12月2週目の土曜日。
私はジェームズが教えてくれた新居の近くまで姿現しをし、10分程歩いて彼らの家へと辿り着いた。
ジェームズは「直接来て良いよ」と当たり前のように言っていたのだが、後で姿現しで予告なく訪問する時のマナーをリーマスに聞いてみたところ、「うーん…予告なくっていうか、アポなしで訪問するなら少し遠めの位置に姿現しをして、居留守を使いたい場合の猶予を作ってあげるのがマナーって言われたことがあるなあ。でも今回は日時もだいたい決まってるし、何よりジェームズが歓迎してるんだから良いんじゃない?」との答え。
私は少し迷った末、一応初めての訪問ということで、気遣いは不要とわかっていつつ、少し遠い道端に姿現しをすることにした。
ジェームズ達の家は、彼の実家からも近いところにあった。とはいえ実家があまりにも広大なので、文字で表すと"たった3軒分しか離れていない区画"になるのだが、体感的には山をひとつ越えたくらいの気持ちになる。実際、ジェームズの今の家からも実家の敷地は見えていたのだが、何せ地平線まで見渡せるほどの草原まるまる全部がご両親の敷地なのだ。見えたところでその草原の一端が限界だった。とても何かの建物なんて見えない。
彼らの新居は実家に比べればこじんまりとしていたが、それでも十分な広さを持っていた。2人で住むには広すぎやしないだろうか。見たところ2階建てのようだが、横幅だけ見ても4室分の窓が見える。ここに奥行きも追加されることを考えると、居間だけで私の今のアパートの部屋が2、3室入ってしまいそうだと思った。
玄関前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
ぱたぱたと小さな足音が聞こえ、すぐに家主はドアを開けてくれた。
「イリス! きっとあなたが最初だと思ってたわ!」
リリーが嬉しそうな顔をして私に飛びついた。
「お招きありがとう、リリー。これ、さっき焼いてみたんだ。後でみんなで食べよう」
私が手渡したのは、朝のうちに作っておいたマフィンケーキ。今日は仲間の全員が集まれると聞いていたので、12個作っておいた。就職してからは週末以外自炊を諦めているものの、それでも一人暮らしを始めた頃に比べればこういった調理技術も多少は向上していると思う。まだほんのりと温かく、良い匂いをさせているマフィンケーキの入った紙袋を見て、リリーは「わあ!」と歓声を上げた。
「私も今、ランチの準備をしてるところなの。6人分の食事を作るのなんて初めてだから、魔法を使ってもなかなか追いつかなくて…」
「あ、良かったら手伝うよ」
「お客様にそんなことをさせるわけにはいかないわ」
「お客様じゃなくて、今日は場所を借りてるだけの友達なんだから。使って」
「そう? じゃあ、ありがとう」
リリーは私を広いキッチンに案内してくれた。案の定そこはとても広く、10人くらいは悠々と過ごせるのではないかと思わせた。
「ジェームズは今買い出しに行ってるところなの。まさかのお皿が足りないってことに今日気づいてね…。私達、片づけにばかり集中しすぎて、あなた達を迎えるための準備が全くできていなかったのよ」
「えー…ごめん、だったらもっと遅い日取りを提案すれば良かったね」
「ううん。どうせ遅くなったって気づかないまま毎日が過ぎて行くだけなんだもの。早いなら早い方が良いわ」
彼女の口調は朗らかだったが、私はどことなくその言葉に「明日どうなってるかわからないし」という悲観的な未来を感じてしまった。
明日どうなってるかわからない。
────私はまだ、ラヴグズを殺してしまった日のことを鮮明に覚えていた。直接手を下したわけではないが、私の魔法の効果で彼は死んでしまったのだ。あの時唱えた「ボンバーダ・マキシマ」が、まるでその言葉そのものに呪いがかかっているかのように夢に出てくる。散乱する死の呪い。そのひとつを避け損ねて動かなくなったラヴグズ。
私は、人が死ぬ瞬間というものを初めて見た。本当にころりと、さっきまで元気良く動いていた人が動かなくなってしまう。だらんと重力に任せて床に這いつくばり、体のあちこちで脈打っているはずの血液が全く流れなくなる。
ダンブルドア先生が叫びの屋敷に来る頃には、ラヴグズは少し硬くなっていた。
もう彼はこの世にいないのだと、直感的にわかってしまうほどに。
わかっていた。わかっている。
自分がどこにいて、何をしていて、これからどうしなければならないのか。
こんな、敵ひとりの死にいちいち情緒を乱されていてはとてもやっていけない。
そんなことはわかっているのに────どうしても、私はあの時の光景を忘れられずにいた。
死を、これまでにないほど身近に感じてしまっていた。
「────どうしたの?」
キッチンで固まってしまった私を見て、リリーが怪訝そうに尋ねる。
「あ…ううん。とっても綺麗なキッチンだったからびっくりしちゃって」
「ええ、だってあなた達を初めてお招きするんだもの。こればっかりはジェームズのお尻を叩きながら2人で一生懸命掃除したのよ」
すぐにサボろうとするジェームズのお尻を、リリーは本当に叩いていたのかもしれない。そんなことを想像したらつい笑ってしまって、私の頭から一時的にラヴグズのことが抜けた。
「先に客間を案内するわ。一人部屋とシリウスと同室、どっちが良い?」
「うーん、お部屋が余ってたら一人部屋が良いな。そっちの方が落ち着く」
「オーケー。私はもっと小さい家で良いって言ったんだけど、ジェームズが…ほら、ご実家があんなに立派じゃない? だからこれでも"小さい方だ"って言って聞かないのよ。お陰様であなた達4人をいつでも別々に泊められる部屋は常に確保できるから────そうだ、あなたには日当たりが一番良い部屋を案内するわ! そこの窓からだとね、お義母さん達の素敵なお庭も見えるから、1日中いても飽きないのよ」
