういう始まり方をしていた。
だから、なまえのやっていることがおかしいとは思わない。別に普通の、よくある大学生のよくある恋愛だと思う。

でもさ。
お前のことを一番放っておかない男がここにひとり、いるんだけどな。
たった一言「好きだ」って言うだけでお前の特別になれる歴代の彼氏達が羨ましいよ。それと同時に────特別になったがために過去にされていく"歴代の"彼氏達が、哀れだよ。

「好きだ」とさえ言わなければ、10年以上経っても隣にいられる。
そりゃあ空白期間はあるけど、必ず彼女はここに帰ってくる。

だから────俺はあの日からずっと、絶対にその一言だけは言わなかった。

「そういうクロは良い話ないの? 彼女とか、好きな子とか」
「これからあるので大丈夫です」
「そっか、全くないのか」
「オイ」
「そっかぁ」

嬉しそうに笑うなまえの顔に腹が立つ。それを可愛いと思ってしまう自分にも腹が立つ。
誰のせいで俺が華の学生時代を独り身で過ごしていると思っているのか。

「今でも恋愛に興味ないんだね」
「んー、まあな」

はぐらかすようにそう答えると、なまえは小さく溜息をついて、3回目の「そっか」を口にした。

「彼女作って幸せになるのは構わないけど、私みたいな人とだけは付き合わないでね」
「半年以内にフラれるの確定ってわかってたら絶対付き合わねーよ」

本当はお前"みたいな人"じゃなくて、"お前"と付き合いたいんだけど。
俺が好きになるのは今までもこれからもお前ひとりだし、俺はお前ただひとりに好きだって思ってもらえたら、きっとそれだけで世界一幸せになれると思うんだけど。

でも、そう言ったら、きっと温めてきた関係が一瞬で崩れてしまうから。

誘うような言葉がいくつ散りばめられても、それを拾うことはない。ただ眺めているだけだ。

良いよ。これ以上のことなんて、望んでいないから。
彼女といつまでもひとりぼっち同士、この心地良いぬるま湯に浸りながら生きていけるのなら、それで良い。たくさんいる中のナンバーワンになれれば十分だ、オンリーワンなんて求めない。

「クロがお嫁さんに来てくれたら、私もう幸せなのになあ」

だからもう、そんな未来を想像させるのはやめてくれ。

「なんか色々ツッコみたいところはあるけど…まあ、200年経っても独り身だったら来なさいよ」
「ははは、めっちゃしわしわな新婚夫婦じゃん」

それからお互いに就職活動が始まり、実際に仕事に就き、今までのように頻繁に会うことはなくなった。それでも何かあればお互いに連絡は取り合っていたし、時間が合えば一緒に飯を食うこともあった。実家を出て独り立ちした後も、それは変わらなかった。

忙しい日々の中でも、嫌なことがあった時でも、とにかく何かあればなまえに頼っていた。その彼女も、機嫌が良い時も悪い時も、なんだって俺には話してくれた。

ただ、いい加減この年になれば、いちいち彼氏ができたの別れたので報告はしてこない。付き合っている人の愚痴を他の男に流すような子でもなかったので、俺はここ1年ほど会っていない間に彼女がどんな恋愛をしているのか、知らないでいた。知りたくもなかった。

何も知らずに、そろそろ都合を合わせて飯でも誘おうか、そう思っていた。

そうしたら────。

「────これだよ」

服を脱ぐのも億劫で、部屋に戻った途端ベッドに倒れこむ。手にした招待状は、何度見返しても新婦の名前を書き替えてくれやしなかった。

最後に彼氏の話を聞いた時、あいつ何て言ってたっけ。別れるというようなことは言ってなかった気がするけど、もしかしてその時の彼氏がこれからの旦那になるってことなんだろうか。

