深海の道標



海を、揺蕩っていた。
光の届かない、深く、冷たい海の底。

頭上では、小魚の群れが互いを護り合うように泳いでいるのが見える。
肉食の魚も棲息するこの地帯では、ああして小さな魚達は群れをなして身を護っているのだ。

「────群れるだけで生存価値を見出せるのは、本当に能天気な生き物だな」

僕の嘲笑は、彼らには届かない。友人、と呼ぶのだろうか。それとも家族? 絆というなんとも儚く脆いもので結ばれた小魚の笑い声の方が、余程この水中では通りが良いようだった。耳障りで、不快な声だ。僕は耳を塞いで、机と称している岩に再び向かい合った。

「ねえねえ、今日も机にしがみついてんの〜?」

────というのに、だ。
せっかく集中しようとした僕を邪魔する、呑気な声がまたひとつ。それは無視するにはあまりに野太く、図々しいともいえるいやらしさに滲んでいた。

「僕らとご家族以外の方とは一言も会話せず、勉学に勤しんで…これで、何日目でしたっけ?」
「オレらがタコちゃん見つけてからはぁ〜…んー、たぶん2ヶ月くらい?」
「新記録、依然更新中ですね」

僕の視界を遮るのは、2匹のウツボの人魚だった。くるくると旋回して、僕の体にまとわりつくように遊泳しながら、ゆっくりと言葉を選んで囁きかけてくる。

「僕に構うなと、何度も言っているだろう」
「それを言われたのは────何度目でしたか?」
「さあ〜? 初めて会った日から言われてたから、それも2ヶ月くらいじゃね?」

そう、この人魚どもは────2ヶ月も前から僕につきまとう、厄介極まりない存在だった。

こいつらと出会ったのは、ミドルスクールに入ってからのことだった。同じクラスの厄介者、ジェイド・リーチとフロイド・リーチ。成績は一貫して優秀だが、周りの生徒からは「目が怖い」と言われ、フロイド以外の者と一切かかわりを持とうとしないジェイド。それから、成績については0か100の成果しか出さず、また周囲との関わり方も完全に気分で全てを決めてしまうような破天荒なフロイド。共に生徒、教師の両方から「関わってはいけないトップツー」と悪名高い二つ名を付けられている双子だったが、本人達はそんな噂など全く気にすることなく────なぜか、僕にだけ興味を向けているのだった。

そんなもの、こちらからしたら屈辱的でしかないというのに────。

彼らが僕を気に掛けるようになったのは、ミドルスクールで暫く過ごしてから────つまり、僕がわかりやすく周囲から攻撃的な扱いを受けるようになってからだ。勉強はできない、運動もできない、そしてこの見た目────誰から見ても太っていて…誰だっただろう、明らかに悪口とわかる口調で"タコの中のタコ"だと言われて以来、僕の扱いは目に見えて酷くなっていった。
所詮生きているものなんて、目に見えるステータスで全てを判断することしかできないのだ。当然だろう、誰にもその人が抱えている心の内なんて察することができない。目に見える"成績"、"行動"、そして"見た目"と"言葉"。意思を持つものの優劣を比べるには、そういった外側の要素をあげつらうしかないのだ。

だから、僕が虐められるのは仕方のないことなのだ。
グズで、ノロマだから。運動も勉強もできない上に、太っているから。
その待遇が嫌だと思うのなら、自らの力で見返さなければならない。

こうして空いた時間の全てを勉強に費やしているのは、そのためだ。
全ては誰にでもわかる成果を挙げ、僕の心の内を知らずに見くびっている奴らを、遥か頭上から見下ろしてやるため。

こいつらだってどうせ、絶対に────そんな僕の努力を「無駄だ」と言って嘲笑うつもりなのだろう。
だから、取り合う気はない。

それなのに。

「僕を揶揄うことにも、いい加減飽きてくれよ」
「そーお言われると、余計に構いたくなるんだよね」

意地悪く笑いながら、フロイドの金色の瞳が光る。

「何故、分不相応とわかっていながら努力を続けるんです?」
「────分不相応かは、誰にもわからない。過去謗られ続けたからって、今後もそうなるかはわからないだろ。僕は僕のステータスが"僕に相応しい"ものであると認めさせるまで。だから────何度でも言うけど、邪魔をするな!」

まだニヤニヤしている双子を視界からぴしゃりと遮り、僕は参考書を手元に引き寄せる。今日の復習、課せられた宿題、明日の予習────要領の悪い僕の前には、どれだけの時間を使っても足りないくらいのタスクが山積みになっていた。

「あ、そこさあ、イソギンチャク方式を応用すれば解き易くなるよ」

勝手に手元を覗き込んできたフロイドが、僕の字と数字にまみれた汚いノートの一部分を的確に指さしながら呑気に言う。

「…なんなんだ、恩を売るつもりなら乗る気はないぞ」

人は本来、悪意を基にできている。こうしてステータスによる階級制度が完成されているのも良い例だ。善意で人に力を貸したって、何も良いことはない。元々僕だって、人に構っている暇などないのだ────そんなことに時間を使っていたら、あっという間に自分を磨くための時間が減らされてしまうのだから。
自分のことは、自分で責任を持たなければならない。誰かの手を借りるとするなら、そこには必ず代償は払われるべきだ。そうやって"対等の関係"を築かない限り────僕はきっと、ずっと誰かに隷属する羽目になるのだろう。

