目覚めた時、私は知らない場所のベッドに寝かされていた。
起き上がろうとして、両肩に激しい痛みが走り、思わず呻いてしまう。

「目が覚めたか」

すると、左側からなぜかシリウスの声が聞こえた。状況がわからないまま頭だけ左側に向けると、声の通りシリウスが────同じようにベッドに寝ながら私の方を見ていた。
そして、横を向いたことで全貌が見えてきた。

ここ、病院だ。

「意識はあるか? 自分が誰かわかるか?」
「ある。わかる」
「…呼ばれた時、行けなくて悪かった」

シリウスが私の安否の次に口にしたのは、謝罪だった。

自分が病院にいるらしいということはわかったのだが、だからといって状況の全てを整理できたわけじゃない。

あの後自分はどうやってここへ運ばれたのか。
ヴォルデモートはどうなったのか。
なぜ意識を失う直前にリーマスの姿が見えたのか。

そして────なぜここに、シリウスも病人として寝かされているのか。

「シリウス────何してるの?」

ひとまず自分のことなら把握しているだろうと思い、私は最後の疑問を手近にいたシリウスに投げてみることにした。

「僕は────」

しかし、彼が何かを言いかけた時、病室の扉が開き、リーマスが入ってきた。

「イリス! 良かった、目が覚めたんだね」
「リーマス…」

やっぱりあの時、私が見たのは幻でも人違いでもなく、本物のリーマスだったんだ。

「僕がたまたま君達の家に行ったら君とヴォルデモートが倒れてるんだからびっくりしたよ。どうして騎士団の仲間を呼ばなかったんだろうって思ったら君のサインになってる腕はごっそり落とされてるし…代わりに僕が召集の合図をかけたらすぐにダンブルドア先生が駆けつけてきたんだ。ヴォルデモートも仲間を呼んでたみたいだけど、先生を見るなりあいつを連れてどっかに姿くらまししちゃってさ。それで君を急いで聖マンゴ病院…ここに運んで、目が覚めるまで待つしかできなかったんだ。先生はヴォルデモートを追うとかなんとか言ってすぐまたどこかに行っちゃったから、代わりに僕が看ておくように言われたんだ」

────何を聞くより前に、状況の全てを説明してもらってしまった。
なるほど。私とヴォルデモートは事実上相討ちになったというわけだ。

それを、私の場合はたまたまうちを訪ねて来ていたリーマスが、そしてヴォルデモートは意識を失う直前に配下の死喰い人を集めたことで、お互い発見に至った。ヴォルデモートの方はともかく、私の場合はリーマスの"たまたま"がなかったらあのまま確実に死んでいたことだろうと思うと、遅れてやってきた恐怖が体を震わせた。

改めて、私は自分の杖腕をこっそりベッドの中で確認する。肘から下は、なくなったままだった。

「癒者は、片腕はもうくっつかないって言ってたんだ…。義手にするしかないって」

動かそうとすると、やはりまだ痛みに襲われてしまうので、私は大人しくベッドで仰向けに転がったまま、まるで他人事のようにリーマスの話を聞いていた。

「ありがとう。リーマスが運んでくれたんだね」
「そんなこと。もっと早く着いていれば良かったよ…。ごめん」
「ううん。来てくれただけでありがたい」

思うに、あの時の私は一種の興奮状態にあったのだろうと思う。ヴォルデモートとの戦闘を思い出そうとしても、なんだか夢の内容を思い出そうとする時のようにぼんやりと感覚のない断片的な記憶しか掴めないのだ。
ひとりじゃないと思った時の、あの万能感。ダンブルドア先生は"記憶の魔法"なんてお洒落なことを言っていたけど、リーマスは私のことを実体としても助けてくれたことになる。
いまいち戦闘や負傷の実感は湧かないが、彼には感謝の気持ち以外に抱ける感情がなかった。

「────それで、隣のわんちゃんはなんでベッドにいるの?」

自分を取り巻く状況がわかったところで、改めてシリウスの方を見る。
ついでに時計を確認すると、時刻は朝の9時だった。日付は昨日の翌日────つまり私は、日を跨いで健康的な時間の分だけ眠っていたに過ぎないのだ。

