男はヒッポグリフに乗ってホグワーツ城を抜け出すと、まず初めに自分がそれまで住んでいた家に帰った。

「君には君のやるべきことがある。僕は必ず戻るから────あいつを探し出せ」

最愛の人と別れるその間際、男は彼女に復讐を遂げるよう告げた。別れの言葉でもなく、愛の言葉でもなく、友人を売った裏切者を許すなと────最後まで自分達の誇りを忘れるなと、後追いしようとしていた彼女を突き放した。
しかし彼は数刻前、その"あいつ"と会っていた。鼠に変化して13年もの間死んだと世間に思わせていた裏切者、ピーター・ペティグリューと。そして男はまたも鼠を取り逃がしてしまった。

監獄の中では、"自分が無実であること"だけを頼りになんとか正気を保ってきた。そして、無実である自分がいつか釈放されれば、彼女は家で自分の帰りを待っているものだと信じていた。

あまりにも全てが突然のことだったので、友人に彼女の居場所や状況を尋ねることができないまま、再びひとり放り出されてしまった。ただ、男はその一晩に満たない出来事を整理した上で、家に帰るより前にひとつの結論に辿り着いていた。

すなわち、ピーター・ペティグリューが無事に生き延びているということは、彼女は結局地下を這い回り、あろうことか売り飛ばした友人の息子のすぐ傍で息をしていたドブネズミを見つけられなかったのだと。

そして、自分が脱獄してから1年近く経過しているというのに、彼女からの便りはおろかその消息ひとつ掴めないということは────。

男は覚悟を決め、鍵のかかっていない家の扉を開けた。

案の定、そこには人の気配がなかった。インテリアはこれからお互いの趣味に合わせて揃えていこうと言っていたので、まだ家の中は最低限の家具が置かれるのみでがらんとしている。机やキッチンカウンター、戸棚や窓の桟には、遠目からでもわかるほどの埃が積もっている。────まるで13年前から放置され続けていたように。

男はゆっくりと家の中へ歩を進める。
頭の片隅ではわかっていた。彼女があれ以来、ここに戻って来ていないということは。

しかし同時に、希望も捨てていなかった。
彼女はもしかしたら、まだあの鼠を探してどこか遠くを彷徨っているのかもしれない。男は本来であれば終身刑の身となるはずであった。偶然新聞記事で仇敵の姿を見るまでは、男自身もアズカバンの要塞を脱獄しようなどとは思ってもいなかった。

男は、"彼女もまだ時間はたくさんあると踏んで、遠出をしているのかもしれない"と思い込もうとした。
この家に帰っていないだけで、どこかで元気に生きていると────そう信じながら家の中をぐるりと回っていると、ダイニングの戸棚の上だけ、埃が綺麗に取り除かれている部分があることに気づいた。

もしかして彼女が何か自分に残したのだろうか、と一抹の希望を持って男は戸棚に駆け寄る。

そこにあったのは、いつか2人で撮った写真と、切り抜かれた1枚の新聞記事、それから見覚えのある字で走り書きされたメモだった。

『イリス・リヴィア 死亡』

新聞の見出しには、そう書いてあった。

『君の帰るべき場所は、ゴドリックの谷に』

新聞記事と並べて置かれていたメモは、確かに学生時代から親交を深めていた友人のうちのひとりの筆跡と一致している。

「死ん、だ…」

男の口から、ぽろりと独り言が漏れる。抱いていた希望が打ち砕かれる音が、ガラガラと男のがらんどうの体内で響く。

どこかで生きていると信じていた。しかし、どこかで生きていると信じていなければ、とても正気を保てないということも、わかっていた。

男は思い浮かぶ度に必死に排除していたが、確かにその予想も胸の内から消せずにいたのだ。

最愛の人が死んでいるという、その事実を。

「そうか…君まで私を置いて逝ってしまったんだな…」

新聞記事を読み進めると、彼女は死喰い人の残党に殺されたという短い文章が綴られていた。犯人の名前は知っている。彼女とまだ生活を共にしていた頃、何度か戦ったことのある相手だ。今はその犯人は逮捕され、アズカバンに送られているという────しかし、これは12年前の記事。1年前に脱獄するまでの約11年もの間、自分は誰より愛した女性を殺した男と同じ敷地にいたのかと思うと、今更ながらに腹の奥が煮えくり返るような怒りに満ちる。