しかしフロイドは真剣に意味がわからないといった様子で首を傾げる。

「この程度ことが"俺の恩"になるとでも思ってんの? 安く見てんじゃねえよ」

ドスの効いた声で言われたのは良いが…正直、こちらの方がどうしてそんな風に脅されているのかわからなかった。

「バカなタコちゃんがひとりぼっちで蛸壺にこもって、自分より遥かに実力のある奴らを見返してやろうって無茶苦茶に足掻いていく様を見てるのが楽しいだけなんだよ、こっちは」
「…まあ、フロイドはこう言っていますが…要は僕達は、単純にあなたの人魚性に興味があるだけなんです。底辺を這いつくばる可哀想な生き物がのし上がる様を見るのは、楽しいですからね」

なんともまあ、悪趣味な性癖を持っているものだ。

「それなら尚更だ。のし上がった先の姿をいつかお前達に見せてやるから、それまではせめて放っておいてくれ」

こいつらが前にいると、どうしても頭の中でクラスメイトの揶揄する声が聞こえてしまうのだ。

「あんなグズが生きてる価値なんてないだろ」
「一人前に体重だけ増やしてよお、資源の無駄なんだよな」
「どうせ将来大した職にだって就けないってわかってんのに、何のために生きてるんだろうな」


ただ単に成績が悪いことや運動神経が悪いこと、見た目のことを悪く言われるのなら────まあ、それは事実なのだから仕方ないと思える自分もいたのかもしれない。
しかしその先に待っている"生きている価値がない"、"資源の無駄"という────"誰か"に迷惑をかけてなお存続させる命など、それこそ無駄で、意味のないものにしか思えなかった。

でも、ここで死んでしまったら、それこそ僕の生きた軌跡は"資源を消費するだけの無価値なゴミ"としてしか残らなくなってしまう。それだけが、未練だった。それだけが、僕の命を簡単に絶たせない理由だった。

「ああ、ですからそこはコバンザメの公式とシュモクザメの公式を掛け合わせるんですよ」
「ああもう、うるさいな! とっとと家に帰れ!」

そう叫ぶと、双子はケタケタと笑いながら去って行った。まったく、今日も今日とて人騒がせな奴らだ。

…イソギンチャクの公式を応用して、1つの問題を解く。
2つ目の問題は、コバンザメの公式とシュモクザメの公式を掛け合わせて問題を解く。
────恐ろしいほど、簡単に解が出た。

「……」

こんな身近な存在にまで、まだ劣るのか、僕は。
煽られているだけなのはわかる、それでも僕は、それがわかっていながら乗らずにはいられないほど、切羽詰まっていた。

イソギンチャクの公式も、コバンザメの公式も、シュモクザメの公式も、シロナガスクジラの論文も全部読み解いてやる。自分のものに、自分だけのものにしてやる。

蛸壺にこもっている間は、そうやって強気なことが言える。だから僕は、ここから出る気がなかった。
だって、外には────。

「僕達、一緒にいれば怖いものなんてないね!」

「なーんにも考えずに海を揺蕩ってるのが好きなんだぁ。海流に流されていく感覚、気持ち良いよね」

「クマノミくーん、今日は遊びに来ないのー?」

煩わしい小魚の群れ、毒を持ったクラゲやイソギンチャクが、海を我が物のように闊歩しているから。動きも遅く、視力も悪い僕には、奴らをすり抜けて明るい光の差す浅瀬まで行くことはできない。
あいつらのせいで、僕は今日もこの狭い壺に引きこもることを強いられている。
いつかそれも、僕が奴らを見返すことができた日には────変わるのだろうか。あいつらの方が、僕に道を開ける日が来るのだろうか。今はそんな希望的観測を信じて、机に向かうしかない。

僕の努力は、本当にタコ以上の歩みでしか見えなかった。
全然成果が出ない。テストの点数が一瞬上がっても、それはマグレだと言われてしまえるほど、次のテストではまた点数が下がる。
運動もそうだ。入念に筋トレをした後であれば、辛うじて体も動くような気がするのだが、持久戦を強いられるようなものには耐えれらない。
両親に相談して、食事のコントロールもお願いしていたのだが、当然肥満体が痩身になれるわけもなく。

僕が蛸壺から出られるようになるまでは、まだまだ遠い時間がかかるようだった。

「ねえ、なんでそんなに頑張るの?」

僕が虐げられるようになってから、約半年後。蛸壺の中でひとしきり泣いた後、自分だけの秘密基地でしゃくりあげながら勉強していると、フロイドは必ず顔を出してくる。
もう、こいつが僕を馬鹿にするために来ているのか、それとも僕の何かが彼の琴線に触れているが為に構われているかだなんて、どうでも良いと思っていた。
たいした交流はなかったが、彼が誰かに接する時、わざわざ相手のプライドを傷つけたり、逆に誰かの気持ちを励まそうという意図がそこにないことならよく知っていた。
彼はただ、"気分が乗ったから、気分に乗せられたままの言葉を吐く"。それだけの男だった。
だからその疑問にも、大した意味はないのだろう。

「言わなかったか? 僕は僕を見下した奴ら"全員"を見返すんだ。そのためには、生半可な実績を出したところで意味がない。トップの位置を取り続ける、それ以外に方法はないんだよ」
「まだせいぜい成績上位40%にしか届いてないのに?」
「それでも下から数えた方が早かった頃を考えれば十分────え? お前は…私の順位をいちいち把握しているのか?」
「僭越ながら、僕もですよ」

"広く浅く"の人当たりは良いが、興味の有無によるテンションの差が激しいジェイドまで、笑いながらそんなことを言う。

「突然超次元的なパワーに目覚めて1位を取るでわけでもなく、ただあなたの努力が全く報われないわけでもない。僕達も待っているんですよ、あなたが頂点を取る日を。────そして頂点を取ったあなたがそこで満足して止まるのか、それとも────まだ上を狙うのか。僕らが見届けるのは、そこまでですかね」
「そうそう。オレらも飽きたらいい加減タコちゃんも離れてあげるからぁ〜、精々天井目指して頑張んな」

