運命を覆して



初めて恋を知ったのは、18歳になった年の春のことだった。

柔らかな日差しの似合う、花のような女の子だった。
それまでも、顔と名前くらいは知っていた。誰にでも分け隔てなく優しい彼女は、性別も年齢も問わず学校中の生徒に好かれていたから。
自分で言うことではないが、僕もそれなりに人からは好かれる方だった。ただ僕の場合、好かれている人間の数と同じくらいの人に嫌われてもいた。だからだろうか、同じ"ホグワーツの人気者"という看板を掲げていても、僕と彼女は真逆の位置に立っていると思っていた。平たく言ってしまえば、彼女の方が余程純粋に"人間として"好かれている立派な存在に見えていたのだ。

きっとお互いに認知はしていたはず。それでも、そこに関わりが生まれたのは何の因果か7年生になってからのことだった。

そもそものきっかけはまだ秋の頃だった。休日、プロングズ達と校庭で箒を乗り回しながらクァッフルでキャッチボールをしていた時のこと。
あのバカは、自分がクィディッチのMVPプレーヤーで僕達はただの素人だということをすっかり忘れて(あるいはわざと度外視して)、プロでも見せないような剛速球を思いきりワームテールの方に放ったのだ。当然、そんなものをキャッチできるワームテールじゃない。箒から落ちそうになりながら避けたそのボールが落下する地点に、彼女がいた。

「危ない!!!」

自分が蒔いた種だというのに、プロングズは真剣な顔をして遅すぎる忠告を投げた。

「!」

ぶつかったらまず無事じゃ済まない。軌道を逸らすか、いっそ爆破でもするか────頭の中で瞬時に大事故を防ぐ方法を考えていると、彼女は素早くローブから杖を取り出し、一言堂々とした声を轟かせた。

「イモビラス!!」

途端、クァッフルの動きがぴたりと止まる。そのまま彼女は器用にクァッフルを手元に引き寄せ、箒から降りて駆け出していったプロングズに笑顔でそれを渡した。

「ごめん! 周りの子のこと全然見えてなくって────」
「ごごごごごごめん!! 僕が避けたから!!」
「大丈夫だよ、怪我もないし。さすがポッターだね、クィディッチの試合かと思っちゃった」

思いがけないところから飛んできたはずの動いているボールに一発で照準を当ててみせたその手腕には、正直舌を巻くしかなかった。それに、"動きを止める"という方法はシンプルかつ最も平和的な解決法でありながら、僕の頭に全くない発想だった。

「コントロールが良いんだな」

しかし心から感心してそう言うと、それまで滑らかに笑っていた彼女の動きが急にぎくしゃくし始めた。頑張って平静を取り繕おうとでもしているのだろうが、正直視線の泳ぎ方が異様だったし、指先をもじもじと絡める姿にもなんだか違和感があった。

「あ、ありがとう…。じゃ、私スプラウト先生に呼ばれてるから、もう行くね」

それだけ言って、ぱっと走り去ってしまう彼女。

「なあ、あの反応」
「あー…多分」

揶揄うように、プロングズが僕の背中をバンと叩く。
多分あれ、僕のことが好きなんだろうな。

今までにもこういうことは幾度となくあった。3年生になって、少しずつ体つきが変わってきた頃からは、特に。そしてだいたいそういう女子は、接点を一度持ったことで急に距離を詰めて来るか、わざとらしい視線を送ってこちらの反応を待つかの2つに分かれる。

「せっかく憧れのブラック君とお近づきになれるチャンスなのに、逃げるなんてもったいない」
「でも別に前例がないわけじゃなかっただろ? ほら、もう見てるだけで精一杯っていうような子もたくさんいたし」
「そういう子って、だいたい元々の気が弱いか魔法が下手で自分に自信を持ってないかのどっちかじゃなかった? でもあの子、僕らには平気でコミュニケーション取ってくるし、さっきの静止魔法なんて僕でも真似できるかわかんないくらい完璧だったぞ。そんなステータス上位の子がパッドフットに今更怖気づくか?」
「さあ…あんまり寮のことをどうこう言いたくないけど、彼女、ハッフルパフだろ。ステータスじゃ恋愛の有利不利を判断できないって思ったんじゃないのか?」
「ははーん、なんだか知ったようなことを言うねえ、ムーニー」
「やめてくれよ。ただハッフルパフには平等な視点を持つ生徒が多いねって一般論を言っただけじゃないか」