男はもう、誰を憎めば良いのかわからないほどに人を憎みすぎていた。
親友2人を────しかもその片方は自分の半身と言っても良いほどの間柄だった────裏切ったピーター・ペティグリュー。親友であり、恋人であり、あの悪夢のような日の数日後には妻となるはずだった彼女を殺したノーマス・ジンデル。
そして、彼らを率いている諸悪の根源────ヴォルデモート。彼はまだ、この世に戻って来ていないらしい。一部の人間は未だに良くも悪くも彼の復活を信じているし、男もそのうちのひとりではあったが、世間の大半はもうヴォルデモートは死んだと思っているようだった。

戦争は終わったのだと。
犠牲者は"思い出"になったのだと。

「────こんな風に取り残されて、何を"過去"にできるっていうんだ」

男は新聞の記事を書いた記者に文句でも言うようにそう呟くと、グシャリと紙を掌の中で握りつぶした。そして、もうひとつのメモを一瞥すると────その場から、一瞬にして消えた。

────男が次に現れた場所は、小さな村だった。
静かで、人の気配に乏しい村。男が現れたところで、その姿に目を留めるものはいない。

メモにはただ『君の帰るべき場所は、ゴドリックの谷に』としか書かれていない。実際ゴドリックの谷のどこに今更自分の帰る場所があるのか、と思ったが、男は虚ろな足取りのまま、かつて親友の家があった場所に足を向けていた。
その場所は、あの最悪の夜の姿のまま、時間だけをいたずらに張り付けて男の前に残っていた。まだ"家"と認識できる程度に形は保たれているが、呪いが噴射されたために一部分が大きく抉れ、真下に瓦礫の山を形成している。雑草が元気に生い茂り、黒ずんだ蔦が生き生きと壁を這っていた。

男は吹き飛ばされた上階の惨状を見ながら、家の門に手を掛けた。その瞬間、雑草の中から一枚の掲示板が現れる。

『1981年10月31日、この場所で、リリーとジェームズ・ポッターが命を落とした。息子のハリーは"死の呪い"を受けて生き残った唯一の魔法使いである。マグルの目には見えないこの家は、ポッター家の記念碑として、さらに家族を引き裂いた暴力を忘れないために、廃墟のまま保存されている。』

────ここは、"過去"になっていなかった。
そのことが、打ちひしがれた男を慰めてくれる唯一の事実だった。

「帰る場所って…ここのことか?」

男は家の周りをぐるりと回ったが、特にめぼしいものは見当たらない。男の帰る場所は"彼女"のいる場所だけだ。いくらここが親友の家だとしても、ここにいくつもの思い出があったとしても、それはあくまで"親友の居場所"でしかなく、この家自体は男にとって何の意味も持っていなかった。

親友の家に何もないとわかると、男はそのまま教会裏の墓地へと足を向けた。読んだ時には怒りのあまりすぐにインクが滲むほどの勢いで握りつぶしてしまったが、よく思い出すと自分の家に置いてあった新聞記事には"彼女の墓は親友夫妻の墓の隣にある"といった旨のことが書いてあったような気がする。
もしそれを汲んだ上で"帰る場所はゴドリックの谷"と指示されたのであれば、そしてここで死んだ親友がこの地に埋葬されているとすれば、彼女もまたここに眠っているのだろうか。

墓石に刻まれた名前をひとつずつ確認しながら、男は墓地の中を進んだ。
すると、あるところまで来た時、3列ほど離れた場所に鮮やかな花が供えられた墓が2つ並んでいるのが見えた。

迷わずそこに近寄って名前を確認すると、片方には"ジェームズ・ポッター、リリー・ポッター"、そしてもう片方には"イリス・リヴィア"と刻まれているのが見える。全く同じ小さな花束が、その両方の墓前に置かれていた。

「────ここにいたのか、イリス」

まるで久々に本人を目の前にしたかのような気軽さで、男は墓に話しかけた。

「街の様子がすっかり変わってるんですっかり驚いたよ。こっちはアズカバン生活ですっかり時が止まってるっていうのに」

男はそのまま墓の前に腰掛ける。時折教会を訪れる村人と思われる人間が男の方を不思議そうに見ていたが、後ろ姿だけではまさかアズカバンの脱獄者だとは夢にも思わなかったのだろう、わざわざ話しかけて死者との会話を楽しむ男を邪魔する者はいなかった。