ギリ、と自分の歯が鳴る音が聞こえた。
正直、こいつらにはとっととどこかへ行ってほしいと思っている。しかし彼らは、「僕が努力することを諦めたら離れる」と言った。

冗談じゃない。ここで天井を設けるつもりなど、毛頭なかった。ミドルスクールで主席を取っても、それは所詮狭い学び舎の中での話。自分に可能性があるというのなら、僕はそれをどこまでも追求するつもりなのだから。

今は、校内40%。
しかし次のテストでは、校内30%。
そして更に次のテストでは、校内20%。

その頃にはだいぶ 僕を罵る声も減ってくるようになった。体重コントロールのお陰で、体つきもだいぶ締まってきたからだろうか。

「タコちゃん、だいぶ痩せたね」
「タコの性質上、どうしても脂肪がつきがちなのはセオリーなはずなんですがね…一体どうやってそこまで?」
「簡単な話ですよ。カロリーを計算した規則正しい食事と、適度な運動。これだけです」
「蛸壺から出らんねーくせに、どこで運動してんだよ」
「そりゃ、その辺をウロウロと…」

相変わらず、この双子は僕に飽きていないようだった。流石に数ヶ月も経てば、こちらがわざわざ警戒心を持ちながら話すという労力も無駄に思えてくる────ので、なんだか変な距離感のまま僕達の"3人"で過ごす時間は徐々に増えるようになっていた。

そして、更にそれから暫く経った頃、ミドルスクール在籍中最後の試験が行われる。
────そこで、僕は遂に"1位の座を取った。

もう、僕をあの頃のように"グズでノロマなタコ"と呼ぶ者はいない。むしろスタート地点がだいぶ出遅れていたからなのか、却って周りの方が「どうやったらおんなに点数が取れるんだ」と教えを乞うようになってきたほどだった。

わかってはいたが、本当に生き物が持つ都合の良い脳構造には感服させられるばかりだ。

つい数ヶ月前までは「お前には何もできないよ、生きているだけで無駄だ」と言われていたのに、学年トップの成績を取るというわかりやすい"ステータス"を手にしてからは、舌の根も乾かないうちに僕の評判を変えてくるように胡散臭い笑顔で────まるで今までもずっと仲の良い友達だったとても言いたげに近寄ってくる。

何が「どうやったら」だ。何が「教えてくれ」だ。
僕の努力が、そんなに簡単なものだったと、そんな屈辱的なことをこいつは平気で言うのか。蛸壺にこもりながら、寝る間も惜しんで全ての時間を勉強に充てる覚悟が、本当にお前にはあるのか。

────いや、しかし。

僕の努力が簡単ではないことなど、僕が一番よく知っていた。
この人魚に僕の境地に至るまでの覚悟がないことも、僕には容易に想像ができた。

でも彼は今、僕が"大した努力もせずに、元々持っていた才能を開花させただけ"だと思っているのだろう────そう考えたら、今の状況は────却って"僕に有利な状況"を作れる機会かもしれない、と思った。

「ええ、僕の知識で良ければ喜んで共有しますよ」
「本当か? なら────」
「その代わり、あなたにも相応の対価を差し出していただくことになりますが」
「たい、か…?」

彼は信じられないものを聞いたというように目を見開いた。
何が楽しくて、僕の地獄の時間を無償で提供しなければならないのか。僕が困っている時、誰も手を差し伸べてくれなかったくせに。僕が孤独な時、誰も寄り添おうとしてくれなかったくせに。
浅ましい、体の良い評価だけを横取りしようとするウミウシのような害悪。まだウミウシの方が、自分の生きるために葉緑体を盗んでいるだけマシだ。片やこの人魚は、生存のための最低限の性能は既に持っているのに、それ以上の利益を求めようとしている本物の公害じゃないか。

無償で自分の努力を明け渡すなんて、絶対にありえない。
それに見合った対価を得て、僕にも利益をもたらす方法でない限り────絶対に、その提案は割に合わないのだから。僕の努力は、僕だけのものだ。僕が持っていないものを搾取してこそ、初めて僕の持っているものを差し出す価値が生まれるというもの。

ちょうどその人魚は、親が酒屋を営んでいる貴重な人材だった。海の中でアルコールを醸成するのは苦労のいることだと、いつも親が悩んでいるところを見ていたから────これは、ちょうど良い。

「ええ、次のテストの対策と傾向をまとめたノートをお渡ししますから、その代わりに一度、一緒に食事をしませんか?」
「食事?」
「ええ、聞けばあなたのご両親はとても素晴らしいお酒を提供するバルを経営されているとか…僕はほら、これまであまり友人に恵まれてきませんでしたから…そういうおしゃれなお店に、行ってみたいんです」
「なあんだ、そんなことかよ! もちろん、今日にでもどうだ?」

ほうら、こうして少しの弱みを演じてみせれば、簡単に相手は乗ってくる。あとは今晩、そのバルに行ってうまいこと彼の両親を唆し、海で酒を醸成するコツを聞き出せれば────うちのリストランテに、箔がつく。

最初はそんな、ささやかな恩返しのつもりだった。僕を見放さないでいてくれた両親に、あるいは、僕がもう少しだけ上に昇るために。ひとつずつ、ひとつずつ対価と引き換えに"強み"を手に入れながら、僕は自分の努力を更なる成果へと繋げていく。

ミドルスクールを卒業する頃には、もうあの頃の"グズでノロマなタコ"はすっかり消えていた。そこにいたのは、"学校を代表する模範的卒業生のアズール・アーシェングロット"のみ。