ムーニーとプロングズの会話に加わる気はなかったが、彼らの言っていることが的を射ているのも事実だった。今まで見てきた反応と少し違う、あえて距離を取るような言動。
煩わしいアピールがないならただのありがたい話だ。あれさえなければ、基本的に好まれること自体を疎んでいるわけでもなし、悪い気はしない。

「パッドフット? さっきから上の空だけど、大丈夫?」
「あ、ああ…うん、大丈夫」
「おっとっと、パッドフットにもそろそろ春が来るか?」

最後に余計な一言がついてきたので、プロングズの口は魔法で塞いでおくとして────。
その日から、僕は彼女を見かける度に声をかけるようになった。

それまで視界に入っていなかったはずのものでも、意識すると自然と見えるようになるらしい。2度目の邂逅は、先生から逃げている途中で人気のない空き教室に飛び込んだ時に果たされた。何やら、怪我を負ったレイブンクローの下級生の血塗れになった腕を持ち上げながら、杖を向けている。

「痛くないよ、怖かったら目を瞑ってて」
「言葉だけ聞いてると呪いでもかけそうな話だな」

魔法の方に集中していたのだろう。彼女はあからさまにギクリと肩を跳ねさせ、呪文を唱える前に僕をキッと睨んだ。

「ちょっと、集中してるのに!」
「別に邪魔はしてないだろ」

どことなくそわそわした様子のまま、それでも肩をすくめる僕のことは無視して、彼女は治癒魔法をかけた。効果は完璧。レイブンクローの男子の傷がみるみる塞がっていく(ちなみにそいつは僕達が短い言い争いをしている間、ずっと震えながら目を閉じていた)。

「ほーう、この間も思ったが、たいしたもんだな」
「お褒めにあずかりましてどうも。それじゃあね、怪我には気をつけて」

そしてまたしても、彼女はそそくさと僕の前からいなくなる。
自惚れたいわけではないが、挙動は確かに僕を好意的に意識している人間のそれだ。でも、一度ならず二度までもあっという間に逃げられた。

駆け引きが巧いわけじゃないし、そもそも僕の方がそういう面倒なことは好まない質だ。でも、どうにも彼女の後ろ姿には興味を惹かれるものがあった。

その理由を知る前に、3度目の出会いがやってくる。その頃にはもう、チラチラと雪が降るようになっていた。

今度は湖のほとりだった。巨大イカを眺めに来る生徒ならいつも一定数いるが、彼女はそんな人だかりから離れ、何か別の生き物と一緒に遊んでいるようだった。

「次は何と戯れてるんだ?」
「わっ……も、もう驚かないよ」
「ははは、思いっきり声を上げてたじゃないか」

3度目の正直。この時は、彼女もすぐに立ち去るようなことはしなかった。もっともそれは僕がどうのというより、それまで彼女の指先で楽しそうに踊っていた小さな水滴が原因なのかもしれない。

「それ、なんだ?」
「羽カエルの赤ちゃん。とっても皮膚が弱いから、外に出す時はこうやって水の膜を張ってあげてるの」
「皮膚が弱いなら外に出さなきゃ良いんじゃないか?」
「うーん、それがたまに風に当てないとストレスで死んじゃう性質らしくて…ハグリッドが別の子のお世話をしてる間だけ、臨時でお手伝いしてたの」

また難儀な生き物がいたものだ。僕ならまず面倒だと思って話すら聞かないだろう。でも、羽カエルの赤ちゃんを遊ばせている彼女の横顔は、とても柔らかかった。

「────君はいつも人のために動いてるんだな」

スプラウトに呼ばれた、他寮生の怪我を治した、ハグリッドの手伝いをした────3回しか会っていないが、毎回それは彼女が誰かのために何かをしている場面でのことだった。

