その矢は時を越えて



彼女の姿を初めて見た時、"初めて"であるはずなのに、そこに覚えたのは"懐かしさ"だった。

「よく来たな、新入生。NRCへの入学を心から祝おう。大いに学び、遊び、眠り、充実した日々を過ごすと良い」

聞けば、"彼女"は異世界から突如としてツイステッドワンダーランドに落とされた身とのこと。右も左もわからず、魔力も持たないままあちこちの治安の悪い生徒に絡まれ、肩身が狭そうに毎日を送る姿は、とてもわしの知っている"彼女"とは程遠い雰囲気を纏っていた。
出会った時の既視感、そして"異世界からやってきた"という特殊な環境、もしかすると────と、過去生きてきた中で起きたいくつもの"奇跡"を走馬灯のように思い巡らせながら淡い期待を描いていたのだが、その期待も日が経つにつれてどんどんと希望が持てないものになってきた。

彼女は、"彼女"とは別人だ。そう、早々に諦めをつけるのも、年の功というもの。



「もしまた出会うことができたなら、今度は戦場なんて血生臭いところじゃなくて、花の香りに囲まれた平和な世界が良いわ」
「くふふ、それも面白そうだが、某は生憎弓を取るお主の背に惚れ込んでしまった身…。花畑の中では、お主をお主として見つけられないやもしれぬぞ?」
「まったく、リリアったらすぐそういう冗談ばっかり言うのね。大丈夫よ。あなたが意地悪をして私の姿を見過ごしたとしたって、また私があなたの目の前にうるさいほど現れてみせるわ。ああそうだ、お望みなら、今度はあくまで自分達のご飯を調達するために、狩りとしての弓を使う姿をお見せしようかしら」
「何度生まれ変わっても、お主は某を惚れさせたいんだな」
「もちろんよ。こんな出会い、きっと何万年生きていたってそうそうあるものじゃないわ────それにあなただって、本当は私と別れたくなんてないんでしょう?」
「……そうだな。人の寿命はあまりに短い。まさか某まで"生まれ変わり"に縋ってしまうとは……。これも全て、長寿族の悪い性だ。お主が生まれ変われとて……某にもう一度出会える確率など、それこそ天文学的な数字としか言えんとわかっているのに」
「…大丈夫。私とあなたなら、必ず再会できるわ。だってこれは、"運命"なんだもの」




数百年前の記憶が、脳裏に蘇る。
"彼女"はああ言ってくれたが、それが全て人間の詭弁であることなどわかっている。遺された者に勝手に希望を与え、勝手に命を尽かしていく。それが人間。わしだって、相手が彼女でなければ、早々に"人間らしい"そんな希望は自ら捨てていただろう。

人の命は短い。だからこそ、それを遠くから眺め、限られた時間の中できらめくその輝きを、微笑ましく見守っていられれば、それで十分だった。
少なくとも、自分の人生は最後までそうありたかった。早い段階から妖精族が他種と交われない生き物であることなど理解していたので、誰にも深く干渉させたくなかった────というのに、"彼女"だけは、数百年経ってもなお、己に消えない記憶と希望を与え続ける。いや────恨み言のように言うのはやめよう、その記憶と希望を抱きながら長い生を過ごすと決めたのは、他ならない自分なのだから。

他の全てを忘れてでも、彼女の記憶だけは────。

「────リリア先輩?」

目の前の"彼女とよく似た監督生"は、空き教室で暇を持て余しがてらつい過去に耽っていた自分の顔を、突然純朴な顔で覗き込んだ。いつの間にこんなところにいる自分を見つけ出したのだろう。
そこには命のやり取りを経験した者だけが纏う独特な雰囲気などない。綺麗なものだけを見てきた瞳、困っている人を無条件で救おうとする優しさ、そして、年相応に困難を打ち破ろうとする諦めの悪さ。彼女はあまりにも、"普通の人間"過ぎた。

過酷な戦場を知っていた"彼女"は、綺麗なものも汚いものも平等に見ているが故の複雑な瞳をしていた。困っている人がいようとも、大局を見て見捨てるだけの冷酷さを持っていた。困難にぶち当たった時でも、一度は諦めたり撤退をしたり────戦局を俯瞰的に見て、退却するべきという現実も知っていた。監督生とは、真逆の"人間離れした人間"だった。

それなのに。
ふとした笑顔が。
転生したら花畑で出会いたいと、人並みの少女のような夢を持っていた彼女の笑顔とよく似ていた。

何度死のうとも、必ず己の前に現れてみせると自信たっぷりに言っていたあの言葉が、いつか監督生の言っていた「元の世界に戻る日が来ても、いつかまた皆さんに会いに行きますから!」という無根拠な言葉と重なっていた。

だから、放っておけなかった。
もしかしたら、本当に監督生は、"彼女"なのかもしれないという希望が、捨てられなくて。まったく、あれだけ人間の戯言を馬鹿にしていたというのに、まるでこれではその人間と同じではないか。

「リリア先輩って、たまに私の顔を見て変な顔しますよね」
「変な顔、とな?」
「私のこと…ではなさそうなのに、なんだかこう、物事をバカにしているような笑みっていうか…。不思議な感じになる顔です」
「ほう、おぬしはわしをよく見ておるのじゃな」

悪戯っぽく言いながら、先程覗き込まれたお返しに彼女の顔も覗き込み、ついでにその柔らかい頬を両手でぷにぷにとつまんでやった。

「そんな、よく見てるなんて…!」

監督生の顔はそれだけで真っ赤になる。初々しいものだと愛らしく思うが────

「えへへ、気づいてもらえて嬉しいです。私、リリア先輩のこと大好きなので、いっつも見てます!」

────彼女はいつもこういう反応をするので、愛らしいという感情はすぐに「面白い」という興味へと移る。

「よく見ているだけでなく大好きとな…くふふ、おぬしは本当に素直で良い子じゃのう」
「まあ、それだけが取り柄とも言えますからね」
「素直なのは良いことじゃ。そういうところはあやつともよく────」
「… "あやつ"?」

