「久しぶりじゃのう、イリス。元気そうで何よりじゃ。シリウスの様子はどうかな?」
「お陰様で。シリウスは…あー…毎日元気すぎるくらいです」

年が明け、3月に入った頃。
私は久しぶりに、ホグワーツの校長室でダンブルドア先生と会っていた。

ピーターの家には、最初に決めた通り3ヶ月に一度のペースで通っている。ハリーの顔はあの後、年が明けたタイミングで新年のお祝いも兼ねてもう一度見に行った。
リーマスはシリウスの誕生日の日にうちを訪ねてきてくれた。シリウスがその夜はリーマスとバイクに乗って遊びに行きたいというので、私は呆れながらそんな2人を送り出したものだった。

一時期ヴォルデモートや死喰い人と毎日のように戦っていた日々が嘘のように、最近は平和だった。そのお陰というべきかそのせいでというべきか、シリウスの元気が毎日上限を突破していっている。今日も私がダンブルドア先生に呼ばれているからというと、「じゃあ良い報告ができるように死喰い人を狩りに行ってくる」と朝から張り切ってどこかへと消えて行った。引き際は弁えている人なので、自ら自殺行為をしでかすようなことはしないだろうが、どうしても胃が痛くなるのは避けられない。溜息をつきながらシリウスのそんな様子を「元気」という言葉にまとめると、粗方察してくれたらしいダンブルドア先生はクスクスと笑った。

「君がいてくれているお陰で、なんとか無謀な行動は思い留まっているという感じかの」
「はい…多分、そうだと思います。ジェームズはハリーが生まれてからすっかり落ち着いたっていうのに、あの人だけいつまでも11歳のままみたいで…」
「お気持ちは察しよう、イリス。男子というものはいつまで経っても子供のままなかなか成長できないものなんじゃよ」
「リーマスなんかは最初から大人っぽかったんですけどね…」

こんな風に、先生とまるで対等に話すのはなんだか不思議な感じがする。
私はまだ、先生と初めて話した時のことをよく覚えていた。

あれは4年生の時────シリウスがオーブリーに初めて"セクタムセンプラ"をかけられた後のことだ。オーブリーに勝手に復讐をした私は、怒られるんじゃないかと怯えきって先生の前に立っていたが、先生は"加害行為はそれとして受け止めた"上で、私に"その行動が仲間を救ったことも事実"なのだと教えてくれた。

あの時から、先生は常に私達生徒を守り、そして卒業した後は誉れ高くも"同志"として変わらない態度で私達に接してくれていた。緊張が抜けるまでにはかなりの時間がかかったが────今では、心から信頼して私はこの人に命を預けている。

「それで、先生。新しい任務というのは────」
「おお、そうじゃった。────立ち話でできるような軽いものでもないから、良かったらそこにおかけ。ゆっくり話を聞いて、受けられる任務かどうか、判断してほしい」

一方的に言い渡される任務ではなく、私の"承諾"が必要ということは…相当危険な話なのだろうか。私はぴしっと背筋を伸ばしたまま、先生に言われた通り椅子に腰掛けた。

「そうじゃな…まずは前提となる話からきちんと同じ認識を持てているか確認するとしよう。本当の秘密の守人がピーターであるということは知っておるな?」
「はい」
「その上で、傍目にはシリウスが秘密の守人を引き受けたと見せかけておるが────もちろん敵には一切情報を明かしておらぬ。そのせいで、あやつらはきっと、ジェームズとリリー、それぞれが最も信頼しているシリウスあるいは君が秘密の守人と勘違いして、君達を追っているじゃろうな」
「はい」