「ハリーに会ったよ。13歳になってた。あれはまるでプロングズの生き写しだな。クィディッチのシーカーを務めててさ、最高にプレーが巧いんだ。でも目だけはやっぱりリリーの目だった。未だにあの目にじっと見られると、また何か怒られるんじゃないかってドギマギしてしまうね。真実を知る直前────私がまだプロングズ達を売った裏切者だって信じてたあの子に初めて凄まれた時なんか────ピーターをさっさと始末したかったはずなのに、リリーに悪戯を咎められた時のことを思い出してちょっと懐かしくなったりしたんだ」

男は淡々と、そして朗々と親友の息子の話をする。本当だったら、両親と自分と彼女とで、その成長を見守るはずだった子供。男と彼女が最後に息子の姿を見たのは、まだ両親の面影が朧に見える程度の赤子の頃だった。だからこそ、男の前に突然現れた親友の生き写しは、男に大きな衝撃を与えたのだった。

「13歳の頃といえば────まだ君が"自分探し"に没頭してた頃だったな、そういえば。覚えてるか? 必要の部屋を君が見つけてくれたお陰で、私達の動物もどきの研究もかなり捗ったんだ。未だにそのことには感謝してるよ。ああ…その頃を思うと、プロングズと比べてハリーは随分大人びてたな。その辺もリリーの性格を受け継いでたのかもしれない」

男は親友の息子にずっと会いたいと願っていた。あの瓦礫の山の中からハグリッドが赤ん坊を取り上げた時、男は本気でその子を引き取るつもりでいたのだ。裏切者への復讐を優先させたその判断が正しかったのか、男にはもうわからなくなっていた。あそこで親友の息子を引き取り、裏切者を追いながらも3人で幸せに暮らす未来を描いたのは、一度や二度のことではなかった。

「ちょっとあの夜は一気に色々起こりすぎたな。ピーターを追うべきか、ヴォルデモートという元を絶ちに行くべきか、ハリーの幸せを第一にして無理にでも引き取るべきだったのか────私達には、あまりにも選択肢が多すぎた。私はアズカバンにいる間、ピーターがどこかに潜んでいやしないかとずっと考えてたんだ。それで、あいつを捕まえて真実薬でも飲ませて全ての真相を語らせて────私が無実だと晴れて明らかになったら、君と一緒にハリーを育てたいって思ってたんだ」

男の中にはいつだって、親友の息子のことと最愛の人のことが息づいていた。もちろん裏切者への制裁を忘れたわけではない。しかし男が無罪放免になる未来を描き、彼女と共に歩む未来を心から切望していたことも、また事実だった。

「────私の傍には、いつも君がいてくれた。どれだけ長い任務が入ろうと、最後には君の元に帰れると思うだけで、私はあらゆる任務に集中できた。────全部、君がいてくれたお陰だ。そこに君がいてくれるだけで、私の人生は遥かに鮮やかに彩られていたんだ。わかるかい、イリス。君がいなくてもきっと私は生きていられたかもしれないけど────君と一緒にいられたことで、僕は生きる意味を────"幸せ"を、知ったんだ

男の声はだんだんと震えていった。親友の息子を見て、昔の自分達のことを思い出したことが原因だったのかもしれない。あるいはアズカバンに収監されていた時間があまりに長すぎたせいで、男は外の世界に戻った時、12年前にまで時を巻き戻したような感覚になって、彼女が自分の隣にいた"当たり前"を、地続きに繋げようとしていたのかもしれない。
アズカバンにいた期間、男の時間は完全に止まっていた。男の中では、親友が死んだあの晩はいつだって昨日起きたことのように思えていた。

だからこそ、男はすっかり様変わりしてしまった世の中にまだ混乱していた。もちろん看守が読む新聞や噂話の中で、刻々と変わりゆく世の中の流れを掴んでいなかったわけではない。ただ、それはいつもどこか他人事のように思えていた。だから、裁判さえ受けらえずアズカバンに送られた日と、犬の姿になって脱獄した日の間に、12年もの歳月が流れているとは俄かに信じられずにいた。逮捕された翌日には、もう彼は日の下に戻ってきたようにさえ思えていた。