おっと、いけない。つい彼女の面影に釣られ、"彼女"の話をするところだった。

「いや、なんでもない。長く生きていると色んな人間に出会うからのう、それだけ見てきたものも多いというだけじゃ」
「リリア先輩…」

監督生はそこで、一瞬こちらに探るような目を向けた。たかだか16年そこらしか人生経験のない小娘に探られたところで、何も出てくるものはないのだが。それでも、たまに彼女はこういう顔になる。

「……その"あやつ"って、"私に似ている昔の恋人"…とか、そういう存在の人ですか?」
「おっと…」

彼女との関わりを持ち始めて半年程。魔力が使えないことによる彼女の不利な事態は、学園全体を見ている中で特によく目についていたので、確かに何かとサポートに入ることも多かったのだが…。
わしにとっては大したことのない、例えば目に入った教室の隅の埃をスイッと払う程度に過ぎない行為でも、彼女の短い人生における、非日常の続く濃密な時間の中でなら、わしは重要観察対象にされるに十分な出来事が続いたと言えるのかもしれない。

しかし、わしは自ら進んで過去の話をしたことはなかった。
彼女が"彼女"に似ていたから目をかけていた、それは事実かもしれない。でも、そこで彼女と"彼女"を混同させることは決してなかったはずだ。

それでも、彼女は気づいた。相手が見ているものが、"自分"ではないことに。

「…気づいておったのか」
「まあ、なんとなく。そもそも何かの理由がなければ、リリア先輩が私みたいな"何もない人間"にここまで良くしてくれるはずがありませんしね」
「おぬしも相当ナイトレイブンカレッジの風潮に染まってしまったようじゃのう…しくしく。入学してきたばかりの頃の純粋無垢な少女はどこへ行ってしまったのやら…」
「あはは、そりゃああれだけの短期間にトラブルに巻き込まれてきたら、変な経験ばっかり身につくってものじゃないですか。それで〜? リリア先輩ほどの方が惚れ込んだ"私似の美人で強くて優しい女性"って、どんな方なんですか?」
「…どうやらおぬしは要らない経験までしてしまったようじゃなあ…」

随分と傲慢な物言いだったが、それが冗談であることなどとっくにわかっていたので、呆れた溜息をつきながらも、彼女の頭をわしゃわしゃと無造作に撫でる。「うわー、髪がー!」と叫びながらも、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。

でも。
わしは、知っている。

この幼き少女が、こんな老いぼれに"恋"をしていることを。

やめさせようと思った。距離を取って、自分は人間ではないこと、異種族の恋が叶うわけがないこと、そもそも自分の生きる場所に彼女が相応しくないこと────冷酷な現実まで、ちゃんと伝えてきたつもりだった。告白こそされなかったものの、それでも気づいてしまった以上は、彼女の方から納得して身を引けるよう節々に匂わせてきた。

もちろん、異種族の恋の難しさや、戦場で生きてきた自分と平凡な日常を好む彼女とでは釣り合いが取れないだろうと、そう告げてきた言葉に一切の嘘はない。
それでも、仮に彼女がその全てを受け入れ、それでもなお────と言ってきたところで、わしにはそれに応える気がなかった。

体の良い言い訳で離そうとしたのは、老人の悪癖だと自覚はしている。
でも、わしには────"彼女"しかいなかったのだ。

似ていたから庇護した…それなのに、"それ以上"は許さない。そんな身勝手、どれだけ我が身可愛さが有り余る行動なのか、そしてそれがどれだけ彼女にとって惨い仕打ちであることか、それはわかっているつもりだ。
何年年を重ねようとも、こういう感情の消し去れない事象に対して大人気ない矛盾した言動を取る自分の過ちには、それこそ閉口するばかり。

懐かしんでいれば良かっただけなのに。その現身のような姿を見て、陽だまりの中で笑う彼女が"わしを見つけられなかった生まれ変わり"なのだと信じて、遠くから微笑ましく眺めていればそれで良かっただけなのに。
下手に干渉したせいで────今、目の前にいる監督生に、要らない傷を負わせてしまっている。

────遅くなってしまったが、そしてやり方はあまりに悪手でしかないが、ここらで一度、ちゃんと線を引く時が来たのかもしれない。彼女のためにも、わし自身のためにも。

「────おぬしは、本当にそれを聞きたいのか?」
「どういう意味ですか?」
「おぬしがわしに、人並み以上の感情を持ってくれていることは知っておる。その上で、おぬしも自分がわしの……"誰にも替えられない人"と重ねられていることを、知っておる。この話はきっと、誰も幸せにしない話じゃ。全てが過去のことであり、話したところで"わしら"の未来はない。先に言わなければならない…わしは、おぬしのことを、対等な"恋"をする相手としては…見られないんじゃよ。すまないとは、思うておるが……」

監督生は一瞬、ポカンとした顔をした。それが意外性を感じてのものなのか、それとも別の感情からくるものなのかはわからない。ただ、今ここでどれだけ彼女に責められようと、それは全てわしの曖昧な決断力に欠ける行動のせい。好きなだけ怒れば良い、軽蔑すれば良い、そして、離れてくれれば良い────そうしたら、わしはまた、身勝手にもひとり、昔の思い出に浸り続けるのだろうから────その時こそ、"彼女"によく似た少女を遠い遠い場所から眺めながら。

「…すまないって、なんでですか?」
「は?」
「いや、全部わかってますよ。私は確かにリリア先輩が好きです。何度も救われて、いつ会っても良くしてくれて、面白いことを教えてくれたり、辛い気持ちになった時には親身になってくれたり…。恩を感じる相手から、いつしか"恋"を覚えるほどの存在になったことは、事実です。そして多分、リリア先輩がそれに気づいているっていうことも、わかっていました」

理路整然とした言葉で、彼女は全く動揺する素振りを見せずに話す。

「そして同時に、リリア先輩がそこまで私にしてくれるのは、きっとその"忘れらない人"のお陰だろうっていうこともわかっていました。最初は…うーん、ショックだったのかなあ。結局リリア先輩にその女性の存在がなかったら、私はここまで良くしてもらえることはなかったわけですからね。ちょっとは悩みましたよ。でも────」
「でも…?」
「でも、なんだか日が経ってみたら、それって逆にラッキーなのかも! って思ったんです。あ、ごめんなさい…今から私、すごく最低なことを言うので、軽蔑してもらっても全く構わないのですが…。その女性と私がたまたま似ていたお陰で、私は大好きなリリア先輩にこんなに可愛がってもらえるのだとしたら、私はその人に似ていてて良かったな、っていつしか思うようになって…」