「まさか本当にやっちゃうなんて。目ェつけといて良かったね、ジェイド」
「ええフロイド。長期的観察対象としては、今までで一番面白いものでしたね」
「生き物をなんだと思ってるんだ、お前達は」

もう、この双子が自分の周りをウロつくのにもだいぶ慣れてきた。最初の頃こそ卑しい気持ちが、この2人は自分を嘲笑うために来ているのではないかと思っていたが────今は完全に、自分という存在にある種の価値を見出してわざわざ近寄ってきていたのだと、良いのか悪いのかわからない諦めでその存在を受け入れられるようになっていた。なんなら、僕の頭上でウヨウヨと旋回していた彼らも、むしろ"これから僕が何をするのか"期待に満ちた目で僕の後ろにつくようになっていたくらいだ。

「────てことで、多分オレ的にはアズールのところにも来てると思ってんだけど」
「ああ、そうですね────届きました? この黒い封筒」

そう言うと、卒業式を終えた後、2人は揃って防水加工のなされた黒い封筒を2通分見せつけて来た。

『ナイトレイブンカレッジ 入学許可証』

ああ────それなら。

「2日程前に来ましたよ、ほら」

なんということのない顔をして僕も懐から、"同じ封筒"を出してみせる。表情こそ繕っていたが、この封筒が届いたその日、僕は人生で一番誇らしい気持ちに胸を膨らませていたのだ。
ナイトレイブンカレッジといえば、海の中にもよく伝わる、陸の上の名門学校。7人の偉大なる先人達を尊び、各偉人の精神に基づいた寮の中で最高品質の魔法を学ぶのだ。
実際には闇の鏡とやらの選定に委ねるしかないそうなのだが、僕は絶対に────幼いころから尊敬してやまなかった海の魔女を祀る寮に行きたい、と願っていた。

そう、いつかその門扉を叩き、海の魔女の精神に基づいた自分だけの未来を切り拓きたいと────半ば無理だと諦めながらも、かつて夢を見ていたのだ。

「お前達も呼ばれたんですね。入学費の納入は週末までと念を押されていましたが、その辺りは大丈夫でしょうね?」
「ん? オレらはまだだよ」
「まだ!?」

つい、大きな声が出る。
ナイトレイブンカレッジなんて、どれだけの稚魚に聞かせようがその名を知らない者はいないほどの名門校だ。まさか、金が足りないのか? それとも────いや、この2人ならありえる────。

「まさか、"行きたくないから行かない"で、蹴るんじゃないでしょうね」

数多の人間、そして人魚が手を伸ばして尚届かない封筒を爪の先で弄ぶ双子を見ながら、「こいつらならやりかねない」と呆れ半分、怒り半分に見据える。

「行きたくない、とまでは言いませんよ、流石に。僕達もこの手紙がどれだけの重みを持っているのか知らないわけじゃないですからね」
「でもさ、行ったところでそこに何も面白いモノがなかったら、苦労して陸に上がる意味とかなくね?」
「面白いモノって…」

この双子の"面白いモノ"の基準なんて、誰が知るものか。そもそも────僕は陸に上がったことが一度もないのだ。面白かろうがつまらなかろうが、陸に何があるのかをまず知らない。別にこの2人に入学を説く義理もなかったが、ここでこの、金貨にすら替えがたい価値を持った紙切れが捨てられるのを見るのは…少しだけ、悔しかった。

だってあれは、僕が血の滲むような努力をしてようやく手に入れたものなのだから。僕が昔の僕のままでいたら、絶対に見ることすら適わなかったようなものなのだから。

「────ねえ、アズールは行くんでしょ? 陸」
「え? あ、ああ…もちろんですが」
「アズールは入学したら、どうするんですか?」
「ど、どうするって…」
「まぁた机に噛りついて、誰とも喋らないで、蛸壺にこもるワケ?」

フロイドとジェイドの、試すような金色の瞳が僕の心に突き刺さる。
まるで、"そんなわけがないだろう"とでも言いたそうな、悪戯好きと言って有り余る悪質な瞳。

「────笑いませんか」

当然僕だって、そんな"昔の努力"を引きずるつもりなどなかった。もう机に噛りつく段階は、卒業だ。誰もが認める"アズール・アーシェングロット"として、名実共に次のステージへ上がる必要がある。

「この1年、ナイトレイブンカレッジへの入学を見据え、学園長のことについて色々と調べていました。これといった弱点がなく、能力も未知数────ただ、目に見える範囲では"責任転嫁が十八番、面倒事には一切関わらない、主に悪い意味で生徒の自治を重んじている"────という評判は聞いています」
「…んで? そのポンコ…自治に委ねる優しい学園長様と、どんなコネクションを作るつもりで?」
「────学生経営による、カフェを作るんですよ」

絶対に笑われるだろうと思っていたのだが────双子は、珍しく笑わなかった。僕がこの数年で怒涛の勢いで築き上げてきたステータスを、認めてくれているのだろうか。数年前なら「お前みたいな奴には分不相応だよ」と吐き捨てられていたであろうその案を、彼らは思った以上に真剣に捉えてくれているようだった。

「僕の実家はリストランテです。この1年、生徒を通じた各所大人の方々とのコネクションは作ってきましたからね」

僕の努力の成果を明け渡す代わりに、僕はずっとこの計画を進めていた。
自慢の実家の味を、陸にも広める。人魚はきっと、陸の世界では"陸の世界を知らないハグレモノ"として扱われるのだろう…というまだ猜疑心にまみれてはいたが、だからこそ、それを成功させた時の評価はうなぎのぼりになるはずだ。
まだ誰も踏んでいない道は、ないか。努力を重ねて"アズール・アーシェングロット"になれた僕が、更に高みを目指す方法はあるか。

