ラインを踏んで



※1章後〜2章前







そういう日、あるじゃん。

朝寝坊しちゃって遅刻しかけたりさ。
十分に支度する時間がなくて寝ぐせを散々揶揄われたりさ。
ちゃんと予習できてなかった部分に限って授業で当てられたりさ。
購買のパンの争奪戦に負けたりとかさ。
校舎内を歩いてたら物陰から自分の悪口が聞こえちゃったりさ。

あるじゃん。

でもさ。

別に1日に全部発生させなくたって良くない?

ひとつひとつのことなら「あーあ、今日はツイてないな」って、それでも笑って済ませられたと思う。
でもその日は、そんな"ツイてない"出来事が一挙に私を襲ってきた。

どうしてこうなったのかな。
昨日、たまたま元の世界のことを考えちゃってたのが悪かったのかな。

昨日の夜、「いつ戻れるんだろう」なんて、最近では思うことすらなくなってきていた…そんな"出口のない闇"が久々に足元を這ってきたものだったから、つい私は入学当初のことを思い出してしまったのだ。

どこから来たのか、誰にもわかってもらえない。
どこへ帰れば良いのか、誰も教えてくれない。

言葉だけは幸い通じたけど、お金もスマホも持たないままにお世辞にも"優しい人"とは言えない人達に囲まれて、あの頃の私は毎晩泣いていたっけ。
友達ができて、頼れる先輩にも顔を覚えてもらえて、無二の相棒とも楽しく会話ができるようになったのはまだ最近になってからのことだ。
それでもちゃんと、日が経つにつれ、私の涙の数は減っていたはずだった。

だから久しぶりに"私の本来いるべき場所"を思い出して、孤独な自分があまりにも哀れに思えてしまって、忘れたはずの涙がまた心の隙間を埋めていくあの絶望的な感覚に流されてしまった。

幸いにも同じ"ひとりぼっちだった"境遇の相棒が「どうしたんだ!? 腹でも痛いのか!?」と大事にしていたはずのツナ缶をひっくり返しながら駆けつけてくれたので、私のそんな些細な悩みはすぐにどこかへ逃げて行ってくれた。…と、思っていた。

でも、もういい加減諦めた方が早いだろうと思えるほどの時が経っているというのに、まだ未練がましく元の世界のことを想ってしまったから。

────だからこんなに今日は悪いことばかり起きたんだろうか。

放課後になって、誰もいない校舎裏の木陰にひとり座り込む。
グリムは今日、デュースに誘われて陸上部の体験入部(という呼称が正しいのかはわからないが)をしに行っていた。どうやら昼休みに些細なことで喧嘩をしたのが原因らしい。「こうなったら放課後、レースで勝負だ!」「望むところなんだゾ!」といがみあっていた2人を呆れながら見ていたものだった。

だから、今だけはひとり。

塵も積もれば山となる、とはよく言ったものだと思う。
ひとつなら笑って済ませられることでも、それが1日ずっと続いてしまうと流石の私もちょっとはへこむ。
しかもそれが、"私の居場所なんてないんだ"と再確認させられた翌日のこととあれば尚更だ。頑張ってこの世界に順応しようとしてきていたが、こうなるといよいよこの世界における自分の存在意義を見失いそうになってしまう。

魔法も使えなくて、筋力も知識もお金もなくて、みんなほど現実を割り切れない私。
どうしてこんなところに来てしまったんだろう。
何もかもが歪んだ世界に、どうして私が選ばれてしまったんだろう。

もっと相応しい人がいたはずだ。
魔法が使えて、力や知能やお金があって、過酷な現実に立ち向かえるだけの精神を持っている人が。

ここは名門校だと聞いていたし、入学を望むどころかその存在すら知らなかった私より、ずっとこの学校へ通うことを願っていた人だってごまんといたはず。

私はただ普通に暮らしたかっただけなのに。
魔法なんて使えなくて良いし、成績だってそこそこで良いし、悩んだり笑ったりしながら、それでも"同じ世界の人"と生きていられたらそれで良かったのに。

