終わりから始まる



「ねーこれ誰のー?」
「もう全員端の方に名前書いとけよ、誰のかわかんなくなる」

3月某日、その日は我が校の卒業式の日だった。
外には蕾をつけた桜がところどころに花を咲かせ、満開とまでは言わずとも空気をほんのり桃色に染めている。

朝からどことなく、クラスの雰囲気は騒がしかった。見慣れたはずの教室の至るところに紙の花飾りがつけられ、かつて頭を悩ませた数式が並んでいた黒板に大きな文字で『卒業おめでとう』と書かれている様は、知らない場所に迷い込んでしまったかのような錯覚を呼び起こした。

制服の胸元にも、同じように『祝 卒業』と書かれた赤い札がついている。3年間着てすっかりくたびれているはずなのに、ちょっとしたアクセントがつくだけでなんだかいつもよりしゃんとして見えるのが不思議だった。

午前中の式典を終えた後、形ばかりのホームルームを終え、早々に解散────とは、ならないのが、卒業式。最後の号令を皮切りに、私達はそれぞれガタガタと立ち上がり、先程配られた卒業アルバムを交換し合いながらお互いに別れのメッセージを書き始める。

まずはやはり、自分の周囲にいたクラスメイト達から。私のところに最初に回ってきたのは、隣の席の及川のアルバムだった。開いてみると…まだ真っ白か、あるいは隅の方に混同防止のための自分の名前だけが書かれているべき最後のページに、デカデカとした崩し文字が鎮座していた。

「おいコラ及川、あんたこれ自分のサイン色紙だと思ってるでしょ」
「だって記名しろってみんな言ってるじゃん」
「こんなページいっぱいに記名されたらメッセージ書くとこが…よしわかった、あんたのは書かない」
「え、端の方で良いからなんか書いてよ! 俺友達いないみたいじゃん!」

「及川に友達がいたなんて初耳なんだけど」と笑いながら、サインの隙間に『アルゼンチン行っても忘れないでね』と書く。青城一番の有名人と言っても過言ではない及川は、卒業後アルゼンチンに行くと言っていた。バレーという武器ひとつで海外に行ってしまうなんて本当にすごいことだけど…でもそれがどこまでも及川らしいね、とクラス総出で彼の背中を叩いたのは、まだ昨日のこと。

「これ及川に返さないでそのまま美紀に渡して良い? どうせクラス全員分回すでしょ?」
「良いよー、お前のもこのまま木戸っちに流すわ」

前の席の美紀に及川のアルバムを渡すと、交換とばかりに彼女の隣の席の宇田川のアルバムが機械的に回ってくる。美紀も最後のページを見て「ほんとに書くとこないじゃん」と笑っていた。
うちのクラスは特に仲が良かったから────ものの5分も経つ頃には、完全に持ち主の手を離れたたくさんのアルバムが入り乱れるようになっていた。私もたまに誰のものかわからないアルバムを掲げて「これ誰ー?」と訊きながら、できるだけその人との思い出を浮かべながら短くも心のこもったメッセージを書いた。

『文化祭の準備めっちゃ楽しかったよ』

『毎日教室の花取り換えてくれてありがとう』

『明日10時おまえんち集合!』

『山田君とお幸せに〜』

いつも一緒にいた親しい友人にはあえて適当なことを書いて、今日を終えたらもう二度と会わないであろうクラスメイトには最大限の丁寧を書いて。
そうして20分も経つ頃には、ホームルームを終えた他のクラスの生徒も続々と雪崩れ込んでくるようになった。

「待って私相田君と喋ったことないからわかんない、卒業おめでとうとか書いておけば良い?」
「おめでとうはお前もだろ」
「てか他クラスの奴のアルバムを適当に流すな」

寂しさに浸る間もなく、今までで一番賑やかな時間が流れる。もはや記名されていても誰のものだかわからないアルバムが、何冊も私の前に回ってきた。

「及川ー! 卒アルはお前のサイン色紙じゃねーぞ!」

そして及川は何度も遠いところから怒鳴られていた。

「あ、みょうじ、1年生ぶりじゃん。俺のも書いて」

何冊か他クラスの子の分を書き終えたところで、言葉通り1年生の時に一度だけ席が隣になった縁で仲良くしていた花巻が声をかけてきた。彼もバレー部のレギュラーだったことを思い出し、ここに来たのは及川目当てだったのだろうとあたりをつける。