その末に思いついたのが、カフェの経営だった。蛸壺での努力を始めた頃、不器用なりに"学校の勉強"以外にも"店の経営"についても学んできた。両親は僕がオーバータスクに倒れるのではないかと心配してくれていたが、何度も言うように僕は要領が悪いのだから────人一倍未来を見据えて、高すぎる目標を持っているくらいでちょうど良い。休む時間なんて必要ない。将来、自分が一角の人物になるという夢を、諦めていなかった。
その夢を叶えることが、僕の存在意義だとすら思っていたから。

「カフェを経営し、表向きは陸の舌に合わせた"僕の実家の味"を提供します。そこで客を動員し────集まってきた客の"願いを聞く"。ここ1年で、ひとまず対等な立場の人間との交渉術はある程度勉強することもできました。僕はナイトレイブンカレッジで、まず学校の授業傾向、テスト対策、そして先生から良い評価を得られる方法を"お客様"に教えるんです。その対価として、各生徒の弱み、ないしまだ得られていない"大人"の弱みを握る」

笑うなと言ったのに、ジェイドとフロイドはいよいよニヤニヤと笑い出した。薄気味悪い顔で僕の大望を聞いているようだが、また分不相応と言われるのだろうか、それとも────。

「もう昔の僕の面影は残しません。必要なのは、"約束された成功"のみ。学生の領分を超えて初めて、僕が僕であろうとした努力の成果が表れる。どうです、新たな陸という、脚を踏み入れたことのない分野で成功を重ねる僕の姿────そこまで完成させて初めて、僕が幼い頃から夢見ていた"海の魔女の精神を引き継いだ、大成した男"として認められるのです。決して僕は────海の中だけで、ささやかに命を終わらせる気はありません」

ニヤケ顔に気持ちで負けてしまわないよう、あえて厳かな声を演じて言い切る。そうして2人の顔色をこっそり窺うと────彼らは僕の演説が終わったと知り、2人それぞれによく似合ったやり方で(つまりジェイドは優雅に泡も立てず、フロイドはばちゃばちゃと水圧に負けない勢いを出しながら)拍手を送ってきた。

「やっぱ陸ウンヌンよりこいつについてった方が面白そうじゃね? ねえ、頼んでみようよジェイド」
「そうですねフロイド。────どうですアズール、そのカフェ経営とお悩み相談とやら、僕らにも一枚噛ませてもらえませんか?」

2人の提案は────正直言って、僕の虚を突くものだった。

「…お前達が…僕の計画に、噛む?」
「そうです。今まではただ遠巻きに眺めているだけでしたが────」
「にしてはあまりに騒々しかったがな」
「ここにきて、僕達はいよいよ貴方の行く末が気になってきました。ちょうどナイトレイブンカレッジへの入学許可を同じように貰った身────この先は、もっと近くであなたの大成する様を見ていたいと思ったのです」
「ジェイドは料理結構好きだし、オレはまあ…うーん、気が乗ったら用心棒くらいにはなったげるよお。アズール、海の中の運動はできるようになってきたけど、詐欺マガイの仕事をできるほど戦えはしないでしょ?」
「戦いって…それに詐欺って…どこまでも失礼な」
「ヤクザ屋はナメない方が良いってこと」

フロイドの目がキラリと光る。────そういえばこいつらは、その特異性のために時折喧嘩を売られてもいたが──── 一度も負けたところを見たことがなかった。それどころか、喧嘩を売ってきた相手の姿の方が見えなくなっていたくらいなのだ。

…使える、かもしれない。本人達が望むのなら、尚更。

僕の顔を見て、2人は答えを得たようだった。

「んじゃ、決まりね。ジェイド、オヤジに入学金の話頼みに行こー」
「むしろ進路を決めるなら早くしろと怒られてしまったくらいですからね。両親も安心しますよ。ではアズール、また明日」
「────また、明日」

こんな風に、誰かと未来の約束をするのは────僕にとって、初めてだった。
友達、とは呼べないのだろうと思う。あまりにも彼らは自由で、そして淡泊だから。彼らは本当に、僕を"観察対象"として見ているに過ぎない。僕が諦めを知らず、不可能と思われていた未来を実現させたから、それに興味を持っているだけだ。
僕だって、友情だなんて脆いものに縋るつもりはない。例えば小さな約束だったり、些細なストレスだったりで、「ずっと友達だ」と誓い合ったその熱が一瞬で冷めていく様なら、遠くからずっと見ていた。

僕達の関係は、このままで良い。大きな大望を描く僕と、それを面白がってついてくる双子。いわばこれだって、取引の発生している契約関係のようなものだ。
皮肉なことだが────情に流されないそんな関係の方が、僕にとって安心できるのも、事実だった。

(これを本人達に言うことは決してないだろうが)実力は折り紙付きの頼もしい用心棒を2人、少なくとも今の時点では完全に味方につけたことで、僕の心は浮かれるばかりだった。
────それこそ、一度…黒い馬車の迎えが来る前に、陸の偵察に行ってみようかと思ってしまうほどに。



翌日、夕食を摂り終えた後。
僕はヒレを脚に変える薬を持って、外に出ていた。

元々その薬は、海の中でも合法的に流通しているものだった。仕事や研究のために陸へ上がる人魚はそう少なくない。僕達のところにナイトレイブンカレッジへから連絡が来たのも、そういった事情を理解されているが故なのだろう。入学許可証を見せると、未成年の僕達にも薬屋は快く脚生え薬を売ってくれた。
────ついでに、"ちょっとした幸運"に恵まれたお陰でその作り方も聞き出すことができたので、僕の部屋には今、たっぷり1年は保つであろう分の薬が積み上がっている。