「君は1年もの間、戦ってくれてたんだな。僕は最後に君を突き放すようなことを言ったのに────君は、自分の矜持を守り通して、僕と一緒にアズカバン行きを選ぶなんて愚かなことをせず、未来を模索しようとしてくれた。そのことに、心から感謝してるよ。────そして同時に、こんなことになるくらいなら、どんなに過酷な環境の中でも君の手を取って傍に居続けておけば良かったっていう後悔もある。────だってまさか────君が死んでしまうなんて────僕の帰る場所を作ってくれると約束してくれた君がその約束を守り切れずに死んでしまうなんて、お互いにあまりに惨い仕打ちだと思わないか?」

男の声には、今や涙が滲んでいた。最後に見た彼女の顔が、復讐に燃える怒りの表情だったことをよく覚えている。しかしどうせそれが最後になるというのなら、彼女の幸せそうな笑顔を覚えていたかった。

男はそこで、墓の真ん中に置かれている指輪の存在に気づいた。これはよく知っているものだ────あの凄惨な事件さえなければ、数日後には立派な結婚指輪になるはずだった、婚前の指輪。死をすぐ隣に感じながらも、悪名が世にのさばる未来を想像しても、望まずにはいられなかった未来の形だった。

誰がこれをここに置いたのだろう。彼女の遺体はセント・ジェームズ・パークで見つかったというが、その遺品がどうしてこんなところにあるのか、男にはわからなかった。誰かが気を利かせてここに置いてくれたのだろうか。しかしこんな小さな指輪が屋外に置かれたまま風雨に晒されてもがんとして動かないというのは妙だ。しばらく考えた後、男はおそらくダンブルドアか、唯一この世を堂々と歩ける唯一の友人が気を利かせてこの指輪を墓石にそのまま貼り付けてくれたのだろうと察する。

それならきっと、この指輪は誰にも動かせないはず────そうわかっていながらも、男は指輪にそっと指先を乗せた。その瞬間、指輪はぽうっと金色の光を放ち、それまでぴくりとも動かなかったことが嘘のように彼の手中にあっという間に収まった。

「────驚いた。リーマス辺りが魔法をかけてくれたのかな?」

男が指輪を慎重に手に取り、自分の薬指にずっとはめられていた指輪とかちんと音を鳴らして軽くぶつける。まるで、彼女とハイタッチをしているかのように。

「なるほど、それでリーマスが"帰るべき場所はここだ"ってメモを残してくれていたんだな。君がいつもつけてくれていたブレスレットの行方も気になるところだが────この様子じゃ、きっとその墓の中に入ってるんだろうな」

男は寂しそうにそう言うと、彼女とのもうひとつの絆である指輪に小さくキスをした。
するとその時、指輪が鈍く銀色に光り輝いた。驚いて指輪を取り落としそうになった男は、何の変哲もない、魔力も込めていないはずのその指輪が放つ神秘的な光に暫し魅入る。

指輪は銀色に輝くと、扇形にその光を広げてみせた。男の掌に乗っている指輪は、煙のような光を放つと────その光の中に、長い長い文章を表してみせた。

「!」

男は突然現れたそのメッセージに、再び指輪を手放しそうになってしまう。慌てて両手の上に壊れ物を扱うように指輪を乗せると、銀色の光の中で浮かび上がった黒い文字が、"男に宛てたメッセージ"を綴り出す。

『愛するシリウスへ』

その一文だけで、この魔法をかけた人物が誰なのか、男はすぐに悟った。

『あなたがアズカバンへ連れて行かれてから、私はピーターを探すための旅に出ることにしました。その旅はとても危険なものだったので────いつ自分が死ぬとも知れないと、これまで以上に強く感じていました。そこで、もしもの時のために、あなたに伝えたくても伝えきれなかったことをここに残すことにします。無罪放免になった時か────あるいは、そんなこと普通の人間にできるわけがないけど、あなたならアズカバンでさえ脱獄してきてしまうかもしれないから……とにかくあなたがどうにかしてこの指輪を見つけて手に取ってくれた時、あなたにだけこのメッセージが見えるようになる魔法を施しました。そして、これをあなたが読んでいるということは、あなたが無事こちらの世界に戻ってきて一緒に指輪を手に取ってくれたということか────私が既に死んで、親切な誰かがあなたにこれを渡してくれたということなのでしょう。まさか"この手紙を読んでいる頃には私はもう死んでいるでしょう"なんて、物語の中でしか見たことがないような言葉を自分が使うなんて思ってもみなかったんだけど』

