2歩



「お、国見が登校してる」

式典ギリギリの時間に間に合うよう登校すると、いの一番にクラスメイトに驚いたような顔を向けられた。

「そりゃ、するよ」
「でも今日は出席取らないじゃん。国見のことだからサボるかと思ってた」

3月某日、卒業式。
俺達には直接関係がない行事ということもあり、クラスメイトの言葉通り何人かの姿は見られなかった。大方ここにいるのは卒業生と何かしらの縁があった生徒だけなんだろう。
かくいう俺も、その"縁"がなければ今頃まだ布団の中で丸まっていたと思う。

「あー、うん。まあ」
「やっぱアレ? 部活の先輩に最後のお別れを、的な?」
「いやそれはこの間の卒部式で済ませた」
「食い気味に否定すな」

及川さん達に感謝をしていないわけじゃない。でも、未練も全くない。
俺が今日来たのは────。

「私、上京するの」










幼馴染の、みょうじなまえ。2歳年上だったけど、小さい頃からの付き合いだったからあまり先輩として意識したことはなかった。
でも、一度…たった一度だけ、なまえを"年上だ"と認識したことがある。

北一になまえが進学した時、俺は初めて"制服"を間近で見た。
近所には既に同じ制服を着て歩く先輩が何人かいたけど、ズカズカと部屋まで上がり込んで見せつけにきたのなんてなまえくらいだったから、その時のことはよく覚えてる。

「英! 見て! 制服!」
「へーかっこいい」

ろくに見もせずにそう言うと、なまえは「せっかく英のために着てきたのに」とぶすくれた声で言った。
それきり暫く無言の時間が続いたので、根負けした俺が先に視線を上げる。

すると、なぜかなまえはこちらに背を向けていた。さっきまでくるくる踊っていたのを視界の端に捉えていたので、どこかに爪先でもぶつけたかと思いながら見ていると────。

「────あ、やっとこっち見た」

そう言って、なまえは笑いながら振り返った。

「────…」

その時の、彼女の顔。笑っているのは確かにいつものことなのに────その静かな微笑みは、なんだかとても遠くに見えるようだった。それが、なんだかとても大人びて見えた。
あれは制服を着ているからだったのだろうか。本当に、本当にそれだけ?

答えはわからない。それでも、一緒に育ってきたのに、同じものを見ていたはずなのに、なんだか一歩…いや年の差を考えれば二歩くらい先を行かれたようなあの感覚は、いつまでも俺の中に残り続けていた。

「なんか…大人みたい」
「ふはは、似合ってるでしょ〜。私はいつも英より大人だよ!」

とは言え、すっかり見慣れた喧しいなまえが戻ってきてしまったせいで、俺の幻想は一瞬にして崩れたわけだけど。

私はいつも英より大人だよ、それがなまえの口癖だった。

テスト前には頼んでもいないのに家に来て勝手に勉強会を開く。
部活の試合があれば頼んでもいないのに応援に来て勝手に声を張り上げる。

どうしようもない世話焼きで、どうしようもなく明るくて、どうしようもなく大人ぶりたがる。
正直、家が近いっていう縁がなければ歩み寄ろうなんてとても思えない種類の人間だった。
というかもう、家が近かろうが遠かろうがこっちに歩み寄る気なんてなかった。それなのに、彼女は静かにしていてほしいというささやかな願いをわざとじゃないかと思ってしまうほど鮮やかに無視して、俺の領土を侵略してきた。

子供の頃は抵抗していた時期もあったかもしれない。
でももう小学校を卒業する頃には、彼女という嵐に対しては立ち向かうより過ぎ去るのを待つ方が遥かに効率的だということを学んだ。

まあ、悪い人じゃないし。ちょっと鬱陶しいってだけで、頭の出来が良いからテスト前はなんだかんだで助かるし、盛り上げるのも巧いから部活の仲間はその存在をありがたがってるみたいだし。