どうして私だったんだろう。
どうして私がこんな非日常の中に放り出されなきゃいけなかったんだろう。

ああ…頑張るって、意外と難しいな。

らしくないとはわかっていながらも、顔を上げられない。
誰の目にもつかない、太陽からさえ隠された小さな木の陰でちっぽけな自分の無力さを反芻していると────

「お、こんなとこにいた」

頭上から、明るい声が聞こえてきた。

溢れそうになっていた涙を必死に堪えて、上を見上げる。
そこには、太陽の光に照らされて眩しく笑う友人の姿があった。

「エース…」

なんだろう。授業で散々怒られたこと、笑いにきたのかな。
正直、今はあまり会いたくないな。

どういうつもりで来たのかは知らないが、急用でないなら放っておいてほしい。一瞬空へ向けた視線をすぐまた地面に落としながら、私はエースの用件が告げられるのを待っていた。

すると、彼は私を笑うでもなく────それどころか何を言うでもなく、おもむろに隣に腰掛けたのだ。

「どうしたの…?」

仕方なく、こちらから尋ねてみる。
同じ日陰の中でも、彼の横顔はなんだか眩しく見えた。当たり前だ、彼はこの元々"この世界の人"なんだから。理由もわからず転がり落ちてきてしまった私なんかとは違って、正式に素質を認められ、持つべきものを持ってここへやってきた人なのだから。

同じクラスのよしみとして彼には何かと世話になっている。入学早々に揉めたりもしたし、反面彼の寮で起きた問題には一緒に対処だってした。名前も知らない他の生徒よりかは、そりゃあそこそこに心を許せる相手だとは思っている。

でも、私はまだ彼と自分との間に境界線を引いていた。
"異世界の私"と"この世界にいる彼"。どれだけ私にとってこの世界が歪んでいても、彼にとってはこの世界こそが正しい。

そこそこの友情を育むに十分な交流はしてきたつもりだったが、世界に弾き出された気持ちになって落ち込んでいる今の私に、少々彼の光は眩しすぎるくらいだった。

「これ、やるよ」

エースはそんな私の心中など知らないまま、唐突に持っていた菓子パンを私に放って寄越す。

「…イチゴサンドだ」

それは、昼休みに急いで購買に駆け込んだ末、結局私の前に並んでいた人に最後のひとつを買われてしまったイチゴのフルーツサンドイッチだった。

「…なんでエースが持ってんの」
「さっきポーカーで勝ったからもらった。お前、昼間これ相当欲しがってたろ」

そんな戦利品、私がもらってしまって良いのだろうか。

「あ、あとな、さっき授業終わりにちょっと聞いたんだけど、トレイン先生がお前のこと心配してたぜ。普段ならちゃんと予習して来てるのに今日は全然冴えてなかったから体調でも悪かったのか、ってさ」

拾い食いでもしたんじゃないっすかね、って答えといたからな! と言うエースはとても楽しそうに笑っている。

「つーかまだ寝ぐせついてんじゃん。今更だけど直してやるからほら、後ろ向いてみ?」

エースの言葉は弾丸のように続く。思ってもみなかったことばかり言われ、どう反応したら良いかわからずにいた私の首を強制的にぐりんと回し、彼は持っていた男性用の整髪スプレーを髪にかけてくれた。乱暴な手つきで髪を撫でて、「よし」と言ってはまたぐりんと元の位置に首を戻される。

────いや、ありがたいんだけどさ。
それ以上にさ。

「…何しに来たの、ほんとに」

イチゴサンドを渡したり寝ぐせを直したりするためだけに、彼がわざわざこんなところまで来るわけがない。それどころかここまで施された以上何かまた対価だなんだと言って面倒事でも持ち込まれるんじゃないかとさえ、私は思っていた。

「いや? 特に用とかねーけど。つかダチ見かけたら声かけんのフツーじゃね?」

しかしエースは逆に私の発言の意図が読めないというような顔で首を傾げていた。それを見て、私の口からは失礼とはわかっていながらも思わず溜息が漏れてしまう。

…どうしてひとりになりにきたのに、それさえさせてもらえないんだろう。
この異世界の中で"自分でいられる場所"を探しに来たはずなのに、どうしてその異世界側の人がズケズケと入って来るんだろう。

「…なんでそんなことするの?」
「え?」
「私、この世界の人じゃないんだよ。魔法も使えないし、どこから来たのかだってエース達にはわかんないんでしょ。私と一緒にいるメリットなんてないじゃん」