勢いよく話し始めていたくせに、急に尻萎みになる言葉。

「最悪ですよね。私、リリア先輩の思い出を利用していたんです。別に、リリア先輩との恋が成就することなんて望んでいなかった。リリア先輩…ならきっと意図してのことだと思うんですけど、私とリリア先輩が結ばれることはないって、ずっと前から先輩は私に言外に伝え続けてくれていましたよね。それでも私が先輩の傍に居続けたのは、"彼女"の存在があったからなんです。彼女の影がある限り、リリア先輩が私を放っておけることはないと思ったから。私はリリア先輩の言う通り、いつ元の世界に帰るかもわからないし、そもそも妖精族と比べればかなり寿命も短い種族。それなら、その短い人生、溢れた非日常に浸っていられる間に、好きな人の傍にいる口実を少しでも多く見つけて、少しでも長く一緒にいたいと思ってしまったんです。────言ってしまえば、あなたを利用していました。ごめんなさい」

そして最後には、深い礼と共に出される謝罪の言葉。
正直、面食らった。

「…………」

なんと、返そうか。ここまで真摯に向き合ってくれる彼女なのだ、きっとわしもそれ相応の真面目な言葉を掛ける必要がある────……それは、わかっていたのに。

「あ…あはは! わっはっは! そうかそうか、おぬしも相当強かな女じゃのう! "あやつ"には及ばんが、今になってその言葉が吐けるのは相当肝が据わっておる! ますます気に入ったぞ、"監督生"! お前は本当に愛いやつじゃ!」

出てきてしまったのは、腹の底から溢れ出る笑いだった。

「あ、え、と…?」

当然、監督生は戸惑ってしまう。わしの感情を害すことを想定して謝ってくれたのだから、当たり前のことだろうとは思う。それに、そんな真剣な態度に大笑いで返すなど失礼にも程がある────わかっているのに、笑いが止まらない。

自分が想い人から他人と重ねられていると知っていながら、それを利用する。自分の恋心に偽りなど全く作らないまま、使える手段を使って相手に近づく。
ああ、監督生がもし然るべきところで育ち、然るべき訓練を受け、然るべき場所に出されていたのなら、さながら"彼女"と気の合う参謀家になっていたことだろう。

────それでも監督生は"彼女"には、なりえないのだが。

「そういうことなら、わしもおぬしに"彼女"の話を聞かせよう。己の中途半端なおぬしへの態度はもちろん反省しておる。でも、全てを知ったおぬしがそう言ってくれるのなら、せめて卒業か、元の世界に帰るその時が来るまでは…。お互い、利用し合いながら共に在りたいものじゃな」

笑ってそう言うと、彼女も心からの笑みを浮かべて、「ええ、是非!」と応じてくれた。
────そういうところは、本当に可愛らしいと思えた。己の年が年だ、もうこの少女に恋心という青い春を届けることはできないのだろうが、まるで年上の親戚を慕う娘に近しい存在のように、あるいはこれもいつかは忘れられない出来事となるような、名前のつけられない関係の相手のように────…自分なりに、彼女のことを"人として"尊重したいと思う。

「わしと彼女が出会ったのは、戦場の真っ只中だった」
「おお、やっぱり入りがドラマチックですね」
「…その頻度で茶化しておると、終わる頃には喉が枯れるぞ?」





そう、戦場の真っ只中だった。
領土争い、クーデター、当時の茨の谷では色々なことが起きていた。一応王国としては栄えており、きちんと政治の体制も整っていたはず。それでも、今ほど歴史と強大な力が培われていたわけではない我が国には、争いがいつも付き物だった。

わしが王族直属の戦士として任命されてから、数十年が経った頃だろうか。そう、数十年が経っても争いは決して鎮火していなかったのだ。むしろ激化するばかりで、その時には何の策も機能しておらず、前線で戦う者が敵も味方もひっくるめて目の前の者を倒すことしかできなくなってしまっていた。

それでも、与えられた任務はこなすのみ。幸い身体能力にも魔力にも恵まれていたわしは、誰よりも前に出て、向こう側から突き進んでくる重たい甲冑を着た他国の敵を斬り伏せ続けていた。それこそ、息つく暇もなく。

呼吸は、それほど大事なものではない。わざわざ溜息をつく時間など取らなくたって、一瞬体を立て直す時間さえあれば、すぐに次の標的に攻撃をしかける準備ならできる。
しかし、連戦連夜、それが続けば、わしとて…ただの一兵だ、隙のできるタイミングはやってくる。

当時の敵は既に「わしを倒せば茨の谷の軍は瓦解する」と思い込んでいたらしい。標的を一気にわしと定め、その一瞬の隙を狙い続けていた。
一人、斬った時。後ろから敵の気配があることはわかっていたので、着地すると同時に足を踏み替えて視線を変えた────のだが。

着地を、失敗した。
膝をついてしまったのだ。地面についたはずの足、その足首を、捻ったせいで。

戦場において、その隙は命取り。ここまで数十年戦い続けていたが、その中で驕りも生まれてしまったのだろうか。慢心していたつもりはなかったが、自分が万能ではないということを、それこそ瞬時に悟った。命の終わりと共に。

「────ッ!」

敵の、渾身の大剣による攻撃が空から翳される。
申し訳ありませんでした、国王、王妃。このリリア、このような雑兵に最期を取られるとは────。

その時。

ヒュンッ。

遠くから、何か細いものが飛んでくる音がした。次いで、グチャリという、まるで肉に刃物が刺さったような音。その後、ドサリと重たいものが倒れる音まで、セットで。

────わしに剣を向けていた敵は、わしの体を斬る前に、地面に臥していた…その命を失った状態で。よく見れば、その体には一本の矢がまっすぐ心臓を貫いているではないか。

