大空賛歌



この世界に来て1年ほど経った頃。
来た時と同様、唐突に帰ることが決まった。

それでも一晩だけ猶予があっただけありがたいと思うべきなのかもしれない。

太陽が雲に隠れて、しっとりとした湿気を帯びた日だった。私達はまだ2年生になったばかりで、その日もまだ夏の残滓が肌にまとわりついていた。
授業が終わった後、クロウリー学園長に呼ばれ、突然「明日帰れます」と言われた。そのことを伝えると、すぐに親しかった同学年の友人達が集まってくれた。
急遽開かれることになったオンボロ寮の前でのバーベキュー。デュースがどこからか調達してきた花火で遊んで、エペルがたくさんのりんごスイーツを振る舞ってくれて、トランプではエースにボロ負けして、それから狼化したジャックの背にグリムと一緒に乗って学園を一周した。セベクも後から駆けつけてくれたけど、この子は最後まで若様────ツノ太郎の話しかしなかった。

何もかもが楽しかった。
思い残すことは、何もなかった。

「はー…明日には帰っちまうのか…」

バーベキューセットを片付け終え、いっぱいになったお腹をさすりながら、オンボロ寮の談話室に戻ったところでデュースがしんみりと言う。

「元の世界に戻ってもオレ達のこと忘れんなよな」
「若様のことを忘れるなど言語道断だからな!!」
「いつかこっちとそっちを安全に行き来する方法を見つけるから、そうしたらまたみんなで遊ぼうね」
「若様なら何かご存知かもしれない!! 僕が特別に聞いてみてやろう!!」
「色々とありがとな。お前がいた1年、結構楽しかったぜ」
「若様もお前と会っている時間は楽しかったと仰っていた!! 俺からすれば甚だ不本意だがな!!」
「どれだけ離れてもお前はオレ様の子分なんだゾ! お前のところにまた遊びに行けるようになる頃にはオレ様、世界一の大魔法士になってるからな!」
「猫! 若様を差し置いて世界一の大魔法士になどなれると思うなよ!!」

他の子達は私との別れを惜しみこそすれど、悲しむ様子は見せていなかった(特にセベクはただひたすらにうるさかった)。エースがチラッと言っていたけど、この別れは何も一生の別れではなく、「ちょっと遠いところに引越す」くらいの気持ちでいるらしい。エペルが言うように(あとセベクの言ってることが本当ならツノ太郎も)、こっちとあっちの世界を行き来する方法があると心から信じてくれているみたいだし、賑やかな送迎会が悲しみに呑まれることは最後までなかった。

今日は2年生水入らずで徹夜でカードゲームをしながらおしゃべりしよう、と言っていたので、エースとデュース、それからグリムが布団を談話室まで持ってきてくれ、エペルとセベクは飲み物やお菓子の準備をしてくれていた(「若様が特別に今晩は寮を空けても良いと仰ってくれたのだ!! 本当にあのお方は心が広くていらっしゃる!!」)。私とジャックはバーベキューで使ったお皿を一緒に洗うため、台所へ。

「寂しくなるな、お前がいないと」

そう言いながら、手際良くお皿を洗うジャックの耳がシュンと垂れる。

「ありがとう、そう言ってくれて」
「ラギー先輩も寂しがってたぜ。貧乏仲間がいなくなるのはつまらないって」
「あはは、パーティーの時にどっちの方が効率良くタッパーにご飯を詰められるか競争したの、楽しかったなあ」
「それに────……」

ふと、ジャックの手が止まった。それに、の後何と言おうとしていたのかなんとなく察した私は、逆に少し大きな物音を立てながらキュッキュッと洗ってもらったお皿を拭く。

「────あの人も、きっと寂しがる」

あの人。

ジャックの指している人が、自分の寮の元寮長であることは言うまでもない。

────私は1年前、まだここに来て間もない頃から、レオナさんに淡い片思いをしていた。

きっかけなんて些細なもの。綺麗な髪、浅黒い肌、そして狡猾な緑の瞳に吸い寄せられただけ。
マジフト大会を前に姑息な手口で他寮の生徒を貶めようとしていた時、彼の隠された絶望を知った。
その直後にあった試験で友人達が軒並みアズールさんの手足としてこき使われるようになって、やむを得ず協力を願い出た時(彼には"脅し"と言われたけど)、彼の本当の強さを知った。
特別なことなんて何もなかった。時間をかけていくうち、彼の賢さに、たくましさに、そしてその美しさに、どうしようもなく惹かれていた。