淀みなく首肯すると、先生は満足そうに「やはりシリウスの言った通り、君は気高い魔女であったようじゃ」と言ってくれた。

「わしは最初、シリウスから秘密の守人を代えてほしいと言われた時、その判断が正しいのかどうか、迷っておったのじゃ。ピーターの能力が劣っていると言いたいわけではない。しかし、ジェームズ達を守るにおいて、躊躇なく危険な役割に手を挙げた彼の勇気こそが、秘密の守人に最も必要な覚悟だと思うておったからじゃ。しかも、ピーターを守人にして、シリウスを囮にするということは────当然、その隣にいる君にも、敵の手が及ぶことになる。わしは君のいないその場で、君を囮として利用することを勝手に認めて良いものか、すぐには判断できなかったのじゃ」

いかにも先生らしい、深謀遠慮な言葉だと思った。

「そうしたら、シリウスが言ったんじゃよ。"イリスなら、友人を守るために自分の命を懸けることこそ自分の本意だと迷いなく答えます。彼女をずっと隣で見てきた僕が保証します"とな。それだけを聞くと、どうにも無責任なまま自分の計画に大切な人を巻き込もうとしている、無鉄砲な人間の言うことにも思えてしまうが────わしは、シリウスと君と信じることにした。学生の頃から、類いまれなる勇敢さをホグワーツの顔として示してくれていた、君達を。────そしてその判断は正解じゃったのだと、今わしは改めて認識した」

その評価には、少し恥ずかしさを覚えてしまった。ダンブルドア先生が私の勇気と友情を信じてくれたこともありがたかったのだが、私が仮にその場にいたら言いそうなことをそのままシリウスが代弁してくれたということが、思った以上に嬉しかったのだ。

「イリス、君は本当に誰よりもあの7年間で大きく成長してくれた。入学したばかりの頃から"成績の良い子"としてわしも君のことを知っておったが────自分の大切な命を誰かのために躊躇いなく懸け、真に君が信ずるべきものを"自分の力"で導いてくれたことを、わしは心から嬉しく思う」

私も、できることならタイムスリップして1年生だった頃の自分に会いに行ってやりたいと思う。誰にでも良い顔をして、誰の意見にも賛成も反対もしない────そんな中途半端な在り方こそが本物の"自分"なのだと思っていた自分に、そんなことはないのだと伝えてあげたい。
自分の意見を持つことは、何も怖いことなんかじゃなかった。自分の信念に従って誰かを守ろうとすることは、こんなにも誇らしいことだった。

「ありがとうございます。それで────」
「すまない、どうにも年を取ると昔話ばかりしたくなってしまってのう。それで、本題じゃが────君達には、いよいよ囮として本格的に陽動作戦を取ってほしいのじゃ」

今まで私達は、居場所を知られないよう家を巧妙に隠しながら、あくまで"事実上の囮"として逃げの作戦を取って来ていた。
先生の言っていることは────"私達の居場所を明らかにし、狙いを一点集中させる"という意味だろうか?

「家に張った防御魔法を解け、ということでしょうか?」
「いや、君達の帰る場所を壊そうと言うのではないのじゃ。もっとも、だからといって安全なやり方とはとても言えぬのじゃが────先日、エドガーが死喰い人が集会の拠点にしているバーを見つけたそうじゃ」

エドガー・ボーンズ。騎士団の一人だ。

「エドガーは見つけた自分が踏み入ると言っておったのじゃが、わしはそこを君達に代わってほしいと思うておる。意図はわかるじゃろうか?」
「────囮となっている私達がわざわざ死喰い人の拠点に乗り込むことで、一層やつらの目が私達に向くからですね?」
「その通り」

なるほど。今まで隠れており、どこにいるかも、そもそも本当に"秘密の守人"かどうかもわからなかった私達が満を持して敵の拠点に乗り込めば、彼らの目は完全に私達から離れなくなる。
そこでシリウスがうっかり"秘密の守人"ごっこでもしようものなら、うまく逃げおおせた後もしばらくは私達の捜索活動が続くことだろう。死喰い人の行動が私達に割かれれば割かれるほど、ピーターへの視線は逸れていく一方だ。更にそこで彼らがより大胆な手段に出てくれでもすれば、他の騎士団のメンバーにとっても死喰い人捜索が随分やりやすくなるだろう。