俺しか友達がいないんじゃないかって言いたくなる頻度で構ってくるから、相手くらいはしてやろうって思っただけ。

そう、それだけだ。
だからまた一足先に一瞬憧れてしまったその制服を捨てられても、何とも思わなかった。
一足先に知らない学校の知らない制服を着られても、ほんの少し3年前のあの記憶が蘇った程度のことで、それ以上のことなんて何もなかった。

「じゃーん。青城の白ブレザー、可愛くない?」
「北一の時よりは大人っぽい気がする」
「そりゃ、私はいつも英より大人ですから」
「制服がだよ。なまえは全然大人じゃない」

そう言うと、「この生意気小僧が」と言ってなまえは北一の制服がようやく馴染んできた俺の鼻をぴんと小突いた。

何が大人だ。15にもなってまだ人の部屋をノックすることさえ覚えられないくせに。
何が小僧だ。この間の夏、嫌がる俺に喜び勇んで蝉の抜け殻くっつけてこようとしたくせに。

俺達の間に差なんてない。
ただちょっと着てるものが違うだけだ。あと2年もすれば俺だって同じ服買うし。

怠惰な俺は、考えることを放棄していた。もっと言えば、現実からわかりやすく逃げていた。

────あと2年もして同じ服を手に取る頃には、彼女が再びそれを手放してしまうという現実から。

俺が高校1年生になった年の2月。流石に受験期は自分の家や予備校にこもっていたらしいなまえが、また俺の部屋で勝手にくつろぐようになった頃。
中学の時は即座に「青葉城西受かった!!!!!!」と叫んでいたはずなのに、一向に彼女は自分の進路の話をしなかった。

そのことが珍しいと思ったのは、本当にふとした瞬間のこと。
だから、ちょっとした出来心で訊いてしまったんだ。

「なまえ、進路どうすんの。進学?」
「あー…うん」
「どこ行くの? もしかして東北大とか?」
「…東京」

ちょっと茶化すつもりで訊いてみただけなのに、なまえはその顔に似合わない困ったような笑みを浮かべた。

「東、京…?」
「あ、いや、東大じゃないよ、流石に。でも私、上京するの。上京して、東京の私大に行くの。知ってるかな、」

そう言って告げられた大学名は、誰でも知っているような有名な私立大学だった。
東京。なまえが、東京に行く。

あれ。
うるさいって思ってたのに。
面倒だって思ってたのに。

いつになく小さい声で話すから、いつになく神妙な顔を見せるから、なんだかたちの悪い冗談を言われたような変な気持ちになってしまった。

「宮城はちょっと大学の数も少ないし、結構専門色強いからさあ。ここでいっちょ東京行きますか〜って一念発起したわけよ」
「ふうん」

適当に返したはずの声が、どこか遠いところで鳴っている虫の羽音のように聞こえる。

「いつ行くの」
「卒業式の翌日。うちって式やんの遅いじゃん、モタモタしてると入学準備の方が間に合わないんだよね。だからもう荷造りはほとんど済ませてんの」
「へえ」

読んでいた本の文字が途端に追えなくなる。かといって、気を取り直したらしい彼女の1に対する10の言葉がちゃんと聞き取れたかと言われると、そういうわけでもなく。
まるで五感が一瞬にして全て鈍ってしまったかのようだった。

「英ちゃんほんと冷たくてお姉さん悲しい…。なんかこうもっと"行かないで〜"とか"寂しい〜"とか言ってほしい」

うるさいな。

「俺がそんなこと言うと思う?」
「思わないからこそ言うんじゃん。ギャップ萌えってご存知?」

そうやってすぐまた喧しくなるくらいなら、最初からそのノリで来てよ。

「なまえを萌えさせてどうすんの」
「思い出にする」

"思い出"というなんていうことのない一言だけが、妙にリアルに突き刺さる。他の言葉は全部防音室の中から騒がれているみたいにぼんやりとしか聞こえないのに、彼女が確実に俺を"過去"にしようとしていることが、なぜだか無性に腹立たしかった。

「…残念だけど、うるさいのがいなくなってせいせいするなーくらいにしか思わない」
「悔しいけどそれでこそ英だわ」

なまえはそれから延々とろくに知りもしない東京のことを語り始めた。
なんだよ、人には寂しいって言わせたがるくせに。一瞬自分だって、そんな素振りを見せてきたくせに。二言目にはもうこれだ。止めるのも嫌になるほどの勢いで、まあ喋る喋る。

「────それでね、試験が終わった後記念に原宿行こう〜って繰り出したら周り女子高生の群れかカップルしかいないの! どのお店もおひとりさま向けじゃないの!」

────ちょっと、今日は喋りすぎじゃない?