だからこそ、私は彼に何も求めなかった。
私には、彼のようなものは何もない。実力も、気品も、壮絶な過去も、何一つ共有できない。共有できるとしたらひとつだけ────いや、今そのことを考えても仕方ないだろう。
これは私の小さな一方通行の想いのままで良い。一緒にいられる時間は確かに幸せだったけど、そこで何かを告げたり、ましてや何かを望んだりするようなことは、決してなかった。

「…どうかな。レオナさんも今は4年生、研修に行っちゃってここにはいないし…。きっと私のことなんて、忘れてるよ」
「…お前、良かったのか?」

その時には、ジャックはすっかり手を止めて私の方をまっすぐ見下ろしていた。

「何が?」
「レオナ先輩のことだよ。…何も言ってないんだろ」

それは、どちらの意味だろうか。
帰る話を伝えてないことなら、今日の今日で決まったことを報せたところで、それが彼の耳に入る頃にはもう私はここからいなくなっているのだから、意味がない。
…それとも、今更あの人に「好きです」って言っておけば良かったのになんて────とっくに全てを諦めた私が、そんなことを本当に思っているとでも?

「何も言わなくて良いんだよ」

あの人は、そういう人じゃない。最初から、私の掌に収まるような人じゃないから。
ジャックは洗剤がついたままの手で頭をがりがりと掻いていた。無意識に、私の心配をしてくれているらしい。

「…っていうか、知ってたんだね」

私がレオナさんを特別に思ってたってこと。

「そりゃ、誰が見たってわかるだろ、あんなの。何かと理由をつけてサバナクローに来てはレオナ先輩の周りをうろちょろして…。それに、他の奴らの前では遠慮してたのかもしれねえけど、俺と話す時、お前、レオナ先輩の話ばっかりしてたぞ」
「え、そんなに?」
「そんなにだ」

何も望まないと言ったことは撤回しなければならなくなってしまった。
そうか、私は何も告げていなかったはずの友人にまで悟られてしまうほど、彼の傍にいようとしていたのか。

思い返してみれば、確かに何ということはないレオナさんとの日常が、頭の中にまるで万華鏡のように一瞬にして蘇る。あまりにも特別なことがなさすぎて、思い出と呼ぶには少しばかり儚すぎる毎日。

でも、きっと私にとってさえそんなに朧げな日々だったというのなら。
彼にとってはもっと、尚更。

「…どうせレオナさんは私とのことなんて何も覚えてないよ」
「……」

ジャックは何も言わなかった。
私も何も言わず、次のお皿を渡してくれるよう手を差し出す。

それからは私達どちらからも"レオナ"という言葉が出ることなく、たくさんのお皿を洗い終えた。談話室に戻ると、すっかり雑魚寝の準備が整っており、エース達がお行儀悪くゴロゴロと寝そべりながらりんごジュースを飲んでいる。

「お待たせ」
「おー、じゃあ勝負の続きな。えーと、今のとこオレが10勝、デュースが2勝だから…」
「ハーツラビュルの奴らが2人もいるのにトランプばかりでは分が悪い!」
「ディアソムニアが得意な勝負って何だ?」
「かくれんぼだな!!!!!!」
「いやそんなドヤ顔で言われても…オレ嫌だよ、こんなとこでかくれんぼすんの」
「じゃあ、りんごの品種当てクイズとかどう?」
「エペルの一人勝ちが見えてるな…」

ワイワイとはしゃぐ喧騒の中で、先程までの寂寥感はあっという間に吹き飛んでいった。ジャックももう、耳を垂れさせていない。まるであの会話なんてなかったかのように、私達は結局性懲りもなく負けが決まっているトランプ勝負に臨んだ。