もちろん、その場で敵を全滅に追い込めればそれが一番なのだが────おそらく10人以上はいる死喰い人をたった2人で倒すのには無理がある(この間の下っ端を相手にした時とは訳が違うのだ)。かといって騎士団のメンバーを下手に増やしてしまうと、今度は向こう側の援軍が送られるか、あるいは最悪ヴォルデモート本人が出てくるかで却ってこちらの状況を不利にしてしまうだろう。最悪、手薄になった守りの隙をついてリリー達に危害が及ぶ可能性も捨てきれない。

今後を考える上で最も効果的な方法を取れと言われたら────確かに、そこには私とシリウスが向かうのが最善なのだろう。

「君達にはかなりの危険が伴うことになる。無論、死喰い人は"秘密の守人"であると思うておる君達を殺しはせなんだろう。しかし、いっそ死んだ方がまだ良いと思ってしまうほどの苦しみを与えようとしてくる可能性は大いにある。これはそう簡単に頼めることではないと承知の上でなのじゃが────」
「いえ、お引き受けします。シリウスも決して拒みはしないでしょう」

私達を気遣ってくれている言葉を遮り、私は先生にそう言った。先生は少しだけ後ろめたそうな顔で笑い、「ありがとう」と言う。

「君達は、互いを誰よりも信頼し合っておるのじゃな」










「────っていう話が先生からあったので、勝手に引き受けてきました」
「わかった」

シリウスはその日、別の任務があると言って珍しく朝から出かけていた。日を跨ごうかという時間帯になってようやく帰って来たので、私はひとまず彼の無事を確認してから、今日ダンブルドア先生から聞いた話をそのまま聞かせていた。
返事は迷いも躊躇いもなく、即オーケー。ダンブルドア先生も言ってくれていたが、こういう時の私達のシンクロぶりには我ながら本当に助かるところがある。

安心して自分の命を懸けられる。安心して相手の命も懸けられる。

それは、私達が何度も衝突し、その末に寄り添い続けてきたからこそできること。

シリウスは私が用意しておいた夕食を「うまい」と言いながら、その合間に「わかった」と言ってみせたのだ。私も決断は早い方だが、彼にかかってしまえばどれだけ命の危険が伴うことでも食事の合間に簡単に返事ができてしまうのだなと改めて感心する。

「で、いつ行く?」
「エドガーの情報だと、明日の夜が次の会合の日みたい。当然そこに集まるのが全員ではないけど、少なくとも1人はヴォルデモートの腹心がいるはずだって」
「よし、うまく行けばヴォルデモートも殺せるわけだな。そうすりゃハリーが物心つく前に戦争は終結だ」
「取ってもいない狸の皮を数えるのはやめて。明日はあくまで私達の存在を明らかにしに行くだけ。急いては事をし損じるって言うでしょ」
「わかってるよ。でもリスクヘッジだけじゃなくて、最高のシナリオを思い描いておくことも大事だろ」

全く弱気の色を見せないシリウスにこれ以上言っても無駄だと思い、私は小さく溜息をついて会話を終わらせた。いざとなったら私が彼を守ればそれで良い。

「それから、リリーから手紙が来てたよ。宛先は私だけど、シリウスにもメッセージが付いてる」
「お、なんだ?」

私はデスクの上にあった封筒をシリウスに手渡す。ちょうど夕食を食べ終えたシリウスは私からそれを受け取ると、早速中身を開いて声に出して読み出した。

「あー…親愛なるフォクシー、お元気ですか…この辺は関係ないな…あ、この辺か…追伸、パッドフットへ…7月末にはハリーのお誕生会をやろうと思っているの。ささやかなものだけど…もし都合が合いそうだったら彼女と一緒に来てね…と。成程、久々に心からリラックスできそうだな。ムーニーとワームテールも誘ってると来た。あいつら、来れるかな」
「ピーターは私達がまた誘わないといけないかもね。どっちにしろ、7月31日の夜は空けておいて」
「合点承知」