そっか。
あいつ、結婚するのか。

留まることを知らずに肥大化していった感情が、ぐるぐると空回る。
俺の気持ちは、どこで消化すれば良いのだろう。俺の10年は、どうすれば報われるのだろう。

いつも必ず最後には帰ってきてくれると信じていた。この手を手放したきりどこかへ行かれるという末路を、どこか想像することすら避けていた。

前に踏み出す勇気もないくせに────俺は、抗えない力で自分達が同じ道を辿っていくのだと、哀れにもそんな夢を描いてしまっていたのだ。

「…運命とか、信じた俺が馬鹿だったってことね」

呟いた声に反応してくれる人は、どこにもいなかった。

────そして2ヶ月後。

俺は葬式に行くような表情で、明るいグレーのスーツに臙脂のネクタイを合わせていた。
家から約1時間半かけて、景色の綺麗なゲストハウス型の結婚式場に足を踏み入れる。

「あ、クロ」
「よう、研磨。寝坊しなくて良かったな」

会場では研磨と待ち合わせていた。こういった華やかな場には慣れていないからだろう、学生時代よりはだいぶ取り繕うのが上手になっていたが、どこか所在なさげに入口付近をうろつく研磨の姿は、時間と装いによっては不審者として通報されても仕方ないような風体をなしていた。

「クロちゃん、研磨ちゃん、来てくれてありがとう」
「あ、おばさん。お久しぶりです」
「ご無沙汰してます。…ところで俺のその呼び方ほんとどうにかなんないスか…」

一緒にロビーに入ると、なまえの母親が出迎えてくれた。忙しなくスタッフと何か話している様子だったが、一言断ってすぐ俺達のところまで来てくれる。

「なまえがね、2人が来たら新婦控室に連れて来てほしいって言ってるの」
「え、でも…」
「私達と新郎側の家族は既に会ってるから大丈夫。あなた達も兄弟みたいなものなんだから、ぜひ式が始まる前に会ってあげて」

そう言われては、断れない。俺としてはあまり個人的な場で今日のなまえに会いたくなかったのだが、うまく抜け出す文句を考える気力すら湧かないまま、俺と研磨は新婦控室まで連れて行かれることとなった。

おばさんが、控室の扉をノックする。中から「はーい」と懐かしい声が聞こえてきた。
────この奥に、なまえがいる。

「じゃあ、私は一足先に戻ってるからね」

どうやらおばさんは一緒に来てくれないようなので、研磨と2人で扉を開ける。

そこに広がっていたのは、雪景色かと見紛うような真っ白な世界だった。
キラキラと光を受けて輝く長いドレス。行儀良く豪奢なソファに腰掛けていた美しい女性が、俺達を長い睫毛の隙間から見上げた。

「なまえ、よく似合ってるね」

研磨が自然に吐いたその言葉で、はっと我に返る。

改めてその姿を見てからようやく、そこに座っているのがなまえだと認識した。
髪型、メイク、服装、どれもがいつもより少しだけ華やかで、妖艶で、それでいて淑やかだった。どこぞの姫だと言われても惚けた今の俺は納得していたことだろう。好きな女の晴れ姿だということもあるかもしれないが、欲目を抜きにしたって、今日のなまえはとびきり綺麗だった。

──── 一瞬、誰かと思うくらい。

俺じゃない誰かのためにおめかしをする、"特別な日"のなまえの姿がいくつも蘇って、消えた。
今日はその集大成だ。たくさんあった"なんでもない日"にいつも俺の隣にいてくれた彼女は、今日という"最後の特別な日"を境に、別の人の隣へと行ってしまう。別の人の隣で、新しい"なんでもない日"を積み重ねていく。

そこに、もう俺はいない。俺は、要らない。

「研磨もクロも来てくれてありがとう。さっき着いたの?」
「そう、まさに今」
「早々に呼び出してごめんね。私もさっきようやくヘアメイクが終わって、さっき両家に挨拶を済ませたばっかりなんだけど…どうしても2人には先に会っておきたくて」
「おれも会いたかったから気にしないで」
「うわー、研磨大好き」

赤い唇が、軽やかに喜びの音を吐く。開かれた瞼に乗る煌めきが、微かな動きを受けて踊る。肩に流れる後れ毛が、楽しそうに揺れている。

まるで世界の全てを味方につけたかのような輝きだった。
よく見れば確かにそれは昔から知っているなまえの顔なのに────ここ10年拗らせていたジクジクとした痛みの代わりに、俺は久しぶりに彼女のことが好きだと気づいたばかりの頃の、あの鮮やかな花火が打ち上がったようなときめきを感じていた。

ぶわっと一気に、10年の片想いが溢れ返る。
あの時あんな会話をした、あの時あんな顔をしていた、小さな思い出が蘇っては消え、蘇っては消えていく。心がぐっと熱くなり、その熱は鼻先まで通り、思わず泣き出しそうになってしまう。