「シリウスはまた別件」

リーマスは肩をすくめてそう言うと、「癒者を呼んでくるよ」と再び忙しなく病室を出て行った。
後に残された私は、シリウスが再び口を開いてくれる瞬間を待っていた。しかし何か言いにくい事情でもあるのか、彼はなかなか口を開こうとしない。

「シリウス────」

名前を呼んだところで、ようやく彼と目が合った。

「君が戦っていた間────僕は、マグルを襲ってた死喰い人3人と戦ってたんだ」

彼は私をまっすぐ見据えて、簡潔な事実を告げる。

「マグルを…襲ってた? でも今日は元々死喰い人との戦いじゃなくて、情報収集がメインだって…」
「ああ。僕もそのつもりで言われた地区に向かってたんだ。でもそうしたら、ひとつの家の裏庭から悲鳴が聞こえて…駆けつけてみたら────死喰い人が、その家のマグルの家族を拷問してた」

思わずその光景を想像してしまった私は、無意識のうちに眉を顰めていた。磔の呪いにかけられた人がどうなるのかは、昔ジェームズが同じものを受けてしまっていたせいでよく知っていた。

「相手はカロー兄弟。それからセルウィンだった」

3人ともヴォルデモート直属の配下、つまりカーストで言えば二段目にいる死喰い人だ。

「あの3人は特に気性が荒いことで有名だ。大方マグルの奴らの歩き方が気に入らなかったとかそんな理由だったんだろう。とにかく止めるついでに仕留めようと思って僕が割って入ったんだが────」

────それは…マグルの方からしたらどう思うのだろう。たとえシリウスが「助けに来た」と言ったところで、マグルからすれば"魔法使い"の存在自体が信じられない空想上の人種なのだ。良いところで"魔法使い同士の小競り合いに巻き込まれた(にしてはあまりに惨すぎるが)"と思うか、最悪"この人も自分達を痛めつけに来た"のだとパニックを起こすのではないだろうか。

「とりあえず死喰い人の意識がこっちに向いたことで呪いは解けたんだが、そこからマグルが半狂乱になっちまってさ。包丁やら庭にあった薪やら、終いにはそこの父親らしき男がテレビまで投げてくる始末。カロー兄弟は投げられたものは全部投げ返して危害を加えようとするし、それを防ごうとするとセルウィンが死の呪いを放ってくる。実質死喰い人3人と凶暴化したマグルの親子3人を同時に相手してるようなもんだったな」

ああ、最悪のケースが実現してしまっていたのか。

「生きてて良かった」
「ああ、本当に奇跡だった。マグルに怪我はさせられないし──── 一回間違えて母親を失神させちまった時は殺したかと思って流石に焦ったよ。まあ下手に起こしてもまたこっちが攻撃されるだけだから、安全な地下室に投げ…運んでおいたけど」

一瞬"投げた"と言いかけた気がするのだが、気のせいだろうか。まあ文字通り抱きかかえて悠長に地下室になんて行ってしまえばすぐに袋の鼠状態にされてしまっていたことだろうし、大方魔法で浮かせて地下室にゆっくり沈めていったというのが正しい表現なんだろう。

「それで、怪我をしたのは────?」
「それは完全に死喰い人のせいだよ。3人を1人で相手するなんて無茶な話だ…って言いたいところだが、死喰い人10人が束になっても敵わないようなヴォルデモートと相打ちした君の前じゃ何も言えないな。なんとか3人とも全員石化させて縛り上げたは良かったんだが、その直前に懐かしき"セクタムセンプラ"を食らっちまって────。自力ではどうしようもないと思ったから、騎士団の連中に召集をかけて事後処理を頼んだんだ。────で、最初にエルファイアスが来てくれた時、君からの緊急メッセージを受信して────」

セクタムセンプラ、もう二度と聞きたくない…下手をしたらアバダケダブラより私にとっては嫌な呪いだ。全身を切り刻むスネイプオリジナルの呪いは、今も死喰い人の中で息づいているらしい。当然、4年生の時に私はその呪いをかけられた者がどうなるかということを間近で見ているので、姿くらましなんてとてもできる状態じゃないということも容易に想像がつく。

「シリウスも大変だったんだね。混乱させなかった? ごめん」
「いや、すぐそっちに行ったよ
「────え?」

今もまだ、学生時代にセクタムセンプラを受けたシリウスの体からドクドクと止まることのない血が溢れ出す光景を鮮明に思い出せる。あんな体では、指先ひとつ動かすことすらままならないだろうに────こっちに来た、って?