ようやく顔を上げると、なまえはなぜか天井に向かって話していた。
俺が聞く姿勢を見せないから、じゃない。彼女はいつも、俺がイヤホンをしていたって、前のめりになって体を貫きそうなほど強い眼光をこちらに向けながら話す人だった。

俺が見ていることにも気づかずに喋り続けるなまえの姿は、正直言って異様だった。
喋るのをやめさせたらどうなるんだろう。下を向かせたらどうなるんだろう。そんな不安を煽るような、小さいけど、それでも確かな違和感。

「ってことだから、卒業式の日はぜひ私の晴れ姿を見てよね! 最後の制服デーなんだから!」

そして彼女は、その感覚を確かめる前に、まるで逃げるように俺の部屋から出て行った。

それ以来、今日のこの日を迎えるまで────彼女が家に来ることはなかった。

「お、だいたい揃ってるな。そろそろ移動するぞー」

気になるなら会いに行けば良いって、きっと人にこのことを相談したらそう言われるんだろう。でも、考えてみれば俺の方から彼女に会いに行ったことは一度もなかった。それを思うと、どうにもあと一歩のところが踏み出せなくなる。

3年生は既に自由登校になっていたから、俺はなまえが学校にいるのかどうかすら知らなかった。担任のいい加減な号令に従って、崩れ気味の列をなしながら式典が行われる講堂へ向かう俺達。
全校生徒と卒業生の親を収容できるだけの広さを持っている講堂の中で、たったひとりの女子生徒を見つけることなんて至難の業だ。そもそも俺は会おうと思えばいつでも会えるその人に結局最後まで歩み寄れなかった。それなのに、ここにきて無意識に彼女を探している自分がいることに気づいてしまう。

俺、何がしたいんだろ。

抑揚のない声で、式典の始まりが告げられる。

俺の方から彼女のところに行ったことなんてなかった。彼女はしきりに俺の姉を演じたがっていたみたいだけど、こっちは一度もそんな風に思ったことなんてなかった。

誰も歌う気のない校歌が流れ、誰も聞く気のない校長の長い話が始まる。

追いかけるような背中じゃなかった。憧れるほどの光もなかった。
彼女は"ただそこにいた"。そこにいて、小さな幅の2歩分だけ前に立って、座り込んでる俺の手をしきりに引こうとしていた。

卒業生の名前が呼ばれていく。呼ばれた先輩達はひとりずつ立ち上がり、壇上にいる校長に小さく礼をしている。

それが、俺達の日常だった。それが、俺達の────いや、俺の16年だった。

「みょうじなまえ」
「はい」

その名が聞こえた瞬間、はっと視線が上がる。そして同時に、その時まで自分が考え事に没頭するあまりすっかり項垂れてしまっていたことに初めて気づく。

────なまえの声って、あんなに深かったっけ。
大きいことならよく知ってる。500メートルくらい離れていても平気で通りそうで、高いのに、不快感はない声。
…でも、実際に遠くから聞いたのは初めてだったかもしれない。だからこんなに心に沈み込むように聞こえてしまうのだろうか。

一番最後のクラスだったなまえの名前が呼ばれた後は、あっという間だった。卒業生が全員立ち上がったところで、そのまま代表生徒に卒業証書が渡される。続いて流れ作業のように2年生の先輩が呼ばれると、その人は壇上まで上がり、卒業生への送辞を読み上げた。

一度捉えた彼女の後ろ姿は、たとえ間に何人もの生徒が挟まれていても消えることがなかった。背中の隙間から見える、見慣れた背中。
追わなくても、そこにあった背中。そこにあるのに、掴めなかった背中。

送辞を読み上げた先輩が、紙を畳んで校長に手渡す。礼をして、こちらに戻る。

「卒業生、答辞」

そうしたら今度は3年生の番だ。うちの学校では代々、成績優秀者が送辞と答辞の読み上げを務めるのだと聞いていた。

「────代表、みょうじなまえ」
「はい」

────今、なんて?

