Shoreline



※ジェイド卒業直前








海を見に行きたいと言われた。

それは、僕達が卒業する数日前のこと。
これまで何かと世話になってきていた彼女に、「何か贈れるものがあれば」と興味本位で尋ねてみたその答えが、それだった。

「海…ですか?」
「はい。私が1年生の時、それこそ珊瑚の海に入らせてもらったことならありましたけど…あの時は…」
「ふふ、僕達はあまり友好的ではありませんでしたからね、お互い」

あの時は、こんな風に笑って2人きりで話す日が来るとは思っていなかった。
厄介な"お客様"。アズールの努力を砂塵に帰した"度を過ぎた悪戯っ子"。
言い方は何でも良い、とにかく最初の頃、僕は彼女にあまり良い印象を持っていなかった。

それが、少しずつ…本当に亀の歩みより遅いくらいの速度で、変わっていった。

他寮の問題解決に手を貸したり、ラウンジのホールスタッフを頼んだり。

「あ、先輩方…。先程は配膳を間違ってしまいすみませんでした…」
「まあ、今日はかなり忙しかったですからね。お客様も気にされていないようだったので、次から気をつけていただければ結構です」
「つかあれはキッチン側の問題じゃね? あれ1番テーブルなのか7番テーブルなのか、オレも読めなかったし」
「おや…ではキッチン担当のスタッフを教育し直さないといけませんね」

学園の行事に参加し協力したことも幾度となくあった。

「フロイド先輩、今回も欠席ですか?」
「うん、だってなんかつまんなさそーなんだもん」
「こうなったフロイドはもうテコでも動かないので…行きましょうか、監督生さん」
「そうですね。後で写真送りますから」
「気が向いたら見るわ〜」

試験前にはよく勉強を教えていたし、キノコの採取を手伝ってもらったこともあった。

「監督生さん、折り入ってお願いしたいことがあるのですが」
「山ですか?」
「さすがですね、理解が早くて助かります」
「大方フロイド先輩とアズール先輩に足蹴にされたんでしょう…。ちょうど私も暇なので、お付き合いします」
「ありがとうございます。…ただ、こうも簡単に承諾していただけるということは…何かお望みの対価でも?」
「そうですね…ちょうど先程トレイ先輩からいただいたホールケーキがあるので、それに合う紅茶と一緒に食べてくれる人がいたら良いなあって思ってたところだったんです」
「ふふ…抜け目のない方ですね。わかりました、帰ってきたら最高級の紅茶を淹れましょう」

そんな日々の中で、彼女は徐々に"オクタヴィネルの3人"ではなく"僕"のことを呼ぶようになった。
僕の方も、"オンボロ寮の監督生さん"という肩書きではなく、"彼女"個人としての存在を意識するようになっていった。

「ジェイド先輩」
「はい、ここに」

彼女が呼べば、いつだってどこだって僕はそこへ行った。

「監督生さん」
「なんでしょう?」

僕が呼べば、いつだってどこだって彼女はここへ来た。

ただ────そんな僕と彼女の関係に、最後まで名前は付かなかった。

おそらくアズールやフロイドを除けば、一番近いところにはいたのだと思う。
そして更に言えば、彼女の方は明確に僕を慕ってくれているようだった。

でも、彼女は最後までその感情を口にしなかった。
僕は僕で、そもそもそんな彼女に対する感情をどう名付けたら良いのかわからず、凪いだ海面のように静かに過ぎ去っていく日々をただ享受するに留まっていた。

これは恋や友情のような陳腐な感情ではない気がする。
かといって、満足するまで酷使して、壊れたら捨てる玩具のように扱ってきたつもりもない。

一緒にいる時間が好きだった。ただそれだけのこと。
穏やかな日常に添えられるちょっとしたスパイス。僕にとって彼女は、そんな存在だった。

そんな僕が最後に彼女に「贈り物をしたい」と言ったのは────そんな不思議な感覚を言葉にできない代わりに、何かの形として遺しておきたかったのだと思う。

卒業したって、会おうと思えば会える。
でも、これまでのように同じ場所にいられない僕達がこれまで通り会うのは、きっと少しだけ難しくなるから。

だから、"思い出"を遺しておこうと思った。
彼女の元から一足先に去ってしまう僕を、それでも彼女が忘れてしまわないように。
僕という存在を、彼女がいつまでも鮮明に思い出せるように。