「で、でも…私、あなたの姿を見てない…」
「ああ。体中既にボロボロなのに無理やり姿くらましなんかしたもんだから、見事にばらけちまったんだ」

"ばらけ"という現象。簡単な話、姿くらましをする時にうまく行き先をイメージできていなかったり、体が万全の状態でなかったりすると、体の一部だけ別の場所に飛ばされてしまい、文字通り体が"ばらけ"ることを指す。6年生の時に受けた姿現し講習では、「耳だけ元の位置に置き去りにした」とか「片腕がごっそり全く関係のない場所で発見された」とか、そんな物騒な話を聞いたものだったが────。

「腰から下はその場に残って、頭はリーマスの家、残りの胴体だけが君のところに無事到着した」

思わず口をぽかんと開けてしまった。
それは────ひょっとすると、死喰い人との戦いより余程重傷なのでは?

私の表情から何かしらか読み取ったのか、シリウスは自嘲気味に笑って首の包帯を指さした。

「僕がここにいるのはそれのせい。セクタムセンプラなんてもう今時古いし、反対呪文もとっくに明らかになってる。それだけだったら自分でも治せたんだが、ばらけた体だけはどうしようもない。幸い喋れる頭がリーマスのところに行ってくれたから、事情を説明して僕らの家に連れて行ってもらったんだ」
「リーマスは"たまたま"って」
「僕が君の呼び出しにろくに応じることもできず、体をばらしてリーマスに運んで来てもらったなんて言えると思うか? あいつの僕への気遣いだよ」

なんてこと────じゃあ、シリウスは私のせいで────。
私が呼んでしまったから、シリウスは瀕死の体にも関わらず来てくれようとして、それで余計に傷を負ってしまったのか。

彼はリーマスがあそこに居合わせた理由として「たまたま」と言ったことについて、「僕への気遣い」と言っていたが、私はむしろリーマスは"私に"気遣ったのではないだろうかと思った。
だってこんな話を聞かされたら────嫌でも、罪悪感が胸を圧迫する。

「────ごめん」

私はあまりの胸の痛さに、骨も皮膚も突き破って心臓が飛び出すのではないだろうかと思ってしまった。それほどに申し訳なく、情けなく、そしてシリウスの愛が苦しかった。

「どうして君が謝るんだ? 謝るべきは僕だろ。君が騎士団のコールじゃなくてブレスレットの魔法を使うってことは、余程何かマズいことか────あるいは人に知られたくないことなんだろうっていうのはすぐにわかったんだ。でも体が────鍛えきれてなかった」
「そんなことない。だって私、結局ひとりで対処できたし────」
「でも僕がばらけてリーマスに家に連れて行ってもらえなかったら、君は死喰い人の残党に殺されてたぞ」
「そ、それはそうかもしれないけど────」

私だって、あの惨状を思い返して"対処できた"なんて本気で思っているわけではない。
でも、一方的にこちらの事情だけでシリウスを所構わず呼ぶべきじゃないということに、もっと早く気づくべきだった。シリウスだって、常に命を懸けて戦っているのだ。この間レストレンジと戦った時に彼がすぐ来てくれたのは、ちょうどその晩に彼女と戦う準備をするために"あらかじめ家で待機していることがわかっていたから"だ。たった一度、それだけの記憶に縋って、いつでもどこでもシリウスが来てくれるなんて錯覚は、間違っても起こすべきじゃなかった。

「でも、聖マンゴ送りにしたのは私のせいだから」
「そんなこと言うなよ。あそこで"僕も大変かもしれないから"なんてお上品な屁理屈こねて僕を呼ばずに死なれたら、僕の方がやりきれない」