────ああ、やっぱ俺、この子のことが好きなんだ。

感情を制御できなくなるほどに。言葉を失い、手足の自由さえ利かなくなるほどに。
今、俺の全てが彼女に支配されていた。好きだという言葉にしか置き換えられない大きな感情が、喉元までせり上がってきていた。

その手を取れる役が俺であったならと、何度夢に見たことか。
白いドレスを着る彼女の隣に立てたならと、何度絵に描いたことか。

「ごめんなまえ、ちょっとお手洗い借りてきて良い?」
「うん、そこ出てすぐ左にあるよ」
「ありがと」

結局ここまで何も言えずにいた俺をいくらか冷静にさせたのは、非情にも俺を置いて行った研磨のそんな言葉だった。いや、トイレなら仕方ない。悪意があるわけじゃないのはわかってるし。でもさ…。

正直、今ここで俺となまえを2人にしないでほしかったなぁ……。

「ちょっと、何か言ったらどうなの」

冗談めいた口調で、わざと厳しい顔を作るなまえ。視線を逸らさないようにするために、体中の全ての力を使わなければならなかった。

「え? あ、えー…あー…」
「エアーエアーうるさいな。呼吸困難か」

あまりにも微妙なツッコミに、ようやく緊張していた心が解れた。ぷっと噴き出すと、彼女も釣られて笑い出す。

「いや、想像以上の美人でビビッたわ」
「でしょう。ヘアメイクのお姉さんが魔法をかけてくれたんだよ」

別にそんなのなくたって、俺は世界で一番お前が可愛いって思ってたよ。

「おいしいご飯もお酒も用意したし、梨香と真紀も呼んだの。ほら、高2の時、クラス一緒だったでしょ?」
「あー、お前のイツメンな。名前は知ってるけど俺はそんな仲良くねえよ?」
「ええ、梨香がミスコン選ばれた時みんなでお祝い会したじゃん!」

俺は最初から今日まで、お前以外の奴を見たことなんてなかったよ。

「どうすんの、今日再会して運命の出会い果たしちゃったら。真紀だってめちゃくちゃ可愛くなってるし」

そんなもん要らないよ。

俺が欲しいのは、お前だけだったんだから。

「やー…今更高校の同級生に興味はないかなあ」
「ほんっと冷めてるよね。昔は私より先に結婚するとか言ってたくせに」
「────お前は、なんで結婚することにしたんだ?」

表情を作るのが精一杯で、会話の脈絡を掴むことまではできなかった。招待状が届いた日からずっと膿のように居座っていた疑問が、彼女の"結婚"という言葉に呼応して引きずり出される。

俺の問いかけに対し、彼女はきょとんとした顔を見せた。

「なんだろう、改めて訊かれると難しいな。………うーん、あのさ、クロ、この話内緒にしててくれる?」
「え? うん…」

何を言われるのだろう。余程の事情があったのだろうか。あれだけ彼氏をとっかえひっかえしては「誰とも合わない」と独り身に戻って嘆いていたなまえのことだ。今回の相手を"人生の伴侶"として選んだことに、相応の理由があったっておかしくない。

「…私ね、夢を見ることをやめたの」

思わず身構えていると、対照的にとてもリラックスした様子のなまえが小さく笑った。

「夢…?」
「そう。私ね、本当はずっとささやかな理想を持ってたの。一番好きになった人に一番好きになってもらって、2人で一番幸せな人生を歩む夢」

それは、20年近く一緒にいておきながら、一度も聞いたことのない話だった。

「一番好きになった人って…誰か、いたのか?」
「これから結婚しようっていう人に訊くことじゃないでしょ」

俺の問いを微笑みながらはぐらかすなまえ。

「まあ、私もこんな話、本当はこんな時にするべきじゃないんだけどね。────でも、もうこの年になれば、そんな御伽噺みたいなことが起こるわけないってこともいい加減自覚する。私はお姫様でも、主人公でもないんだから。────だから、もう現実に戻ることにした。お互いに一番じゃなかったとしても、私のことを好きになってくれた優しい人のことを私も好きになって、身の丈に合った幸せを築こうって。…こんな言い方したらあの人にとっても失礼だから、絶対に内緒だよ」

まるで、1日に2回失恋したような気持ちだった。
ただでさえ知らない男の手を取ろうとしているのに、その心にはずっと別の男がいたなんて。俺はそんな素振りに全く気付くことなく、知った顔で彼女の"その他大勢の中の1位"でふんぞり返っていたわけだ。