「人のため、ってほどじゃないんだけどね。私にできることをして誰かが喜んでくれるんなら、なんでもやりますよって感じ」

自分を喜ばせるために何をしでかそうかと常に思案している僕とは、真逆の考え方だ。

「それで、君の喜びはどこにあるんだ?」
「ん?」
「君のお陰で誰かが喜んだ、そりゃあ良い話だ。じゃあ、その君のことは誰が喜ばせるんだ?」

それは手持無沙汰ついでになんとなく訊いた、中身のない質問だった。しかし彼女にとってはそうでもなかったらしく、それまで緩みきっていた顔が急にしかめられる。

「んー…私…かな…?」
「…君って面白い顔してるな」
「あ、わざと難しい質問投げたな!?」

怒ったような顔をして、すぐに解く彼女。表情の豊かな子だ、と思った。

魔法使いとしての素質は明らかに高いのに、全く驕ったところがない。
僕のことが好きな素振りを見せてくるのに、全く歩み寄って来ない。
人間にも魔法生物にも等しい優しさを与えるのに、全く自分のことに頓着しない。

こんな子を見るのは初めてだった、と言ってしまうのは、さすがにありきたりすぎるだろうか。
そりゃあ探せばそのくらいの美点を揃えた子はたくさんいるのだろう。でも、探す前に飛び込まれたのは確かに初めてのことだった。このタイミングで"この子"が現れたことに、僕は自分が思っているより特別な意味を見出したがっているようだ。

「明日の薬草学、僕と一緒に組まないか」
「え、なんで」
「君の顔が面白いから」
「私…笑われるために授業受けてるんじゃないんだけど…」

3回目にもなってだいぶ打ち解けてきたらしい彼女の態度に、感化されていく。
こう言ったらまたプロングズには「ガキみたいなこと言って」とバカにされそうだったが、女子とこんなに気楽に話した経験なんて、僕にはなかったから。親戚の女性達はみんな敵だと思っていたし、ホグワーツの女子達は先程挙げたような面倒なタイプか、僕を家の名で呼んで「恥知らず」と軽蔑してくるタイプに分かれる。媚を売るでもなく、敵意を向けてくるでもなく、あるがままの"僕"に、"その他大勢"と同じ笑顔を向けてくれたのは、彼女だけだった(まあ、最初はぎこちなかったが)。

だから────ちょっとだけ、興味を持った。
2回目の出会いでその後ろ姿に惹かれた理由を、その時ようやく悟った。

「────なんでああいう人間が出来上がるんだろうな」

春になって、もはや常態化した彼女とのペアワーク(薬草学)を無事に終えて談話室に戻った時、ふとそんな言葉が口から漏れる。ちょうど彼女の魔女としての素養の高さを十分見せつけられながらも、半ば喧嘩するような形で完璧な課題を提出してきたばかりだった。半年近く経てば、彼女にも全く緊張している様子は見られなくなる。突然声をかけても驚かなくなったし、思いがけないところでばったり出会っても逃げられなくなった。
相変わらず指が触れそうになった時に異常な速度で手を引っ込めたり、至近距離で目が合った時に首がもげそうなほど顔を背けられたり、諸所に笑ってしまうようなところはあったものの────それを笑えると思っている自分がいることに、少し驚く。

彼女の言動には、全くいやらしさがなかった。
僕のことを意識しているのに、まるでそれを必死で抑えようとしているような。
何も期待されていないということが、こんなにも心地良い。もし彼女が本気で僕のことを好いてくれているなら、ひょっとすると僕はとんでもなく残酷なことをしているのかもしれないが────それでも、裏がないとはっきりわかるあの太陽のような顔で微笑みかけられると、幼い頃からがんじがらめにしてきた警戒心の紐が自然と緩んでしまうのだ。

なぜだろう。7年近く同じ学校で過ごしてきてなお全く眼中になかったはずの女子が、今になって気になってしまう。存在自体は知っていたはずだったのに、今になってその色が濃く浮き出ているように思えてしまう。

「おや、かの難攻不落な色男が懸想とは珍しい」
「…懸想?」
「また彼女のこと考えてるんだろ? ハッフルパフのあの子」

プロングズがソファにゆったりと腰掛けながら、訳知り顔で僕の方を見た。

「気づいてるか知らないけど君、最近あの子の話ばっかりしてるよ。まるでリリーに惚れた直後の僕みたいだ」
「はっ、僕が誰かに惚れる? そんなこと────」
「ないとは言わせないぞ。君はただ外面だけで判断された惚れた腫れたの話をされることを嫌がってるっていうだけで、信頼できる人間のことはとことん愛せる奴なんだ。僕らに対する友情しかり、彼女に対する愛情しかり」