今日のリリーはなんだかいつにも増しておしゃべりだった。結婚式以来、いよいよ自分がジェームズのお嫁さんになった実感が芽生えたのだろうか。そんな中でも変わらない距離で付き合える私達のことを、殊更大事にしようと思ってくれているのかもしれない。
「やった、最初に着いた特権だね。ありがとう」
リリーが嬉しいなら、私も嬉しい。私は喜んでリリーの後について行き、2階の角部屋に案内してもらった。そこは────驚いた、ただのたくさんあるうちの一つの部屋なのに、まるで私が今住んでいる家の広さとほぼ同じだけの面積があるように思える。
「お手洗いとお風呂は、今通ってきた廊下の一番手前にあるわ」
「わかった、ありがとう」
ひとまず今日は一泊だけさせてもらうことになっていたので、私は荷物をベッドの脇に置くと、再びリリーと一緒にキッチンに戻った。台所には、サンドイッチだろうか…? 食パンと、それに挟んだらおいしそうなレタスやハム、卵などが置いてある。他にも既に火にかけられている鍋を、おたまが勝手にかき回していた。ミネストローネの良い匂いがする。
「あの人達、どのくらい食べると思う? これで足りるかしら」
「十分だよ」
両手でやっと持ち運べるほどの大きさの大皿に、私の背丈ほどにまで積み上げられた三角形の食パン。中身の食材も大鍋ほどのボウルにたくさん詰められているので、まず足りないということはないだろう。
「私は具材の下準備をするから、できたらそれをパンに挟んでいってもらえる?」
「オーケー」
リリーと一緒にサンドイッチの仕上げをしているうちに、呼び鈴が鳴らされる音が聞こえた。
「あら、次の訪問者が来たわね。誰かしら」
「うーん…リーマスと見た」
「じゃあ私はピーターだと予想するわ。勝った方がお互いのデザートのマフィン、1つ譲渡って条件ね」
あのリリーがお遊び程度とはいえ賭け事を持ち掛けてくるなんて、随分とジェームズに影響されたものだな、と私はここでも少しおかしい気持ちになってしまった。
リリーがぱたぱたとまた忙しなく玄関に向かう。ドアを開けた時、「よう」と挨拶をしたのは────シリウスの声だった。残念、私達の予想はどちらも外れてしまった。
「あら、意外と早かったのね」
「そりゃまあ、プロングズが早く来いってうるさかったからな。ほらこれ、ここに来る途中で買って来たんだ。どうせイリスは手作りのお菓子でも持って来てるだろ? この紅茶と一緒にアフタヌーンティーでも楽しもう」
私の習性をよく理解している彼は、どうやらお菓子に合う紅茶の茶葉を持ってきてくれたらしい。リリーについてキッチンに入ってきたシリウスは、私の顔を見て────なぜか、少しだけ眉を顰めた。
「────何か?」
不審がられることなんて何もしていないつもりだったのだが、彼の顔がどこか私を疑う────というより心配しているように見えて、私は思わずふいと顔を背けてしまった。
後ろめたいことなら、確かにある。ラヴグズを殺してしまったことだ。しかしなんとかそのことを忘れ、気丈に振る舞おうとしている私の姿を一目見ただけでそんなことまで見抜けるだろうか?
「いや…なんでもないよ」
シリウスは結婚式の後の週末に一度きり私の家を訪ねてくれただけで、それ以来ずっと会えずにいた。彼はヤックスリーを追う任務を続けつつ、その自由な身を生かして積極的に"ならず者"が集まるような場所に入り込むよう指示を受けていたのだ。彼の奔放で秩序に縛られない在り方は、そんなならず者達からも評判が良かったようで、彼は彼なりに守るべき倫理観のラインを守りながらも、闇の魔術に関わるグレーゾーンをうまく渡り歩き不穏な噂を集めていた。
だから、会うのは実質これが3ヶ月半ぶりのことになる。シリウスはまた一段と大人びたようだった。顔の形はあまり変わっていないのだが、情報を得たことで社会情勢をより細かく把握できるようになったからだろうか────その表情はどこか達観しており、19歳というには少しばかり過ぎた憂いを帯びているように見えた。それでも、そんなどこか疲れた表情ですら、元より厭世的な彼の顔によく似合っていて、魅力的に見えてしまう。
「イリスはランチ作りの手伝いか? 僕も何か手伝うよ」
「ありがとう、シリウス。多分そろそろジェームズが帰って来ると思うから、買って来た食器を一緒に洗っておいてくれる?」
「わかった。その前に少しだけ家を探検してきても良いか?」
「それはご自由にしていただいて構わないけど…ジェームズの部屋にだけは勝手に入ったら怒られるかもよ」
「我々は一心同体の身なんだ、今更ちょろっと家探ししたところで怒れやしないよ」
そう言うと、シリウスはひとりで2階に上がって行ってしまった。
彼が戻って来る前に、リーマスとピーターがそう時間を置かずにやってくる。
彼らのお土産はそれぞれワインとチーズだった。
リーマスとピーターにも客室を案内し終えた頃、ジェームズが戻って来る。ちょうど探検を終えたらしいシリウスも階下に降りていたので、お皿洗いを2人に任せ、私達は最後の仕上げに取り掛かっていた。
魔法で洗ったお皿を乾かすと、6枚分の取り皿をテーブルへ。両腕いっぱいに広げた大皿に乗せたサンドイッチをテーブルの中央に乗せると、可愛らしいブルーグリーンの陶磁器のカップに紅茶を淹れる。
リリーの作るサンドイッチの味は、ユーフェミアさんのサンドイッチととてもよく似た味だった。
「おいしい!」
「ありがとう、実はお義母さんから色々教わっていたの」