それから、どれくらいの時間が経っただろう。
その音は、大笑いしながら静寂を殺していた私達の間を切り裂くように響いた(セベクはずっと地声だったけど)。

玄関のベルが、鳴っている。

時計を確認すると、もう日付が変わろうかという頃だった。

「こんな時間に誰だ?」
「3年生の先輩が来たのかな?」
「うっわ、うちの寮長が来たらやべぇ! デュース、急いで隠れろ!」
「お、おう!」

慌てて寝室の方へ駆け上がっていったエースとデュースを尻目に、私は「ちょっと出てくるね」と言って玄関の方へ向かった。
誰だろう。同じ学年でわざわざこんな時間に訪ねてくれる友人はもういないし、またリーチ兄弟が気まぐれでも起こしたんだろうか。

そんなことを考えながら、そっとドアを開ける。

「どちら様────」

ですか。

最後まで、言葉は出なかった。

そこにいたのは、絶対にここにいるはずのない人だった。

暗褐色の長い髪。頭から覗く小さな獣の耳。挑戦的な、緑の瞳。

「────よう」

────レオナさんは、まるで普段と変わらない出で立ちで、私の前に立っていた。

「…どうして」










一度談話室に戻り、「レオナさんだった。少し外してくるね」と言ってから再び寮の外に出る。エースとデュースは訪問者がリドル寮長でなかったことにひどく安心していて、エペルとセベクはさして気にしていないように「わかった」と言い、ジャックは────不安そうな眼差しで、こちらを見ていた。グリムなんて、みんながこちらに気を取られている隙に、りんごのタルトをつまみ食いするのに夢中になっていた。
誰もレオナさんの訪問自体には何の違和感も持っていないらしい。そのことに首を傾げつつ、私は彼の待つ外のベンチまで駆け寄る。

「どうしたんですか? 研修は…」
「定時報告で帰還要請が下ったんだ。今日、突然」
「…本当に急ですね」

あなたがここに来たことも、本当に突然すぎる。
だって私の記憶に誤りがなければ、彼がここを訪れるのは初めてのことだった。

よりによってこの世界に留まれる最後の日に、彼の方から訪ねてくるなんて。
長い時間をかけて宝箱にしまいこみ、大切に鍵をかけていた想い。きっと明日になれば全て解放されて、本当の"思い出"になるのだろう。そう思っていたのに、最後の最後で彼は宝箱を開けに来てしまった。

「────お前、元の世界に帰るんだってな」
「どうしてそれを」
「クロウリーから聞いた」
「…そうですか」

もしかして、それで来てくれたんですか? とは尋ねられなかった。
そこまで自惚れることは、できなかった。

ジャックとの会話で図らずも自分がそこそこに押しかけ女房の体を晒していたことが発覚してしまったものの、私はレオナさんとは常に一定の距離を取っているつもりだった。そう、たとえ毎日のようにサバナクロー寮を訪ねていたとしても。毎日のように、彼の姿を探していたとしても。

「めでたいじゃねえか、帰りたかったんだろ」
「帰りたくなかった、と言えば嘘になりますけど…。普通に寂しいですよ。思い出も、友人も、随分と作りすぎてしまいましたから」
「ああ…まあ、それもそうだな」

ぽつりぽつりと、まるで空中に点を打っていくような感覚で、細い会話が続く。

寂しいですよ。
好きな人がすぐ隣にいるのに、何も告げられないままお別れしてしまうなんて。

寂しいですよ。
何も求めないと決めたのは自分だけど、何も得られないまま帰らなければならないなんて。

寂しいですよ。
本当は、明日からも変わらずあなたのことを想いたかった。
同じ世界の同じ空の下で、あなたの帰りを待っていたかった。

「この世界はお前には随分と窮屈だったろ。名残惜しい気持ちもわからないではねえが、晴れて自由になれて良かったな」
「…どうでしょうね。どこから不意打ちが来るかわからないって構えながら生活することに慣れちゃったので、もしかしたら元の世界の方が物足りなく感じるかもしれないです」
「ハッ、強かなもんだ」

レオナさんは、乾いた笑い声を漏らす。そこに、出会ったばかりの頃のような嘲る調子はない。
こんな日に、思ってしまった。いや、こんな日だからこそ思ったのだろうか。

ああ、積み重ねた日々は、確実に嵩を増していたのだと。
大切に拾い上げていた砂粒が、今や高い城のように築かれている。

何ということのない日々は、確実に私達の距離を縮めていた。

「…レオナさんは、卒業したらどうするんですか」

私は、元の世界に返されることになった。きっと帰ったら、今まで通り普通に学校に通って、普通に卒業して、普通にどこかの企業に就職するのだろう。普通の人生を、自由に謳歌するのだろう。