現状を把握する前に、次の敵が現れる。何が起きたのかはわからないが、この敵が遠くからの射手によって心臓をひと突きにされたことは間違いない。

自分の命は助かった。それならば、その矢の持ち主を考えることも、どうしてこの戦況が目に入っていたのかも、確認するのは後だ。何せ、敵はまだ大勢いるのだから。

しかしその後の戦いは、随分と楽なものになった。わしはただ、目の前の敵だけを倒せば良くなっていた。それ以降も背後から殺意を向けられていることには気づいていたが、振り返る前に同じ弓矢の音が聞こえ、そしてその命の絶える音も聞こえてきていたから。

────夜になり、一時休戦。
森の中に簡素な野営の支度を整え、ひとりで武器の手入れをする。
その時だった。後ろに一人分の気配を感じたため、すぐ臨戦態勢に入りながら振り返る。

ただ、その気配に殺意はなかった。振り返った先にあったのは、一人の女性の穏やかな顔。





「────おぬしがグリムと戯れている時の顔と似ておったぞ」
「ええ…戦争の真っ最中にそんな楽しそうな顔、できるものなんですか…」
「できるからこそ、彼女は王国きっての弓矢使いになれたんじゃよ」
「なるほど」





「お疲れ様です。貴方は…リリア右大将ですよね? お初にお目にかかります、私は────」

彼女は自分の名を告げた。そしてその名なら、よく知っていた。よく王妃が褒めていたのだ、「元は私のお付きの者として働いてくれていたけど、その才を見込んで戦場へ行くことを許した唯一の"人間"なの」と。
茨の谷において人間の存在はあまりにも脆く儚い。その存在を見つけることすら稀有なのに、王族直属の兵士として名を馳せているとは、と、いつか自分も相まみえたいと思っていた存在だった。

「先程某を救ってくださったのは貴女でしたか」
「いいえ、救うなどおこがましい。私はただ遠くから戦況を見守る者。王国きっての兵士である貴方の命に関わることがあっては、我が軍にとっても甚大な被害となります。射手として当然の仕事を全うしたまでですよ」
「ですが、あれはあまりにも…見事な技でした。どこから放たれたものかはわかりませんが、某からは見える範囲にいなかったにも関わらず、相手の心臓を一突き。その後も某の背後を狙う敵を全て一発で仕留めてくださった。そのお陰で、今日の戦いは随分と楽なものになりました。────ああ、どうぞ、良かったらこちらに。狭い場所ですが、少しでも温まってください。今、補給物資の夕食も摂ろうとしていたところです。ご一緒にいかがですか」

彼女は「それでは、お言葉に甘えて」と華奢な体を丸太に預けた。随分と大きな弓を持っているが、背負っている筒に入った矢は全てその辺の森で採集したような木の枝にしか見えない。

「ちょうど明日の分の矢を作ろうとして、拠点を探していたところだったのです。助かりました」

そう言って矢を取り出す彼女。文字通り、それはただの木の枝だった。更には、その先に彼女が括り付けているのは、今足元を適当にまさぐって拾い上げたただの石ころだ。

「────失礼ながら、それで敵を…?」

何をどうしたら、こんなにも脆い素材があそこまで美しい軌道を描き、心臓を射抜くことができるのだろう。

「ええ、高級な素材は戦場での連戦には調達しきれませんから。こうして、その場にあるもので拵えているのです。弓だけは、王妃様が作らせたものを賜っておりますので必ずこれを使っておりますが…元々幼い頃は、弓も木のツルと枝だけで作った貧乏なものを使っていたのですよ」

焚火に照らされながら笑う彼女の顔は、人間に合わせるなら齢20を少し過ぎた程度のものに見えた。どこかあどけなく、まるで少女のよう。人間にしては経験が浅いし、そもそもその表情を見ていると、とても彼女が王妃に目をかけられた歴戦の猛者とは思えない。
それでも、石と石をぶつけながら先端を尖らせた矢尻を、しっかり木のツルで枝に結び付けているその動作は、まるでそれだけを行って人生を過ごしてきたかのように洗練された無駄のないものだった。心なしか、矢を見ているその目には軽い殺意のようなものすら見える。

「…失礼ですが、あなたは人の子であると…」
「ああ、どうしてそれなのに妖精族と肩を並べて茨の谷の衛兵をしているのか、ですか?」

何度も聞かれてきたのだろう。彼女は気分を害する様子も見せず、矢だけを見たまま答えた。

「幼い頃、王妃様に救われたからです。私は親に捨てられ、性格の悪いカラスに惑わされるがままここに迷い込んできました。幸い自分の身を守るための魔力はあったので、そこらの魔物に殺されるということはありませんでしたが…とにかく衣食住にはずっと困っていて。今弓を使っているのも、当時の狩りの延長です。その姿は余程無様だったのでしょうね、ある日お忍びでお散歩を楽しまれていた王妃様に出会った時、あの方からパンを恵んでいただきました。その味がとても美味しく、また人の優しさに触れたことも初めてだったので────あの時の私は恥も知らず、王妃様の前に跪き、その恩返しをさせてほしいと乞うたのです。当時、また5歳だったでしょうか。そんな小娘にできることなど何もないと蹴り飛ばされても仕方ないというのに…いえ、実際その時のお付きの者は今にもそうしたいような顔をしておりましたが…。王妃様は笑って、"それなら私の身の回りの世話をしてくれるかしら"と快く私の城内勤めをお許しくださいました。最初は言葉通り、メイドと共に城内の家事をこなしておりましたが…。20歳になる頃には、私の幼い頃培った経験が戦いに生かせることを知りました。当然、貴方もご存じの通り、茨の谷は戦いの絶えない時期です。私はそこで、進んで王妃様にまたお願いをさせていただきました。戦わせてほしいと」

王妃は、最初とても心配したらしい。
自分も王妃には非常に世話になっている身、彼女が当時ひもじい思いをしながら孤独に生きる人間の子供を放っておかなかったのも、単なるそのお優しい御心故のことだろうと容易に想像ができたし、だからこそ、そうして一度救った少女が再び戦場に出ることを良く思わなかったであろうことも、手に取るようにわかる。