「やっぱり? この卵の味付け、ユーフェミアさんのと同じだなって思ってたの」
「リリーの料理の腕、すっごい上がってるんだ。だから今日の夕飯は僕が近所の森にいる鹿を捌いてジビエにしようって言ったんだけど────」
「そんなプロみたいなことがいきなりできるわけじゃないでしょ」
…それはある種共食いになるのでは…と思ったのは私だけではあるまい。
「うん…そういうわけでリリーの猛反対に遭って、ビーフシチューで手を打つことにした。もちろん僕が手伝うのが前提でね」
「ちなみにその肉は…」
「あ、大丈夫。お肉屋さんで買った」
一同、ほっと胸を撫でおろす。平然としているのはリリーだけだった。
「…なんだかリリーもすっかり肝が据わったねえ」
そんな様子を見ていてだんだんおかしくなってきた私がそう言うと、リリーは「いちいち驚いてたら一緒に生活なんてとてもしてられないわ」と肩をすくめた。
その後、おやつに私の焼いてきたマフィンを食べて、裏手に広がる庭に6人で出た。
「わあ、ここって…!」
初めて来たはずなのに、どこか見たことのある風景に私は胸が躍った。
そこはまるで、卒業前に最後に作った秘密の花園のようだった。
広さも同じくらいだ。周りを森に囲まれている中、ぽっかりと空いたスペースに名前のない花が咲き乱れている。ご丁寧に、家と庭をつなぐ境界線には円形の花で彩られたアーチが立っていた。
「庭をどうデザインしようか相談したら、リリーがぜひあの秘密基地みたいにしたいって言ったんだ」
「私、あんな風に隠し通路とか使うの初めてだったの。今までは秘密を暴くなんてナンセンスだって思ってたけど、暴くどころかまさか自分で秘密を"創っちゃう"なんて思ってもいなくて。感動しちゃった」
あの秘密基地と唯一違うところがあるとすれば、そこには一角の花壇ができているところだった。小さな柵からは、何かの苗が植えられていた。
「あれはユリだよ。夏が近づいたら咲く予定なんだ」
私の視線に気づいたジェームズが教えてくれた。
「あの秘密基地は僕ら全員のものだけど、この庭は僕とリリーのものだからね。彼女にぴったりな花を植えたかったんだ」
そんなところからでさえ、ジェームズの愛を感じる。まだ蕾にすらなっていないそのユリの赤ちゃんを、ジェームズはまるで自分の子供のように愛おしそうに眺めていた。
…新婚生活はうまくいっているみたいで、良かった。
それからは庭や村の周りを散歩しながら時間を潰し、夜には言っていた通りビーフシチューをいただいた。私とリリーはホグワーツにいた頃、夏休みを利用して一通りの料理を特訓していたので連携の面も含めててきぱきと作業できたのだが、「もちろん手伝う」と張り切っていたジェームズは────正直言って、邪魔だった。
「リリー、スパイスがないよ?」
「スパイス棚は昨日あなたが向こう側の台の上に移動させてたでしょ!」
「リリー、このお肉ってどのくらいの大きさで切れば良いかなあ。もう面倒くさいから塊ごと茹でて良い?」
「お肉は──── 一口大に切って────ください!」
わんわん怒られながら、それでもジェームズはめげなかった。積極的に手伝いたいと思ってくれているのだろう、その気持ちはリリーにも伝わっているはずで、彼女も彼がとんちんかんなことを言う度に怒っていたものの、決して邪険に扱ったりキッチンを放り出したりするようなことはしなかった。
そうして、9割方私とリリーの共同作業でできあがったビーフシチューを食べる。
そこでも花が咲くのは、やはり学生時代の話題だった。
なんだか日に日にピーターが憔悴しているように見えたので────今日は、あの頃どれだけピーターが縁の下を支えてくれていたかという話にシフトしがちだった。
「お前ってここぞっていう時はやるよなあ」
「覚えてる、覚えてる。3年生の時、スネイプを出し抜くために混乱薬と歌うたいの呪いを同時にかけられる役を引き受けた時は正直たまげたよ。僕なら絶対嫌だったからな」
「それに、去年も頑張ってたよね。レギュラスからエメラルドの鍵をどうやって盗むか考えてくれたのはピーターだった」
レギュラスの名前を聞いてズキンと心が痛んだが、私はそんな本能を無視したままピーターを褒め続けた。
「ほんと。ホグワーツの中で誰が死喰い人に加担してるか調べる時も、ピーターが率先してやってくれてたもんね」
「そんなことないよ…。僕なんか、いつも皆みたいに格好良いことができるわけじゃないから…。そういう地味なことくらいしかできなくて…」
「ワームテール、世界中の人間が全員プロングズみたいなのだったら地球は3秒で滅びるぞ」
シリウスの言葉に全員が笑う。ピーターも、おずおずと笑っていた。
リーマスの持ってきてくれたワインが空く頃には、22時になっていた。
「そろそろ寝ましょう。私達、毎週日曜日はお義母さん達のところに顔を出してるの。良かったら一緒に行かない?」
「本当なら義理の娘息子が会いに行くってだけの話なのに、なぜかほぼ毎回パッドフットもいるんだよなあ。まあ最近は忙しいみたいでぱったり来なくなったけど」
「僕は二番目の息子みたいなものだからな」
リリーの提案がとても素晴らしいものに思えたので、私達は全員がそれを承諾し、その日はお開きとなった。シャワーを最初に使わせてもらい、案内されていた客間のベッドに横になる。
明日は久々にポッター夫妻に会えるんだ。あの2人と会うのも結婚式以来だ、元気なままでいてくれたら良いな。
そんなことを考えている時、部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
リリーだろうか?
