はみ出した赤



「あ」

今日は飛雄との久しぶりのデートの日だった。数ヶ月前、赤点回避のためにつきっきりで勉強を教えていた縁で仲良くなり、「俺、多分お前のことが好きなんだと思う」という曖昧な告白をきっかけに付き合いだしたは良かったが、"恋人"という関係が生まれてからすぐにちょっと一緒に買い物に出かけたきり、彼とは2人きりの時間を共有できずにいた。

どれもこれも、彼が毎日朝日が昇る前から月が元気に頭上で燦燦と輝き出すまでバレーに明け暮れているせい。こちらとしても彼が何より大事にしているものは一緒に大切にしたかったので、それに文句を言ったことはなかった。
それでもその日、体育館の点検で部活がなくなったことに、ちょっとだけ私は喜んでしまった。「明日部活休みだから、久々に一緒にいないか」と誘われた時なんて、舞い上がって危うく踊り始めてしまうところだったくらいだ。だっててっきり飛雄のことだから、せっかくのオフでも自主練を優先すると思っていたから。

私、一応ちゃんと大事にされてたんだ。

それでも、久々のデート場所を独り暮らしをしている私の家にしようと提案したのは私の方からだった。毎日体を酷使して体も頭もヘトヘトになっているだろうから、家でゆっくり映画を見たり、手料理を振舞ってみたり、文字通り彼のリフレッシュに協力したいと思ったのだ。

「それで良いのか? その、買い物でも…行ったことはねえけど…テーマパークみたいなとこでも、なんでも付き合うぞ」

飛雄はそう言ってくれたが、私が笑って「家でのんびり過ごそ」と返すと、嬉しそうに笑って「わかった」と言った。

そんなわけで、早速私達は午前中のうちに集まり、一緒にお昼ご飯を作っていたのだが────。野菜を一通り切り終えてふと自分の手元を見た私は、つい情けない声を出してしまった。

「どうした、指切ったか?」

慌てた様子で飛雄が私の手を覗き込んでくる。
しかし、私は決して指を切ったわけではなかった。

ただ────。

「…爪、割れてる」

左手の薬指の爪の端が、欠けてしまっていた。
急いで食材を掻き分け、私の爪が混入していないか調べる。しかし私の爪はいつも真っ赤に塗っていたので、キャベツの中にそれが紛れ込んでいたらすぐにわかるはず。赤色なんてどこにも見当たらなかったので、ひとまず異物混入は防げたようだったが────。

「あー、なんかショック」

まだ高校生の私には定期的にネイルサロンに通うことはできない。だからいつも自分でマニキュアを買って、剥げたらすぐに塗りなおして、長さも形も均一にしながら爪のケアだけは怠らないようにしていたのに…。

「せっかく伸ばしてたのに、切らなきゃかなあ」

溜息をつきながら、切ったキャベツを鍋にぶちこむ。今日のメニューはポトフだ。もう既に人参やじゃがいもは煮込んであるので、あとはこのキャベツが柔らかくなって、味付けをしたら終わり。

ご飯を食べ終えたら爪を切ろう。一本の指だけ短くなるのはみっともないから、綺麗に伸びかけていた他の爪も全部切る他あるまい。

「────そのくらいだったら、ヤスリで整えられるんじゃないか?」

キャベツを投入した後、飛雄がそのまま私の右手を取って、欠けた中指の爪をそっと見つめた。

「私、ヤスリ使うのあんまり得意じゃないんだよね。こう、いつも削りすぎちゃったり、逆に爪を割っちゃったりするから」

コンソメを投入して、お鍋をかき混ぜる。その間も私の目は欠けた爪にばかり行ってしまい、それにつれて気分も少しずつ下がっていくようだった。
いけない、せっかく飛雄と久々にデートしているのに、こんな風に気落ちしていたらもったいない。…それは、わかってるんだけど。

飛雄はいつも手を綺麗に保っている人だった。それも全部バレーのためらしい。爪のケアを常にしている上に指先だっていつも潤っていて、男の人の指のはずなのに思わず見惚れてしまうほどつるりとしている。
仮にもそんな彼の彼女なのだ。自分の身のケアは、怠りたくない。…と思って、私はいつも爪の形を整えながら伸ばしていたし、マニキュアは毎日剥げないように少しずつ塗り重ねていた。

だから、こういう時が一番落ち込む。スカルプで強化しているわけでもなし、自然に爪が欠けるのは仕方ないことなのだけど…やっぱり、頑張ってお洒落をしている自負があるだけに、それが崩れてしまうのは悲しいものなのだ。

そんなことを考えているうちに、ポトフは出来上がった。お茶碗にご飯をよそい、私はみっともない爪のまま、机を囲んで飛雄と一緒にお昼ご飯を食べる。
食べている間も、私の視線はチラチラと爪の方にばかり向いていた。食べ終えてからも、別の爪まで欠けていやしないかとどうしても手元から視線を逸らせなかった。

