ラグナロク



「もし明日世界が終わるとしたら、あなたは何をする?」

傾斜の緩やかな川の堤防に行儀良く体育座りをしていた椿姫が、唐突にそう言った。
数メートル先の河道では、モモ達メカクシ団の皆が笑いながら花火をしている。冬の水場は寒いから嫌だと最後まで駄々をこねていたカノですら、今は楽しそうにねずみ花火に点火していた。

そんないつもと変わらない日常を過ごす奴らを視界に入れながら聞く『世界が終わる』というフレーズは、なんだかノイズのように耳障りに聞こえてしまって。

「……そういう計画でも立ててんのか?」

つい、答えをはぐらかしてしまった。

「…流石にそんなことはできないわよ」
「じゃなんだよ、藪から棒に」

冬は日が暮れるのが早い。今はまだ時刻にすれば午後6時だが 辺りはすっかり暗くなっており、灯りらしきものといえばぽつぽつと間隔を開けて並ぶ街灯くらいのものだった。…それから、あいつらの持っている花火も。

「なんとなく、そう思って」

普段なんとなくで物を言わない奴のなんとなく程信じられないものはない。どこか体調でも悪いのだろうかと彼女の顔を覗き込んでみたが、彼女は鼻先までぐるぐると覆った白いマフラーからいつもの涼しげな目を覗かせているだけだった。

「………いつも通りに過ごすよ」

少しだけ答えを、そして彼女の違和感の理由を考えてからぼそりと返してやると、僅かに椿姫はこちらに視線をやった。そう答えた理由を聞きたがっているんだろう。

「別にやり残したことも、特別したいこともないしな。同じように過ごして、同じようにだらけて、んで自分でも気づかないうちに死んでく。俺の人生なんてそんなもんで良いだろ」

世界が終わるなら、全てがなくなるというなら、何かをする意味なんてそれこそ何もない。冷えた指先を眺めながら滔々と語り、彼女の表情を窺うと、まるで自分自身と見紛うような無表情の瞳とぶつかった。

「…そうね」
「…お前は? 何すんの?」
「私も、同じように過ごして眠るように死にたいわ」

闇に溶けてしまいそうな声で、彼女は答えた。

「――――本当に、終わりなんてものがあるならね」
「………あぁ、」

その答えを聞いた瞬間、俺はこいつにとっての『終わり』の意味を、唐突に悟る。

俺にとっての『世界の終わり』は、つまるところ死と同義だ。むしろ残す者がいないだけ気楽なもので、必ず誰にでも訪れる『いつか』が『明日』来るという、ただそれだけのこと。

でも、こいつは俺達と同じ『死』の概念を持たない。こいつにとって死とは『再生までの準備期間』に他ならないのだ。
だから俺達が漠然と想像する『世界の終わり』すなわち『死』を、彼女は想像できない。誰にでも来るはずの『いつか』は、彼女には来ない。

終わりを知らない彼女は、眠るように死んだ後、何もかもが消えるという不確かな感覚を、俺達人間の中できっと誰よりも理解できない。

「今でこそ化学技術の進歩によって一瞬で世界を消し炭にすることも可能でしょうけど、神話の時代はよく考えたわよね。この広大で複雑な世界に終わりが来るなんて」

俺には彼女が――――今まさに、世界を終わらせたがっているように見えて仕方なかった。明日の不安も未来への絶望も全部捨てて、楽しそうな友人達の笑顔を遠くに眺めながら静かに消えていく。その先には『何もない』があって、最期に残した感情は『幸せ』で。

「お前なら、そういう昔の人間の思考はよくわかってるんじゃねえの」

椿姫は目を細めて笑っていた。

「…無、って都合が良いのよ」

無、とはつまり終わりのこと。全てが終わって、全てが消えた『世界だったもの』のこと。

「苦しみには解放を。幸せには永続を。辛い現実には終わりを与えれば安らぎが得られる。喜びの瞬間は切り取ってその先を捨てることで永遠になる。自分1人が無になるのは寂しいけど、世界の全てが無に帰すならそんな感情もない。世界の終わりは、全ての人の救いの道なんだと思うわ」

こちらに向かって大きく腕を振るモモに手を振り返しながら、椿姫は静かにそう語った。

「宗教家みたいなこと言うな、お前」
「輪廻だ記憶操作だ言ってる時点で私、教祖の素質もあるんじゃないかなって思うの、どう?」
「なんのどう? か知らねえけど何を言うのも不正解そうだから俺は黙る」

彼女の冗談をあしらいながら、俺は自分の予想が正しかったことに小さく嘆息した。
彼女にとって辛いことしかない現実の中、束の間の幸せな瞬間が『今』なんだろう。だから今が永遠になれば良いと、そして果てのない苦しみから解放されたいと、そんな神話の中でしか語られない戯言を夢想したんだろう。