シリウスはぎこちない動きで手を目に押し当てた。

「────死んだかと、思ったんだ」

そこには、先程リーマスが私を心配してくれているのとは全く別の感情が込められていた。

その感情を、何と表現すれば良いのだろう。後悔、焦り、憔悴────どれも合っているようでいて、微妙に違うようにも見える。

「なあ、イリス」

シリウスは顔を上げると、私の名前を呼んだ。

「この間の話、しても良いか?」
「この間って?」
「僕が────まだ家に囚われてるって言われた時の話」

彼の表情は真剣だった。どこからどう繋がってその話をしようと思ったのかはわからないが、シリウスの方から持ち掛けられた以上、私に応えない理由はない。

「うん」

シリウスはひとつ息を吸うと、言葉を選びながら話し始めた。

「君の言う通り────僕は、卒業してから随分と"弱虫"になっていた」

彼の表情は真剣だった。真剣に、自分のことを「弱虫」と────まるで他人事のように淡々と口にした。

「僕は今まで、誰よりも自由だと思っていた。家の教えに反発し、ホグワーツではグリフィンドール生としてプロングズ達と好き勝手にやって────そうやって気に入らないものを排除し、決められたルールを破ることで、"自由"になったつもりでいたんだ」

私もそんな彼を見て、"自由"だと思っていた。しかし彼は、まるでそれは"本物の自由"ではなかったのだと言わんばかりに、目を伏せ、自らを恥じ入るように言葉を続けた。

「僕がいた世界はいつだって狭かった。家もホグワーツも、"敷地の果て"が見え、ルールにも上限がある────言ってしまえば、"自由になりやすい"環境だったんだ。家は嫌いだが、ホグワーツは好きだった。だから家を排除し、ホグワーツを受容することで、自分の"自由"は完成されたと思った。卒業した後だって、嫌いなものを排し、好きなものを受け入れる────世界を二分するだけで、僕は自由を手に入れられると思っていた」

その掌に"自由"を掴むように、シリウスは自分の手元を見ながら開いたり握ったりを繰り返していた。

「それが────卒業して、敷地の果ても見えず、ルールの上限もない広い世界に出たことで────自分がどれだけ浅はかだったのかを思い知ったんだ。僕は結局、子供の頃から何も変わっていなかったんだ。反発することで家を捨てた気になっていたが、反発するということはそれだけ意識しているということになる。僕は────そんな簡単なことに、実際に社会に出るまで気が付かなかった」

社会に出て、理想と現実を隔てている大きな壁に慄いたのは彼だけじゃない。私もリリーも、そしてレギュラスでさえ、ホグワーツを卒業してようやく大人になれたと思った直後に、再び赤ん坊として生まれ直してきたような感覚を抱いたものだった。「ホグワーツを出た瞬間自由ではなくなる」と私が言ったのはまだ1年生の頃のことだったが、私は今でもその言葉は正しかったと思っている。

社会で自由になるということは、思っている以上に難しいことなのだ。
しがらみから逃れたいと思う度、そのしがらみに絡め取られる。世界が一段階広がる度、私達はまた一からスタートさせられるような気持ちになる。

「僕はどう足掻いてもブラック家の家名から逃れられない。ひとつ大人になっていく度、僕は逆にひとつずつ子供に返って行くような気持ちにさせられるんだ。そして僕がそうやって二の足を踏んでいる間に────プロングズは、どんどん前へと進んで行ってしまったんだ」

────その時、私はシリウスが何にそこまで悩まされていたのか、なんとなくわかったような気がした。

彼はずっと、ジェームズを見ていたのだ。

何不自由なく両親から愛され、愛した者と結ばれ、嘘偽りなく世のため人のためと口にし、幼いハリーとリリーを守り幸せに生きている。
きっとその姿は、愛を知らず、狭い世界の中で戦いながらなんとか自由を勝ち取り、そして最後には再び元の場所に立ち返って迷い始めてしまったシリウスにとって、あまりにまっすぐで、眩しく見えていたことだろう。

「あいつは最初から自由だった。僕が欲しいものを、皆持っていた。俺はあいつのことを自分の現身のように親しく思っていながら────その実、正反対の存在として羨ましくも思っていたんだ。僕はあいつのようにはなれない。僕は────あいつのように、誰かを幸せにしてやれない」