「良いけど、花巻のどこにあんの?」
「今及川に書かせてる」
「及川は最後にした方が良いよ。こいつ余白全部使って自分のサイン書き出すから」
「俺そんなことしてませんけど!?」

流石にそれは本当のことだったらしい。とはいえ、『マッキー 来年は彼女できるといいね』とご丁寧にハートマークまで添えられた余計な一言と比べたら、まだサインで余白を埋められた方がマシだったのではなかろうか。そんなことを思いながら、私は及川のすぐ下に自分のメッセージを書いた。

『1年生の時、居眠りして共に怒られたことは忘れない』

────隣のメッセージを邪魔しないように、と配慮しながら改行した時、ふと私の目にその文言が飛び込んできた。

『大学行ってもよろしくな』

それは、とてもありきたりで、簡単な一文。
それでも、目を引いたのは。

『岩泉』

確実に誰かと被っていそうな一言の下に添えられた、自署。

「みょうじ?」

手を止めてしまった私に、花巻が「無理に長文書いてくんなくて良いからな?」と不思議そうに言う。それではっと我に返った私は、急いで花巻にアルバムを返した。

「1回しか席隣になってないもんねー。マジで一緒に怒られた記憶しかないわ」
「不名誉すぎんだろ俺…って言っても、俺もそんなもんだけど」

わははと笑いながら、花巻は別のクラスメイトに話しかけに行ってしまった。代わりにまた他の子のアルバムが回ってくる。本当に忙しない────のに、私の心はあの文字を見た瞬間から急に時間が止まったような感覚に陥っていた。

「────みょうじが固まった理由、岩ちゃんでしょ」

流れ作業の中でもできるだけ綺麗な字を心がけて『ありがとう』を書く私の隣で、及川がクルクルとペンを回しながら楽しそうに言った。

「ち…ちっ、違いますけど?」
「嘘こけ。お前が去年から岩ちゃんに首ったけなのはお見通しなんです〜」

ぎっと及川を睨むも、彼は意味深に細めた目で涼しく笑うだけだった。口調はふざけていても、これは確信を得ている時の顔だ。1年一緒にいたのだから、そのくらいわかる。

言い返せなくなってしまった私は、書き終えたアルバムをまた美紀に流した後で、仕方なしに溜息をつく。

「…なんで及川が知ってんのよ」
「岩ちゃんが俺に用事あってこっち来る度にお前が前髪直してんの、知ってんだよねー。あと春高予選の応援にクラス全員で来てくれた時、みんな俺のこと褒めてくれてたのにお前だけ岩ちゃんのことばっか話してたし」

完全に無意識だった。こいつにだけは知られたくないと思って必死で隠していたつもりだったのに、まさかずっと前から知られていたとは。

…そして、

「あんたが今日までそれを黙ってたのが意外だったわ」

私の秘していた淡い恋心を、一緒に秘めてくれるだけの甲斐性があったとは。

「乙女心がわかる男、イズ俺」
「そんなだから彼女にフラれるんだよ。いつだっけ、一昨日?」
「3日前でした!!!!」

やけくそのように叫んだ後、咳払いをして及川が場を持ち直す。

「でも、良いの? 岩ちゃん、あんまこういうの熱心にやんないから、早く行かないと帰っちゃうよ?」
「…行って、どうするのさ」
「まず卒アルになんか書いてもらってさ、ついでに告白すれば良いじゃん」
「むりむりむりむり。絶対むり」
「なんで? 岩ちゃん、真剣な告白だったらちゃんと聞くと思うよ? まあ告白されたとかいう話聞いたことないから完全に推測だけど」
「まあ及川と違って岩泉ならその辺ちゃんと真面目に受け止めてくれると思うけど────」
「待ってなんで一回俺落とされたの」