「どうぞ」
声を掛けると、ドアが開く。そこにいたのは────シリウスだった。
「シリウス。どうかした?」
「少し話がしたいんだ。今、良いか?」
「良いけど…」
なんだろう。シリウスからわざわざ2人きりで話されるような内容を一通り頭の中で考えてみて────もしかしたら、シリウスも私に結婚しようって言ってくれるのかな、なんて淡い期待が首をもたげた。
「どうしたの、改まって」
こんなに気になるなら自分から言ってしまえば良いじゃないかと思うのだが、私はずっとリーマスの「シリウスが結婚を望んでいない」という言葉が引っかかっていて、本人にその真意を確かめられずにいた。
その話だったら、私にとっても一歩前進するためにとても大事な話だ。私は身を起こすとベッドの端に腰掛け、とんとんと隣に座るよう手で叩いて促した。
素直に座ったシリウスは、少しだけ迷うような顔で視線を泳がせると────最終的に、私の目をまっすぐに見た。
「────この間、君がラヴグズを倒したって聞いたんだ」
そう言われた瞬間、私の希望はあっさりと霞んで消えてしまい、代わりに最後に唱えた「ボンバーダ・マキシマ」が再び頭に蘇った。
なんだ…そっちの話か。よりによって、私が人を殺してしまった話なのか。
ずんと一気に重たくなった胃を抱え、「そうだよ」と素っ気なく返す。
「ダンブルドアから、詳しい話を聞いた。ラヴグズが放った死の呪いを、君は粉砕し────四方に散った死の呪いのひとつがあいつに当たって死んだって」
「そうだよ」
同じ答えを繰り返す。必要以上に冷たい言い方になっていることには気づいていたが、私は楽しい時間によって忘れかけていた彼の死に顔をまた思い出し、名前の付けがたい感情に苛まれていた。
私が殺したわけじゃない。でもあの人は、私のせいで死んだ。
戦いである以上命のやり取りはあって当然だ。でも私は、今まで誰かを捕まえてダンブルドア先生や魔法省の司法管轄に引き渡すことはあっても、自分の手でその命を奪ったことなんてなかった。
「僕は────心配だったんだ」
「心配?」
「誰かが死ぬのを見るのは初めてだったろ。もちろん君が手を下したわけじゃないけど────ダンブルドアからその話を聞いた時、君が動揺してるんじゃないかってずっと心配してた。それで今日君の顔を見た時確信したんだ。やっぱりあの日の出来事が君の心にずっと残ってるんじゃないかって」
私の抱えていたものが、シリウスの言葉を聞いた耳の穴からまるでチーズのようにとろとろと流れ出していくようだった。
かたかたと、無意識に手が震えている。
「────そうだよ」
ああ、この人はいつだって────私のことをわかってくれている。きっとそれは、私の弱さを誰よりも知っているから。その上で、私の脆すぎる心を誰よりも不安に思っているから。
これはシリウスとリリーの最も異なっている点だった。リリーだって私のことをわかってくれているが、彼女は私の弱さを"弱い"と思っていなかった。私の脆さを"脆い"と思っていなかった。彼女は、私の弱さも脆さも全て裏返して強さになる武器だと信じ、背中を押してくれる人だった。
どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。
ただ今の私には────弱さを"弱さ"として認め、脆さを"脆さ"として扱ってくれるこの人が必要だった。
「戦場に行くっていうのはそういうことってわかってるはずだった。だって私達はいずれ、ヴォルデモートを殺さなきゃいけない。そして私はそれを誰かに任せようなんて微塵も思ってないんだ。その時点で、私が必ず最後には"誰か"を殺さなきゃいけないことは決まってる。そんなことは、わかってる。でも────」
「仕方ないさ。誰だって、初めて人が死ぬところを見れば動揺するに決まってる」
「でも、こんなことでいちいち動揺してたら────今回はたまたま1人が相手だったからすぐに終わったけど、もし周りにもっとたくさんの死喰い人がいたら、私があそこで膝をついた瞬間…今度は私が殺される」
「それがわかってれば大丈夫だよ」
シリウスの声は優しかった。しかし私はそれを聞いたところで「そうか、大丈夫なのか」ととても安心などできなかった。
私の言葉は全部、「そんなこと始めからわかってる」という前提の上で出てくるものだ。わかっていたはずなのに、私はあそこで毅然とした態度でその死体と向き合えなかった。人の命が失われるということに、自分でも驚くほどショックを受けていたのだ。
「でも────私達は、誰かの幸せな生活を────人の命を守るために戦ってるんだよ。ラヴグズは確かに敵だったけど、でも、昼間には魔法省の神秘部として働いてる普通の人間だった。家族だっているし、友人だっていたんだよ。それなのに、私は────ラヴグズの"普通の生活"まで奪ってしまった」
彼は暫く黙って私の言葉を反芻しているようだった。そして、おもむろに口を開く。
「────僕はどうやら、君をまだ日和見だって揶揄わないといけないらしいな」
「……」
わかってる。こんなの、全部綺麗事だってこと。
これは戦争なのだ。誰の命も奪わずに、既に思想が闇に染まりきった魔法使いを浄化するなんて、それこそ神様のかける魔法が存在しない限り無理なのだろう。
私達は言葉の上では「闇の魔法使いの動きを止める」なんて柔らかい表現を使っているが、それに武力を持って歯向かう魔法使いには、もはや説得や一時的な拘束じゃ通用しない。結局のところ、命を奪わないことには何も進まないのだ。
「まあ、自分でもわかってるみたいだから言いはしないけど」
「…言ってたじゃん」
「今のは事実確認だよ。ちゃんと認識が共有できてるかって」
屁理屈を言うシリウスを睨む私。
「わかってるよ、君が真剣に悩んでるのは。たとえ自分の矜持を守るためであっても人の命を奪うことが許されないと思ってるんだろ」
「……」