シリウスは開いた手を凝視しながら、悔しそうに声を絞り出す。

「君と結婚したいと、ずっと思っていた。君と家族になって、僕も────幸せになりたいと、本当の意味で自由になりたいと、そう思っていた。…でも、駄目なんだ。僕の求める幸せは自由は、今の世界では手に入らない。今の世界に用意された"幸せ"や"自由"では、僕は満足できない」
「……」
「そもそも騎士団に入った動機だって、"自分の良いと思う世界を作るために"っていう利己的なものだった。"良い世界"っていう言葉を"罪のない人を守る"って言葉に置き換えてこれまで納得してたが、僕は本来、自分に迫る危険に気づこうともせずのうのうとその辺をほっつき歩いてる奴が攻撃されたところで、自業自得としか思わない性分なんだ。その矛盾に気づいた時、僕は────僕は、自分が何をしているのかわからなくなった。自分の本当に求めているものが────わからなくなったんだ」

私は黙ったまま、彼の言葉を聞いていた。幼い子供が成長痛に悩み独り言をぼやいているような、そんな彼の独白を、静かな病室の中で私だけが聞いていた。

何も知らずに歩いていたらいきなり攻撃されたことを「自業自得」と言うなんて、付き合う前の私だったらそんな言い方は酷いと思っていたかもしれない。
でも、今はそれが"シリウスらしい"と思う。
彼は誰より閉塞的な環境に置かれていたせいで、何事も自分で解決せざるを得なくなってしまっていた。周りに味方してくれる人がほとんどいなかったせいで、自分に近寄る人をまず疑う癖がついてしまった。

彼は自分で「世界を知らなかった」と言っているが、私はやはり、彼は現実を…世界を、よく知っている人だと思う。むしろ世間の人の方が、自分の身に迫る危険や、ある日突然訪れる"死"というものに頓着していなさすぎるのだと思う。

「プロングズを見る度に、僕は君と同じような家庭を築きたいと願いながら、それが決して叶わないことなのだと思い知るんだ。学校の中で"名家の面汚し"と"穢れた血"が慰め合うのとはわけが違う。君は魔法省で働く真っ当な人間で、僕はどうあろうとも腐った聖28族のひとりであることを変えられない。望んだ生き方もできない、たいして守りたいとも思っていないものを守り、本当に守りたいものを守れない。僕はきっと────君を、幸せにはできないんだ」

────今まで言わずにいたが、もしかしたらシリウスは知っていたのかもしれない。
魔法省で、私がどんな話を聞いていたのか。ブラック家が、世間でどう見られているのか。

リリーとは「そんな家と真っ先に縁を切った自分を誇りに思っているんじゃないか」なんて話をしたこともあったが、彼はしっかり世間の波に呑まれていた。あるいは────私との結婚を考えてくれたことによって、ここでも私が彼に被害を与えてしまっていたのかもしれない。自分はブラック家であることを揶揄されても良いが、同じように私まで言われるのは心苦しいからと。

そしてパニックを起こして自分のことまで攻撃してきたマグルの家族は、きっとシリウスが今言った"たいして守りたいとも思っていないもの"にあたるのだろう。対して────"本当に守りたいものを守れない"、と言ったのは、今私がこうして大怪我を負ってベッドに寝かされている様を見てそう思わせてしまったのかもしれない。

シリウスは歯の隙間から漏れ出すような声で、悔しさを滲ませていた。

「…それが、私と結婚できない理由?」

彼は私を幸せにできない、と言った。
────でも私は、彼の言葉に全く不幸を感じたりはしていなかった。

彼が彼の生きたいように生きる、そのことが、どう私の生き方を矛盾するのだろう?