でも、この人は、どこへ行っても不自由だった。
生まれた順番がたったひとつ違っただけで、生を受けたその瞬間から何もかもを狂わされてしまった。

故郷にはきっと、既に彼の居場所はない。
でも、外国に行ったところで、彼の忌まわしい肩書きが消えるわけでもない。

彼はずっと"夕焼けの草原の第二王子"という看板を背負わされたまま、私なんかよりずっと窮屈な世界を、私なんかよりずっと長い時間、歩んでいかなければならないのだ。

今だって彼は、ひとりで遠いところへ研修に行っている…という名目だったはずなのに、常に王国のSPが護衛のため近くをうろついているのだそうだ(ラギー先輩談)。
一時として、彼に自由はない。ただ唯一、NRCという安全地帯においてだけ、彼は仮初めの王座を手に入れ、仮初めの自由を手にすることができていた。

彼が2年も留年した理由は知らない。でも、私は朧げに、彼が時を留めたのは"自由"を求めたからではないだろうかと思っていた。小さな箱庭の中の、玩具のような自由だったとしても、いやむしろ────そんな場所でないと、彼は自由になれないから。

「故郷に帰るに決まってんだろ。嫌味か?」
「いや、そういうわけでは…」

片や魔法の国に拘束されていたかと思えば、またも自分の及ばない力によって新たに得た友人とも思い出とも引き離されてしまう私。
片や人々が求めてやまない全てを持っていながら、生まれた順番というどうしようもない境遇のために腫れもの扱いされてきた彼。

歩んできた道のりは違えど、ままならない自分の無力さに憤ってきたその感情だけは、よく似ていた。何もない私が、何でもある彼とただひとつ共有できるものがあるとすれば、それはこの"感情"だけだ。だから、たかが一個人の問題と王国を巻き込んだ問題、そのスケールの違いは自覚していながら、彼の気持ち自体は理解できるつもりでいた。

彼は一体、この自由の箱庭を追い出された後、どうするつもりなのだろう。
ここから先の、彼の心情を思い遣ることはできない。不自由から解放され、再び自由な世界を取り戻した私には、もはや彼に寄り添おうとすることですらおこがましくなってしまう。

「故郷に帰る…そうですよね」
「……」

彼の言葉を繰り返すことしかできなくなってしまった私を、レオナさんは暫く何の感情も浮かんでいない表情で見つめていた。

「────今、俺が研修でどこにいるか知ってるか」
「え? ええ…虹の島ですよね、あの文化がすごく発達した…」
「ああ。今でこそあそこは国民皆平等、科学技術が発展していながら自然も豊かな島だと有名だが────つい100年前までは、科学技術に頼るあまりあらゆる動物は絶滅の危機に追われ、男女間にも歴然とした差別があったんだ」

レオナさんがどうして突然研修先の話をし始めたのかはわからない。しかし彼の話を遮ってはいけないと思ったことと、純粋に話に聞いていた"虹の島"の評判と歴史が乖離していることに驚いたのとで、私は「へえ…」と間抜けな声を漏らす。

「俺が今研究しているのは、そこの歴史、文化、そして自然との共存を可能にした科学技術そのものだ。あの島は────不平等を平等にし、不自由を自由にした希望の島なんだよ」
「あ…」

不意に、彼の言いたいことを理解する。
その様子は彼にも伝わったのだろう、レオナさんは器用に口の端を持ち上げて、満足そうに笑ってみせた。

「俺は故郷に帰ったら、虹の島の発展を夕焼けの草原にももたらそうと思ってる。俺"個人"の意見を王宮に出したところで、聞き入れられることはないだろうが────幸か不幸か、ここに来て夕焼けの草原の格差社会は思った以上に酷いことがわかったからな。上に出す前に下に呼び掛けてみれば、そこそこ賛同者も集まるだろう。数の増えた意見ともなれば、あいつらも無視はできないはずだからな」