誰かの命を奪うなんていう勝手な真似が私に許されるわけがない。
自殺志願者にどうこう言うという話とはわけが違うのだ。
「────でも、君もそれこそわかってるんだろ? 実感としては受け入れられなくても────頭では、"これが戦争で、命の奪い合い"になるってことは」
「…頭で、だけだよ」
「仕方ないと思うな、最初のうちは。話し合いで解決するなら、とっくにヴォルデモートはホグワーツの校長室でダンブルドアと楽しくお茶を飲んでるはずなんだ。良いか、イリス。"明確な殺意を持って誰かを殺しに行く"のと、"罪のない者が大量に殺戮されることを防ぐためにたったひとりの殺人鬼を殺す"ことじゃ、意味が明確に違うんだ」
────そういえば、ダンブルドア先生も同じようなことを言っていたっけ。
「"誰かを殺そうとして殺す者"と、"誰かを守るために死なせてしまった者"、両者の結果は同じでも、その心に根差す信念は全く違う…」
先生に言われた言葉をそっと呟くと、シリウスが「僕よりよっぽど簡潔にまとまった結論が出てるじゃないか」と言った。
「ううん。今のはダンブルドア先生に言われたこと」
「あー…成程ね。つまりそういうことだよ。誰かを殺したくて仕方ない死喰い人と、罪のない大勢の人を救うために死喰い人を殺す僕達、同じことをしたところで見える未来は全く逆なんだ」
「……」
うまい言葉が返せない私の手に、シリウスは自分の手を重ねた。
「殺人を正当化するわけじゃない。でもこれは、"戦う"と決めた以上────"戦う"しか道が残されていない以上、仕方のないことなんだ。イリス、僕達が本当に持つべき"覚悟"とは、"自分がいつ死ぬとも限らない"ことへの覚悟じゃない。"戦いの中で誰かを殺すことになろうとも、自分の信じた未来を見失わずに突き進む"覚悟なんだ」
────誰かを殺しても、自分を信じる覚悟────。
私はその時初めてシリウスの顔を見上げた。その顔はとても優しくて、まるで幼い子供をあやしている父親のようにも見えた。
「人を殺すことで背負う罪は重いと思うよ、どんな相手であれ。君が言った通り、ラヴグズにも家族や友人がいただろうし、そうなると君はそいつらから見たら永遠に"自分の大切な人"を殺した大罪人だ。でも、僕らはその罪を背負わなきゃいけない。どれだけ非難されようと、どれだけ悪人扱いされようと、僕らは僕らの正義のために戦い続けなきゃいけないんだ」
────自分でも、いつか思ったことがあった。
誰かにとっての正義は悪となり、誰かにとっての悪は正義になるのだと。
人は誰でも善性と悪性を併せ持っており、どちらの方がより前面に出るかによって、友好や対立が生まれるのだと。
「…そっか…。私、覚悟の仕方がちょっとズレてたんだ…」
私は、自分が死んだらとか、友人が危険に晒されたらとか、そんな"自分のリスク"ばかりを覚悟してきていた。
でも、本当に覚悟すべきだったのは────"何があろうと正義を貫く"という、もっと根本的なことだった。たとえ敵を殺そうとも。たとえ自分の正義は悪だと糾弾されても。
それでも、信じたもののために、私は犠牲を厭わないと────そう、腹を決めていなければならかったのだ。
「死喰い人に同情してるわけじゃないことはわかってる。君はただ、"人を殺したことに困惑する"っていう、真っ当な人間なら当たり前の状況に陥ってるだけなんだ。だから君の"正義"自体は、今回のことがあったところできっと揺らがないと信じてる。でももし────戦うことがあまりにも辛いなら、騎士団を抜けることを考えても良いと思う。今、あいつらはどんどん勢力を増している。君の言う通り、今度は5人10人と束になって君を襲うことだってあるかもしれない。それら全部を殺した時────君の心が平静を保てるかどうか…僕はそれが心配だ」
彼の口調に、私を"弱虫"と揶揄するような響きはなかった。きっと純粋に心配してくれているんだろう。だって────そんな半端な気持ちで戦場に出れば、私はきっといずれ必ず死ぬだろうから。自分が死ぬだけじゃ済まないで、誰かのことまで巻き込んでしまうかもしれない。
「私、は────」
できるだろうか。今度もし、あんな風に死喰い人と対面した時、容赦なく彼らを殺しに行けるだろうか。
答えに迷い、ただ握られたシリウスの手の温もりに身を任せてしまう私。
しかし、その時だった。
階下から、何かが爆発するような大きな音が突然轟いた。
「!?」
私とシリウスは揃ってぱっと部屋を出て、階段の踊り場まで降りて下の様子を窺った。
ジェームズがまた何かの不発弾を誤って爆発させただけなら良いのだが────直感的に、そんな雰囲気ではないことを悟る。
「やっぱりここに集まってたか! 騎士団の若造ども!」
ガサガサとした男の声が、歓喜に打ち震えていた。
────知らない声だ。
「あの方が探し求めていた、ダンブルドアの駒! さあ、さあ、あの方をお呼びしよう! あの方はダンブルドアを殺すための情報を欲していらっしゃる。今ここで全員噛み殺したって良いんだが────まあ良い、あの方は俺を自由にしてくださる。こうして駒を集めてくれば金だってふんだんにくださるんだ。目先の若造4人より、手に入れた金で良いもんたらふく食ってまた街に繰り出せば良い、それだけだ」
その声を最後に、バシッという姿くらましの音が聞こえた。
男の声から察するに、まだ4人は生きているはずだ。しかし、彼らの声は一切聞こえなかった。
私とシリウスは慌てて居間に降り、そこで信じられない光景を目の当たりにした。
────私は一瞬、全員が死んでしまったのかという恐怖で硬直してしまった。しかしシリウスが私の肩をガシッと抱き、「よく見ろ。失神させられているだけだ」と正気を取り戻してくれる。
4人はそれぞれバラバラの方向を向いて床に転がされていた。杖はない────まさか、さっきの男に取られてしまったのだろうか?