自分からは何も告げないのに、彼女の心に何かを遺そうとする────それがどれだけ狡いことなのかはわかっているつもりだ。でも、それが"僕らしい別れの挨拶"だとも、思っていた。

「学園の外に、ちょっとした浜辺があるって聞いたんです。でも私、魔法が使えないからひとりでは行っちゃいけないって言われてて…。良かったら、そこへ連れて行ってくれませんか? そこで一緒に綺麗な貝殻を探したいです」

なるほど、貝殻か。
彼女らしい控えめなお願いだ────と思うと同時に、自分と縁の深いアイテムであれば、"思い出"にはお誂え向きの贈り物だと思った。

「良いですよ。今日の午後は────確か、授業がないと仰っていましたね?」
「はい。もう学期末試験も終わっているので、午後一でホリデー用の課題を受け取ったら基本的には自由解散です」
「でしたら、日が暮れる頃にでも行きましょうか。その浜辺なら僕もよく知っていますが、夕焼けに染まる海がとても綺麗なんですよ」
「わあ、ありがとうございます。楽しみです」

そう言うと、彼女はオンボロ寮に戻る────のではなく、僕と一緒にオクタヴィネル寮の鏡を通ろうとした。

「────何か、こちらに御用でも?」
「ええ、ちょっとアズール先輩にバイトのシフトの件で相談があって」
「そうでしたか。せっかくならお送りしたいところですが、生憎僕もラウンジの引継ぎ作業が残っているので…ここで失礼しますね。17時に鏡の間で待ち合わせ、ということでよろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」

柔和に微笑んで、ラウンジのVIPルームの方へ去っていく彼女の背を見送る。
────あと数日で、あの後ろ姿を見ることもなくなる。
どうやってその小さな体に僕の存在を刻み込んでやろうか、そんなことを考えながら、僕は一旦自室へと戻った。










17時。
5分前から待っていると、時間ぴったりに彼女は現れた。

「お待たせしてすみません」
「いえいえ、構いませんよ。…それより、それは」

目を奪われたのは、その時の彼女の装い。
彼女はいつも、僕達と同じ男子用の制服を身に纏っていた。金銭的に余裕があるという話も聞いたことがなく、実際その言葉通り、授業がない日でも彼女はいつも制服だけを着ていた。

それが、今日は全く違っている。
彼女が着ているのは、白いワンピース。無地で、ノースリーブに膝丈の真っ白なワンピースは、薄暗い学園の中では少々眩しく見える。

「バイトで貯めたお小遣いで買ったんです。なかなか着る機会がないなって思ってたんですけど、せっかく最後にジェイド先輩と一緒にいられる機会だからと思って…今日着ることにしました」

その飾り気のなさが、余計に彼女本来の魅力を引き出しているようだった。
卒業前にこの姿を見られて良かった、と思う。

「よくお似合いですよ。ラウンジの新しいオーナーはアズールほどの守銭奴ではありませんから、賃金アップの交渉をして、もっとそういった服を買ってみては?」
「褒めながらもアズール先輩を貶すことは忘れないの、ほんと最後まで相変わらずですよね…」

笑いながら、学園の敷地を出る。
決して学園外が危険に満ちているというわけではないが、それでも一定の防御魔法が施されている場所を抜けると、少々空気を漂う魔力量が濃厚になる。
魔力を持つ野生の獣も生息しているので、確かに彼女ひとりでここを歩かせるには危険が伴うだろう。

初めて学園の外に出たと言う彼女は、いつになく嬉しそうだった。

「────それで、その時グリムがせっかく完成した魔法薬をひっくり返しちゃったんですよ。お陰で私達のチーム、全員居残りになっちゃって」
「ふふ、グリム君は本当にそそっかしいですね」

他愛もない雑談をしながら、歩くこと20分。

お目当ての海岸へ、辿り着いた。

「わあ、海なんて久しぶりに見ました…!」

目の前に広がる光景に、彼女が歓声を上げる。

視界いっぱいに広がるエメラルドグリーンと、柔らかな白い砂浜。水が澄んでいるので、浅瀬であれば波に揺れる砂の動きまではっきりと見えることだろう。
夕暮れ時を選んだとはいえ、初夏の日差しはなかなかに強い。薄い膜のように広がる雲が、太陽の光を反射し、空を斑な明るい橙色に染めていた。光の出元はその綺麗なまるい形を、今にも海の彼方へと沈めていこうとしている。空だけでなく海にまでその輝きを映す様は、薄墨のような空の色と青い宝石のような海の色と混ざり合い、なんとも幻想的な雰囲気を創出していた。