でも、こうして今は同じ戦場で生きる身。
自分が戦闘に駆り出されることで"命"を感じる性質だから、わかるのだ。

きっと王妃が反対をしていても、彼女はいずれ戦場に出ていただろう。それこそ、貧しい弓矢を持って。

「反対はされましたが、メイドの仕事の休憩中に、無理を言って弓矢部隊の訓練に参加させてもらいました。私は────」
「…戦場にいてこそ、輝けると思った、ですか?」
「ええ、流石リリア様ですね。全てお見通しでしたか。王妃様を説得するより何倍もお話が早くていらっしゃる」

戦いの話ばかりしていたというのに、その夜はとても和やかだった。お互いが戦場に出るまでの話、自分なりの戦場での立ち回り、戦略、この戦いが終わった後の夢物語──── 一晩で、どれだけのことを話しただろう。

「────そろそろ夜が明けますね。少しだけ、仮眠を取りましょうか」
「そうですね。……その前にひとつご提案が…」
「明日の戦略ですか? 先程も申し上げた通り、特に私は具体的な命を下されているわけではありません。一旦今の敵軍との戦いが終わるまでは、貴方さえお許しくださるのであれば喜んで後方支援を務めますよ」

言葉の要らない関係とは、こういうことを指すのだろうか。
今までどこか、他の兵士達との間に距離を感じていた。言葉で戦略を説明したところで、物事がその通りに動くとは限らない。だからどうしても指示は「状況を見極めながら適切に動け」という曖昧なものしか出せなくなり────それが、なかなかうまくいった試しはなかった。

でも、彼女になら。
今日、顔を合わせる前から阿吽の呼吸で苛烈な戦場を潜り抜けることができた彼女となら。
そんな曖昧な指示こそが、最も適しているように思えたのだ。

「よろしく、頼む」
「任されました」

それが、彼女との初めての会話であり、そこから長引く戦いの最後までを共にすることになる、全ての始まりだった。





「結局その戦いが終わった後も、わしと彼女は常に行動を共にするようになった」
「そりゃあ────…あー…そうなりますね。相性抜群ですし」

もう、巧い言葉は何も見つからなかったらしい。監督生はいつしか腕を組んで目を輝かせながらわしの話に聞き入っていた。

「ほんっとうに格好良いなあ、"彼女"の生き方…。っていうか、リリア先輩、よくそんな女傑と私を"似てる"なんて言えましたね。万年赤点ポンコツ非魔法族なのに」
「ははは、今はちょっと美点ばかり話し過ぎたからかのう。花を愛で、鳥と歌い、街の宴に進んで踊り出て、庶民の食べ物を実にうまそうに食う姿…戦場でないところで見る"彼女"は、おぬしがよく見せる表情とそう変わりなかったぞ」
「花を愛でたり鳥と歌うような風流、私にはありませんけどね…」
「何を言う。喋る花と喧嘩したり、鳥と大合唱をしたり、おぬしもよくしているではないか」
「あれを指して似てるって言ったんですか!?」
「言ったじゃろう、彼女は決してお姫様ではないんじゃよ」





そう。そこが良かった。戦が始まれば共に命を預け合える仲とさえ呼べる、まさに同族────血を流す場でこそ輝く、戦闘民族。それでも、戦の場を離れれば、そこらにいる娘っ子と変わらない、"穏やかな日常"を思い出させてくれる存在。
わしにとっては、どちらも必要なものだった。彼女と一緒にいるからこそ得られる喜びも、悲しみも、たくさんあった。

「お主だけは、死ぬなよ」
「そうは言っても、寿命があるからねえ」
「…冗談を言っているのではないぞ」
「わかってる。…少なくとも、あなたの知らないところでは死なないって約束するから。私は寿命が来るその時まで、絶対にあなたの背中を守ってみせる」
「それなら某は、お主の寿命が来るその時まで、お主の笑顔を守り続けてみせる」
「…なあにそれ、伴侶にしてくれるのかしら」
「お主が嫌でないのならな」
「嫌よ」
「えっ…」
「私、必ずあなたを置いて先に逝ってしまうんだもの。だったら、必ず"お別れ"が待っているそんな約束なんかより、お別れのない"思い出"に私を刻んでくれるって約束してほしいわ」
「はあ…お主らしいな」

仲間の遺体を前に、笑顔のないまま、そんな"約束"をした。
もう、彼女はその時には、50歳になっていた。

「時折思うの。見た目が全く変わらないあなたに、どんどん萎んで老いていく私。初めて出会った時からあなたの方が年上だったけど、それでも、同世代の友人と戦っているようだった。────そうね、私はきっと、その時からあなたに恋をしていたんだわ。でも、こうやって私は…どんどん、見た目が変わっていってしまっている。戦場ならともかく、それ以外の時まであなたと肩を並べるのが、なんだか恥ずかしい」
「何を言っている。"思い出"を刻むと約束してほしいと願ったのはお主であろう。某からすれば、たった数十年の時など瞬きの間に過ぎぬ。その間にお主の容貌が変わろうと、その全てが思い出となって刻まれるだけ。むしろ某の退屈な毎日において、お主が見せてくれる"変化の思い出"は、某にとっても大切なものだ」
「…はあ…それならせめて兵を辞めるまでは、変わらない腕前を見せ続けてみせるわ」
「そこは安心している」

そう言って、戦が中断された束の間の日常も、わしは彼女の傍に居続けた。谷の皆は、とっくにわし達の関係を知っている。だから、傍目に見てあまりに年が離れているわしらを目にしても、何も言う者はいなかった。

何歳になっても、花を愛でた。鳥と歌った。宴に出て、市場の食べ物をおいしいおいしいと口にした。わしの作った料理は絶対に食べたがってくれなかったので、何かを作る時に振舞われるのはいつもわしの方だったが。彼女の作る料理は、いつでも温かかった。冷たいものを食べていても、心が温かくなるのだ。

このまま2人で、"2人の一生"を生きていけたなら。
何度そう思っただろう。
"戦争"と"日常"の寒暖差。厳しい命のやり取りと、そんなことを考えずに済む平和な時間。それを一切混同することもなく、「もう戦いたくない」と音を上げることもなければ、「平和ボケしそうだ」と文句を言うこともない。全く同じ感度でそんな理解されにくい"毎日"を共に過ごせたのは、長く生きてきて彼女が初めてのことだった。