「エネルベート!」
私とシリウスは、手分けして4人に活性化呪文をかけた。リリー、ジェームズ、ピーターが重たそうに体を起こし、痛む頭を押さえている中で、リーマスだけが失神していたのが嘘のように跳ね起き、ジャケットの内ポケットから杖を出して辺りを警戒しだした。
「もう遅いよ。死喰い人はもう行った────だが、じきヴォルデモートを連れてくる」
シリウスの声に、リリーがはっと息を呑む。ジェームズはどうやら杖自体を隠していたらしい。どこからともなく杖を取り出し、臨戦態勢を取った。ピーターはジェームズから杖を返してもらっている。
そんな中でも、リーマスだけが異常なまでに目を血走らせ、いつどこから敵が来ても応戦できるというように腰を低く構えていた。
「────何があった?」
それぞれ混乱しているとしかいえない状況の中、口を開いたのはリーマスだった。
「グレイバックだ」
その言葉に、私達全員の背に冷たいものが駆け上がった。
フェンリール・グレイバック。
人狼の中でも最も残酷とされるもの。できるだけ多くの人間、特に子供を噛んで人狼にし、人狼による軍隊まで組織しようと目論んでいるなどという噂も聞いたことがある。
正式な死喰い人というよりは、ヴォルデモートがその行動を容認しているために、雇われるような形でヴォルデモートに加担しているといった方が正確だろうか。
「あいつは────僕を噛んだ人狼だ」
「!」
リーマスが、歯の隙間から漏れ出すような声でシューと囁いた。怒りと憎しみに満ちた彼の顔は、まだまるでそこにグレイバックがいるかのように、玄関口を睨みつけている。
リーマスを噛んだ、人狼。まさかそれがグレイバックだったなんて────。
当然、私はグレイバックと直接会ったことはない。しかし人狼の多くは、満月の晩に自らを制御できなくなり、周りの人間を噛んでしまう────そんな悲しい連鎖の末に生まれる者が多いと聞いている。そんな中で唯一、満月だろうがなんだろうがとにかく手当たり次第に噛みついて自分の仲間を増やそうと、そんな不幸を"趣味"にしているのがグレイバックなのだそうだ。
リーマスは、悲しい事故の末に人狼にされたのではなかった。
彼は明確な悪意をもって、望まない姿にされたのだ。
「でも、どうしてここが────?」
「あいつらはあいつらで僕のことを追ってたんじゃないかな。リリーがシャワーを浴びに行こうと立ち上がった瞬間、家の前に姿現しをして玄関を破壊したんだ」
そう言うジェームズが指さした玄関口は、爆弾でも放り込まれたかのようにボロボロに崩されていた。
「何事かと思って振り返った時には遅かった。グレイバックは自分の杖でリリーとリーマスを一緒に失神させて、次に僕とピーターにも杖を向けてきた。不意打ちだったんだ。戦える状況じゃないと判断して、上にいる君達に託して僕はせめて武器だけでも隠そうとピーターの杖を奪って目に見えないようにした。────ごめん、君達に危険な奴らを押し付けようとしたこと、謝るよ」
「いや、そんなことは良い。それよりグレイバックはヴォルデモートを連れてくると言ってたな。時間がないぞ、ひとまず逃げよう」
冷静なシリウスの言葉に誰もが頷いた────リーマスを、除いて。
「皆は安全なところへ避難してくれ。僕は戦う」
「何言ってるんだよ、グレイバックに恨みがあるのはわかるが、相手はヴォルデモートも引き連れて戻って来るんだぞ。君一人でどうにかなることじゃない」
「でも、あれだけ探したのに見つからなかった仇敵が今ここに現れようとしてるんだ! みすみす逃してたまるか!」
────リーマスがこんな風に声を荒げるのは珍しかった。
孤独だった彼の幼少期を思い────そうさせた"仇敵"に、彼がこの18年間どれだけの憎しみを募らせていたのだろうと、心が痛む。
しかし、だからといって彼1人をここに置いて行くわけにはいかなかった。
「リーマス、冷静に現状を把握して。あなたが今しようとしてるのは、ただの自爆だよ」
「自爆だろうがなんだろうが、道連れにできるならなんだってするさ!」
私の言葉でさえ、激昂しているリーマスには届かないようだった。いくら友人に恵まれていても、ホグワーツに入学したお陰でほとんど他の子供と変わらない生活を送れていても、彼の中の孤独感は決して消えなかったのだろう。ここに来て自己犠牲的な発言を厭わない彼の内側に、私は底知れない寂しさを感じ取った。
────どう説得しても聞くつもりはないようだ。
それなら。
私は躊躇うことなく、小指の爪を強く押した。すると、私の爪が赤く光り出す。ジェームズが首から掛けている懐中時計も、リリーが胸に挿しているペンも、シリウスのピアスも、同時に赤い光を放った。
「イリス!?」
信じられないと言った様子でシリウスが私を呼んだ。
「逃げないっていうつもりなのか、君まで!?」
「どう説得してもリーマスを連れて行くことができないなら、こうするしかないでしょ。援軍を呼んで、"戦いの場"だけは用意する。でもその上でこっちが劣勢だと判断したら、すぐに撤退するから。それで良い?」
リーマスはちらりと私を見ただけで、答えなかった。