昨日胸の奥底で湧き上がっていた「陸へ上がってみようか」という気持ちは、確実に膨らんでいた。ミドルスクールでトップを取ったという実績、ナイトレイブンカレッジから入学許可証が来たというその実績を認める第三者の目、そして損得勘定の上に成り立つとはいえ、初めて家族以外で"僕"を見てくれた味方。
今なら、何でもできるような気がした。
昔は遠くて、寂しくて、怖い場所だと思っていた海を、今なら昇り切って超えられるような気がしていた。

そうだ、だって来月には、僕はどうせ陸へ行くのだから。
当日は馬車に乗っていれば良いという話だが────せっかくなら、自分の足で行き来できるようになりたい。

今日は見学だけしに行ってみよう。誰かに関わるのはきっとまだ早いから、こっそり見に行くだけで良い。陸に何があって…あわよくば、写真や絵でしか見たことのない人間がどんな生き物なのか────観察しに行こう。

薬をしっかり持ったことを確認して、僕は一歩、海底の岩場を踏み出した────。



「おやおや、なんだ、こんな夜更けに」
「臆病な弱虫が、何かしてるぞ」




そんな声が聞こえたのは────気のせい、なのだろうか?

久々に聞くノイズ。耳の奥を指して、脳漿を掻き乱す不快な音。
反射的に顔を上げると、頭上には────おぞましいほど多くのクラゲが浮かんでいた。ふわふわと、どこへ行くでもない彼らの数は────見ているうちに、どんどんと増えていく。



「ちょっと良い成績を取ったからって、実力者気取りか?」
「お前の本質はなーんにも変わってないのにな」




今度は、背後から。
振り返ればそこには、いつも静かにしているか、あるいは馴れ合っているクマノミと無駄なお喋りをすることしか能のないはずのイソギンチャクが、一斉に僕の方を見ていた。
まるで、かつてのクラスメイトのように。僕を指さして、笑っている。



「哀れで仕方ないな、お前のような能無しが、この毒の海を進むつもりか?」



そして極めつけに────"どこかで聞いたことのある声"が、どこからともなく…そう、まるで大きな劇場の中で反響するオーケストラの音のように、何重にもなって僕の脳を勝ち割ろうとしてくるのだ。



「頭上にはクラゲ、足元にはイソギンチャク。お前は今までそれが怖くてどこにも行けなかったんだろう? 呑気で群れることしかできない小魚と馬鹿にしていながら、本当はその間を進むのが怖かったんだろう? だってお前は動きも遅いし、視力も悪い。脳みそだけ作ったところで、結局お前はどこにも行けないんだからな、まったく滑稽でしかない」



漂う海藻が、身体にまとわりつく。いつもなら簡単に振り払えるはずのそれに手を伸ばした瞬間────。

「タコの、足……!?」

振り払った隙間から、逆に僕の手を掴んだのは────15年見続けてきた、"僕の足"だった。

ああ。
これは、この声は。



「無理だ。お前にはどうせ、何もできない。何か中途半端に成し遂げられたところで、それは簡単に砂にされるような脆いガラクタだ」



────この声は、"僕の声"だ。



「お前だって、本当は知っているだろう? カフェを経営し、万事屋のようなことをし、他者の弱点に付け入る真似ばかりしているから────お前自身がその弱点を突かれた瞬間、それが全て瓦解するってことを」



何の話だ。僕は知らない。マイナスからのスタートだった僕は、ここから這い上がるのみなんだ。今更失敗することなんて、失うものなんて────。



「いいや、成功を重ねれば重ねるほど、お前は怯えることになる。失敗という、小さな汚点を。得るものが増えれば増えるほど、お前は避けるようになる。喪失という、小さな悲しみを。どれだけ努力しようが、お前の本質は変わらないんだ。どれだけ高みに昇ろうが、お前が最底辺の存在であることは変わらないんだ」



僕を罵る僕の声は────なぜだか、少し悲しそうだった。
僕自身、その声に怒りを感じるより先に────"どこかで知っている"虚無感を覚えてしまう。

どこだ。どこで、この感情を知った?

僕は一度成功して────そして、失敗している。
僕は一度多くの物を得て────そして、喪失している。

一体、どこで────。

『悪党として、監督生に一歩負けたな』

『さあ、平伏しろ』


僕の声でも、クラゲやイソギンチャクの声でもない────それなのに、どこかで聞いたような低い声。全てを砂塵に変え、ここにいる小さな生き物の頭を全て垂れさせてしまうような、乾いた、威厳のある声。僕にはないものを全て持っているような、それなのにどこか僕と同じように飢えているような────そんな声が、僕の身を震わせる。



「諦めろ、アズール・アーシェングロット」



この海を昇ることを。
成功を目指すことを。
この世に名を残すことを。

光を浴びて、生きることを。

「…………無理、なのか…」

所詮、夢は夢なのか。
たとえ一度陸に上がったところで、結局僕は深い海の底で、闇の中で、蹲っていることしかできないのか────?