それはまるで、知らない人を見ているかのようだった。長い髪を靡かせて、綺麗な女の人が堂々とした歩き方で壇上に立つ。

「答辞」

季節の挨拶から始まり、凝縮された3年を振り返り、自分達を支えてきた諸兄達への礼が述べられる。

本当に、よく通る声だった。
誰よりも知っていると思っていた。誰よりも近いところにいると思っていた。

でも俺は、なまえが成績優秀者に選ばれていたことを知らなかった。早口でまくしたてることしかできない彼女がこんなにゆっくり話すところを初めて見た。いつもより少し低くて、一言一言にまるで魔法をかけるみたいな丁寧さがこもってる。それまで誰のどんなありがたいお言葉でも頭の上を素通りしてきていたのに、彼女の語るありきたりな言葉だけは耳元でいつまでも心地良いリズムを奏でていた。

────なまえとの距離がこんなに遠いなんて、一度たりとも感じたことがなかった。

じゃあ、なに、別人だとでも言うの?

「────をもって、答辞とさせていただきます。卒業生代表、みょうじなまえ」

混乱する脳に、再び────今度は彼女自身の声で、「あれはなまえだ」と事実が叩きこまれる。

いつも忙しない彼女が、華奢な手で紙を折り畳み、校長に渡す。いつも騒がしい彼女が、静かに、そして優雅に礼をする。いつも何もないところで躓いている彼女が、一歩一歩を確かに踏みしめながら"仲間"の元に戻る。

仰げば尊しも、閉会の言葉も、もう何も耳に入らなかった。
いつか鈍ったはずの五感が、今何よりも研ぎ澄まされていることを感じる。

全身が彼女に集中していた。俺の知らない────"先輩"を、全身で感じようとしていた。

「なあ、卒業生代表ってみょうじ先輩だったんだな! すげえな、お前のこと用もないのに呼び出す時と大違いじゃん!」

式典が終わり、再び教室へ帰ろうとする道すがら、クラスメイトが興奮気味に話しかけてきた。

「────本当にね」

本当に、何もかもが違っていた。
俺は何も知らなかったんだ。全然近いところになんていやしなかったんだ。

そのことがショックで、そしてそんなことでショックを受けている自分にも重ねてショックを受けて────俺の情緒は、珍しく乱れているようだった。

「英〜〜〜〜!!!!」

そして、そんな俺をどこまでも掻き乱す声が、廊下に響き渡る。

「お、噂をすればギャップ先輩のお出ましだ」

全く萌えないあだ名を勝手につけたクラスメイトは、「じゃあ俺邪魔になりそうだから先戻ってるな」と言って先に行ってしまった。どんな顔をして振り向けば良いのかわからず、かといって無視して歩を進めれば教室までついてくることは経験則で学んでいたので、仕方なく足を止める。

俺を呼んだのは、案の定なまえだった。

その顔なら、知ってる。さっきの綺麗な女の人とつくりは同じなのに、中身をごっそり入れ替えたような幼さが滲み出ているから。飼い主の元に駆け寄る犬みたいな顔をして、なまえはおもむろに右手を突き出す。

「あのね、英にこれあげる!」

そう言って彼女が渡してきたのは、赤いリボンだった。はっと見ると、彼女の胸元にいつも蝶結びでアクセントをつけていた赤が、消えている。

「…なんで?」
「知らないの? うちでは第二ボタンの代わりにネクタイを渡すんだよ」
「いや、ネクタイっていうかこれリボン…」
「うん、だって英のネクタイもらっちゃったら英があと2年困るじゃん」