塵で作られた山が土砂崩れを起こしていく。…そう気づいた時には、もう遅かった。

彼の厚意に思った以上に苛立ってしまった私は、ついそんな棘のある言葉を放ってしまったのだ。

────ああ、こんなことを言う自分にだけはなりたくなかったのに。

私は知らない世界の中でも十分頑張ってきた方だと思う。
たとえこの世界に嫌われていたとしても、自らその場所を締め出すような真似だけはしないようにって言い聞かせていた。最初からここに私がいるべきじゃないことなんてわかっている、それでも来てしまった以上、何度泣いてもその後にはちゃんとまた、元の世界に戻れるまでこの世界にしがみついていようと思っていた。

でも私は今、泣くよりもっと悪いことをしてしまった。

絶対にこの悲しみを人にぶつけることだけはするまいと、自分と約束していたはずだったのに。
思っていても言葉にだけはしないと、ひとりで泣いてもみんなの前では笑顔でいようと、そう決めていたはずだったのに。

本当は優しくされたいよ。でもここにいる"人"にどれだけ優しくされても、"世界"は私にもっと大きな孤独を与えてくるから。
本当は受け入れられたいよ。でもここにいる"人"にどれだけ受け入れてもらえても、決して"世界"にだけは受け入れてもらえないから。

だから私は優しさを甘受するふりをして、受け入れられたような大きな顔をしていた。
世界に抗おうとしていた。優しくしないで、受け入れないで、と言ってしまいそうな自分を、ずっと律してきた。

それが、瓦解してゆく。

この孤独は誰にも知られまいと決めていたはずだったのに、一度出てしまった言葉はもう戻ってこない。

"私と一緒にいるメリットなんてないじゃん。"

それは、私がずっと世界に言われ続けていた言葉であり────だからこそ、絶対に自分からは言いたくない言葉だった。

どうしよう。
せっかく厚意で私の隣に来てくれたのに、自分から遠ざけるような真似をしてしまった。

でもさ、エースもそんなことはわかってるでしょ。
私がここにいるべき人間じゃないって、わかってるんでしょ────。

「メリット? そんなん楽しいからじゃね?」

どんどん卑屈になっていく私の心に届いた彼の答えは、至極簡潔だった。

「そりゃ先生からすりゃお前の魔力とか成績とか気になるのかもだし、それこそ学園長もアレでいてお前の出自とかはそれなりに気にしてるみたいだけどさ。オレら生徒にはそんなん関係ねーし。お前がオレにとってイヤな奴じゃなきゃ、別にわざわざ遠ざける意味もないっつーか。…言ってること、わかる?」

呆然としている私を見て、自分の言っていることが理解できなかったのかと言わんばかりにエースは顔を覗き込んできた。

わかんないよ。

"わかりたかった"のに"わかるわけがない"って言い聞かせてた私に、そんなことがわかるわけないじゃん。

「まあなー。今日のお前マジ悲惨だったからな、要らないことまで考えてへこむのもまあ想像つくけど」

でも、そんなのは"たくさんあるうちの1日"に過ぎないだろ、とエースは笑う。

「それにさ、考えてみりゃそれぞれみんな別の故郷があるのなんて"当たり前"じゃん? オレやデュースは薔薇の国の出身だけど、ケイト先輩は輝石の国の出身だし。あ、あと知ってっか? オクタヴィネルの寮長、うちのリドル寮長と並ぶ秀才で魔法もバリバリ使えるけど、空飛べないって噂があるんだって」

魔法が使えないのも、私が"ここではないどこか"から来た異邦人だということも、彼にかかればその程度の問題らしい。
誰にでも"元の世界"はあって、誰にでも"できないこと"はある。

賢い彼のことだから、私の場合その差異のスケールが途方もなく大きいことくらいはわかっているのだろう。
でも、彼はそう言ってくれた。私の悩みは"要らないこと"だと、笑い飛ばしてくれた。