シリウスはそこまで読んでいないようだったが、手紙の全文にはハリーの成長ぶりが事細かに記されていた。生まれてから約半年少しが立ち、生活リズムが整うようになってきたということ。この間初めておすわりをしたということ。ただ、成長に伴い体調を崩しやすくなったり、自我が生まれてきたのか、癇癪を起こして泣き叫ぶ回数も増えているらしい。

子育てって楽しいことだけじゃなかったわ。生まれたばかりの頃はあまりに大人しいからそれはそれで心配だったけど、この頃あんまりちゃんと眠れなくて、元気すぎるのも困りものだって身を以て知りました。でも、やっぱり可愛くて仕方ないの。次に会える時にはもっとジェームズによく似たベビーをお見せできると思うから楽しみにしててね。

少し筆跡がよれていたり、ところどこにインク溜まりができているのは、書きながらハリーの面倒を見ていたからだろうか。手紙を書く時間でさえなんとか忙しい日々の合間に捻出したものなのだろうと思いつつ、私は彼女がどんどん絵に描いたような母親になっていく様を想像する。

リリーはどんなお母さんになってるんだろう。きっとポッター家に相応しい子に、とかそんなことは一言も言わないんだろうな。出産する前まではジェームズなんかも赤ちゃんみたいなものだったから、多少の悪戯や我儘は放っておいて、何か危ないことをしでかした時だけあの"エバンズ"だった頃の厳しさが戻ってくるのかな。
ジェームズはきっと、ハリーのことをずっと見ているんだろうな。ハリーが笑えば笑って、ハリーが泣けばオロオロして、でも彼はとっても要領の良い人だから────きっとすぐ、子育てのノウハウも身に着けてしまうんだろう。リリーと文字通り二人三脚でハリーを育てていくんだろうな。

「なんだ、何かおかしいことでも?」

ひとりでポッター家の家族風景を想像して笑っていると、シリウスは怪訝そうな顔をして私の方を見た。
────それを見て、私は────自分だったらどうだろう、とそんなことを考えてしまった。

私とシリウスにもし子供ができたら、どんな子になるだろう。私とシリウスが家族になったら、何か生活は変わるんだろうか。

「多分、シリウスは君と結婚することを望んでないと思う」

リリー達の結婚式で、リーマスに言われた言葉が蘇る。
実際、それまでもそれからも、一度だって彼から「結婚しよう」と言われたことはなかった。かといって、別れたがっているような挙動も見られない。
シリウスはどう考えているんだろう。"一緒にいる理由"が"結婚のため"でしかないわけじゃないけど(実際それで私達は何もしないまま一緒にいるし)、それでもこれだけ長い時間共に暮らし、親しい友人に子供が生まれてなお、彼の心は学生時代の時から何も変わっていないのだろうか────という、不安に近しい不思議な感情を覚える。

一緒にいることを当たり前とすら思っているようなのに、結婚は望まないという。
私は、その理由をまだ知れていなかった。

「────シリウス?」
「ん?」

その真意を知ろうとすることは、なんだか怖い。
でも────こうして月日が経つにつれ、私達は一体どうなるんだろう…なんて、そんなあまりにも漠然とした疑問が膨れていくのだ。何が何でも結婚したいというわけじゃない。でも、私はできることなら彼と結婚したい、とは思っていた。恋人でも、学生時代の同僚でもなく、2人の人間が一生の愛を誓う関係へ、彼と一緒に進みたいという希薄な願いが、リリーからの手紙を読む度に少しずつ私の中に蓄積されていくのだ。

「シリウスは────私と、結婚したいなとか、思わない?」

結局、自分の中でもうまく整理できないまま、そんな曖昧な訊き方をしてしまった。
このタイミングで訊くつもりはなかった。ただシリウスの表情に乗せられるように、流れで口走ってしまった。