でも。

────私が岩泉と初めて接点を持ったのは、2年生になったばかりの頃だった。
クラス替えがあって、せっかく仲良くなった友人達と全員離れてしまって、心細いなあと思っていた折、隣の席にいたのが彼。

あまり話すこともないし、顔が怖かったから、最初はあまり良い印象を持っていなかった。

そんな気持ちにちょっとした変化が出たのは、窓の外に咲き誇っていた桜の花が青々しい緑に色を変えた頃。

その日私は1限の英語の教科書を忘れたことに、授業前の予鈴が鳴った後に気づいた。もうこれでは隣のクラスの友人を頼ることすらできない。しかも順番からいって、その日は私が最初に当てられる予定になっていた。

鞄の中、机の中、ロッカーの中、先生が来るまでの短い時間の中で慌ただしく探したが、教科書が出てくることはない。すっかり気落ちして怒られる準備をしたところで、授業が始まる。

そして、教科書の文章を読み上げるくだりまで来た時、予想通り私が当てられた。「教科書を忘れました」と言うべく口を開いた時────。

そっと、隣から教科書が差し出された。

戸惑いながらそちらの方を見ると、岩泉が無表情のままこちらを見返していた。

「ほら、これ使え」

他の誰にも聞こえないくらいの小さな声で、岩泉が言う。

「あ、ありがとう…」

結局私は、彼のお陰で事なきを得た。
それが、彼と交わした初めての会話だった。

「岩泉君…だよね? さっきはほんとにありがとう! お礼に後で何か飲み物でも奢る!」
「良いよ、気にすんな。忘れ物くらい誰でもするだろ。間に合って良かったな」

口調は見た目から察していた通り、ぶっきらぼうなもの。
それでも、当たり前のように話したこともない隣の席の女子を助けてくれた彼の行動に、私は思っていたより心を打たれてしまった。ろくに知り合いもいない新しいクラスで心細い思いをしていた時の出来事だったから、必要以上にその親切が刺さってしまったのだろうと今では思う。

「おはよー、漢文の宿題やった?」
「はよ。まあ一応な」

あれから、岩泉とは少しずつ会話をする量が増えていった。

「岩泉パイセン〜、英語の教科書見せてください〜」
「お前のその英語の教科書忘れる率なんなんだよ…カツサンド2つな」
「え! この間は1つだったのに!」
「いつまでも俺が優しいと思うなよ」
「岩泉が筆箱の中にゴジラのマスコット忍ばせてること言っちゃうぞ」
「お前が携帯のバッテリーにアイドルの写真貼ってることバラすぞ」
「なんで知ってるの! 変態!」
「昨日頼んでもねえのに見せてきたのはお前だろうが!」

意外とノリが良い。少年心がまだ抜けてない。男子と話している方が楽しいみたいだけど、決して私のことも無碍にしない。
とても頼れる人なのに、どこか親戚の子供を相手にしているみたいだ。そんな岩泉との1日1回交わすかどうかという短いやり取りが、私は結構好きだった。

でも、その時点ではあくまで"隣の席のクラスメイト"程度の関係でしかなくて。

「えーん…せっかく岩泉の顔にも慣れてきた頃だったのに席替えなんて寂しい…」
「顔に慣れるってなんだ、喧嘩してえのか」
「そんなこと言って女の子には絶対手を上げないの、私知ってるんだからね〜」
「…なんかお前、マジで及川みたいな奴だな」
「及川君ってあのイケメンの? やだ私がちょっと可愛いからって」
「俺お前になら抵抗なく手上げられるかもしんねえ」
「ごめんって」

だから、雨季が訪れて席替えが行われた時、そんな会話を最後に私達の距離は再び離れた。3ヶ月も経てば私にだって新しい友達はできるし、これといった共通点がない岩泉とわざわざ話すような事柄なんて何もないから。