夕焼けの草原と一口に言っても、生活様式は身分によって大きく変わってくる。彼の住んでいた王宮は確かに豊かで豪奢な場所だったのかもしれないが、そこを一歩離れた瞬間、目の前は一気に弱肉強食の殺伐とした風景に変わってしまう。「格差社会が酷い」というのはきっと、ラギーさんの生きてきた場所の話を聞いて思ったのだろう。

レオナさんは、確実に前を向いていた。
狡猾な彼のことだ、もしかすると「虹の島の発展を夕焼けの草原にも」と綺麗なことを言っておいて、国家転覆くらいのことは考えているかもしれない。むしろそのくらいのことを考えでもしていなければ、この人は今、こんなに楽しそうな顔をしていないだろう。
それなのに、私の目はどうしようもなく彼の横顔に惹きつけられて、決して離れようとはしなかった。
凛とした、堂々たる佇まい。私はこの顔を、1年という長いようでいて短く儚かった時間、ずっと眺めてきたのだ。いつか別れの時が来ることはわかっていたから、決して忘れてしまわないよう────毎日、毎日、心の奥に刻み続けてきたのだ。

「いつかお前の世界とこっちの世界が繋がった時には、夕焼けの草原こそ最も平等で自由な国だって評判を、嫌でも聞かせてやるよ。楽しみに待ってろ」

────安心した。
自分ばっかりが自由になってしまうことに、今思えば私は後ろめたさのようなものを感じていたのかもしれない。
でも、そんなものはこの人の前に、不躾なものでしかなかった。彼はいつだって、私の遥か前を行く人だった。────そんな人だから、好きになった。そんな人だから、この感情は一生隠し持っていようと思った。

「レオナさんのクーデター、楽しみにしてますね」
「誰もそんなこと言ってないだろ」

言いながらも、レオナさんの口元は緩んでいた。

「明日はいつ発つんだ?」
「朝焼けと共に、です」
「そうか」

淡い恋心が、つんと沁みる。
最後にこの人と会えて、本当に良かった。

沈黙が続いてしまったことで、否応なしに別れの時間が迫っていることを感じた。
名残惜しいがこちらから切り出そうかと口を開くと────

「────餞別に、良いもの見せてやるよ」

レオナさんはそう言ってやおら立ち上がり、マジカルペンを空に翳した。
何をするつもりなのだろう、私は黙って彼が大きくペンを振る様を眺める。
餞別って、そんなもの、全く期待していなかったのに。

すると────。

「わぁ…」

空が、晴れた。

頭上の雲が、ペンの軌道をなぞるように亀裂を入れて、切り裂かれていく。
その先に見えたのは、満点の星空だった。六等星まではっきりと見えるその様は、まるで真っ黒な生地に砂糖をまぶしたお菓子のよう。

無数の光に包まれ、彼の顔が青白く照り返される。

全てを砂で覆うことしかできなかった彼が、今、大気中の霧の粒を払っている。
それはまさに、"世界への意趣返し"ともいえる行為だった。

「"今の俺"はまだまだ不自由だ。俺という存在の全ては、生まれた時から果ては死ぬまで、全てが"他者に決められている"。偉そうなことを言ってみたは良いが、結局のところ俺の意見はいつまでも軽んじられ続けるだろうし、俺の魔法は疎まれ続けるだろう。でも、どうしてだろうな────俺と同じか、あるいはそれ以上に自らを制限され、不自由だったはずの"誰かさん"が、教えてくれたんだよ。たとえ与えられた場で与えられた生き方しかできないと言われても、結局最後に笑ってる奴が勝ちなんだってな」
「それって…」

含みを持たせながら言われた"誰かさん"。その時向けられた視線が、胸の鼓動を速める。

「そいつは本当に自由な奴だったよ。ちっぽけで、オンボロで、どこからどう見ても無価値だったのに、あっという間に周りを引きこんで、学園の誰からも一目置かれるようになっちまいやがった。魔法が使えないってだけで誰よりも大きな枷をつけられてるはずなのに、本来の性格なのか火事場の馬鹿力なのか────どんな問題を背負わされても機転を利かせて、自分にできる最大限のやり方で解決していくんだ。ああ、本当に鮮やかだった」