それは、男が生涯で初めて、そして唯一愛した女からの、最期の言葉だった。

『シリウス、1年生の時、私の弱虫を叱ってくれてありがとう。2年生の時、私が見つけた"自分"を認めてくれてありがとう。3年生の時、リーマスとの友情を守ろうとした私の策を信じてくれてありがとう。4年生の時、家を離れた私に誰よりも祝福を与えてくれてありがとう。5年生の時、私に告白をしてくれてありがとう。6年生の時、初めての戦いで怖気づいてた私の肩を抱きしめてくれてありがとう。7年生の時、私に"私のいる場所に必ず帰る"と約束してくれて、大好きだと素直に伝えてくれて、ありがとう』

出会ったその時から、時を巻き戻すかのように彼女は男の言動の全てに感謝の気持ちを示した。彼女は覚えていたのだ、男と過ごした日々の全てを。男と交わした言葉の全てを。

『今の私は、自信を持って私のことが好きだと言えるようになりました。今になって、私は私の生き方を初めて誇れるようになりました。それは全部、シリウスが背を押してくれたり────たまには叱ってくれたりしたお陰。卒業した後も何度だって迷ったけど、その度にそんな私を導いてくれたのは、いつもあなただった。何度か言ったかもしれないけど、あなたに出会えたことで、私は"私"になれたの』

確かにそのことなら、何度でも言われた。男のお陰で彼女は自分の生き方を見つけられたのだと。男のお陰で、彼女は愛を知ったのだと。

『本当はね、あなたにどこまでもついて行きたかった。アズカバンでも、その先にたとえ死が待っていたとしても、最期の瞬間まであなたと手を繋いでいられたら、私はそれだけで幸せだった。私、あなたが魔法省の役人に連れて行かれてしまうその瞬間、本当は名前を呼んであなたに駆け寄りたかったんだよ。あんな風にあなたと別れてしまうなんて、絶対に嫌だった。他の全てを捨ててでもあなたの手を取りたかったの。シリウス、私はあなたのことを心から愛しているの。誰よりも大切な人だった。私はあなたに支えられて、そして私はあなたを支えて、2人で未来を────それがどれだけ汚い未来だったとしても、築いていきたかった。あなたさえいれば、どれだけ悲惨な現実の中でも笑っていられたから。あなたさえいれば、私はそれだけで十分だったから。だから本当は、あなたがいないのに私ひとりでピーターを追うなんて、そんなこと、考えるだけで心細くて仕方なかった』

彼女の言葉が、映画のエンドクレジットのように下へ下へとスクロールされていく。
長いメッセージの中には、彼女の弱音がこれでもかと並べ立てられていた。男はその時、改めて彼女がどれだけ自分を頼りにしていたか、どれだけ自分という存在に価値を見出してくれていたのかを悟る。

『でも、私は愛情だけでなくて、友情をも同じように大切にしているシリウスのことが大好きだった。自分の身も、私の身すらも顧みずに自分の意志を貫くあなたのことが大好きだった。私、最後まであなたに大切なことを教わってたの。"ほんの一刻の別れ"なんて気にせず、これまで築いてきた誇りを守りきれ…って何度も言われたその言葉を、あなたはもう一度私に刻み込んでくれた。だから私は、あなたが必ず帰るというその言葉を信じて────私の大切なものを全て守る旅に出ることにしました。あなたが帰って来られる場所を作れるように。この哀しみの連鎖を断ち切って、リリー達が亡くなってしまったことでさえ、綺麗な思い出にできるように────』

彼女は一体これを書きながら、どんな気持ちでいたのだろう。その時には既に、自分の死を覚悟していたのだろうか。
自分の帰る場所を確保する。親友を厚く弔う。裏切者に復讐をする。どれも簡単なことじゃないはずだった。20年近く前の彼女にだったら、そのうちのひとつでさえ成し遂げることはできなかったことだろう。