でも、新しく隣の席にやってきた男子とは、そこまで会話が弾まなかった。
私が英語の教科書を忘れる頻度はなぜか格段に減ったし、カツサンドを買うこともなくなった。お互いの持ち物を見てからかい合うこともなければ、昨日見た夢の話で休み時間全てを使い切ることもない。

考えてみれば、そっちの方が普通だった。タイプが全く違うはずの岩泉とあんなに波長が合っていたことの方がおかしかったのだ。

今になれば、「及川みたい」と言われたことにも実感を伴って頷ける。蛇足ではあるが、及川と3年生になってから急に仲良くなったのだって、なんとなくお互いに似たようなものを感じ取ったからだった。
私はともかく、岩泉がいかにもな"女子"とああまで大口を開けて笑いながら話せるわけがない。さしずめ、私は女版及川(とても複雑だ…)だとでも思われていたんだろう。…だからあんなに、心を砕いて話せたんだろう。

ただ、こちらは彼を誰かと重ねて見たことなんて一度もなかった。

席が離れた後、話すことなんてないのに、岩泉を見るとつい何か言いかけて口を開いてしまうようになった。顔の潰れた猫を見た時や、帰りに買ったアイスでアタリを引いた時、つい明日になったら岩泉に報告しようなんて考えるようになった。
一緒にいた時間はたったの2ヶ月程度。3年間の中の2ヶ月なんてあっという間だったが、その中で癖づいた行動はその後暫く私を苦しめることになる。

連絡先くらい、聞いておけば良かったな。別に同じクラスなんだからいつでも聞けるはずなのに…なんだか、席が離れてしまった後だと一言声をかけるのにも大きな勇気が要るみたいだ。

思えば、もうその時点で私は彼を特別扱いしていたんだと思う。でもその時にはまだその自覚がなかったから、私は何かにつけて岩泉の後ろ姿を目で追っていた自分の行動を不思議に思うばかりだった。

そんな鈍感だった私が現実を受け入れたのは、あろうことかそれから更に半年以上経ち────3月に入ってそろそろ進級を意識し始めた頃のことだった。

その日私は、4限の体育で何を思ったか(本当に今となっては何を考えていたのかわからない)バスケの試合中に掠りもしないダンクシュートを決めようとしてしまった。きっと直前に友達とバスケ漫画の話で盛り上がっていたせいだったと思う。運動なんてろくにできないくせに思いきり跳躍したせいで足を捻り、うまく着地できなかったせいで大ゴケした。足首の捻挫と、両掌には屋内体育館での出来事とは思えないほどの大きな擦り傷。加えて体のあちこちに青アザまでできている。文字通り身も心もズタズタになりながら保健室に行くと────そこに、岩泉がいたのだ。

男子は確か、この時間外でサッカーをしていたはず。
私が言えた義理ではないが、彼の姿もそこそこに酷かった。特に顔面。口の端と瞼から血が流れており、頬にこれまた大きな擦り傷ができている。手にも包帯が巻かれているところを見るに、思いきり顔から転びでもしたのだろう。

「うわー…誰かと思った」
「…女子ってこの時間バスケじゃなかったか? なんでそんな外ですっ転んだような怪我してんだよ」
「ダンクに失敗した。岩泉は?」
「オーバーヘッドしようとしたら頭から落ちた」

一瞬の沈黙を挟み、お互いにぷっと噴き出す。養護の先生は「2人とも漫画の真似はほどほどにしなさい」と窘めてきたが、私達にしてみればそれは"いつものこと"だった。

手当てをしてもらいながら、私達は久々に2人で話をする。毎日顔を合わせているはずなのに、なんだかずっと遠いところにいたみたいだ。

「────それでね、もう赤信号に変わってるのに、おばあちゃんったらまだ横断歩道の真ん中で大きい荷物背負いながらヨタヨタ歩いてんの! もーこんな漫画みたいな展開ある!? って思うでしょ!?」
「そんでお前が荷物代わりに持って婆さんの手も引いてやったってわけだ。なるほどそりゃ遅刻もするわな」
「いやあんなの見たら誰でもそうするしかないから…。お礼にって言っておみかん2つもらったから、後で岩泉にもあげるよ。2つとも」
「そこは1つで良いだろ」