横でムーニーとワームテールもうんうんと頷いている。
────どうやら、気づいていなかったのは僕だけだったらしい。

「そうか────僕は、彼女のことが好きだったのか」

一度否定はしたものの、プロングズの言うことに一理あると思った瞬間から腹落ちするまでは早かった。彼女を見た時の高揚感や浮遊感を、どんな感情になぞらえれば良いのだろうとちょうど悩んでいたところだったから。それに"恋"という名が与えられたことで、どこかすわりの良いところに収まったような感覚を得る。

────ただ、不思議な感覚の名前を知ったところで、思ったのは「なるほど」ということだけだった。

「んで? デートはいつするんだ? 告白は? もう卒業まで日がないぞ、早く動かないと」
「────いや、何もする気はない」

やけに浮かれているプロングズに対して思ったことを素直に言いきると、彼はそのまま顎が外れてしまうのではないかと心配になるほど口を大きくあんぐりと開けた。

「何も────する気が────ない?」

いちいち言葉を切りながら言わなくても、意図なら伝わっているだろうに。

そうだ。僕が恋をするのは確かに誰にも止められないかもしれないが、その恋を開示するかどうかは僕の意思でどうにでもできる。そして僕は、自分の気持ちを彼女に渡す気は最初からなかった。

だって。

「考えてもみろよ、僕達は卒業したらどこへ行く?」
「不死鳥の騎士団」
「そこは何をするところだ?」
「ヴォルデモートを倒すところ」
「君なあ…」

間違いではない。間違いではないが────いや、そもそもこの男に人並みの感覚を期待することこそが間違いだった。

不死鳥の騎士団。悪の手がのさばる世の裏側で、敵を駆逐し平和を取り戻す秘密組織。────そう紹介すれば、まるで正義のヒーローごっこのように聞こえるかもしれない。

ただ、実際僕達が赴こうとしている場所は、戦場だった。

これは戦争なのだ。命を懸けた、明日を見られる確証のない本物の戦い。

僕達にとってはそう難しい判断ではなかった。いつだって"普通より少し派手"なことを好み、光だけを追い求めてきた僕達の前に、その道はある意味当たり前に続いていたから。
でも、それが普通のことを好み、闇を恐れる"ごく一般の人間"にとってどういう風に映るかと言われたら話は別だ。

誰もがみんな、そう簡単に自分の命を投げられるわけじゃない。
これについてはプロングズがただ異質なだけだ。両親を説得し、リリーを巻き込み、それでもなお顔を上げて明日を信じられる、これはもはや一種の才能だと思う。

僕には、それはできなかった。

誰かを愛することを知ってしまったら、どこかで判断が鈍る気がする。
何かを信じることを覚えてしまったら、いつかそれに縋ってしまう気がする。

僕が今何の迷いもなく戦火に身を投じようと思えているのは、ひとえに僕が孤独であるからだ。残すものも、守るものもない。ただ目の前の茨を切り開いて、新しい景色を見たいとそれだけを求めているからだ。

そんな僕がこの期に及んで誰かの手を取るなんて。守るだけならまだ良かったかもしれないが、最悪のケースとして彼女自身を巻き込むことにだってなりかねない。
生まれて初めて恋という感情を教えてくれた大切な人に、そんな過酷な運命を背負わせたくなんてなかった。好きだから、幸せであってほしいからこそ、こんな選択しかできない僕の傍にはいてほしくない。

「まあ、言いたいことはわかるよ。好きな子にはいつだってぽかぽかしたお日様の下で綺麗な花に囲まれながら笑っていてほしいからね」
「言ってることとやってることが真逆のようだが、プロングズ?」
「僕はそれでもリリーを幸せにしてやるつもりさ、そう約束したからね。君だってそうじゃないの? どうせ彼女も君にお熱なんだろ、連れて行ってやれば良いじゃないか」
「……」

────それだけは、決して許されない。

「僕は君みたいに器用に生きられないんでね」

わざと卑屈な言い方をすると、僕のそんな言い方を苦手に思っているプロングズは案の定嫌そうな顔をして黙った。それで少し気を持ち直した僕は、戻ったばかりの談話室を再び出て校庭の方へ出るべく玄関ホールへと向かった。