だからって、なんで自分のリボンをあげようって発想になるの。
リボンがなくなったというだけで、真っ白なその姿がなんだか物寂しく見えてしまう。

いや、今はそんなことより。

「なんで黙ってたの、成績優秀者だったこと。いきなり壇上上がってきてビビッたんだけど」

あの時の"先輩"は、本当になまえだったんだろうか。名前も読み上げられて、確かに同じ顔をしたその人が出てきたわけなのだから、答えは得ている。それでもまだ疑わしく思ってしまっている俺に、なまえはきょとんと首を傾げてみせた。

「え、別に言うことじゃなくない?」

さも、当たり前のことのように。

「っ────いつもどうでも良いことばっかりペラペラ喋るくせに、肝心なことは何も言わないそれ、ほんとになんなの。東京行きだって俺が訊かなかったらいつ言うつもりだったの」

なまえはいつもそう。
俺の前では全く年相応な振舞いをしないくせに、見えないところで勝手に歩を進めてしまう。口で似合わない「大人だから」なんて発言しなくたって、その隠れた顔を見せてくれればそれで十分なのに。

「ちょっと目を離したらすぐ遠くに行く…」
「…だからだよ」
「は?」
「だからどうでも良いことばっかり話してたの。だからわざといつまでも子供の気分でいたの。だって私が全力で走って行ったら、英はついてきてくれないじゃん。英の後ろでモタモタしてるくらいの方が、なんやかんやで待っててくれるでしょ」

したり顔で、指を立てながら自慢気に言うなまえ。俺はと言えば、推理小説であてずっぽうに犯人扱いされた善良な一般人みたいな気持ちになるばかりだった。

なに、それ。

じゃあ今まで子供みたいに騒いでたのは、全部────。

「俺のために、とでも言うわけ?」
「ちょっとニュアンス違うかなー。英のためって言うより、私が私のためにやってただけだし」

この人ときょうだいになっていたら、絶対姉と弟じゃなくて兄と妹になると思っていた。
この人は"これ"が自然体なんだと思っていた。この人は"こう"あることが普通なんだと思っていた。

だから知らない。
(それでも、一緒に育ってきたのに、同じものを見ていたはずなのに、なんだか一歩…いや年の差を考えれば二歩くらい先を行かれたようなあの感覚は、いつまでも俺の中に残り続けていた)

「でも、それも今日でおしまい」

そんなこと言われたって、知らない。
(頭の出来が良いからテスト前はなんだかんだで助かるし、盛り上げるのも巧いから部活の仲間はその存在をありがたがってるみたいだし)

「寂しいけど、私のこと忘れないでね」

こんななまえ、知らない。
(なんだよ、人には寂しいって言わせたがるくせに。一瞬自分だって、そんな素振りを見せてきたくせに)

16年も一緒にいたのに、俺は────。
────本当に、知らなかった? 知ろうとせずに目を逸らしていただけじゃなくて?

「────まだ、」

行かないで。

振り絞って言おうとした俺の言葉を遮って、彼女は笑う。
いつか昔にどこかで見たような顔をして。いつか昔に、どこかで聞いたような声で。

「2年先で待ってるから」

翻るスカートの動きがスローモーションに見えた。それでもそれは確かに一瞬のことだったらしく、瞬きしている間に彼女の背は遠ざかっていく。
軽やかに、まるで空気に溶けていくように。

俺の手の中に残ったのは、細い赤のリボンひとつ。

「…こんなもの…」

下手に何か遺して行くくらいなら、最初からまるで存在ごとなかったかのように綺麗に消えてほしかった。こんな風に、思い出なんて安いもので俺の後ろ髪を引かないでほしかった。

「寂しいけど、私のこと忘れないでね」

捨てることもできないまま、俺は乱暴にリボンをポケットに突っ込む。

たったそれだけを残して、彼女はいよいよ俺を置いて行ってしまった。
あれが彼女の本来のスピード。あれが、彼女と俺の本来の距離。

ああ、なんて遠いんだろう。









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