私の手当てが終わったところで授業終了を告げるチャイムが鳴ってしまったので、私達は揃ってそのまま隣り合っている更衣室に向かうことにした。岩泉の怪我は主に上半身に集中していたが、私の怪我は全身万遍なく広がっている。少し歩くにも痛みが走り、どうにかいつも通りを装おうとしたのだが、足を引きずらずにはいられなかった。

「────ほら」

そうしたら、保健室を出て3歩くらい進んだところで、岩泉がおもむろに手を差し出してきた。

「…?」
「うん? じゃねえよ。歩くのしんどいんだろ。杖代わりに使えよ」

私より1歩先のところから、振り返る岩泉。目が合わないのは、わざとだろうか。

「あ、ありがと」

何も特別なことなんてない。私だって、友達が足を引きずりながら歩いていたら当たり前のように自分に捕まらせていただろう。

そう、当たり前のこと、なんだけど。

なんでだろう。男の子、だからかな。今まで岩泉に対してそんな風に思ったことなんて、ないつもりだったんだけど。

岩泉の手は、びっくりするほど熱かった。それなのに、「赤ちゃんみたいな体温だね」といつもなら軽く滑り出ていただろうそんな一言が、喉元で詰まる。

自分の体重のほとんどを預けているのに、彼の体幹は全く揺らいでいない。私の歩幅に合わせながらゆっくり歩いてくれる彼の親切が、約1年ぶりに私の心に沁みる。

「────なんか、5月のこと思い出した」
「5月?」
「英語の教科書初めて貸してくれた時のこと」
「なんで今それなんだよ」
「…なんでだろ」

優しい人が彼だけなわけじゃない。誰かの気遣いをもらうことが初めてなわけでもない。

ただ、それが岩泉だったから。

私が彼に抱いていたらしい特別な感情に気づいたのは、そろそろその年の桜が咲き始めるであろう新たな春を前にした、人気のない静かな廊下の真ん中でのことだった。

ぶっきらぼうで粗野なくせに、よく周りを見ている人。そこまでコミュニケーション能力が高いわけでもないくせに、困っている誰かを放っておけない人。どんなことにも全力で、どれだけ小さな勝負事でもまるで子供のように打ち込める人。
そして────当たり前の親切を、当たり前にできる人。

別にこれは、"私だから"やってくれてるわけじゃない。
岩泉は、誰に対してもこういうことができる人だった。

そして私は────そんな人に、恋をしてしまった。

「────岩泉は、私のことなんてもう覚えてないよ」

もう少し早く気づいていたら、何か変わっていたかもしれない。それでも私はその時になってようやく自分が育てていた感情の名前を知り、そしてそのまま進級してしまった。結果は現状が表している通りだ。岩泉とは別のクラスになり、そのまま一言も話さずに卒業を迎えようとしている。

私の一瞬の回想の後に出てきたそんな悲しい言葉を、及川はどう受け止めたのだろう。何も反応がなかったので再びそちらの方を見ると、彼は不自然なほど静かな目で私を見ていた。

「ちょっと、乙女心がわかる俺さんよ。こういう時こそ気の利いたこと言いなさいよ」
「…俺の一生のお願い、聞いてくれる?」
「は?」

唐突にわけのわからないことを言い出した及川は、私の返事を待たずにガタンと立ち上がった。そして「みょうじと俺の卒アル今持ってる人だーれ!」と大声を上げる。

「みょうじの持ってるの俺ー!」
「あ、ちょっと待ってー、今私及川のやつ書き終わるー!」

程なくして2冊のアルバムを回収すると、及川は私に向かって「ついてきて」とだけ言った。えっ、一生のお願いって…それ?