蹴りだした足が萎れ、再び岩場に体がつく。
もう二度と、この水を蹴り上げる力は、なかった。

────そう、ひとりでは。

気づいたのは、瞬きしたその刹那。

────暗くて寒い海の中に、小さな灯りが2つ灯ったのは、本当に唐突なことだった。
さっきまでクラゲとイソギンチャクに毒されていた闇に、光が差す。

「アズール、陸に行きたいの?」
「水臭いですね、僕達も呼んでくれたら良かったのに」

耳の奥を刺す、毒の声。脳に反響する、自分の声。勇気に膨らんでいた胸を萎ませる、王の声。

それらの何もかもを隠すような、"呆れるほど聞き慣れた声"が────僕の五感を、綺麗に奪い去る。

「オレらも何気に陸に自力で上がるのは初めてなんだよね。ガキの頃はオヤジにすっげえ怒られまくって、全然陸に行く隙がなかったからさあ」
「おや、クラゲやイソギンチャクの毒を恐れているのですか?」

頭上も眼下も毒にまみれたその場から、逃げるように安全な岩場に降り立っていた僕を見て、ジェイドが首を傾げる。

「あーそっか、アズールは目が悪いんだっけ。そーいえば聞いた? 陸には目が悪いのを治してくれるキカイがあるんだって」
「成程、なら陸に"上がりさえ"すれば、アズールも自由に歩けるということですね」
「しゃーねえなあ、そんじゃあそれまでオレらが助けてやるか」
「たまにはアズールに恩を売る、というのも悪くないですからね」
「だーかーらあ、その程度のことがオレの恩になるとか、シツレーなこと言わないでくれない?」

何やら言い争いをしながらも────2人は、揃って僕の手を取った。

「お前達、何を────!?」
「あれ、陸に行きたいんじゃねえの?」
「そ、そのつもりではいましたが、しかし────」
「大丈夫ですよ。僕達は体が光る性質を持っていますからね。視界は良好です。それに────」
「オレら、陸に上がったことはなくても、珊瑚の海を抜けたことなら何回もあるんだよね。道順もバッチリ」

戸惑う僕をよそに、彼らは上へ上へと昇っていく。
発行体たる彼らが通るからなのだろうか、本来悪意など持っていなかったはずのクラゲは、優雅に彼らに道を開けた。イソギンチャクも、もうわざわざ僕を指さして悪口を言うこともない。

そうだ。そうだったのだ。
彼らは何も、悪くなかった。怖いものなんて、どこにもなかった。

ただ僕が弱虫だっただけ。僕の心が、挫けていただけ。
孤独に。劣等感に。そして、"いつか失敗するかもしれない"という、今論議したところで栓のない不安に。

ふと、帰ろうとしていた蛸壺に視線を遣る。
────もうそこは、僕が入るには随分と小さくなってしまっていた。

「オレらがいるからクラゲもイソギンチャクもへっちゃらだね〜」

フロイドが、呑気な声で恐怖を壊す。

「陸に上がったら何をしましょうか。運良く人間と出会えたら、話しかけてみます?」

ジェイドが、優雅な声で未来を創る。

「アズールはさ、やりゃあなんでもできるんだから、あとはそのウジウジ癖だけなんとかしなよね〜。オレ、今でもたまにイライラするもん」
「おやおやフロイド、それこそ失礼ですよ。人には何かしら欠点はあって然るべきものなんです。今はちょっとばかり心配性で慎重で立ち止まりたがる節があるかもしれないですが、それが治ったら今度は寝坊癖がつく…なんてことがあるかもしれないですよ?」
「……本当に都合の良い奴らだな、お前達は」

僕はそうやって、2つの光に導かれるがまま、深海から浅瀬へと昇っていくのだった。かつて憧れていた、数多の魚のように、ゆったりと。泳ぐということを、楽しむように────。










「ル……────アズール!」

"耳元"で不意に聞こえるジェイドの声に、目を覚ます。

「…あ……あれ…? ここは……」

海、じゃない。

ここは────。

「僕のことがわかりますか、アズール」

僕はどうやら、ベッドに寝かされているようだった。眉根を少し寄せてこちらを見下ろしているのは、さっきまで見ていた顔より少し大人びた…。

「ジェイ、ド……?」

ジェイドは名を呼ばれると、図らずといった風にほっと息をついた。

「これまでのことは覚えていますか? あなた、仕事中に倒れてそのまま自室に運ばれたんですよ。フロイドと交代で、今は僕が様子を見に来ていたところです」

周りを見渡す。

────見慣れた風景だった。
自分で揃えた調度品。海から持ってきた、宝物。ビジネス用に仕立てた服。
全部、陸の世界で作った"僕の部屋"だ。

あれ、じゃあ、さっきまでの"現実"は────。

「夢…?」
「なんですか、また成り上がって大統領になる夢でも見ていたんですか」

一瞬でも心配してくれたのだろうかと思った自分が馬鹿だった。いやらしい顔をして、減らず口を叩くジェイド。

「ジェイド〜、見張りこうた…あれ、起きたのアズール」

反論しようと口を開いた瞬間、欠伸をしながらノックもせずにフロイドが入ってくる。こちらは僕が目を覚ましたと知っても、顔色ひとつ変えない。

「ったく、オーバーブロットしてから無茶ばっかすっからオレらがこうやってメーワクすんだよ。なーにが"睡眠時間を1時間削るくらい支障ありません"だっつーの、8時間は寝ないとボケるくせに」
「食事も最低限の栄養のみ確保して"楽しむ要素"を排除する、とか言ってましたよね」
「んね。アズールから食を取ったら何が残んだよって話」
「あとは…毎日の筋トレの最中に新しい企画案を本気で練る、とか?」
「そーそー。2つのことを同時並行できるほど器用じゃねえだろって、オレら何回も言ったのにさ」

散々な憎まれ口を叩かれているうちに────思い出した。

そうだ。

自分はつい先日、夢の中であれだけ恐れていた"失敗"と"喪失"を経験したばかりだった。ナイトレイブンカレッジに入ってから築き上げてきた全てを一瞬で砂にされ(あの低い王の声は、今考えればすぐに思い出せる────レオナさんの声だ)、精神の制御が利かなくなって魔術の暴走を起こしたのだ。

俗に言う、オーバーブロット。
僕はそこで、演じてきた"理想の僕"を自ら壊してしまった。あわやここにいる味方達さえ失いかけ(そして確かに一瞬だけ、いっそそうなったって良いと思っていた自分もいた)、無力な監督生とかいう意味のわからない生き物に…そう、屈辱だが救われた。