日はもうとっくに落ちており、ぼやけた月が暗い空に浮かんでいた。窓越しにその光景を眺めながら階段を降りると、ちょうど玄関から向かって左側の方から人影が現れた。

「あ」
「お」

我ながら、良いタイミングで歩いてきたものだと思う。そこにいたのは、今しがたその顔を思い浮かべていた彼女本人だった。

「こんな時間に、今度は誰のおつかいだ?」
「今日は私のおつかい。ちょっと暇だったから、夜風に当たろうかと思って」
「奇遇だな、僕もだ。ご一緒しても?」
「えっと、うん。もちろん」

前髪を小さく整える姿が、もう今となっては可愛らしく思えてくる。小さく笑みを零しながら、彼女と2人で外に出た。

「少し意外だったな。君はあまり夜に出歩かないタイプだと思ってた」
「まあ、基本的にはね。でももうすぐ卒業しちゃうし、たまにはこういうことをしてみても良いかなって。ほら、規則を破ってるわけじゃないから」
「わかってるよ、別に誰も責めてないだろ」

校庭をゆっくり歩きながら、中身のない話をする。寮の子がこんなことをしていた、さっきの授業はどうだった、今日の夕飯がおいしかった────彼女のとりとめのない話を聞きながら、残された最後の時間を惜しむ僕。

あと2ヶ月もすれば、僕達はこの箱庭を追い出される。その先に待っているのは、生と死をまっぷたつに分けるような苛烈な戦いの日々だ。もうこんな風に、好きだと思えた子の隣を歩くこともない。時間を気にせず(彼女は気にしているのだろうが)ぶらぶらと散歩をすることもない。

「────シリウスは、卒業したらどこへ行くの?」
「戦場」
「せん…え…?」

何も考えず幸せに浸っていたせいで、質問されたことに対してあまりにも簡単に答えてしまった。彼女の歩みが止まり、僕を信じられないものを見るような目で眺める。

「戦うの…?」
「そりゃ、まあ。戦争だから」
「どうして?」
「────今、外の世界がどうなってるかは知ってるな?」
「…まさかとは思うけど、例のあの人に対抗する秘密組織とやらに入る、なんて…」
「さすが、手技の巧い魔女は耳も早いな」

自分にとっては当たり前の未来だったが、思った以上に彼女にショックを与えてしまったようだった。棒立ちになっているその姿を見て、やっぱりこの想いを秘していて良かった、と思う。

「どうして…?」
「そこを訊かれると難しいな…。ちょっと格好つけて言えば、僕が僕として生まれたから、ってとこか?」
「あなたが、あなたとして生まれたから…」

僕は既に、この命を世界のために捧げるつもりでいる。いつ死ぬともしれないそんな死地に、自らの身を差し出そうとしている。
それを決めたのはもう随分と昔のことだった。不死鳥の騎士団の存在を知る前から、僕は今の世を支配しようとする闇の勢力に対して不満しか持っていなかったから。家族に反抗し、血筋に反抗し、そして次は闇そのものに反抗しようとしている。

もうこれは、誰に決められたものでも、誰の影響を受けた話でもなかった。
僕という人間がブラック家に生まれ落ちた時点で、その運命は決まっていたのだ。そう自然に思えるくらい、僕の思想は固かった。

「そっか…なんだか遠くに行っちゃうみたいでちょっと寂しいね。せっかく7年生になってようやく友達になれたのに」

そうだな、とその時の僕はうまく返せていただろうか。

"友達"という体の良い関係を生み出したのは、僕のせいだ。
こんなことになるなら、初めて会ったあの日、彼女に声をかけていなければ良かった。2度目に会ったあの日、彼女に興味を持たなければ良かった。

いや────本当のことを言うなら、もっと早く"出会いたかった"。

まだそこまで未来のことを確定視していなかった頃。毎日を生きることに全力を費やして、刹那の時を生きていた頃。世界のことなんて何も知らなかった頃。
その時に出会えていたら。その時に恋をしていたら。

僕の言葉は、何か変わったのだろうか。

「私は戦えるほど強くないけど…でも、きっとシリウス達が守ったたくさんの人を支えることならできると思う。お互い、頑張ろうね」
「ああ…」

いくら"もしも"を考えたって、今が変わるわけじゃない。彼女の存在を無視した6年を経た"今"を受け入れることしか僕にはできない。
この今を選んだのは僕だ。そして、これからの未来を選ぼうとしているのも僕だ。今更そこに、誰かを巻き込むことなんてできるものか。争いを選んだ自分が、穏やかな日常を求めることなんてできるものか。