「────…」

シリウスの顔が、笑った顔のまま凍り付いた。3秒程の沈黙が、永遠にも感じられるような気がする。

まずい、と思った。

何がまずいのかはわからない。別に結婚を迫っているわけでもないし、ただの雑談の延長で済むような軽い口調で言ってみただけなのに。
それでも、彼の顔が完全に固まったのを見て、私は今の自分の発言が完全に間違っていたことを悟ってしまった。

「いや、なんでもないの。リリー達の姿を見ていたらちょっと想像しちゃったっていうか、ううん、私達はこれからどうするのかなっていうか…ごめんね、突然」

なんだか言えば言うほど墓穴を掘っていくような気がする。言い訳に言い訳を重ねながら、私はどんどん自分の語調が萎んでいくのを感じていた。
シリウスは慌てている私の顔を見て、ハッと我に返ったようだった。しかし、何も言わないまま、今度は気まずそうに俯いてしまう。

────そんなに、言っちゃいけないことだった?

「ごめん、シリウスは結婚とかそういうの興味ないんだね。確かにそうだよね、家に縛られるのとか嫌いそうだし…別に結婚なんかしなくたって、一緒にいられればそれだけで十分だよね。ちょっと出来心で言ってみちゃっただけで…ごめ」
「謝らないでくれ」

何度も謝罪の言葉を口にする私を遮るシリウス。でも────やはり、私の言葉を否定する様子はない。私の言い訳を、覆してくれる様子はない。

「……」

シリウスは一体私とどうなりたいと思ってるの? それとも、どうにもなりたくないと思ってるの?
彼の気持ちがわからなくて、でも勢いに任せて出してしまった「結婚」という言葉を即座に否定しまった私には、それ以上踏み込むことができなくて。

どうして、黙ってしまうの?

「────シリウスはさ、私のこと、好きでいてくれてるんだよね」
「ああ。誰よりも愛してる」
「でも…結婚は、したくないんだよね」

「したくない」という部分をあえて強調して、彼に尋ねる。シリウスはまた、むっつりと黙り込んでしまった。

「うん、やっぱり変なこと訊いたみたい。ごめん。別に無理に結婚してって言いたいわけじゃないし、気にしないで。どう考えてるのかなーってちょっと聞いてみたくなっただけなの」
「────結婚はしたいよ」

シャワーでも浴びようかと席を立った瞬間、これまで口の重かったシリウスがようやく意見らしい意見を口にした。
私は振り返って、彼の表情を確認する。私の方は見ていない。気まずそうに俯いたその顔のまま、組んだ両手に顎を乗せ、唇だけで言葉を発するように呟いていた。

「結婚はしたいと思ってる。でも────できないんだ」
「どうして?」
「どうして、って…」

その時彼はようやく私の顔を見た。
その、表情ったら。

まるで泣きそうな子供だ。濡れた子犬のようにも見える。
何かに縋るような、酷く傷ついたような────10年近く一緒にいて、シリウスのこんな弱気な表情を見るのは初めてだった。

「そんなの────わかりきってるじゃないか」
「どういう意味?」
「だって────君は魔法省の役人で、僕はブラック家の長男なんだぞ!

どうしてわかってくれないのか、そんな声まで聞こえてくるようだった。

「────この間行方不明になっちゃったオーウェルさん、いるでしょ。ニーナの話じゃ、あれってレストレンジが関わってるらしいわよ」
「それって本当なの? レストレンジって言ったら、あの聖28族の────確かに例のあの人の手下って噂はよくけど、ニーナがそんなこと知ったらあの子もレストレンジに今頃殺されてるんじゃない?」
「知らないわよ。でもニーナが言い張るの。"私、ベラトリックス・レストレンジを見た"って」
「え、なに、女の方? あのブラック家の────」
「そうそう。ブラック家も例のあの人の崇拝者が多い家系じゃない。もう聖28族はダメね。クラウチ家を除いて全員腐ってると思った方が良いわ」