加えて、今日は風の弱い穏やかな日だった。心地良い波の音が耳に入り、暑さでだれそうな体の脇を優しく撫でながら空気が通り抜けていく。

「最高の海日和ですね」
「ええ、本当に…絵のように綺麗ですね」

彼女は海に向かって歩を進めた。途中で白いサンダルを脱ぎ捨て、裸足で砂浜の上を進んでいく。

「砂浜には鋭利なものも落ちていますから、怪我に気をつけてくださいね」
「怪我したら治癒魔法お願いしますね」

ちゃっかりした人だ。
あっという間に波打ち際まで辿り着いた彼女をゆっくり追いながら、思わず顔が綻ぶ。

太陽に照らされて橙色を混ぜた白いワンピースの裾が、風に乗って上品に揺らめいている。
足先で海水を蹴り上げている彼女の姿は、先程彼女が喩えたその絵画の一部と言われても頷けるほど、この世界によく似合っていた。

綺麗だ、と思う。
彼女は年の割に、上品な人だった。海で生まれた自分が言うのも変な話だが、彼女はまるで────そう、まさに海のような人だった。

ゆらゆらと、掴みどころがない人。それはもしかしたら、彼女が別の世界から来た人だからなのかもしれない。目の前で喋っていても、ふっとした瞬間にどこか遠くへ行ってしまいそうな錯覚を、何度覚えたことか。
それでいて、芯の通った人。善と悪の区別を自分の中で明確につけているのだろう、自分のことでなくとも困っている人がいたら躊躇なく手を差し伸べてしまうお人好し…かと思えば、自分に害をなした者には容赦なく、手段を選ばず制裁を下そうとする。自分が正しいと思ったことは臆さず言うのに、他人から間違いを指摘された時は素直に呑み込み謝罪する。

上品で、不思議で、したたか。
なかなか併存しえない性格をうまく組み合わせてできた"彼女"という人間は、僕にとって性別や種族の垣根を超えた魅力を持っている存在だった。

「ジェイド先輩、日が暮れる前に貝殻探しましょう」

ようやく追いついた僕に、彼女は笑ってそう言った。

「そうですね。どんな形や色のものが良い…といったリクエストはありますか?」
「うーん…ジェイド先輩が一番綺麗だと思ったものが良いです」

またこうやってすぐ抽象的なことを言う。首を傾げる僕を置いて、彼女は波の動きをなぞるようにしながらまた遠くへと歩いて行ってしまう。
視線を下に向けながら、波打ち際で海水に足を浸しながら、貝殻を探す彼女。
正直、僕が考える"一番綺麗な貝殻"を探そうとすると、もっと海の深いところまで潜らないと見つけられないのだが────彼女にそれを求めるわけにはいかないので、適当に形の良いものでも見繕おうかと、ぼんやり彼女の後ろを歩きながら時折地面に目を遣っていた。

「────ジェイド先輩」

不意に、名前を呼ばれる。
顔を上げるが、彼女はこちらを見てはいなかった。背を向けたまま、歩を止めないまま、声だけこちらに投げかけている。

「…はい」

彼女の髪が、潮風に靡いている。自然に遊ばれているようなその姿は、なぜだろう────普段と違う装いだからだろうか、いつもよりずっと儚く見える。

「卒業、しちゃうんですね」

その声は、穏やかな波の音にすら掻き消されてしまいそうなほど小さかった。

「…どうしたんですか、今更」
「今更…というか、改めて思っちゃって。今日誘っていただいた時もいつもと違ったというか────気づいてますか? 先輩、今日一度も対価の話をしてないんです。いつもギブアンドテイク、お互いのお願いを叶える時には必ず報酬付きだったのに」
「それは…」
「最後の思い出を、くれようとしてるんですよね」

彼女は理解していた。僕が今日、彼女を誘った理由を。

会おうと思えば会えるけど、会うには少し離れすぎてしまうこと。
彼女がこれまでの"なんでもない日々"を大切にしていると、僕が知っていたこと。
そこに名前がなくても、彼女が僕に特別な感情を持っていたこと。