後悔する資格なんて、僕にはない。ただ無情な「友達になれた」「お互い頑張ろう」、そんな言葉を受け入れたふりをして、下手くそだとわかっている笑顔を浮かべることしかできなかった。

その夜は暗かったせいだろう、彼女の顔はあまりよく見えなかった。

それから、再び月日は過ぎていく。
見かける度に声はかけていたし、話も弾んでいた方だと思う。それでも、僕は決して一歩を踏み出したりはしなかった。"友達"のカテゴリーに収まったまま──── 一言「好きだ」と素直になるだけでこの関係がまるきり変わるとわかっていてなお、沈黙を貫き続けた。

「パッドフット、本当に良いのか? もう明日は────」
「これで良かったんだよ、プロングズ。何かを始めるには、僕達の出会いは遅すぎた」

結局そんな距離感のまま、僕達は別れの日を迎えてしまう。
とても短い、そして深い恋だった。

卒業セレモニーが終わった後、彼女は友人と楽しそうに"明日"の話をしていた。早速街へ遊びに行こう、チャリングクロスに新しくできたカフェに行ってみよう。そんなありきたりで平和な未来が、僕の前に広がる細い茨の道からどんどん逸れていく。

「シリウス」

最後に"友達"として挨拶くらいはしておこうか、そう思ってさりげなく近づくと、彼女の方が先に僕に気づいた。

「卒業おめでとう」
「お互いにね」

この顔を見るのも最後。この声を聞くのも最後。
この想いが繋がっていることを知っている。一言呟いてしまえば、一歩踏み出してしまえば、何より欲しい宝物が手に入ることをわかっている。

────だからこそ、これは僕のものにしてはいけないと思った。
この笑顔は、鈴の鳴るような声は、戦場には必要ない。僕が守ろうとしている"たくさんの人"の中でこそ、輝くべきだ。

「もう、明日にはどこかへ行っちゃうの?」
「そうだな、その予定だよ」
「そっか…じゃあ、今日が最後なんだね」

そうだよ。ここで別れたら、もうそれきりだ。そしてそれが、きっとお互いにとってベストなんだ。だから────。

「────ずっと好きだったよ、シリウス」

最後まで何も言わず、いつか下手くそだと笑われた笑顔のまま、綺麗に別れよう。
そう思っていたのに、彼女はあっさりと────まるで初めて見る魔法動物を紹介してくれる時のように、秘密だったはずの言葉を口にした。

知ってた。知ってたけど、気づかないふりをしていた。
だって、それが言葉になって"事実"として確定してしまったら、僕はきっと、固めた決意を揺らがせてしまう。

「────どうして…」

それは何度も夢に見たはずの言葉だった。夢に見ては、自分の手で破り去ったはずの言葉だった。
頭の中で、一瞬にしてバラバラに散らばっていた"もしも"が再生される。もっと早く出会えていたら。もっと気軽に恋ができていたら。未来のことなんて考えず、彼女と今を生きられたら。一緒に授業を受けて、ホグズミードでデートをして、夜中にこっそり校舎を抜け出して────その笑顔を、独り占めできたら。

でも、夢は所詮夢だ。現実には、そんなことひとつも起こりえなかった。
7年生になってからようやく知り合って、今更すぎる恋心を自覚させられて、自分と彼女の未来を天秤にかけて、そして、彼女への想いを全て捨てようとしている。

こんなにも好きになるのなら、いっそ戦うという選択肢を捨てて彼女の手を取れば良いじゃないか、といつか自棄になって思ったこともあった。でも、そう思ったのは本当に一瞬のことで────結局僕には、自分の生き方を変えることができなかった。

彼女をこの手で幸せにしてやれたならどんなに良いだろう。しかし、そのために闇から目を逸らすことはできない。だから僕は、彼女が僕をどう思っているか知った上で、僕が彼女をどう思っているか自覚した上で、それでもなお…最後の最後まで、11歳だったあの頃から何も変わらない────どこまでも自分本位な僕にしかなれなかった。