「君達は逃げれば良い」
「そういうわけにはいかないでしょ」
今までずっと、私達は一緒だった。彼が狼人間だと知った後だって、ここにいる男の子達は"自分達が動物もどきになる"なんて常軌を逸した行動で彼をひとりにはしなかった。
私もリーマスの尊厳を守るためにいつだって全力を尽くしてきたし、リリーなんて事情も知らないのに私達のあらゆる計画に協力してくれた。
どんな時だって、私達は誰のことも見捨てたりなんてしなかった。
それが最も強大な敵を前にして、どうして今更ひとりぼっちになどできようか。
「────仕方ないな、僕らはずっと一蓮托生だったし。たまにはムーニーの我儘も聞いてやろう」
私に賛同したのはジェームズだった。まるでリーマスが思いついた悪戯を実行しようと言わんばかりの軽い口調で、彼の背中をポンポンと叩く。
「猶予は今フォクシーが言った通り、援軍が来てこっちの有利を確信できる間だけだ。本来なら僕もこの時点で逃げた方が良いと思ってる。でも、逆に考えれば敵の大将をルーキーだけで仕留めるチャンスでもある。ちょっとくらいの冒険なら、むしろ僕は歓迎だね」
「ジェームズ…」
あまりにも気負わない調子のジェームズを見て正気を取り戻したのか、腰を落としていたリーマスが体勢を楽にして立った。それから初めて私達の存在に気づいたかのように、1人ひとりの顔を見回す。
「────みんな、ごめん」
「まあ、考えてみればムーニーが自分からあーだこーだ言い出すことってほとんどなかったからな。少しくらいなら付き合ってやっても良い」
「まったく…今のうちに傷薬を持っておかなきゃ」
ピーターだけが、何も言えずにガタガタと震えていた。
「ピーター、大丈夫? 怖かったから、先に安全なところに逃げてて」
あまりにもその姿が哀れに見えてしまったので、私はピーターにそっと声をかける。しかし彼は黙ってぷるぷると首を振った。言葉が出ないだけで、彼も彼なりに勇気を出そうとしているらしい。
そして────待つこと15秒。
バシッ!
地獄の入口の敷居を通ってくる音が、聞こえた。
防御魔法の打ち消されているジェームズの家に、直接姿現ししてみせたグレイバックとヴォルデモート。ヴォルデモートの姿を見るのはこれが2回目だ(ジェームズとリリーからすれば3回目だが)。今も変わらず、綺麗な顔立ちとはあまりにチグハグとしか思えない残忍な表情が浮かんでいる。赤い瞳、振り乱された髪、いやらしく唇はめくれ、牙のような歯が覗いている。
「騎士団員が6人か────悪くない」
普通なら、たとえ学校を卒業したばかりの未熟な魔法使いとはいえ6人も揃っていれば少しは自分の劣勢を感じそうなものなのに────ヴォルデモートはむしろこの機会に騎士団の1/4を一網打尽にできることが嬉しくて仕方ないというように笑っていた。
何度見ても、この顔は見るだけで吐き気がする。顔のつくりと表情があまりにもアンバランスすぎるのだ。気品あるその姿と仕草の中に、獣でさえ恐れて逃げ出しそうな異形の魔物のような気配を感じる。
そして────彼が今ここにいるということは、レギュラスはやはり────。
最初に彼を見た時、私は理性で抑えきれない本能による恐怖を感じた。きっとこの人は他人の負の感情をコントロールできるのだろうとすら思った。
しかし────今はどうだろう。その蛇を思わせる顔を見ていると、いつの間にか忘れていたはずの怒りの火が心に灯るのだ。「闇の帝王を滅ぼしに行く」と言ったあの子の顔が────兄を疎んでいながら、「ちょっとした冒険をする時、それを共有できる相手がいないとつまらない」と、その兄とよく似たようなことを言って笑っていたあの子の潤んだ目が、私にあの日の感情を思い出せとしきりに言い聞かせる。
レギュラスは敵だった。しかし、ホグワーツにいた頃の"レギュラス"と"イリス"は、ただ思想が噛み合わないだけの────ただの、"ちょっと頭を回すことが好きな似た者同士"だったのだ。
こんなことを言ったら怒られるどころか軽蔑され、あらぬ疑いをかけられないと思ったので誰にも言ったことはなかったが────私はあの日、レギュラスの意志を継いだと思っていた。
彼がヴォルデモートの"一部"しか滅ぼせないというのなら、私がきっと彼の全てを滅ぼしてみせる。
目の前に五体満足で立っているヴォルデモートを見て、私はグレイバックなど視界に入らなくなってしまうほど彼に激しい怒りを覚えていた。
「僕達が本当に持つべき"覚悟"とは、"自分がいつ死ぬとも限らない"ことへの覚悟じゃない。"戦いの中で誰かを殺すことになろうとも、自分の信じた未来を見失わずに突き進む"覚悟なんだ」
迷ったあの時の答えは、存外早くに私を導いてくれた。
そうだ。
私はこの人間のために多くの人が命を落とした現実を、もっと真正面から受け止めなければならない。
だって私があの場でラヴグズに情けをかけて逃がしていたらどうなった? 命の重みなんて計るつもりはないが、私が"敵"として認知している1人の人間が、私が"守るべき存在"としている大勢の人間を脅威に晒してしまうことになる。