でも、彼女の言う通り、そこに終わりが必ず来ることはわかっていた。

────彼女は、70歳を迎えた。

「そろそろ引退かなあ」

などと言いながら、珍しくわしの近くで別の兵士の支援をする彼女。相変わらずその体幹にブレはなく、狙いも全く逸れない。敵の兵士だけが倒れていく様を見ながら、「早くないか?」と素直な疑問を口にする。

「少し、弓に迷いが出てきてるの」
「某の目から見れば、全く変わらないように見えるが」
「剣使いの人から見たらそうかもね。でも射手として、いい加減衰えが来てるみたい。0.1秒の躊躇いが命取りになるのは、あなたも一緒でしょう? 私達はたまたま後方からの支援が多いから、その0.1秒に気づかれにくいだけ。それこそあなたを最初に助けた時だって、もしそれが"今"だったら、きっと私は間に合ってなかった」
「しかし、70歳にしてそれだけ動ける人間を早々に撤退させるのは軍としても惜しいものがあるぞ…」
「そう言ってくれるのはありがたいのだけどね。うーん、どうしようかしら…」

そう言いながら、スパンスパンと遠くの敵を射抜いていく。わしには見えない心臓が、彼女には今も見えているのだろう。矢がなくなれば、相変わらず木の枝と石ころですぐに新しいものを作るので、その手が止まることはない。

「確かに、若者の育成に回るにはまだ早いような気もするの。自分が動ける間は戦っていたい、そう思うしね。ただ…私には、弓しか使えない。今更別の武器に持ち替えることもできない上、こういう後方支援の経験しかないとしたら…」
「どうだ、例えば参謀になって、地雷を置いて行ったり、罠を作っておびき寄せた敵を一網打尽にする、なんていう戦い方は」
「はは、それはまた新しいやり方ね。人間からしたらおばあちゃんだけど、あなたからしたらまだ若者…うん、まだまだやれることはあるのかも。ちょっとこの戦いが終わったら考えてみるわ」

そう言いながら、彼女の矢はまた一人の敵兵の心臓を射抜いた。





「じゃあ、"彼女"はその後、戦い方を変えて────70歳を過ぎても、戦場にいたんですか?」
「いや…」





事が全て変わったのは、それから10日後のことだった。

「ケホッ……」

咳込んだ彼女の口から出てきたのは、血。
見慣れている。毎日見ている、血。それなのに、彼女から流れる血を見るのは初めてだった────そう自覚した瞬間、自分の中でも冷静さが些か欠けたことを感じた。

「────リリア」

兵士長が、彼女の寝室で彼女の手を握るわしを訪ねて言う。

「お前は今日、出陣するな」
「っ────!」
「その状態のお前を出させるわけにはいかない」

兵士としてあるまじき、私情による控えの宣告。しかしそれを悔しいと思う以上に、ほっとしてしまう自分がいた。────それが、とても情けなかった。

「…承知いたしました」
「ごめんなさい、私のせいで」

彼女もまた"戦士"として悔しそうに謝ったが、わしは兵士長の言葉に、"彼女の傍にいてやれ"という恩情も含まれていたのではないかと推測していた。
情けない。悔しい。でも、確かにこんな状態の彼女を放って戦場には行っていられない。

死ぬのなら、自分の前で。そう、約束したのだから。

────戦より、王令より、自らを優先したのは、それが初めてだった。

「おかしいわね、少し前までは全く体調に問題なんてなかったのに」
「人間は急に壊れるから怖いんだ」
「本当にそう。あなたに言われると、余計に身に染みる。…あーあ、せっかく次の戦い方を模索しようとしていたところだったのに。見て、あの兵書。罠の作り方とか、地雷の効果的な置き方とか…まだ射手をすぐ辞める気はなかったけど、それでも勉強は始めてたのよ」
「…治ったら、また勉強を再開すれば良い」
「ふふ、今更何を言ってるの? "人間"の死については、あなただってよく知ってるでしょう。魔法ですら治せないのが、寿命っていう病。突然来たことにはびっくりしたけど、もう私はここで終わり。まあ、最後まで射手でいられたことだけは嬉しかったけどね」
「縁起でもないことを言うな!」

刻々と迫る"終わり"。それがわかっていたからこそ、声を荒げずにはいられなかった。それでも彼女は全く驚く様子を見せず、笑っているだけ。

「わかっていたでしょ、リリア。私達には、必ず"お別れ"が来るって。だから代わりの約束をしたこと、忘れたの?」
「"思い出を刻み続ける"……」
「私ね────あなたのことがとても好きなの。"自分が人間であること"を、あなたに恋をした瞬間初めて恨んだ。どうしてお互いに最期まで一緒にいられないのかって、とってもとっても怒った。でも、それでも……諦められないくらい、好きだった。好きで好きで、仕方なかった。だから、私より長く生きるあなたに、あなたより長く生きられない私の記憶を託したの。長く生きるあなたのその一生を縛ろうと、そう思ってしまったの…。…怒る?」

怒るものか。
その約束を呑んだのは、自分だ。
だって。

「某も、お主のことを────心から、慕っていた。種族を超えてでもこんな気持ちを抱けるのかと、驚いたくらいに。血と涙しか知らない某に、こんなに温かい気持ちを教えてくれたのは、お主だった。いつどんな時でも、お主がいてくれるだけで、某は幸福というものを知ることができた。────だから、お主のことを某が心に刻み続けると約束したのは、某の本望でもある。絶対に忘れたくないから、絶対に────色褪せない、某の、誰より大切に想った人間のことを、いつまでも宝物としていたいから」
「…ありがとう」

ケホ、とまたひとつ空咳が出る。小机に置かれていた水盆に、彼女の額に乗せられていたタオルを浸し、冷たくしてからよく絞って再び乗せる。その体温は、子供が出す熱のように高かった。

「人の命には、"人"より敏感な自覚があるの。だから、リリア。最後に三つ、お願いしても良い?」
「…?」
「明日、王妃様に挨拶をさせてほしい。そして────…明後日の夜、一緒に星を見て…3日目のお昼には、休戦中に2人でよく行ったあの花畑に、連れて行ってくれないかな」