それでも、最後には彼女は男の言葉を信じた。男の決意を受け継いだ。男の願いを、受け入れた。

『だからね、シリウス。たとえ私がピーターを追っている間に死んだとしても、あなたの帰る場所だけは絶対に残してみせるよ。私があなたを愛し、あなたに愛された証だけは、絶対に残してみせる。だからどうか────シリウス、私のことを忘れないで。他の人のことを好きになったって良いから、私のことを好きじゃなくなったって良いから、どうかあなたのことを誰よりも愛した人がいたことを、忘れないで』

そして、メッセージは最後にひとつの文章を残して、消え去った。

『いつまでも大好きだよ』

男は、知らない間に涙を流していた。
銀色の鈍い光は、彼女の最後の告白を映し出すと、その輝きを失い、元の無機質な指輪へと戻る。真ん中にはめられたダイヤモンドが、月の光を受けてきらりと輝いた。

「────他の人のことなんか、好きになるわけがないだろ。君のことを好きじゃなくなるなんて、そんなことがあるわけないだろ」

男が墓石の前に座り込んでいたのは、幸運なことだったのかもしれない。そうでもなければ、男は今頃膝から地面に崩れ落ち、大声で彼女の名前を泣き叫んでいたかもしれなかった。

「イリス……ごめん、ごめんな。辛い思いをさせて。僕の方こそ、爆発が起こった時に君と一緒にピーターを探しにすぐその場を離れるべきだったんだ。無謀な賭けをして勝手に負けたのは僕だ。そのせいで、君に全てを押し付けて────そして、死なせてしまったんだ」

男も、彼女が親友の仇討ちをしたがっていることならよくわかっていた。あの時彼女が抱いていた怒りと憎しみを、体中で感じていた。
しかし、彼女はきっと男と一緒に復讐を遂げたかったのだろう。亡くなった親友は、男と彼女の"それぞれの"相棒だったのだから。

そして彼女は、友情を重んじながらも、何より男を愛してくれていた。
愛を知らずに育った男に、愛を教えてくれた人だった。
生まれて初めて、守りたいと思った人だった。守りたいと思っているのに、背中を預けられるとも思えた人だった。

男にとって、彼女は友人とは全く違う存在だった。友人を大切にしていたことは言うまでもないが、彼女は男にとって、何にも替えられないただひとりの"愛"という執着を抱かせた存在だった。

それが失われたことが、どうして悲しくないなどということがあろうか。

「イリス…」

男は何度も彼女の名を呼びながら、涙を流し続けた。

「僕を置いて逝かないでくれ────。僕と、一緒にいてくれ────」

もはやその祈りは届かない。
彼は、彼の誇りと友情のために、たったひとつの愛を失ってしまった。

あの時彼女までもをアズカバンに連れて行かなかったことは、正しい選択だと思っている。しかし正しい選択が必ずしも自らを救ってくれるわけではないということを、男はその時身を以て知ったのだった。

「これまでも、これからも────僕は一生、君のことだけを愛するよ。"僕達"の復讐は必ず遂げて────そうしたら、僕も君の元へ"帰る"から。だから少しだけ────ほんの少しだけ、待っていてくれ。プロングズ達を、よろしく頼むよ。ハリーやリーマスのことは、僕がしっかり見てるから」

だから男は、最後の約束を交わすことにした。
その小指が絡められることはない。それでも男は"生きて"、彼女と共に目指した世界を実現させることを改めて誓った。それが終われば、男の生きる目的もようやく全うされる。それこそが、男が彼女の元へ胸を張って帰れる唯一の条件だ。

友情と愛情とプライド、その全てを欲張りすぎた男は、結果として全てを失ってしまった。
だからこそ、これから男はその全てを取り返さなければならない。

いつになるかわからないが、最愛の人にもう一度会うために。

「────また来るよ、イリス。僕も、君のことだけを愛してる」

そう言って、男は立ち上がった。
まずは、隠れ家の確保からだ。やることはたくさんある。彼女の元に帰った時、彼女が笑って迎えてくれるように────男は、しっかりと地に足をつけてゴドリックの谷から出て行った。



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