でも、僕がそんな"綺麗な想い"に応えようとしているのだと────そんな"綺麗な理由"で"思い出"を贈ろうとしていると思われているなら、どうかそのまま美しい幻想を保っていてほしかった。
だから、嘘でも真実でもないラインの"曖昧な言葉"を、いつものように笑顔で紡ぐ。

「────ええ、そうです。あなたと過ごした日々は僕にとってもかけがえのないものでしたから。今日はこの3年間全てのお礼を込めて────」
「嘘」

突然、風が止んだような気がした。
────もちろんそれは錯覚だった。相変わらず波は僕と彼女の足を気まぐれに濡らしているし、彼女の髪と服は風に弄ばれている。

ただ、そんな中で時間が止まったような気がしてしまったのは────彼女が、それまでずっと歩き回っていた彼女が、急に足を止めたからだった。

「…嘘?」

僕の言葉を遮ったその強い語調に、あくまで丁寧に尋ね返す。

「そんな綺麗なものじゃないでしょう」

彼女は振り返った。
その表情は────昨日まで毎日のように見ていたものと同じ顔のはずなのに────この時ばかりは、別人のように見えた。
笑っている。笑っているのに、唇が震えている。瞳が潤んで見えるのは、海の揺らめきが反射しているからだろうか。

「3年間のお礼だなんて、嘘です。ジェイド先輩、私がこれまでずっとあなたの傍にいて、まだそんなに"あなたのことを理解していない"とでも思っているんですか?」
「────…」
「…ジェイド先輩、最後まで何も言ってくれませんでしたね」

発言の意図が、よくわからない。

「いつも私を呼んでくれることが、嬉しかったです。いつも私に快く手を貸してくれたことにも、感謝してます。でも先輩は、いつも私と一線を引いているような態度でした。力になりたい、怖がらないで、そう言いながら…いえ、"そんなことを言うところ"まで含めて、他の人達と同じような扱いを決して変えませんでしたよね」
「それは…」
「私がジェイド先輩ばかりを頼っていることに…ジェイド先輩との時間を増やそうとしていることに、気づいていないとは言わせません。でも先輩は、そんな愚かな私と一緒に親交を深めているフリをして────実際、"ただ時を同じく過ごしていた"だけだったんです」

思ってもみなかった鋭い言葉が、矢継ぎ早に浴びせられる。
今────自分は、何を言われているのだろう。

今までこんな風に攻撃的な言葉を吐かれたことはなかった。
そしてただ時を共にしていただけなんて、そんな、あの3年が惰性によるものでしかないような…そんな虚しいことを、考えたことなどなかった。

本音を出さなかった自覚ならある。この曖昧な感情がわからず、彼女がいつか消えてしまうその日を恐れ、僕はあえて言葉を呑み込んでばかりいたから。

でもそれは決して、"彼女"と"その他"を一緒にしているからなどではない。
むしろ、彼女が誰よりも特異な存在だったからこそ────触れることを、躊躇っていたというだけで。

「そんなつもりは────」
「ええ、だから私、今日ばかりは期待してました。何も対価を求められず、"私"に贈り物をしたいと言ってくれたことが、本当に嬉しかったんです。もしかしたら、対価なんてなくても────対価なんて要らないと言ってくれるような、そんな"私"への言葉を掛けてくれるんじゃないか、なんて思ってました」

嬉しかった、と言う割に、彼女は全く嬉しそうではなかった。
笑っているはずなのに、今にも泣きそうだ。唇の震えだけでなく、今や頬は強張り、眉は八の字に曲がってしまっている。

「────でも、先輩は最後まで"綺麗な言葉"だけで終わらせましたね」

「あなたと過ごした日々は僕にとってもかけがえのないものでしたから。今日はこの3年間全てのお礼を込めて────」

嘘────とは、そういう意味だったのか。

その時になってようやく、彼女が僕の"本音"まで全て見抜いていたことに気づかされた。

僕が最後に、彼女の純粋な感情への返事を、曖昧にしたまま形だけ遺そうとしていること。
彼女に、"消えない傷"を植え付けて──── 一方的に、去ろうとしていること。

そしてあの時も、単純に僕が思っていることと反対のことを言っていたわけではない…そのこと自体は、きっと彼女もわかっているのだろう。

でも確かに、僕の言葉はいつも"表面的"だった。他人を不快にさせないような────逆手に取って言えば、他人の懐には絶対に入り込まないような、防御的な言葉ばかりを並べていた。そしてそれは、理由こそ違えど彼女に対しても等しく走らせていた保身だった。