シリウスはジェームズを見て、映し鏡のように"彼の幸せ"を自分に当てはめようとしている。しかしシリウスとジェームズが違う人間なのだということは、本人以外の誰もがちゃんとわかっていることだった。

誰よりも警戒心が強く、人を疑い、単独行動を好み常に争いの中に身を投じようとする過激なシリウス。
仲間と一度信じた者ならば最後まで曇りなく信じ抜き、"遊び"を楽しみながらも基本的には穏やかな暮らしを好むジェームズ。

賑やかなことが好き。派手に目立つことが好き。そんな"共通点"があったからこそ、2人は双子のようにホグワーツという安全地帯の中でその友情を繋いだ。シリウスは懐に入るまでの壁が非常に厚い代わりに、一度懐に入れたものは命を懸けてでも大切にする人だ。だから2人は、長い歳月を経る毎に互いをかけがえのない友人として、きっと互いを"代わりのいない自分の片割れ"として認識していた。

────でも、本質的なところでは、彼らは全く違う性格の人間だ。
シリウスは、地球が逆回転してもジェームズにはなれない。ジェームズのように、閉鎖的な隠れ家でも笑ってはいられない。楽観的に上を向いて、リリーとハリーは当然のこと、それ以外の(シリウスに言わせれば)"隣に死が潜んでいることを見もせずのうのうと生きている人間"も守ってみせるとは言えない。

だから、シリウスがジェームズの様子を見て、それこそが"幸せ"であると定義するのなら、確かに彼は一生幸せになれないだろう。

ただ、私はジェームズのことを"幸せそうだ"と微笑ましく思っても、"それだけが唯一の幸せの形だ"とは思っていなかった。

「────それなら、私のことをさっさと捨てたら?」

私はシリウスがどんな人間なのか、きっと彼がこうして悩み始めるより先によく理解していた。彼は自分の懐に入れた人間さえ守れれば良いと思っているし、世界を楽観するより余程悲観している。厭世的、と言った方が正しいだろうか。そのくせ閉鎖的な場所ではすぐに息苦しく感じ、自分の嫌っているもの────邪悪な者と戦って、広い世界を飛び回っていないと気が済まない。

つくづく厄介な人だと思う。彼はひとりで生きていることに慣れすぎて、"誰かと一緒に作る幸せ"を知らないだけなのだ。私と同じで、"温かい家庭"というものを想像することしかできない。彼の幸せは、彼1人で成り立ちうるもの。そこに"誰か"────要は私を抱え込もうとすると、途端に彼の脳がバグを起こし、こうして悩ませてしまう。

それならいっそ、私と別れてひとりで生きて行けば良いと思った。私がいることによってシリウスが自分の在り方すら迷ってしまうというのなら、私がそんな半端な気持ちにさせてしまう程度の存在なら、いっそ捨ててほしいと思った。

「ブラック家の名を背負わせることが嫌だというなら、結婚しなければ良い。守りたいものを守れず、守りたくないものを守ることに嫌気が差すというのなら、騎士団も抜けて、ひとりで賞金首でも狩っていれば良い。ねえシリウス、色々問題をごちゃごちゃにしてない? いきなり世界が広くなったせいで怖くなったの? 思い出してよ────どうしてシリウスは、騎士団に入って────そして、私の手を取ってくれたのか」

言いながら、私はシリウスが私に掛けてくれた言葉の数々を思い出していた。

「過去を追うだけじゃダメだ。かといって、根拠もないことに怯えてたって仕方ない。僕は、真実を知り、予想しうる未来に備えて、戦いたい。君と同じだよ、イリス。僕だって、僕の嫌うものに真っ向から反対したいんだ。確かに不死鳥の騎士団が具体的に何をしてるのかは知らない。でも、何をしたがっているのかはよくわかってる。だから僕はあそこへ行くんだ。せっかく生まれてきたんなら、僕が良いと思う世界を取り返すために、僕の命を使いたいんだ」

6年生になる年の夏、星空の下でシリウスはキラキラと目を輝かせながらそう言っていた。
現実を知らないことはわかっている、それでも"彼"の望んだ世界を作りたいと。

あの時から、彼の目には"どこかに住んでいる誰かさん"なんて映っていなかった。シリウスはただ、広い夜空をオートバイで駆けていたいだけだった。地上と空中の星空に挟まれて、流れ星に見えるほどのスピードで夜の闇を切り裂いていくことができる世界────そんな"彼"の世界を守りたいだけだった。