食器を洗い場に持って行って、ひとまず2人でソファに並んで座る。話題作の映画でも見ようかとテレビの前に置いていたDVDを2枚手に取り、「どっち見る?」と飛雄の方を振り返った時だった。

彼がなぜか、ポケットからヤスリを出して私の方に突き出していた。

「えーと…飛雄さん?」

彼の突然の奇行に、私はついていけなかった。

「爪、欠けたんだろ。直してやる」

そう言われて、改めて割れてしまった爪を眺める。私がずっと気にしてたことに、気づいていてくれたんだ。それにしてもまさかポケットから当たり前のようにヤスリが出てくるなんて思ってもみなかったので、私は喜びより先に驚きを覚えてしまった。

「…いつも持ってるの?」
「俺もたまに爪の形が気になる時、あるから。いつも持ち歩いてる」

手ぇ出せと言われたので、私はDVDをテーブルに再び戻すと、彼の隣にすとんと座った。
大人しく爪の欠けた指を差し出すと、彼はまるで壊れ物を包み込むような手つきで私の手に触れた。下に捨てる予定だったチラシを置いて、その上でしょりしょりと私の爪の形を整えてくれる。

俯いて私の手を取る飛雄。髪の手入れなんてろくにしていないくせに、艶のあるその黒髪がさらりと重力に任せて落ちる様はやけに色っぽかった。
そして何より、やっぱり手が綺麗だ。とても短くて、丸くて、凸凹の一切ないすっきりとした爪。ささくれもひとつとしてないし、手荒れも乾燥も一切していない。

「……」

私は彼に手を預けたまま、思う存分飛雄の手を眺めていた。

いつも私の頭を撫でてくれる手。私を強く抱きしめてくれる手。その行動はいつだって不器用なのに、こんなにも綺麗な手で触れられているのかと思うと、がさつな手つきだって気にならないほど愛おしく思えてしまう。

「…どうかしたか?」

黙ったまま彼のことを観察していたら、不意に飛雄が顔を上げてこちらを見た。意思の強い、鋭い眼光。それでも彼は彼なりに自分のしていることに何か不都合があったのかとでも思ったのだろうか、僅かに不安そうな表情を浮かべていた。

それを見ていたら、思わずこちらの口には笑みが浮かんでしまう。

「ううん。飛雄の手、綺麗だなって思って」

手入れを怠らない手。バレーのためだけに保たれた、誰よりも綺麗な手。
本当に、ひたむきな人だと思う。大抵の手作業は失敗ばかりしているのに、バレーボールに触れているその瞬間だけは誰よりも繊細で、丁寧で、正確なボール捌きをしてみせる飛雄。私はそんな彼のギャップが大好きだった。

「バレーのためなんだよね、いつもお手入れしてるのって。そういうところまで含めて、私、飛雄の手、好きだな」

その頃には、私の欠けた指先は綺麗な形に戻っていた。割れた部分は取り除かれ、左右対称になるよう反対側の健康な部分も削られている。それでも長さはそのままに保たれているから、他の指との違和感もない。

「こういうことには器用だよね、本当に」
「……確かに俺がいつも爪の手入れをしてるのはバレーのためっていうのが一番だけど」

ヤスリを再びポケットにしまいながら、飛雄は私の手をそのままぎゅっと握った。

「お前に触れるなら、一層手入れは怠れないって思ってる」

つるりとした手で、彼は私の手を包み込む。人より少し高い体温が、冷えた私の指先を温める。まるで温度を持った陶器に触れられているみたいだ。

「それに俺も、お前の手は好きだ。いつも綺麗な色してるし、形も揃ってるし」
「…ありがとう」
「だから、このくらいの手助けはしたいって思う。…お前のその綺麗な手で触られるのは、嫌じゃないから」

そして彼は、大きな手で私の頬をそっと撫でた。

「…私が手を綺麗にしたいって思ってる理由、知ってる?」
「? 知らねえ」
「飛雄の手に憧れてるからなんだよ。飛雄が手のお手入れをしてるところを見るのが好き。それで、完璧な状態になった手でバレーボールを扱ってる姿を見るのが好き。私、飛雄の手が大好きなの」

頬に当てられた手を、今度は私が包み込む。堪えきれずその綺麗な指先に自分の指を這わせると、彼は少しだけ顔を赤くした。

「…手、だけなのか」
「え?」
「お前が好きなのは…俺の手だけなのか?」

私が手を離すと、彼は随分と険しくした表情で自分の指を眺め出した。まるで自分の指と張り合っているみたいに見えて、私は再びそこでも笑ってしまう。

「手だけじゃないよ。飛雄の全部が好き」

そう言ったら、彼は安心したように笑った。普段笑顔を浮かべることのない彼が時折見せる、幼子のようなあどけない顔。その顔を見られるのは、私だけの特権だ。そして、本来バレーにだけ触れることを許されたその手で包み込んでもらえるのも、私だけの特権。