「いや────なんでもない。どうかその気持ちは忘れて、幸せになってくれ」

漏れかけた言葉を遅まきながらしまいこんで、用意しておいた別れの言葉を告げる。

本当は、僕の知らないところでなんて幸せになってほしくない。
でも、僕の知っているところにいられたら、きっと彼女は幸せになれない。

好きになった子ひとり幸せにしてやれないこんな甲斐性無しのことなんて、早々に忘れてくれ。そして僕にもどうか、君のことを忘れさせてくれ。

「忘れてって────どうして?」

しかし、彼女は納得してくれなかった。
彼女がこれまで僕に何かを期待するような素振りを見せたことはなかった。"最後"に告げられたその言葉も、答えを待つというより、彼女自身のけじめのために用いられたものだったのだろう。だから僕は、それを笑って受け流すべきだったんだ。

ありがとう、良い友達だと思っていたよと、残酷に告げるべきだった。
それを、下手に「幸せになってくれ」と言い換えてしまうなんて、それじゃあまるで────。

「どうしてそんな言い方するの? まるで────」

まるで、僕の方にはまだ未練があると告白しているようなものじゃないか。

言いたいことならわかっている。
このことについては、彼女の方が余程さっぱりとしていた。未練を残しているのは僕の方だ。正しい選択が何かということならわかっているのに、僕は最後まで彼女を冷たく突き放すことができなかったのだから。

「君が笑って暮らせる世界を、僕が必ず取り戻すよ。きっともう会うことはないだろうから、どうか僕の知らないところで幸せになってほしい」

自らに言い聞かせるように、わざわざ言葉にする。

きっともう会うことはない。
僕の知らないところで、幸せになってほしい。

会ってしまったら、僕の傍にいさせてしまったら、この過酷な運命を共に背負わせることになってしまう。僕のせいで、君が傷つくことだってあるかもしれない。
そんな惨い未来と比べれば、この別れの痛みなんてたいしたことない。

履き違えるな。彼女のことを想うというのなら、その笑顔がいつまでも続くように願うんだ。僕の我欲のために好きな女の子の人生をふいにするなんて許されない。好きだというなら、彼女の平和を、幸せを、優先させるんだ。

「────私は、シリウスと一緒にいた時間が何より幸せだったよ」

おずおずと、様子を窺うように彼女が言う。そう言われて初めて、自分がどれだけ酷い顔をしているのか察した。

彼女は、僕の精一杯の強がりを見抜いていた。

「だから、もしあなたが私の幸せを本当に願ってくれているなら────これからも、一緒にいたい、かな」

彼女は、僕が彼女をどう思っていたのか、知っていた。

「もちろん、足手まといにならないように、自分の身を守る術は会得する。あなたが帰る場所を用意して、いつまでも待ってる。ねえ、シリウス。私達が一緒に幸せになることって…できないのかな?」

どうして最後の日に、別れを決意した日に、そんなことを言うんだ。
君さえ僕の前に現れなければ、僕はもっと軽やかにこの場を去れた。
君が僕にこんな感情を与えたから、迷いのなかったはずの人生にいくつもの分岐ができた。

歩む道なら最初から1本しかないはずなのに。
他の道は全てまやかしだ。今の時点では花の咲き乱れる美しい整備された石畳でも、少し通り過ぎればもっと悲惨な地獄が待っている。

だから、その手を取ってはいけない。
だから、彼女の言葉を受け入れてはいけない。

彼女が僕の元へ来てくれると言うのなら、僕は────僕は────。

「僕がこれからどういう道を歩もうとしているのか、知らないわけじゃないだろう」

────きっと血が流れるほど唇を噛みしめて、その時こそ彼女を本当に突き放さなければならなくなるんだろう。

「知ってるよ。その上で私はあなたの傍にいたいって思ったの。もちろんあなたが私のことを嫌いだって言うならきっぱり諦めるつもり。でも環境のせいで拒まれるっていうのは────こっちだって、やりきれないよ」

ずるい言い方だ、と思うと同時に、そんなずるいやり方で微妙な関係の均衡を保ってきたのは他ならない自分じゃないか、とも思った。

「…でも、それじゃあ君が幸せになれない。僕は君みたいな子が平和に暮らせる世界を取り返すために生きるつもりなんだ。君が、笑って生きられる未来を守りたいんだ」

僕と君が見ているものは違う。僕と君が感じていることは違う。
僕と君が生きる世界は違うんだ、だから頼む、そのまま身を引いてくれ────。

「私の幸せをあなたが勝手に決めないで」

彼女は今までに聞いたことがないような厳しい声で、僕の決意を打ち砕く。

そしてその声を聞いた瞬間、悟ってしまう。
違う────"僕の考えていたこと"こそが、違っていたのだと。

きっと今、僕と彼女が考えていることは"同じ"なんだ。僕が人生で一番強い覚悟で彼女を拒もうとしていることと同じように、彼女も人生で一番強い覚悟で僕に寄り添おうとしているんだ。だって、そうでもなければ────。