「────かけがえのない日々だったと言ってくださって、ありがとうございます。ジェイド先輩があそこまで時間をかけてくださった以上、それは少なからず本音が含まれているものだったんだろうなと、信じてます。でも…お礼だなんて、そんな綺麗な感情ではないでしょう、これは」

彼女の目から、涙がほろりと一滴。

僕はと言えば、そんな彼女に掛ける言葉も見つからず、涙を拭うことさえできず、ただその場に立ち尽くしてしまうだけだった。

「私があなたをどう思っているのか知っていながら引き寄せて、それでも大事な部分には絶対触れさせてくれなくて。肝心なことは何も言わせてくれなくて、言ってくれなくて。そんな曖昧なまま、時間だけ過ぎて行って────最後まで何も言わず、"思い出"だけ私に遺すつもりだったんでしょう。あなたの気持ちを知らないまま、あなたという存在だけを私の中に刻み込んで、遠くへ行ってしまうつもりだったんでしょう」

──── 一言一句、その通りでしかなかった。だから僕は、今もまだ動けずに、泣いている彼女を泣かせたままにしてしまっている。

だって、怖かったのだ。
名前をつけてしまうのが。言葉にしてしまうのが。触れてしまうのが。

名前をつけたら、いつかその関係に終わりが来てしまいそうで。
言葉にしたら、もう二度と戻れなくなってしまいそうで。
触れたら、その瞬間に彼女が消えてしまいそうで。

僕はずっと、怖かった。
曖昧な境界線を消し去って、彼女をこの身に溶かしてしまったら────いつか必ず訪れる離別の時に、耐えられないと思った。

だから、名前をつけないことにした。言葉は呑み込み、手は背に隠すことにした。

でもそれが、まさか────そんな風に、仇になっているなんて。

「その────…監督生さん、僕は────」
「良いんです」

謝罪か、弁明か。とにかく何か言って誤解を解かなければ、と思う僕の言葉を、なおも彼女の小さな声が強く遮った。

「私、別に怒ってるわけじゃありません。私だって何も言いませんでした。ジェイド先輩が何も言わせてくれないとわかっていながら、こっちだって素知らぬ顔して図々しく隣に居続けてたんですから。おあいこだと思ってます」

じゃあ、どうして泣いているのか。

「だから"そんなつもりはなかった"とか、そういうことは言わないでください。良いんです。勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に失望した…全部、自業自得だと思ってます」
「そんなことは、」
「いいえ。そんなことあります。だって少なくとも、先輩は今日────私に、一方的に思い出だけ押し付けて消えようとしてたんですから。もうそれが"答え"です。先輩は最後まで"自分だけ綺麗"なまま、私に消えない思い出を────いえ、癒えない"傷"を遺そうとしている」

一挙に、3年間の思い出が蘇る。
あの"なんでもない日"の中の一体どれだけに、本音を語れる機会があっただろうか。
保身に走っていた脳のリソースの一体どれだけを、彼女のこの涙を想うために割けただろうか。

「────だから、最後に私も同じことをします」

後悔と、次に何と言えば良いのかという迷いが駆け巡る脳内。
僕がうまく言葉を吐けずにいると、彼女はワンピースのポケットから小さな緑色の液体の入った小瓶を取り出した。

なに、を、するつもり、なのか。

「曖昧なままで良いです。何も言葉にしなくて良いです。私もそれを、今までも…これからも、追求しません。その代わり、私も"思い出"を遺して、消えます」

ようやく体が動いたのは、その時だった。

いけない、その薬は────見たことがある。
それは禁術と言われている、

「────やめなさい!」

制止の言葉は、届かなかった。
彼女の手を掴んだ時には、もう遅かった。

────彼女は小瓶の中身を一口で飲み干してしまった。

「…遅いですよ、先輩。何もかもが」

彼女はやはり、笑っていた。泣きながら、笑っていた。

────それは禁術と言われている、"人を泡にする薬"だった。

「どうして────どうしてそんなことを────!」
「散々言ったじゃないですか。私達の間に境界線を引いてたのは先輩ですよ。言葉にさせてくれなかったのも、触れさせてくれなかったのも、先輩ですよ。だから私は、そんな嫌な境界線を、全て泡に溶かしてしまうことにしました」