「…私、ここで生きていけるかな。ちゃんと」
「それは知らねーよ。お前次第じゃん?」

突き放すような答えに、思わずうっと声が詰まる。
それができないんじゃないかって迷ってたから、ここに来たのに…。

再び落ち込みかけて手元に目を落としたところで、ふと"さっきまでとは明らかに違う"ものが目に入った。

今手元にあるのは、私がお昼に食べたかったイチゴサンド。
放課後まで直し切れなかった寝ぐせも…もう今は綺麗にまとまっている。

ああ、そうか…。

お前なら大丈夫だよって。
お前ひとりじゃ無理でも、オレらがついてるよって。

そりゃあ、素直じゃないエースがそんなことを真正面から言う方がおかしい話なのだ。
だからこれはそんな彼の、最大限に"わかりやすい"答えなんだろう。
あるいは、彼なりの信頼の表れでもあるのかもしれない。

そう思うと────悲しみと絶望で埋まって塞がってしまった心に、風穴が空いたような気持ちになる。

励ましてくれてありがとう。
攻撃するようなことを言ってごめんね。

そう言おうとして顔を上げた時、ちょうど遠くからグリムとデュースが走ってくるのが見えた。

「聞いてくれ子分ー! オレ様デュースとの勝負に勝ったんだゾー!」
「おい! あれはどう考えてもノーカンだろ!」
「あんなとこで足を止めたデュースが悪いんだゾ!」
「あっ、あれは昼間に監督生の悪口言ってた奴らがヘラヘラ笑って歩いてたのが悪いだろ! 魔法が使えないだけで侮辱してくるような奴にはこっちだって拳一発くらいお見舞いしなきゃ気が済まないっていうか…」
「へへーん、オレ様だってその後炎吹いてあいつら黒焦げにしたんだからタイムロスしてるのは同じだもんねー。その上で負けてるデュースに今更ぐだぐだ言われたくないんだゾー」
「遠隔射撃ができるお前と同じロスなわけないだろ!」

性懲りもなく言い争いながら、誰にも見つからないはずの木陰へ入ってくる太陽たち。

ああ、眩しいなあ。

でも、あったかいなあ。

世界に弾き出されても、その世界の真ん中から迎えに来てくれる人達。
不安が消えたわけじゃない。悲しみや恐怖が薄れるわけじゃない。

でも、私はひとりじゃなかった。ひとりになんて、なれなかった。
エースだけじゃない。デュースもグリムも、どこにいても私を見つけ出してしまう。
私が孤独に呑まれる前に、その場を明るく賑やかにしてしまう人達。
私が悲しみに暮れる前に、悲しみを忘れるほど笑わせてくる人達。

私の感じた"よくある"悩みなんて、全部吹き飛ばしてくれる人達。
世界にどれだけ嫌われても、この人達だけは私の傍にいてくれる。

────それって、もう無敵なんじゃない?

この人達がいてくれるなら、私、この先どんなことになっても頑張れちゃいそうじゃない?

「ど、どうした監督生! どこか痛いのか、それともまた誰かに嫌なこと言われたのか!? 言ってみろ、僕が代わりにお礼参り行ってやるから…」

今までずっと堪えてきたものが発散された瞬間、涙がひとつ、目元から零れてしまった。
途端に喧嘩の手を止め、デュースが慌てて私の目の前にしゃがみこんでくる。

「お前のそういうすぐなんでも喧嘩の種にしてくるとこ、マジどーにかなんないわけ?」

エースは呆れ返っているようだったが、私は自分の目元を拭った時、その涙が温かいことに気づいて────そして、そのままその温かさが指先から全身に広がっていくような感覚を抱いた。

「ううん、大丈夫。2人の喧嘩がおかしすぎて笑ってただけ」
「なっ! じゃあ今度は監督生も見ててくれ、次こそイチャモンなんてつけられないほど正々堂々勝ってみせるから!」
「次もオレ様が勝つんだゾ! 子分もよく見とけ!」

大丈夫。

大丈夫だよ。

私、まだこの世界でやっていけそうだから。

その日私は、いつかの自分が強く引いた境界線を、初めて踏みにじることにした。







「隣席」から「マブダチ」への一歩。

監督生が落ち込んでいる時、エースはきっと事情を察して必要なケアだけを的確にしてくるんだろうな。でもデュースはそこまで気が回らないから、どうしたら監督生が笑ってくれるかだけ考えてすぐ拳に頼ろうとするんだろうな。

そんな妄想から生まれたある日の話でした。

でも一番監督生の寂しさや悲しみをわかってくれるのは、きっとグリムです。









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