「あなたが危ないところへ行くと言うなら、私が治療道具をいくらでも揃える。あなたが命を懸けて世界を守ると言うのなら、あなたの守った世界で私が誰よりも大きく笑う。だから、私のところに帰ってきてほしい。私があなたの傍で幸せになってるところを、誰よりも近くで見ててほしい」

────そこまでのことを、こんなに堂々と言えるはずがない。

彼女は全ての曇りを晴らすような顔で笑っていた。初めてその姿を意識した時の、あの浮遊感が蘇る。短くも深かった、あの1年の"現実"が僕の後ろ髪を引く。

「っ……きっと、君が思っているより過酷な道だぞ」

悔し紛れに吐き捨てても、その笑顔が陰ることはなかった。

「でも、シリウスはそれを変えるために戦う。そうでしょ?」

正直で、献身的。僕はその時、確かに彼女の瞳に七年かけて育てられたハッフルパフの精神を見た。無鉄砲で傲慢な僕達にはない、無償の優しさを。

「…必ず、君を巻き込んでしまうことになる」
「それでも良いよ。それが良いよ。何があっても、隣にいたい」

少しずつ、少しずつ、揺らいでいく。

「いつか後悔する日が来るかもしれない」
「そうしたら、一緒に後悔してくれる?」

どれだけ絶望のための言葉を吐いても、瞬時に希望に変えられていく。

そして、その度に思うのだ。
彼女の言葉を信じてみたい、と。

どれだけ苦しい未来でも、彼女と一緒なら笑っていられるかもしれない。
死に急ぐような人生の中でも、彼女がいてくれたらその生を鮮やかに実感できるかもしれない。

愛を知ることで、漠然としていた"守りたいもの"が明確になるのなら。
何かを信じることで、いつ捨てても良いと嘲笑っていた自分の命を長く燃やせるのなら。

彼女の傍にいることで────僕が、またひとつ強くなれるというのなら。
そして、それを彼女が許してくれるというのなら────。

「…本当に、良いのか」

それは、迷いに見せかけた懇願だった。描いては消していたいくつもの夢が、今になって眼前に現れる。
自分の声が、笑えてしまうほど掠れている。自分の手が、泣けてしまうほど震えている。
これから世界を守ろうという身で、たったひとりの女の子の覚悟の前に挫けてしまうなんて、なんと情けないことなのだろう。

それでも彼女は笑っていてくれた。笑ったまま、僕の手の前に自分の手を翳してくれた。

「あなたが良いと言ってくれるなら、受け入れる準備はできてる」

それが限界だった。差し伸べられた手をぐいと引き寄せ、ずっと触れたいと思っていたその小さな体を包み込む。

負けたのは、僕の方だった。覚悟が足りていなかったのは、僕の方だった。
彼女がほしい。傍にいてほしい。好きだ。幸せにしたい。
いつも誰かの喜びのために走り回る君のことを、僕が喜ばせてやりたい。
飲み込んできたいくつもの言葉が喉元で渦を巻き、一瞬呼吸を止める。

「っ────…どれだけ辛いことがあっても、必ず最後には君の元に帰る。どれだけ苦しいことがあっても、必ず最後は君のことを笑顔にする。約束する。だから────忘れないでほしい。僕と…一緒に、幸せになってほしい」

彼女は黙ったまま、ぎゅっと僕の背を抱く腕に力を込めた。
触れたところから、温かい何かが体の中に流れ込む。
小さくて重たい約束を交わしたその時、僕の心が確かに軽くなったことを感じた。

なんだ、考えてみれば、守るものがひとつ増えただけじゃないか。大切な人ひとりを守れずに、どうやって世界を守るつもりだったのだろうと、今なら昔の自分を笑ってやれるような気がした。







大切なお友達、もなちゃんに捧げます。









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