────人の命に敏感な彼女の、"最後"のお願い。
それは、3日後に自らの命が尽きることを悟った彼女の、正真正銘、最期の願いだった。

翌日、我々は2人で王妃に謁見する。
王妃は何も言わなかった。ただ涙を溜めた目で、跪く彼女の元まで歩いて降りて行き、その老いた体を優しく抱きしめた。

「これまであなたが私にしてくれたことは、決して忘れません」
「いいえ、王妃様。貴女様がいらっしゃらなかったら、私の命はここまで永らえておりませんでした。私のしたことなど、貴女様から賜った恩に比べれば────」
「それは少し傲慢が過ぎるというものですよ、可愛らしい人の子。困っている子供がいれば、自分にできる施しをするのは当たり前です。でも貴女はその行為を"恩"と取り、人間の短い命の全てを私のために捧げてくれました。戦に出ると言って聞かない貴女を見た時にはどうしようかと思いましたが────」

王妃はそこで、わしをチラリと見る。

「────その戦の中で、貴女だけに得られた宝があるというのなら、私にとってもそれはとても嬉しい知らせです。本当に、これまでずっと頑張ってくれてありがとう。貴女は私の忠実なる従者であると共に、大切な友人でした。どうか、安らかに────そして次の命でも、幸福があなたにたくさん降り注ぎますように」

そして、その次の夜は、彼女のために厚手の上着を持って部屋を訪ねた。
明らかに衰弱している。それでも彼女はわしを見ると、20歳の時と変わらない煌めきを持った笑顔で応えてくれた。

夜風が当たらないよう、防寒魔法をかけ────(彼女はその時点で、もう全ての魔法を使えなくなっていた)そっと、2人で屋敷の外に出ると、屋根に腰掛ける。倒れてしまうことのないよう、魔法で屋根の一部を並行にした上で、柔らかいクッションを並べ、彼女と共に横になる。

落雷ひとつ落ちない、綺麗な空だった。王妃がきっと、気を利かせてくれたのだろうと思う。

「こうして星を見るのは、何年ぶりかな」
「30年ぶり、だったかな。いや、50年ぶりかもしれん。100年前…は、お主は生まれていないしな」
「ふふ、まともに星空を見る機会なんて全くなかった、ってことだね」
「そうだな…」

夜は栄養を摂り、次の日の戦のために良質な休養を取ることしか考えていなかった。頭上に星が瞬いていたことは知っていたが、それも全てただの天然の明かりに過ぎない。こうして鑑賞物として見るのは、それこそ思い出せないほど昔ぶりのことだった。

「…綺麗だね」
「…ああ」

会話は、なかった。
きっとこの時間は、お互いが沈黙するための時間だったのだろうと思う。明日には別れを迎える自分達が、心の整理をするための。

確かに、時間は短かった。わしにとってはそれこそ刹那、彼女にとっても戦場という命のやり取りをするところで過ごした時間は、普通の人間が過ごす時間より体感的にはあまりに短かっただろうと推し量る。
それでも、そこで過ごした時間は今まで生きてきた中で最も濃厚だった。なるほど、時間とはただ過ぎていくものだけではないらしいと────わしは彼女が死ぬ前日に、また新しいことを学んだのだった。

そうして、翌日。彼女が言うには、"自分が死ぬ"日。
わしらは笑って、花畑の中を転げ回っていた。

「もしまた出会うことができたなら、今度は戦場なんて血生臭いところじゃなくて、花の香りに囲まれた平和な世界が良いわ」

ちょうどこんな風にね、と、ちょうど彼女が寝転んでいる鼻先にある花の香りを嗅ぎながら、彼女は言う。

「くふふ、それも面白そうだが、某は生憎弓を取るお主の背に惚れ込んでしまった身…。花畑の中では、お主をお主として見つけられないやもしれぬぞ?」
「まったく、リリアったらすぐそういう冗談ばっかり言うのね。大丈夫よ。あなたが意地悪をして私の姿を見過ごしたとしたって、また私があなたの目の前にうるさいほど現れてみせるわ。ああそうだ、お望みなら、今度はあくまで自分達のご飯を調達するために、狩りとしての弓を使う姿をお見せしようかしら」

平和な世界、それも悪くない。
平和な世界で過ごした彼女のことが、心から好きだった。
でもやっぱり、わしは────この命を救ってくれ、この生き方に寄り添ってくれ、ずっと背中を預けることのできた彼女の存在を、慕っていた。

だからそう言ったこともあながち冗談というわけではなかったのだが…すっかり老いてしまった彼女は、もう戦場に立っている自分の姿を想像できなくなってしまっているらしい。

それなら、わしがいつまでも覚えていよう。
凛々しく独りきりで立ち、誰の目にもつかないところから、誰の目にも見えない遠くにある敵の心臓を見抜いてきた、彼女の眼を。何もないところから勝利の武器を生み出し、後方で常に味方を守り抜いてきたその腕を。

「何度生まれ変わっても、お主は某を惚れさせたいんだな」
「もちろんよ。こんな出会い、きっと何万年生きていたってそうそうあるものじゃないわ────それにあなただって、本当は私と別れたくなんてないんでしょう?」

ああ、そうじゃよ。
別れたくなんてなかった。思い出にすると約束したのは、そうするしかなかったから。

「……そうだな。人の寿命はあまりに短い。まさか某まで"生まれ変わり"に縋ってしまうとは……。これも全て、長寿族の悪い性だ。お主が生まれ変われとて……某にもう一度出会える確率など、それこそ天文学的な数字としか言えんとわかっているのに」

それでも、願ってしまう。
どうしてもこの"別れ"が避けられないのなら、せめてもう一度"出会い"をくれないかと。
いるわけもない神に縋っても良いと思えるほど。

笑ってはいた。彼女を悲しませたくなかったから。
でも、少しでも気を緩めたら、情けない言葉しか出なくなってしまいそうだ。

「…大丈夫。私とあなたなら、必ず再会できるわ。だってこれは、"運命"なんだもの」

そんなわしの心情を理解していたのか、彼女は最期に優しくわしの手を握りしめた。皺のたくさんついた、それでもわしの目から見たら何よりも綺麗な────歴戦の戦士の、そして愛らしい少女の手だった。