それはいつだったか────1年以上前の話だったような気がする。
魔法省の中の"噂話"で、「聖28族は腐ってる」とよく口にされているのを、あの頃の私は頭を痛めながら聞いていた。当然、その中にはブラック家も入っている。同世代のベラトリックスやナルシッサの名前は(どちらもシリウスの従姉妹らしいが)、嫁ぎ先が死喰い人に絡んでいるレストレンジ家とマルフォイ家ということでよく槍玉に挙げられていた。

最近ではもうそんな話を聞いたところですっかり耳も慣れ、いちいち反応するようなこともなくなっていたのだが────まさか、シリウスが今更そんなことを気にしていたなんて思いもしなかった。

「どうしてシリウスがそんなことを気にするの? あなたはだって、たまたま"ブラック"っていう名字を持ってるだけじゃない。シリウスはシリウスだよ、私には何の関係も────」
「あるんだよ。今は僕達が付き合っていることが親しい友人にしか知られていないから何の問題もないが、悪名高いブラック家の人間と君が結婚したら、魔法省はまず最初に君の身辺調査をするはずだ。わかるか、これは僕と君だけの問題じゃない。社会が、僕達の結婚を許してくれないんだ!」

彼からこんな"常識的な"言葉が出てくると思っていなかった私は、想像の斜め上から浴びせられた悲痛な訴えに、どうしても首を傾げることしかできない。

「どうしたの…? なんでシリウスが今になって"外聞を気にする"ようなことを言うの…? あなたはだって、ずっと家に反抗して、世間がどれだけあなたを悪く言おうが全部笑い飛ばしてきたじゃない。なんで今更、私が絡むだけでそんな弱腰になるの…?」
君が絡んでるからだよ」

シリウスはその時には、もう両手に顔を埋めてしまっていた。彼に限って泣いているということはないだろうが、その手は僅かに震えている。

「僕のことだけならどれだけ何を言われようが、一切気にしないさ。そんなことは慣れてる。でも────僕と結婚するっていうのは、これまでみたいに友達や恋人というあくまで"別個の人間"として付き合うのとはわけが違うんだ。家族になるっていうのは────君の名がブラックになってしまうっていうのは────」

穢れた血の私と結婚なんぞしようものなら、まずブラック家の方から勘当されることは間違いない(シリウスは既に家を出てしまったし)。
かといって、世間の目はブラック家を捨てたシリウスに1ミリも優しくしたりはしない。世間から見れば、"ブラック家"は"ブラック家"でしかないのだ。死喰い人に加担する、闇の魔法使いとしてしか見られない。

「────私まであなたのお家騒動に巻き込みたくないってこと?」

思った以上に私の声は冷たかった。

だって────今更、そんな"些細なこと"で彼が自分の望みを諦めようとしているなんて、そんなこと────これまで一度も考えたことがなかった。

「周りにどう思われていようが自分の信じるものがひとつあればそれで良いんだって、そういう考え方を教えてくれたのはあなたじゃなかった?」
「それは君が自分で出した答えだよ。僕だって"自分ひとり"の問題だったらどう思われていたって構わなかったさ。でも忌々しい自分の家柄に、君を縛りたくなんかない」
「確かに私も努力して"自分"を見つけたよ。でも道標には、いつもあなたの背中があった。私が今更そんな家柄程度のことで動じるような女だとでも思ってるの? あなたの中の私って、まだ11歳だった頃のつまんないイリス・リヴィアのままなの?」
「そうじゃない。そうじゃないけど────」
「結局それって、たいして結婚したいわけじゃないってことでしょ。それならハッキリそう言ってよ」