「…及川さん?」
「お前、5組に岩ちゃん以外の友達もいたよね?」
「そりゃあいる、けど…え、まさか」

そのまさか、のようだった。
及川はにっこり笑うと、私の分もアルバムまで持ったまま教室を出て行ってしまう。

この流れで、行く先なんて。

「────ちょっと!」

少しだけ、躊躇った。でもここで及川に勝手をさせて余計なことを言われる方が困ったことになるだろうと判断し、私は慌てて彼について行く。

及川が向かったのは、案の定隣のクラス────5組だった。

5組もうちのクラス同様、相当に賑わっていた。アルバムを交換したり、写真を撮ったり、机に座りながら長話をしていたり────たくさんの生徒が、最後の時間を思い思いに過ごしている。

そんな中────私は、真っ先に見つけてしまった。

岩泉が、今まさに鞄を肩にかけて、クラスメイトに「じゃあな」と言っているところを。

「岩ちゃんストーップ!」

教室を出ようとした岩泉を、及川が両手を広げて止める。突然及川が現れても眉ひとつ動かさなかった岩泉は、その後ろで縮こまっている私を見て初めて少しだけ意外そうに目を見開く。

「なんだよ、お前に書くメッセージもお前と撮る写真もねえぞ」
「えーなんでよ、今ちょうどクラスの方が落ち着いたから満を持して5組に乗り込んできたのに」

少しの嘘を絡めながら、及川が2冊のアルバムをずいと岩泉に突き出す。あからさまに面倒くさそうな溜息をついた岩泉だったが、「…2冊?」と不思議そうな声で言った。

「俺とはこれからも毎日だって連絡取れるけど、みょうじとはこれきりでしょ? 帰る前に一言書いてやってよ。ね、みょうじだって岩ちゃんとは2年の時同じクラスだったんでしょ? 5組連中の友達みーんなに書いてもらうのに岩ちゃんのメッセージだけないのはなんか寂しくなーい?」

まるで、"たくさんいる友達のひとり"であるかのように。この日この時に込められた私の"特別"なんて、知らないかのように。

及川は実に見事な演技で、自然に岩泉の足を止めていた。

「────さみしーい! 岩泉が書いてくれなかったらなまえ、一生根に持って化けて出ちゃうかも〜!」

ワンテンポ遅れて、私も及川の演技に乗っかる。一生懸命"1年前のあの続き"を思い浮かべながらも、心臓は今にも口から飛び出してしまいそうなほど大きく拍動していた。

「…ったく、これだからお前らが同じクラスになるのは嫌だったんだよな」

────そして岩泉は、鞄を床に降ろすと────その中から、筆箱を取り出してくれた。

「及川はマジで今更書くことなんてうんこマークくらいしかねえからパス。みょうじのだけ寄越せ」
「マークだけにしてもせめてもう少しマシなのはなかったのかな!?」

噛みつきながらも、及川は私のアルバムを岩泉に渡してくれた。口でキャップを開け、廊下の壁を下敷きにしながら岩泉は何事かを隅の方に小さく書く。
ここからでは、彼が何を書いたのかは見えなかった。ただ、その字は花巻のものと同様とても小さく────そして、短かった。

「おらよ。これからうちのクラスの連中に回すんだろ。俺はもう帰るからさっさと渡せよ」

岩泉はそう言ってバタンと私のアルバムを閉じると、及川の腕にそれを押し付けて今度こそ帰って行ってしまった。去り際、私に掛けられた言葉は「じゃあな」と、他の子と全く同じ────簡素な一言だけだった。

「及川…」
「ん?」
「ありがとう…すごく自然に書いてもらえてしまった…」
「はっは。みょうじが将来何すんのか知らないけど、いつかテレビに出るような有名人になったら"及川徹君が人生の恩人です"って言ってくれても良いんだよ」
「割とそのレベルで感謝してる」
「ま、その後どうすんのかはみょうじ次第だけどね」
「?」