わかってはいたが、椿姫の抱える闇は覗き込めないほどに深い。過去も今も未来も独りで背負う彼女の苦しみは、どれだけのものだろう。

「明日、世界が滅んでると良いな」

――――こんな言葉で救いになるなんて思っちゃいない。そもそも彼女は心から救いを求めているわけじゃない。

それでも、俺だけはお前のことをわかっているからと伝えたくて、そんなバカなことを言った。

椿姫は何も言わなかった。ただ、膝を抱える腕にぎゅっと力が入ったようだった。
それからしばらく黙った後、物言いたげな視線が再びこちらに向けられる。

「……花火、しないの?」

…今更それを訊くのか。
『早く向こうへ行け』とも聞こえかねない彼女の質問だったが、そこから『ひとりにしてほしい』という心の声は聞こえなかった。きっと神話だの哲学だのあれこれと面倒なことをひとしきり考えきって、やっと我に返って、いつまでも自分の隣に座る俺の気遣いに気づいたってところだろう。もっとも別に俺はこいつに気遣って今まで隣にいたわけではないのだが。

「良いよ、そんな興味ないし」

今日のこの季節外れのイベントを企画したのはモモだった。今年の夏はなんだかんだで全然夏らしいことができなかった、と言い出した挙句、だから花火がやりたいと大声で提案してきたのだ。
意外にもそれに一番に乗ったのはキド。エネやマリーもそれに続くと、他人の提案には基本逆らわないセトも賛成した。そこまでメンバーが揃えば全員参加になるのは必然のこと。
つまり俺はただ連れられて来たというだけで、興味がないという返事に何ら嘘偽りはなかった。

それを察した彼女は、「そう」と短く相槌を打って俺から視線を逸らした。

「お前こそ行かなくて良いのかよ。なんだかんだでああいうの、好きだろ」
「私は楽しそうな皆を見てるのが一番楽しいわ」
「それぼっちの言う台詞」
「さすがプロのぼっちは反応が早いわね」

憎まれ口はいつものこと。だが、やはりその口調にはいつもの勢いがない気がする。
体調が悪いわけではなさそうというのはさっき確認したところだし、最近特に悪い出来事が起きたという話は聞いていない。厭世的で皮肉屋なのはいつものことなのだが、なんだかこう、今日は彼女の姿がとても小さく見える。
思い当たる原因がないなら、何か嫌な夢でも見たとかそんなところだろうか。言葉にしづらい違和感を、しかし確実に勘違いではないと言えるだけの違和感を抱えながら、横目に覇気のない椿姫の顔を見つめる。

「…………」

そんなこいつのために、何かできることはあるだろうか、と少しだけ考えて。

「……そうだ、ちょっと待ってろ」

そう言って俺はさっき興味がないからとあしらったばかりの河道へ降りて行った。

いつも夢を見た時、手を握ってくれるこいつのために。いつも悩んだ時、道を示してくれるこいつのために。

――――興味がないというのは嘘じゃない。
でも役に立つというのなら、話は別だ。

「あ、何お兄ちゃんも花火やる?」

モモがいち早く俺に気づき、残りも少なくなってきた花火のストックを指差した。反対側の手にはそれぞれの指の隙間に挟んだ4本の花火が色とりどりの閃光を放っている。
わざわざこちらに火を向けてくるモモを避けながら余っている花火の前に屈み、目当てのものを抜き取った。

「いや、これちょっとくれ。あいつに持ってくから」
「なまえ、全然降りてこないけど大丈夫か? 体調悪いとか…」
「おう。ネズミ花火が飛んできたら怖いから離れとくとさ」
「えー、そんな危ないものじゃないのにー」

わんわんと思い思いの言葉を吐くメカクシ団の奴らの元を早々に離れ、椿姫の隣へ戻る。

「ほら」
「……?」

差し出したのは、二本の線香花火。戸惑った様子で一本受け取った椿姫に、次はライターを渡した。
一瞬触れた指先はひどく冷たかったが、気にしていないふりをして言葉を続ける。

「騒ぐ気分じゃないってのも、見てる方が良いってのもまぁわからないでもない。でもま、こんくらいなら良いだろ、せっかくだし」
「……そりゃあもちろん良いけど…」

どう見ても俺の行動を深読みしようとして動きが鈍くなっている、といった様子だ。ある意味素直な椿姫の挙動につい笑みが漏れる。

「線香花火、火が消えるまで落ちずにいたら願いが叶うって知ってるか?」
「……聞いたことはあるわ」
「世界の終わりでも苦しみからの救済でも、好きなこと願っとけよ」
「………」
「悪いけど、俺にはお前を救えないから。…だから世界の滅亡だろうが無だろうが、とにかくお前を救える何かが現れるまで、ここで一緒に願っとく」