結婚したくないと言われることは確かに嬉しいことではないが、それならそれで良いと思っていた。
そりゃあ"家族"という名前が与えられたら嬉しいだろうなとは、リリーを見ていてよく思う。でも、別に今の生活に不満があるわけではない。私達はお互い金銭的にも生活面でも自立できているし、"一緒にいたいから一緒にいるだけ"という理由だって立派な同居の理由になると思う。

それなのにここで私がどうしても非難するような口調になってしまうのは、その理由に、まさかそんな保身に走るような────最もシリウスらしくない言葉が出てきたことだった。

────11歳だった頃のつまんない私のままだと思ってるの?
それが、つまるところ私が一番気になっていること。

いや、むしろどうしてシリウスがこの期に及んで11歳だった頃のつまんない私のようなことを言っているのかが、本気でわからない。

「そうじゃないんだ」
「ねえ、シリウス。なんだかおかしいよ。今まで散々家柄に縛られるなんてバカらしい、僕は僕だ、って私に説いてきたあなたが、どうして今になって怒られてた側の私みたいなことを言ってるの?」
「あの頃は子供だったんだ。僕は強い自我さえあれば、いつだって自由でいられると思ってた。何にも縛られない、何にも止められない、僕は僕のまま生きていけると妄信してたんだ」
「でも、そのお陰で私は自由になれた。あなただってそうだったはずでしょ?」

4年生の時、シリウスの勇気に背中を押されて成長していった私は、家を出た。
そして彼もそんな私を見て、5年生の時に家族との縁を切った。

私達は互いに影響を与え合いながら、自由を勝ち取ってきたはずだった。

「マグル生まれの君は、結局マグルの世界も家族も捨ててきただろう。それで君は自由になれた。そのことは素直に尊敬している。でも僕は結局魔法界に居続けた。そしてここにいる限り、家の名前はどうしたって僕について回る。僕ひとりが勝手に家を出たところで、世間が僕を"ブラック家の長男"という認識を改めることはないんだ。1年生の時、君が言った通りだよ、イリス。僕達…いや、僕は、ホグワーツを出た瞬間から自由を奪われる身だったんだ。いくら派手に遊んでみせたとしても、何人の死喰い人を狩ろうとも、本質的には家の名に縛られたまま────僕にはブラック家の血が流れている、と言われ続けなければならない。そして結婚をしたら、今度はその重荷を君にも背負わせることになる。もし子供が授かってしまったら、この何より憎い血が再び継がれていくことになってしまう」

言われて、1年生の時に私が彼に言い捨てた言葉を思い出す。

「わたしだってわたしのこと、理解できないよ。だってシリウス、わたしたちはまだ子どもだよ。夏になったらお母さまのところに帰らなきゃいけないし、魔法界のことを何も知らないわたしはまだこっちで生きていく術すら知らない。わたしは…ううん、わたしたちは、この学校の外を出たら、決して自由になれないんだよ。たとえ今、あなたがどれだけ自由でいるとしても。わたしたちに、"本当の自由"なんてないの」

────彼はまだ、縛られているというのか。
まだ家の呪いを断ち切れず、自分の血を疎み続けているのか。

"血"なんて、体内で作られた熱を循環させるための単なる体機能のひとつに過ぎないのに。

「シリウス」

私はあえて名前を呼び、彼の顔を上げさせた。

「あなたが何に迷って、何を嫌がっているかはわかった。でも、私達────シリウスをよく知っている人は、あなたがブラック家に"相応しくない"ことをよくわかってるのに、どうしてそれだけで満足しないの? あなたのことを何も知らない人間が、あなたをブラック家に"相応しい"と思うことに、どうしてそこまで固執するの? 誰からも受け入れられて、誰からも祝福されようなんて、それこそ昔そんなことを言った私を嘲笑った他でもないあなたが、どうして今そんなことを言うの?」