「…もちろん、僕は闇の魔術には徹底的に対抗していく。今日のスネイプもそうだけど────あいつらみたいに、闇の魔術をお遊び感覚で行使して、ヴォルデモートについていこうとしている奴ら────"敵"とわかってる人間とは、これからも杖を交えるだろう。僕は僕の"敵"だと思った人間には容赦しない。闇の魔術に傾倒する者、マグルやマグルの擁護者を排除する者、それらにはこれからも反抗していく」

5年生の時、私がシリウスの告白を受け入れられなかった時、彼は自分の思想を改めて見つめ直したと言っていた。そして出た答えはとてもシンプルなもの。
闇の魔術に対抗するという、ただそれだけ。

「半年もの時間をもらって、僕は改めて僕のあるべきスタンスを再認識した。その僕と────やっぱり相容れないと思うのなら、確かに僕達は一緒にいるべきじゃないだろう。いつか僕は君を"日和見な理想論主義者"と呼んでしまうかもしれない。でも────もし、まだ手を取り合う余地があると思ってくれるのなら────僕がブレーキを壊しそうになった時には、君に止めてほしいんだ」

その上で、彼はそんな"彼の自由"を守るために、私に手を差し伸べた。
限りなく自由でありながらも、彼の矜持を守れるように。限りなく無法者でありながらも、彼が定めた規律には触れてしまわないように。

────あの時点で、彼は自分の一部に私を取り込んだ。
彼の自由、彼の世界の中に、私という存在が入り込んだ。

「私はあの時からずっと幸せだったよ。ブラック家がどうかなんて、考えたこともなかったし、今だから言うけど────魔法省でブラック家の名があげつらわれたところで、腹が立ったくらいで悲しくなったりなんてしなかった。だから私は、あなたと一緒にいることで不幸になったり、迷いを覚えたりすることなんてない。だから────あなたが私といることで余計な迷いを抱えたり、不安になったりするっていうのなら────私達は、一緒にいない方が良いと思う

「僕の出した結論はこの通りだ。君にとって納得のいかない部分もあるかもしれない。でも、半年もの時間をもらって、僕は改めて僕のあるべきスタンスを再認識した。その僕と────やっぱり相容れないと思うのなら、確かに僕達は一緒にいるべきじゃないだろう。いつか僕は君を"日和見な理想論主義者"と呼んでしまうかもしれない」

5年生の時、彼もそう言って結論を私に委ねたことがあった。
今度は立場逆転だ、となんだかおかしい気持ちになる。最悪私はシリウスにふられてしまうかもしれないというのに、私は不思議と落ち着いていた。

覚悟が決まっているというのは、こういうことなのか。
きっと本当にここでシリウスと別れることになったら、私は三日三晩大泣きして、リリーのところに泣きつきに行くだろう。それだけじゃ飽き足らず、胸にぽっかりと大きな穴を開けて、死喰い人へ無謀な戦いを挑みに行ってしまうかもしれないとさえ思う。

別れたいわけじゃない。別れることを受け入れられると思っているわけじゃない。
ただ────それが彼の幸せなのだと結論を出されたら、私はその幸せを守らなくてはならないと思う。だってそれが、彼の世界に住み着いた私にできる最後のことなのだから。

「────…」

シリウスは呆然として私を見た。今まで握ったり開いたり、顔を埋めたりするので忙しかったその手は、行き場を失って宙にぼんやりと浮いていた。

「僕が────君と別れるってことか?」
「あなたがそうすべきだと思うならね」
「そんな────そんなこと、思うわけがないだろう!」

まるで子供の癇癪だ。さっきまであんなに気落ちした様子で、弱々しい言葉を吐くことしかできなかったというのに、それなら私を切り捨てろと言った瞬間、突然語気を荒くし始める。

「僕が初めて自分から欲しいと望んだ存在が君だったんだ! 僕が初めて、何もしなくても幸せだと感じられると思えた存在が君だったんだ! 僕が君を手放すなんて、天地がひっくり返ろうがありえない!」
「待って、落ち着いて。私は何も"別れて"って言いたいわけじゃないんだから…」

シリウスはまだ完全にくっついていない体で身を乗り出し、痛みに顔を歪めた。同じく動けない私が言葉だけでなんとか宥めると、彼はふんと鼻をひとつ鳴らして大人しくベッドに戻った。