その後も何も、もうこれで私には十分だ。
元より何かを望んだりなんてしていなかった。自覚するまでに1年も要してしまうような拙い片想いなのだ、叶うなんてこと、端から考えてない。
手に入ると思っていなかった思い出がひとつできた。それだけで、私は満たされた。

「あ、及川ー! 待ってたぞ、写真撮ろうぜ!」
「なまえー! 卒アル書かせてー!」

5組の友人達に迎えられた私達は、それぞれ写真を撮ったりアルバムを交換したりと、再び忙しない輪の中に取り込まれた。岩泉同様去年同じクラスだった友人が、いそいそと私のアルバムを手に取って開く。私は私でその子のアルバムを借りていたので、何を書こうかと思い出を漁りながら、他の子のメッセージに目を通していた。

すると、友人が明らかに大仰な仕草で動きを止めた。

「どしたの?」
「ちょっ────なまえ!? あんたなんでここにいんの!?」
「は?」

なんでも何も、一応私は自分のクラスの騒ぎが落ち着いたからこっちに乗り込んできただけ(という体)だ。及川の珍しく気の利いた行動のお陰で、それ自体には何も不自然なことなんてないはず。

しかし彼女は、机をバンバンと叩くと「岩泉、帰っちゃったじゃん!」と言って私に私のアルバムを開いて見せつける。

「なんでそこで岩泉が────」

────え。

「まさかもう冷めたとか言わないよね!? 3年になったばっかの頃しょっちゅう岩泉の動向をリサーチさせられてた私の努力を無に帰すとか言わないよね!?」

何度か恋の相談に乗ってもらっていた友人は、すっかり固まってしまった私の姿を見てどう思ったか、ご親切に先程岩泉が小さく何かを書き綴っていた箇所を指差しながら怒鳴る。

『好きだった 岩泉』

そこにあるのは、とても小さな文字。文章とみなして良いのかどうかすら迷うような、短い一言。

でも、その意味するところは────何よりも深くて、重たい言葉。

「好き、だった────って…」
「言葉通りの意味でしょ! あんたこんなとこにいて良いの!? 今から追っかければ間に合うよ、早く行きなよ!」

戸惑いに支配された私は、何を思ったかつい及川の方を見てしまう。無意識に助けを求めたその先にあったのは、全てを理解しつくしたかのような、腹の立つほど優しい微笑みだった。

「残念だけどね、みょうじ。岩ちゃんのことなら、俺の方がちょこーっとだけよく知ってたりするんだな」

そう言って、彼は私から視線を逸らし、向けられていたカメラの方にポーズを取り始めてしまった。「これサインとかしとこうか?」「いらねえ…って言いたいけど後で高く売れそうだからもらっとく」「売らないでよ!」なんて友人と話している彼の眼中に、もはや私の姿はなかった。

好き、だった?

岩泉が、私のこと?

「…なんで?」
「そんなの岩泉しか知るわけないでしょ! だから行けって言ってんの!」

私にアルバムを見せつけてきた友人は、その時にはもう怒りのあまり私の背中を痛いほどに叩いてきた。5組の教室には入ってきたばかりなのに、もう追い出されそうになっている。

「────っ」

押されるがまま、教室を出る。
そして私は、人で賑わう廊下を走り出した。

「でも、良いの? 岩ちゃん、あんまこういうの熱心にやんないから、早く行かないと帰っちゃうよ?」

「俺とはこれからも毎日だって連絡取れるけど、みょうじとはこれきりでしょ? 帰る前に一言書いてやってよ」

「あんたこんなとこにいて良いの!? 今から追っかければ間に合うよ、早く行きなよ!」


わけもわからず、私は走っていた。

なんで? 私とあなたの間には"元クラスメイト"以上の関係なんてなかったじゃん。
特別な何かがあったわけじゃない。いつも一緒にいたわけでもない。
ただ顔を合わせた時だけ、当たり前の雑談をして、当たり前の行動をとって、当たり前に時を流していただけで────。

でも────私はそんな"当たり前"の中で、あなたに恋をしてしまった。

じゃあ、期待しても良いの?