なんだ、俺。すげえ馬鹿みてえ。

「…そりゃ、内緒にはするけど…。知らなかったわ、恋に恋するお前にそんな人がいたなんて」
「言わなかったからね」
「でもあんだけ一緒にいたのに俺が気づかないって結構アレじゃね? それとも何、大学入ってからの知り合い?」

知りたくない、これ以上傷つきたくないと思っているはずなのに、詮索の手が止まらない。
なまえも俺の訊き方がやたら前のめりなことには気づいたのか、困ったような顔をして笑うばかりだった。

「────クロには一生わかんないよ」

なまえのことなら、なんだって知ってる自信があった。
特別な名前がつかなくても、一番傍にいるものだと確信していた。

こんな、最後の最後で突き放されるような真似────。

「…そっか」

────いや、むしろそのくらいでちょうど良かったのかもしれない。

はじめから、俺と彼女が歩める未来なんてなかったんだ。
わかっていた。彼女が俺の手の中に納まる日なんて来ないって。

まだ期待する余地があるかもしれないと思うから、哀しくなるんだ。
まだ運命があるかもしれないなんて考えるから、虚しくなるんだ。

夢を見るのをやめるべきなのは、俺の方だった。

「今のは聞かなかったことにしてやるよ。…ただ、一言だけ"聞いた上で"コメントしとくな」
「うん?」

もっと早く、こう言うべきだった。背中を押して、俺の元から離すべきだった。

(好きだよ。ずっと、大好きだ。だから────)

いつの間にやら伸ばしかけていたらしい手を背中に回し、俺は来たるべき日に備えてずっと練習していた笑顔を作り出す。

「────幸せになれよ」

彼女は瞳を潤ませながら、小さく頷いた。

「クロ、大好きだったよ」

向けられる好意に傷つくのも、これきりにしよう。

「俺もだよ」

最後に笑ってそう言って、俺は世界で一番綺麗な花嫁をそっと送り出した。

────青空の下、太陽の祝福を受けて輝く教会で、真っ赤に塗られた艶やかな道を歩く彼女。

彼女の隣に立っている男は、とても爽やかで、少し背が低くて、可愛らしい顔立ちをした少年のような人だった。これから彼女の"特別"になって、その手を引く役を負うそいつは、皮肉なほど俺と正反対の雰囲気を持っていた。

俺はずっと、一番近いところから眺めていた。

2人が永遠の愛を誓うところを。2人が、その誓いを唇に乗せて飲み込むところを。
ただひとり、愛したといえるほどの恋をした女性が、俺の元を去っていく瞬間を。

この感情を消化させたいなら、彼女の視線の先を見れば良い。この気持ちを報わせたいなら、世界で一番綺麗な彼女に恋をした自分のことを、誰よりも慰めてやれば良い。

"特別にならない"ことを選んだのは俺だ。
彼女の手を取らないと決めたのは、俺なんだ。

最初から物事はこうなるべきだった。俺達の未来は、どこまでいっても必然だった。
だから────。

「────……」

さようなら、なまえ。
さようなら、俺の初恋。









「私、結婚するの」
「俺、彼女作る気ないんだ」

「クロみたいに惚れたの腫れたの気にしないで一緒にいられる人の方がよっぽど楽だわ」
「……まあ、もう俺達は今更だもんな」

「────もし私がこの先ひとりのままだったら、お嫁に貰ってね」

「今でも恋愛に興味ないんだね」
「んー、まあな」

「私みたいな人とだけは付き合わないでね」
"そいつは、皮肉なほど俺と正反対の雰囲気を持っていた。"

「クロがお嫁さんに来てくれたら、私もう幸せなのになあ」

「そう。私ね、本当はずっとささやかな理想を持ってたの。一番好きになった人に一番好きになってもらって、2人で一番幸せな人生を歩む夢」
"俺が好きになるのは今までもこれからもお前ひとりだし、俺はお前ただひとりに好きだって思ってもらえたら、きっとそれだけで世界一幸せになれると思うんだけど。"

「うわー、研磨"大好き"」
「クロ、"大好きだった"よ」



遠ざけていたのは、どちらだったのか。

その真意に気づけなかったのは、どちらだったのか。

どこかで誰かがほんの少しの勇気を出していれば、未来はきっと大きく変わったのに。

────というすれ違いの全容を察しているのは、多分研磨だけなんでしょうね。









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