既に僕は、失敗も喪失も知っていた。
そして、そこから再び全てを取り戻すために────まあ、あとはあの2人の言う通りだ。身の丈に合わないオーバーワークを繰り返しているうちに、意識が遠のいて────。

気づいたら、過去を追体験していた。

「…僕は結局、何も変わっていないんですね」

本意ではないにしろ、救われたと思っていた。
まだ取り返せると思っていた。
もう一度、夢見た"アズール・アーシェングロット"の姿を造れると思っていた。

でも、今こうして振り返ると────。

クラゲは夢占いにおいて、不安や恐怖を象徴するものだ。
イソギンチャクは、言わずもがな毒を持っている。
そして最後に僕を謗った、僕自身の声。

僕はまだ、僕を認められていない。
忌々しいあの黒いタコの足は、僕を狙っている。まるで何度でもオーバーブロット…つまり暴走するぞ、とでも脅してくるように。

「はあ? 何言ってんのアズール。逆でしょ、逆」

失意に沈む僕の頬を軽く叩いて、フロイドが注意を引く。

「逆…?」
「アズールさ、下手に変化を加えず"成長"だけしてきたってのに、オーバーブロットしてから急に今までの生活全部ひっくり返してね?」
「そりゃあ無理も祟るってものですよ。本当にどうしてそう、他人のことにかけては本人以上に理解できる素質を持っているのに、自分のことになると途端にポンコ…コホン、鈍くなってしまうのか」
「ジェイド、言い直さなくて良いよ。アズールはポンコツ、そんなのわかりきったことじゃん」

2人の言うことは…ある意味最もかもしれない。
でも。

「何かを変えなければ…僕は、もっと変わらなければ…駄目なんです、このままじゃ何度でも過去に返るだけなんですから…」
「………」

俯いた僕の沈黙を受けて、フロイドがあからさまに怒った顔をした。ジェイドと言えば、それを見て更に口角を上げるだけだ。

「あぁあーもう面倒くせえなあ!」

そう言うと、フロイドは僕の顔を今度こそわし掴みにする。

「あのさぁ! ずっと言ってるじゃん! オレが気に入らねえのはアズールの生活態度でも勤務姿勢でもなくて、そのすぐウジウジするとこだって!! 何か変えてえんなら蛸壺探すのやめてくんねえかなマジで惨めだから!」
「1時間睡眠を減らして、食の質を落として、常に仕事のことを考えることが"あなたの元々目指していたアズール・アーシェングロット"ではなかったと思いますよ、僕も。あなたはそうやって結果さえ出れば過程などどうでも良いと思う性質でしたっけ?」

ジェイドの声も、いつになく刺々しかった。
きっとそれは────僕がそれこそ、いつまでもウジウジしているせいなのだろう…とは思う。2人は元々、そういった鬱ったらしい言葉や仕草を即座に切り捨てるタイプなのだから。

ただ、その語調に慣れていた僕にとってその言葉は────。

────ひとつの、救いだった。

否定されているのは、僕の過去じゃない。僕の努力じゃない。僕の存在そのものじゃない。
これまでの実績や成果は嘘じゃない。ましてや、それがもう二度と叶わないとも絶対に言わない。

ただ、今怒られているのは、否定されているのは────そうやって"僕を否定する僕"だ。
ひっくり返してみればそれは、「本当のお前はもっとやれるだろう」、「過小評価するな」という声にも聞こえるようだった。

暗闇の中で光る、たった2つの光。
僕を覆おうとする毒をかいくぐって、新しい道へ連れ出してくれる光。

ちょっとばかり、目に痛いところはあるかもしれないが────。

「────そうですね、すみません。久々に夢見が悪かったので、少し動転しました。迷惑をかけた分はちゃんと挽回しますから、安心してください」
「ですが、まだ…」
「────あと1時間だけ、身体を休ませてもらった後にね。効率的な仕事は、質の良い睡眠からです。…ああ、でもとりあえず今、カフェがどうなっているか聞かせてもらえますか?」

そう言うと、2人は顔を見合わせて、それぞれの業務報告を簡潔にしてくれた。

「……キッチンホール、どっちも今は落ち着いてるからヘーキ。20分後からバイトの奴来るから、1時間くらいなら客足増えても対応できる」
「17時からご面会予定の方から15分程前に電話が入り、予定通りにこちらへお越しになるという旨も伺っています。まだ2時間程余裕がありますので、いつも通りの準備で間に合うかと」

頷いたところで部屋を出て行こうとする2人を、最後に少しだけ引き留める。

「わかりました。……お前達」
「?」
「なんでしょうか、文句なら後でメールでいただけますか?」
「……僕はお前達のことを、"使える奴らだ"と思ってる」

ちょっとばかり、目に痛いところはあるかもしれないが────光の届かないところにいた僕にとっては────。

「…ま、オレも今は楽しいから良いよ」
「残業代はしっかり出していただきますからね」

────とても頼もしい道標だ。







大切なお友達のかりちゃん(Twitter:@twst_kinoko1105)がお描きになった、素敵なオクタヴィネルのイラストを小説化させていただきました。
私の告知で引用RTもさせていただきますし、私は「色彩の魔法使い」と呼んでいるくらい彼女のイラストを尊敬しています。

今回基にさせていただいたのは、アズールが深海で足をすくませているシーンでした。
リーチ2人が文字通り光となり、彼を導く話です。
せっかくの元ネタを崩したくなかったので夢にはしませんでした、ご理解ください。

かりちゃん、いつも素敵なイラストをありがとう!
創作している間、とても楽しい時間を過ごせました。









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