────彼女はそのまま、息を引き取った。





「…リリア先輩は、今も彼女を探しているんですか?」
「いやいや、まさか。生まれ変わりなどというものがそもそもの迷信、ありえるわけがないんじゃよ。言ったじゃろう、わしは彼女を"思い出"として守り続けるのだと。彼女に似ているおぬしに出会った瞬間はもしや、と思ったが…」
「ご期待に沿えず」
「くふふ、あまり老人に意地悪を言うのはやめておくれ。うら若き少女を弄んでいるのはじじいであるこのわしの方じゃ。責められる謂れこそあれど、謝られてはいよいよ立つ瀬がない」
「彼女にも怒られるかもしれないですしね」

"彼女"と似た顔をして、監督生は笑った。

「そう。だからわしは────おぬしを、無事に元の世界に返してやりたい。彼女と重ねているところがあるところは…もう、許しておくれ。いや、許さなくても良い…これはただのじじいの執念じゃ。彼女とよく似たおぬしが幸せそうにしていてくれたら、わしも少しは報われるからのう」
「よーし、じゃあ元の世界へ帰る方法を一生懸命探して、それで、最後にはちゃんとリリア先輩にご挨拶に行きますね! その人にはなれませんけど、私…今の話を聞いて、ますますリリア先輩のことが好きになっちゃいました。一途な男、好きなんです。だからその人が喜んでくれるのなら、私も喜んでそのために行動します!」
「…元の世界に帰ったら、わしなんかより良い男を捕まえるんじゃぞ」
「それはもう、任せてください。私が別の男に"思い出"も"人生"もしっかり背負わせてやりますから」

その表情に切ないものを浮かべさせてしまったことは、本当に申し訳がないと思う。
でも、これは彼女なりの気遣いであり、決断だ。それを尊重し、感謝するつもりで────わしは心から「楽しみにしておるぞ、ありがとう」と答えた。

「それより、おぬし…結構な時間を拘束してしまったが、時間は────」
「あーーーっ! 待って、大変、ルーク先輩の影が見える! ダメ、今は無理! リリア先輩の大恋愛の話に浸りたいのでここで失礼しますっ! もしルーク先輩が来たら監督生は元の世界に帰りましたって言っておいてください!!」

間が良いのか悪いのか、監督生は窓の外を見ながらそう言うと、「じゃあまた明日! いっぱい構ってくださいね!!」といっぱいの笑顔を浮かべながら、話し込んでいた空き教室を矢のように飛び出て行った。

────ルーク?

彼女が見ていた方向を窓越しに見るも、ルークの影など見当たらない。
もしかして、自分のした話は彼女を必要以上に傷つけてしまったのだろうか、だからあんな言い訳をして、彼女は自分から一時的に逃げたのだろうか────そう思っていた、次の瞬間だった。

先程監督生が出て行った空き教室の扉が派手な音を立てて開き、まさにルーク本人が現れたではないか。

「やあ、ムシュー・好奇心! さっきここに監督生君がいるのを見かけたから来たのだがね、彼女は────」

まさか、本当にルークが来るとは。

「…監督生なら、今は少しひとりにしてやってくれ。老いぼれの話を長々と聞かせ過ぎたせいで、疲れておるのじゃよ。用件なら代わりにわしが聞こうか?」

ルークの目は、それこそ"彼女"にこそ及ばないものの、かなりの実力を持った射手の目だった。遠くからでも獲物を見つけることに長け、更にはそれを追う脚力もある。
しかし、そんなルークを"先に"見つけ、逃げだした監督生の目と、足は…?

そういえば、先程もそうだった。
誰にも見つからないはずの、たくさんある空き教室の中で物思いに耽っていたわしに、気配を悟られることなく近づいてきた彼女。あまりにもそれが今の日常に溶け込んでいたせいで、もう疑問に思うこともなくなっていたが────。

「ああ、いやいや。それなら仕方ない、日を改めるとしよう。それに用件は、彼女でなければ意味がないんだ」
「…と、言うと?」
「おや、ムシュー・好奇心は知らないのかい? 彼女は以前私と話の流れで狩りの対決をすることになったのだがね、この私を置いて高得点を弾き出した弓の天才なのだよ! 私ですら見えない獲物を捉え、足音を完全に殺して近づき、たったの一射で確実に仕留めてみせる────いやはや、彼女にそんな特技があったなんて私は知らなかったものだから、それ以来ずっと狩りのパートナーとして誘い続けているのだが…。どうにも、彼女はその特技をあまり周りに知られたくないようで…」
「────……」

ここに来て、わしの知らない情報が、ひとつ。
"彼女"に似たその彼女は、狩りの名手だと────NRC随一の狩人にそう言わせた。

「なぜそんな特技を披露しないんじゃ? 素性故に見下されることも多い以上、そのくらいの牽制はあっても良いように思うのじゃが」
「私もそう思うんだよ…。でも、彼女に何度迫ってもすげなく断られてしまうんだ。なんでも、彼女がその実力をひけらかしてしまうと、誰かの思い出を汚してしまうから、と…。私のことなら、好敵手に出会えて嬉しいとしか思っていないのだから、遠慮なく記録を塗り替えてほしいと思っているのに! なんと嘆かわしいことだろう…!」

ルークは相変わらずの劇的な口調で嘆いてみせている。しかしそれに寄り添う余裕は、今のわしにはなかった。

────まだ、情報を得たばかりだ。混乱しているといえば、それは事実。
でも、彼女が入学してから抱いてきたこの既視感、今整合性の取れたこれまでの静かすぎる彼女の動き方。その感覚と謎に、もし根拠がつくのだとしたら────。

わしはまだきっと、この学園でやるべきことがあるのじゃろう。
少なくとも彼女を狩りのパートナーに誘う役は、残念ながらルークではないのだから。

なあ、おぬしよ。
思い出の続きが始まるのだとしたら、きっとそれは"おぬし"も面白がってくれる話だと────そう、信じておるぞ?









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