そう言っている間にも、彼女の足先が海に溶けていくのが見えた。

「っ!」

思わず、掴んだ腕を引き寄せる。強く抱きしめた時、いつも隣で仄かに香っていた彼女の匂いを、初めて直接鼻孔に感じた。

「狡いって思ってくれますか? じゃあどうすれば良かったんだ、って怒ってくれますか? そうだと嬉しいです。だって────ずっと、それは私が思ってたことですから」

自分が今まで、彼女にどんな思いをさせてきていたのか────この3年間、あの笑顔の裏にどれだけの淀みを生ませてしまっていたのか、この一瞬で全てを悟る。
でももうその時には、彼女の腰元まで海に流れてしまっていた。残された部分がこれ以上消えてしまわないようにと一層力を込めるが、それが却って彼女の体を脆くしてしまっているかのように────どんどん、彼女は消えていく。

「叶わないまま、こんな虚しい気持ちのままあなたを送るくらいなら、私が先に泡になります。だから────ジェイド先輩、私のこと、ちゃんと"思い出"にしてくださいね」

その言葉を最後に、彼女の最後の一滴が海へと還った。

「────────────!!!!!!!!!」

声にならない叫びが、太陽の沈んだ海に反響する。

残酷だ、と思った。
でもそうさせたのは自分だということも、わかっていた。

だってさっきまで、僕は彼女に同じようなことをしようと思っていたのだから。
曖昧なまま、傷だけ負わせて去ろうとしていたのだから。

でも────本当に消えなくても良かったではないか。

もっと早くに抱きしめていれば良かったのか?
単なる恋とも友情とも違う気がするが、とにかくあなたが大切なのだと、そんな不格好な言葉を伝えていれば良かったのか?
この関係の名前がわからないから一緒に考えようと、そう相談すれば良かったのか?

もう今となっては、何もわからない。
だって僕達は────きっと、どちらも"本音"が足りていなかった。
寄せては返す波のように、海岸線で気まぐれに互いの心を行ったり来たりしながら、それでも決して深い海の底まで共に飛び込もうとはしなかった。

その報いが、これか。
思い出を遺されたのは、僕の方だった。癒えない傷をこの心に刻み込まれたのは、僕の方だった。

「────行かないで、ください……」

あまりに遅すぎる"本音"を、二度と取り返せないとわかっている言葉を、3年越しに吐く。

"海"は、何も答えてくれなかった。










ヒロインが結構えげつないですね。
ジェイドがしていることをそのまま返そうと思ったらこんな形になってしまったんですけど…ちょっとあまり組ませてはいけないペアだったかもしれません…。

そんなわけで、夏の話・第2弾でした。
フロイドに続き、リトルマーメイドにかなり影響を受けた作品です。
夏って…もう少し…楽しい季節だと思っていたんですが…。

ちなみに魔法薬の入手ルートはもちろんアズールです。
ここで素直に「ください」と言ったところで、ジェイドのことをちゃんと大事にしているアズールがそんなトンデモ秘薬を渡すはずはありません。

要はそれだけ「ジェイドの態度は薄っぺらに見えていた」というわけです。

ジェイド視点で書いたので監督生への特別な想いありきになっていますが、周りから見たら完全に「ジェ←←←←←監」でした。

「先輩達が卒業したら、ジェイド先輩への恋は一生叶わなくなります。元の世界に戻る手段もない、ジェイド先輩もいない、この気持ちを抱えたままひとりで生きていくなんてとてもできません。先輩方が卒業した後こっそり服用するので、その薬を譲ってください」

監督生はそう言って、何かこうすごい…なんか膨大な…なんかすごそうな対価と引き換えに貰いました(対価の部分はわかりません。元の世界の情報とかそんな感じなら釣り合いますかね)。

とはいえ、監督生も最後のお誘いには「期待していた」そうなので、その時のジェイドの言葉如何ではあの薬を使わずに済んだのかもしれません。

この後ジェイドが後追いするのか、トボトボと学園に戻り空虚なまま卒業するのか、その辺りはお任せしたいと思います。
監督生がえげつなく見えますが、そうさせたのはジェイドの方です。という話でした。









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