それが自分のことを言われているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
彼はあえて私のことだとは言わず、明確な"誰かさん"を褒めそやす。

「そいつを見てたら、なんだか自分がいつまでも辛気臭ぇところでウダウダ悩んでるのが馬鹿みたいに思えてな。どれだけ不自由な世界でも、まだ自分にやれることはあるんじゃないかって────どれだけ息苦しくても、呼吸ができる限り自分はまだ動けるんだなんて────馬鹿が移っちまったみてえだ。その結果がこれだよ」

そう言って、果てのない大空を指さす。
そこには確かに、まるで子供が描く夢のような────彼の言葉を借りるなら、"馬鹿みたい"に綺麗な星々が燦々と輝いていた。

レオナさんはその時、一度も見せたことのない笑顔でこちらを振り返った。
目を糸のように細め、口を大きく開き、まるで────まるで、心から嬉しいことが起きたかのように────笑っている。

「俺は俺の自由を手に入れてみせる。だからお前も、お前の自由を謳歌しろよ」

私はというと、その笑顔に自分も全力の笑顔で応えたかったはずなのに────なぜか、泣き出しそうな気持ちになってしまった。理由はわからない。でもレオナさんの笑顔を見た瞬間、心臓が素手で鷲掴みされたかのような痛みを訴え出したのだ。

まだ帰りたくない。
どうして別れ際にそんな、初めての顔を見せてくるの。
もっとあなたのことを見ていたい。
あなたが思い描いたというその夢を、最後まで見届けていたい。

でも、私の自由とあなたの自由は、きっと遂げられる場所が違うから。
私達はどちらも、自由を追う探求者。互いのいるべき場所が異なるのは、どうしようもないこと。だったら、この痛みを堪えながら、私も笑わなきゃいけない。

笑って、私は私の自由を讃えなければ。

「────はい」

それからレオナさんは、再び学園長室に行くのだと言った。聞けば、私が元の世界に戻ると聞くや否やここへすっ飛んできてくれたそうで、「まだ報告の途中なんだよ」と済ました顔をしていた。報告が終わったら、予定通り、虹の島に戻るらしい。

「じゃ────元気でな」

彼との日常に、何かを求めたことはなかった。
自分が秘めていた気持ちと同じものを、だなんて、望んだこともなかった。それは今も変わらない。

でも、最後にひとつだけ────欲張っても良いだろうか。
これが最後だから。これでお別れだから。そんな時に何を置いてでも駆けつけてくれたその優しさに、ひとつだけ付け込んでも、ばちは当たらないだろうか。

「レオナさん」

キラキラと瞬く星空の下を去って行こうとする彼を、呼び止める。
彼はゆっくりと振り返った。その瞳は、星の光を受けて揺らめいているように見えた。

「なんだ」

ひとつだけ、許してください。
あなたと過ごした時間が、私にとって、そして────あなたにとっても、決して無駄なだけではなかったと、自惚れることを。
何ということのない、どちらにとっても朧げでしかなかった日々に、最後の彩りを加えることを。

「もし────あなたを馬鹿にしたその"誰かさん"が、明日になったらこの世界のどこからも消えちゃうとしたら────レオナさんはそれでも、その人のことを覚えていてくれますか────?」

レオナさんは満点の星空の下で、柔らかく微笑んだ。夏の大きな月が輝く中だというのに、その笑顔はまるで春の日だまりのように見えてしまい、私はその幻のような光景に目を瞬く。

「ああ────忘れられるわけがないだろ」

そう言って、今度こそ彼は私の前から去った。
私も彼が消えて行った方向に背を向けて、友人達が待つオンボロ寮へと戻る。

私達の行き先は、違う場所にある。
でも、たった一瞬────束の間の休息のようなこの短い時間で交差した時間は、確かな重みを持っていた。

何も望まない。何も求めない。思い残すことは、何もない。
そう思っていたのに、勝手に残されてしまったこの気持ちは、私の心の中にいつまでもチカチカと消えない光を灯し続けた。まるで、果てのない大空に輝く星々のように。










レオナがヒロインに感化されて未来に期待を寄せるようになっていった話。
ちなみに当事者の2人以外は、2人の密やかな想いに気づいています。

セベクのセリフは3倍くらいの大きさで読んでください。









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