「今のはただの意思確認だよ。私がいるせいであなたの自由や幸せに迷いが生じるなら、私がいない方が良いんじゃないかって思っただけ。私だってあなたと別れたくなんてないし────あなたの方も、そうやってすぐに言い返してくれるってことは、建前や外聞なんて関係ない本音のところでは、私と一緒に家の名を背負ってほしいし、想像しかできない家庭を一緒に作っていきたいって…そう思ってくれてるんじゃない?」
「………」
「そこで後ろめたそうな顔をしないでよ。私はむしろそう言ってくれる方が嬉しいよ。シリウスだって言ってたじゃん、お上品な屁理屈こねられたらやってられないって。私もそうだよ」

シリウスには、シリウスが望む通りに生きてほしい。
それがどれだけ世間で肩身の狭い思いをするようなことであっても、私は"私のライン"にさえ触れなければその行動を許容し続けるだろう。

シリウスには、"世間の評価"なんて要らない。生まれた時から、彼はいつだって正しい評価がされない世界で生きてきていた。それは悲しいことでもあるが────だったらもう、今更世間の基準に合わせようとなんてしなくて良い。

「自分を恐れるマグルを助けたくないって言うなら放置して良いよ、代わりに私が助けるから。ブラック家の名前に縛られるのが嫌だって言うなら、一緒に今度はブラック家のホワイトなイメージを作っていこうよ。幸い、あなたはブラック家最後の世代だから、イメージを変えて行くにはぴったりだと思うし。ね、シリウス。私はずっと信じてるよ。あなたがどれだけ迷っても────自分の楽しいことだけを追い求めるあなたの行動が…結果として、世界を救ってくれることを。あなたの身勝手な行動は、決して世界が求める幸せとだって離れていないってことを」

幸せって、別にその形がひとつに決まっているわけじゃないと思う。
ジェームズにはジェームズの幸せがあり、シリウスにはシリウスの幸せがある。どれだけそっくりさんで仲良しな2人でも、価値観は違って当然だ。シリウスがどんな幸せを"幸せ"と定義しているのかは知らないが、少なくとも私は彼が傍にいてくれるだけで幸せだ。どんな弊害があったって、どれだけ過酷なことがあったって、家に帰って彼が笑ってくれるだけで私は幸せになれるのだ。

それじゃ、いけないんだろうか。
たったそれだけのことを理由に一緒にいるのは、軽薄なのだろうか。

「────イリス」

シリウスは泣きそうな声で私を呼んだ。

「らしくない、って思うだろ? 僕がそんなことで迷って────君に、そんなことを言わせてしまうなんて」
「まあね。でも…社会に出て、また赤ちゃんに返ったような気持ちになっちゃうのはなんとなくわかるよ。私も、それに────」

あなたの弟も、そうだったから。

「────他の人も、やっぱり同じように理想と現実のギャップに悩んだ時はあったみたいだから。きっと皆そうなんだよ。それで、もう一度考え直して、ひとつと同じもののない"幸せな生き方"を探すんじゃないかな。騎士団の人だってきっと、"理想"はバラバラなんだよ。理想がバラバラでも、目的は一緒だから────だから、そういう数少ない共通点を繋いで一緒に戦うんじゃない? そのくらいで良いと思うんだ…あくまで私は、だけど」
「ひとつと同じもののない幸せな生き方、か…」

彼はようやく力を抜いて、深く息をついた。一緒に彼の迷いも溶けて空中に流れ出していくように見える。

「────なあ、イリス」

そして、もう一度私の名を呼んだ。

「ここまで君に言わせてこんなことを言うのって、なんだか情けないんだけどさ…」
「うん」
「────僕と、結婚してくれないか?」

シリウスはベッドにぎこちなく座りながら、ぎこちなく笑っていた。まだ迷いが完全に吹っ切れたわけではないのだろうが────、私の言っていることが彼の納得できる理屈に収まったのだろう。彼は笑いながら、私に────ずっと望んでいた言葉を、掛けてくれた。

「────ありがとう、シリウス。喜んで」

────私の答えは、ひとつだった。



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