飛雄の全部が好き。その言葉に嘘はない。
でもやっぱり、どこが一番好きかって言われたら────私は「彼の指」って答えるんだろうな。

「ちょっと削ったから、色がはげちまったな」

飛雄はもう一度私の手を取ると、さっき綺麗に整えてくれた爪を眺めた。彼の言う通り、ヤスリで削られた端の部分だけマニキュアが禿げてしまっている。

「塗り直さなきゃ」
「…それも、俺がやってみても良いか?」

立ち上がって部屋の隅にあるドレッサーの上から赤いマニキュアを取ると、飛雄はこちらを振り返りながら手を差し出していた。

「良いけど…良いの?」
「お前が俺の手に憧れていつも綺麗にしてるんなら…俺も、たまには自分でお前の手を綺麗にしたい」

よくわからない理由ではあったが、大方本音は「ちょっと興味を持ってみた」くらいのところなんだろう。それだけのことを言うのに顔を真っ赤にしている彼がこれまた愛おしかったので、私は大人しくマニキュアを飛雄に渡した。

そこにどんな理由があれ、飛雄の綺麗な手で私の手も綺麗にしてもらえるなんて、それってなんだかとっても贅沢だ。

彼は私が隣に座ると、今度はまるで舞踏会のダンスに誘うかのように、下から私の手を恭しく持ち上げた。すらりと伸びた細い指が、私の掌をくすぐる。少し浅黒い肌が、私の手に触れた部分を境界線にして、綺麗なコントラストを描いていた。

飛雄の手で爪を整えてもらって、飛雄の手で色を塗ってもらって。
そうやって飛雄のお陰で出来上がった指はきっと、何よりも自信を持って「綺麗だ」と言えるものになるんだろう────そう思いながら、私は安心しきってマニキュアの蓋を開ける彼の姿を眺めていた。





「待って、これは聞いてない。いや、多少予想はしてたかもしれないけど」
「…悪い」

前言撤回だ。そうだった、忘れていた。飛雄が器用にできることは指先のケア"だけ"だということを。

出来上がった赤は────爪をはみ出すどころの騒ぎじゃなかった。どこをどうしたらそうなるのか、第二関節にまで飛び散り、指の腹も真っ赤になっている。

「もっかいやり直す。あの…この色落とすやつどれだ」

彼はものすごく悔しそうにしていた。まるで日向にしょうもない勝負で負けた時のように、ギリギリと歯噛みしながら私の手を握っている。

それを見ていたら、なんだかおかしくなってしまって。

「っはははは! …良いよ、このまんまで良い。このままが良い」

直してもらおうなんて気は、最初からなかった。
だってこれは、飛雄がその手で施してくれたもの。私の大好きな手で、私を綺麗にしようとしてくれた結果。

ちょっとくらい不器用なくらいでちょうど良い。どれだけ不格好だって、私は自信を持って言うよ。

「大丈夫、ちゃんと綺麗だから」
「いや、流石にこれは俺でもわかる。汚い」
「汚いって…くっ…あははは…」

私に笑われたことで余計に彼の闘争心に火をつけてしまったのだろう。終いには勝手に私の化粧台を漁り始めようとするので、私は急いで彼の腕をくいと掴んで引き戻した。

「飛雄が私のために一生懸命こんな小さい爪を綺麗にしてくれようとしてたことが嬉しかったから、もう良いよ」
「でも、それじゃお前の綺麗が」
「んーん。その綺麗な手でたくさん触れてもらえただけでもう十分。ね、マニキュア乾いたら、今度は私が飛雄の指に触れても良い?」

触れられるのも嬉しいけど。私に集中してくれるのも嬉しいけど。
やっぱり私は、彼の綺麗な指に自分から触れていたい。いつまでも見つめていたい。

飛雄は私のお願いに、しばらく「意味わかんねえ」と顔に書いたような表情をしてみせていたが、首を傾げたまま「おう」と返事をした。

「飛雄がバレーやってなかったら飛雄にもマニキュア塗って遊んだりするのになあ」
「なんか…それは嫌だ」
「あはは、わかってるよ。それに飛雄の爪は何も塗ってなくても綺麗なんだから、やっぱりそのままでいてくれるのが一番良いな」
「…よくわかんねえけど、お前が嬉しいなら俺も嬉しい」

そう言って、彼はぎこちなく私の頭を撫でた。
ほら、やっぱりこういうところはすごく不器用だ。

それでもやっぱり────その手に触れられていると、まるでそこを起点に温かいミルクが流れていくような感覚に陥る。

ああ、好きだなあ。

形だけは綺麗に整っているのに、あちこちはみ出してすっかりめちゃくちゃになった左手の薬指に視線を落とす。なんだかこの指、まるで飛雄みたい────なんて言ったら、また混乱させてしまうだろうか。

余計なことを言ってまたリムーバーを探し始められたらもったいないと思ってしまったので、私はひっそり静かに笑うだけに留めておくことにした。









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