そんな当たり前の中で────あなたも、私に────。

「岩泉!!!!!!」

追いついたのは、昇降口のところだった。ちょうど靴を履き替えていた岩泉の姿を捉えた瞬間、考えるより先に私の大声が────生まれてこの方これ以上張り上げたことがないと思うほどの大声が、腹から出てきた。

「お、おう!?」

びくりと体ごと跳ねた岩泉は、片足立ちしていたせいでバランスを崩し、その場にすてんと尻もちをついた。そして声の出所が私だとわかるや否や、いつか保健室で手を貸してくれた時のように視線を逸らす。

「その────あの────」

息を切らしながら、岩泉の元に行く。呼び止めたは良いが、その次に言うべき言葉を私は用意していなかった。

どうしよう。アルバム見たよ、って言えば良い? それとも、もう少し自信を持って────私も好きだよ、って言えば良い?

「ええっと…」
「あー…」

迷う私に、気を取り直して立ち上がった岩泉が声をかける。

「……連絡先、聞いても良いか」
「!」

そうだった。
私達は、1年も一緒にいながら────互いの連絡先すら、知らなかったのだ。

「も、もちろん!」

勢いよく返し、携帯を出そうとしたところで────私は、それを教室に置き去りにしてきていたことに気づいた。

ああ、もう。どうしてこんな大事な時に!

「携帯置いてきちゃった…待って、取ってくるから」
「────いや、良いよ」
「良くないよ! 嫌だよ、私、せっかく岩泉があんなこと書いてくれてたのに…これきりになんてしたくない!」

思わず、願っていなかったはずの言葉がほろりと転げ落ちる。
願うだけ無駄だと思ってた。願っちゃいけないと思ってた。
でも、もしそれが許されるなら。この秘密の宝箱を、開いても良いのなら。

慌てて教室に戻ろうとする私の腕を掴んだのは、よく知っている岩泉の熱い手だった。

「…俺もだよ」

彼らしくない、まごついた小声に立ち止まる私。少し冷静になって見ると、彼の顔は真っ赤になっていた。

「その…だからさ…明日、どっか行かねえか? 明日が都合悪ぃんなら、明後日とか…お前の都合の良い日に合わせるから。その時に落ち着いて、もっかい言うべきことを言いたい…し、これが自意識過剰じゃない…って言うんなら………お前からも、聞きたい」

聞きたいことは、たくさんあった。
話したいことも、たくさんあった。

これが最後だなんて、思いたくない。私はまだ、この恋から卒業したくない。
だから、これから始めるんだ。

「…あのね、商店街に新しくできたカフェ、私ちょっと行ってみたくて。11時に学校前集合とかで、どうかな」
「お、おう」

これきりじゃなくて。さようならじゃなくて。

「じゃあ、また明日」
「うん、また明日!」

遅すぎる私の初恋は、終わりの日に始まりを告げた。










すごーくわかりにくいと思うので補足です。

ヒロインは岩泉が自分に懐いている理由を「女版及川だから」と思い込んでいるようですが、岩泉は別にそういうつもりでヒロインを見ていたわけではありませんでした(重ねていた部分はありますが)。

流れ作業になりがちな卒アル交換でも、ひとりひとりとの思い出をきちんと思い出すようなところ。小さなことにでも「ありがとう」という言葉が出せるところ。当たり前の親切を自分にトレースした上でなお"当たり前"と思えるところ。
わかりやすく"おばあちゃんを助けた"エピソードも混ぜていますが、ヒロインの細やかで優しい性格は基本的に地の分に織り込んだつもりでいます。基本的には豪快で女っ気のない性格だからこそ仲良くなれたというのが一番ですが、岩泉に"それ以上"の感情が芽生えたのは、ヒロインのそんな目に見えない部分を見たからだ、という設定です。

ということで、今回は恋愛にはいまいち奥手でなかなか踏み出せない岩泉の話でした。
いつか逆に"未成年の主張"的な男前展開を見せてくれる岩泉の話も書きたいです(いつか)。









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