椿姫は少しの間、呼吸さえ忘れたかのような顔をして俺を見ていた。それから俺の顔と線香花火を交互に見比べ、そして体ごとこちらに向き直る。

そして、一度受け取ったライターを再びこちらに渡してきた。

「?」
「……火、如月がつけて」
「え、俺?」

線香花火を体から少し離して持ち直し、点火の準備をする椿姫。突然のことではあったものの断る理由もないので、俺はライターを受け取った。

かちりと鳴らして火をつけ、彼女が持つ花火の先にあてる。じりじりと小さな音を立てて火薬に火が移ると、線香花火の先はくるりと丸まり電球のような形をとった。

椿姫の花火がきちんとついたのを確認してから、自分の花火にも火をつける。

真っ暗だった堤防に灯った二つの明かり。柄じゃないのはわかっているが、その時俺は世界に色がついたようだ、なんてことを思った。

しばらくお互いに黙って花火を見つめる。ジリジリと焼ける音がして、次第に花火の球が大きくなる。

「…今日ね、とても良い夢を見たの」

次にばちばちと勢いをつけて火花を散らし出した電球を眺めながら、椿姫はやっと声を発した。花火の音にすら負けそうなくらい、小さな声だった。

「…悪い夢じゃなくてか?」

彼女の声はとても良い夢を見た人間の出すものじゃない。思わず花火から目を離し、無表情の椿姫を見つめた。

「馬鹿ね、幸せな夢だったから今悲しいんじゃない」
「…そうか」

どんな夢かは、訊かなかった。
訊いたらきっと、こっちまで悲しくなってくる気がしたから。そのくらい彼女の言う『悲しい』という素直な言葉は孤独で、空虚で、そして苦しかった。

「でも、もう大丈夫。夢の内容は忘れることにするわ」

こいつが何かをそんなに都合良く忘れられる性分じゃないことは、よくわかっていた。それでもなお自ら忘れるというのなら、俺はもうそれに反論することはできない。それがまたひどくやるせなくて、「そうか」と繰り返すこの声は彼女のそれ以上に小さな声だった。

それを最後に、再び俺達の間には沈黙が訪れる。弾ける火花の勢いはだんだんと失速し、音も静かになっていく。
――――終わりが近づいている。

「…来年も、また花火したいわね」

何か声をかけた方が良いだろうか、と躊躇っているうちに、再び彼女の方が先に沈黙を破った。
聞こえたのは『来年』という言葉。まるでそれが当然訪れるもののように、か細いながらもはっきりとした口調だった。

「…そうだな」

早速さっきまでの会話を『忘れた』彼女に、俺は安心して良いのかどうか一瞬だけ迷う。しかし結局俺は彼女にその迷いを悟らせるより早く、肯定を返すことにした。

「………」

――――世界が滅びることがこいつにとって本当に幸せなことなら、それでこいつが救われるのなら、確かに俺はそんな世界、いくらでも滅びれば良いと思う。
でもひょっとして――――それは、嘘だったんじゃないだろうか。嘘というより、彼女の弱気が言わせた自棄だったという方が正しいかもしれない。

だって何もかもを背負うこの優しい人間が、本気でそんなことを考えるはずがないのだから。こいつは苦しみながらも、闘いながらも、俺達にとって幸せな世界が1秒でも長く続けば良いと思っている、元々そんな奴だ。

考えれば考えるほど、その仮説は正しいような気がしてくる。

もし本当にそうだったなら、彼女は今既に、世界が滅びれば良いなんて言ったことを後悔しているんじゃないだろうか。だからあんな風に夢を見たとか、それを忘れるとか、来年とか――――そんな取り繕うように前向きな言葉ばかりを続けて発したんじゃないだろうか。

…とすると、だ。俺はやはり彼女を支えてやったり、その苦しみを取り除いてやれる域にはまだいないらしい。

「…お、見ろよ椿姫」
「……どっちも、落ちなかったわね」

線香花火は音もなく静かに消えていった。色がついたはずの世界はまた暗闇に逆戻り。

「………来年はもっと派手なやつもやってみるか」
「…ええ、そうね」

だったらせめて、と火が消える直前に変えた俺の願いは、果たして届いただろうか。
世界はまだ滅びなくて良い、それよりも、俺達の幸せを願ってくれたこいつにとって、世界がもう少し優しくあってくれるようにと。俺がこいつを幸せにしてやれないのなら、他の誰でも良い、こいつに安らぎを与えてやってくれと。

燃えカスになった花火をまとめて捨てようと、椿姫から受け取る。

「――――…」

気のせいだろうか、触れ合った指先は、さっきより少しだけ暖かくなっているような気がした。









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