もはや私は何に対して怒っているのかわからなくなってしまいそうだった。
彼の根深い負の感情に比べたら、結婚なんてどうでも良くなってしまったのだ。

ブラック姓なんて、探せばそこら辺にいるじゃないか。家を嫌うあまり、彼は家に執着しすぎている。わざわざ自由を大声で口に出し、派手な動きを取ってみせるのは、その足にまだ家の足枷が嵌められているからだ。声に出して「僕は自由だ、家とは関係ない」と常に言い続けていないと、ブラック家という名の呪いがすぐに彼を呑み込んでしまうからだ。

「君はわかってないんだ。逃れられない血の呪いという風潮が、魔法界にどれだけ影響力を与えているのかということが」
「わかるよ。私がどれだけ穢れた血呼ばわりされてきたと思ってるの」

私が自分のことを穢れた血と呼んだ瞬間、シリウスが反射的にぴくりと指先を震わせた。

「血の呪いを断ち切る勇気も力も持っているあなたが今更そんな風に怖気づくというのなら、今度は私が────あなたのことを、弱虫だと言わなきゃいけないかもしれない。1年生の時のようにね」

これでは追い討ちをかけているようなものだということは、わかっていた。
でも、私はシリウスが本当はそんなことでへこたれるような人間でないことも、わかっていた。

友人が誤っていると思った時にそれを正す勇気を持ちなさいとは、ダンブルドア先生から言われた言葉だ。

もし例えば、これを言っているのがピーターやリリー、リーマスだったら…人並みに物を恐れ、外聞を気にし、自分を律するような人だったら、私はこうは言っていなかったことだろう。私だって、血の呪いを気にしてしまう気持ちならわかるのだ。きっと彼らにだったら、その気持ちに寄り添って「私だけでも気にしないから」と、気休めにしかならないとわかっていながら、そんな言葉をかけていただろう。事実、この間リーマスが同じような理由で"恋をすること"自体を恐れていた時、私はどうしたら彼が元気になってくれるか、少しでも前向きになってくれるか、そればかりを考えて、自分なりに励ましたつもりだった。

でも、相手がシリウスの場合、話は変わってくる。
彼は恐れも、外聞という言葉すらも知らず、頭のどこかが常に狂っているような人間だ。そんな彼が今になって"普通の大人"らしいことを言ったって、それは無理をしているようにしか見えない。

彼は「わかってない」と言うが、逆なのだ。
私は彼のことをわかっているからこそ、その言葉に違和感を抱く。
その言葉を彼が言うことによって、自分を苦しめていることに気づいてしまう。

だからそんな酷いことでも、私は────私だけでも、はっきりと言わなければならなかった。

シリウスはそんな人じゃない。
結婚や子供のことを考えてそんな風に弱気になってしまうというのなら、もう私からその話は出さないから。だから────あなたは、いつまでもあなたのままでいて。
いつも少し背伸びをして、誰よりも"現実"を知っているくせに、そんな悲惨な現実の中で楽しそうに遊ぶあなたのままでいて。

「あなたがそんな風に思ってしまうなら、もう結婚とか、子供がどうとか、そういう話はしない。そんなことより、もう一度ちゃんと考えて。あなたは、"ブラック家の長男"ではなく────聖28族の、ヴォルデモートを支持する愚かな闇の魔法使いではなく────"楽しく遊ぶ"ことが大好きな、正義と勇気に満ちた"ただのシリウス"であることを、もう一度思い出して」

私はそう言い残して、今度こそ浴室に行った。
今ここで彼の結論を待とうとは思わない。

彼はきっと、ホグワーツを卒業してからそのことをずっとどこかで考えていたのかもしれない。彼もまた────理想が現実に押し潰された末に待っている絶望を、感じていたひとりなのかもしれない。

だったらそれは、少なくとも"彼にとってだけは"誤っている迷いなのだと、私は伝えなければならないと思っていた。その末で彼が結局どんな答えを出すのかは知らない。そこで私の指摘の方が誤っていると言われたら────。

────それは、その時に考えよう。

シリウスは、居間を出て行く私に、最後まで何も言わなかった。



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