私がここに来たのは、安全地帯で人々を避難させ、シェルターに閉じ込めるためじゃない。
私は、たとえ命を奪うことになろうとも────人々が安心して暮らせる"今まで通り"の世界を取り返すために戦っている。そこに、迷いがあってはならない。
私の緊急召集は確かに発動したはずだったが、援軍は来なかった。
それならば仕方ない、ジェームズは「有利な状況を確保できるまで」と言ったが────いずれ誰かがこの男を殺さなければならないというのなら、私は今ここで、自らその任を負うつもりでいた。
ヴォルデモートはまず手近にいたリーマスに杖を向けた。
「アバダ────」
「エクスペリアーム────」
死の呪いを放とうとしたところで、シリウスが援護でヴォルデモートの杖を奪おうとする。しかしヴォルデモートはすぐその動きに気づくと死の呪いを唱えきる前に杖先を向け、シリウスの魔法を跳ね返した。
その間にグレイバックがリリー向かって飛び掛かった。
「フリペンド!」
リリーは容赦なくグレイバックに射撃呪文を唱え、彼を後方へ吹っ飛ばした。
「リーマス!」
彼女は即座にリーマスを呼んだ。これはリーマスの戦いだと────厳しくも、リーマス自身が望んでやまなかった戦場を用意するかのように。
「私が援護する! あなたは攻撃に徹して!」
「ありがとう、リリー!」
リーマスがヴォルデモートの射程圏内から外れ、グレイバックと対峙した。
心配がないといえば嘘になるが、生憎そちらの方を気にしている暇はない。私、シリウス、ジェームズ、そしてピーターが揃ってヴォルデモートと相対した。
「シリウスとジェームズは────」
「言われなくとも!」
「オーケー! ピーター、私達は防御に徹してあの無鉄砲2人を守るよ!」
「うっ、うん! わわわ、わかった!」
ピーターの怯えようは異常だった。彼がこれまでヴォルデモートと会ったという報告は上がっていないので、彼が口を閉ざしていない限り、彼とヴォルデモートが出会うのは今日が初めてということになる。
そりゃあ、怖くもなるだろう。
でも、怖がっている暇はないのだ。そして、その恐怖に付け入るのが、ヴォルデモートなのだから、尚更膝をついている暇はない。
ピーターがまだ杖すらまともに構えられていないうちから、シリウスとジェームズがばっとヴォルデモートの前後を挟む。
「ラカーナム・インフラマーレイ!」
「ヴェンタス!」
シリウスが真っ赤な炎を吹き出し、ジェームズの風がそれを煽ってヴォルデモートを火の渦に巻き込む。
しかしヴォルデモートは即座に自分の体から濁流を噴出させてみせた。正確には杖先からその水は流れ出ていたのだが、あまりの勢いにまるで体全体が散水ホースになったかのようだった。シリウスの出した炎は一瞬で沈静化し、ヴォルデモートに火傷ひとつ負わせられていない。
「インペディメンタ!」
「フリペンド!」
────シリウスとジェームズの連携は息を呑むほどに鮮やかだった。何かサインを出しているわけでもないのに、同時に互いの魔法効果を高める呪文を素早く繰り出すのだ。さすが8年以上相棒として一緒にいるだけある、とつい目の前の緊迫した状況を忘れるほど、私はジェームズがヴォルデモートの動きを妨害する呪いをかけた直後にシリウスが射撃呪文を放つ様に魅入ってしまった。
しかし。
「危ない!」
ヴォルデモートは銀色の閃光でジェームズの妨害呪文を受け止めると、杖先の光を繋いだまま一歩横向きに後ずさり、後ろから放たれたシリウスの射撃呪文にその繋ぎ目がちょうどぶつかるよう杖をうまく操作した。3つの魔法が交差した瞬間、空間の方が耐えきれなくなったというように大爆発を起こす。
「ピーターはジェームズを!」
咄嗟にピーターに指示を出し、私はシリウスを守るべく走り出す。
盾の魔法では、とても間に合わない。魔法を跳ね返された反動でまだ動けていない様子のシリウスに横から飛びつくと、そのまま床に押し倒した。
爆発源がある方の腕────右腕が、熱く裂けるのを感じた。
私はすぐに体勢を立て直すと、「プロテゴ!」と改めて盾の魔法を唱える。その判断は間違っていなかったようだ。爆発して視界が奪われたその状況を利用し、粉塵が舞う中でどう狙いを定めたのか、ちょうど私とシリウスが倒れ込んだちょうどその位置に緑色の死の呪いが放たれたところだった。
「イリス、そのまま盾を出していてくれ!」
「わかった!」
私は魔法の威力を強め、盾の効果範囲を広げた。シリウスがその隙間から杖腕を覗かせ、ヴォルデモートに再び呪いをかける。
「エクスペリアームス!」
しかし、その呪いは当たらなかった。ヴォルデモートは優雅な動きで大きな一歩を横に踏み、彼の呪いを避ける。そしてニヤリと不気味に笑うと、「レダクト!」と唱え────私の盾を、粉砕した。
「っ!」
マズい。
状況は明らかにこちらが不利だ。
援軍は、まだ来ないのか────!
もはやこうなると自分の力不足を嘆いている暇もない。私達が弱いことは事実であり、たったの4人ではこの凶悪な魔法使いを倒すことはできないのだと悟る外なかった。
だったら、もっと強くなれるそれまでは、どうか────どうか、助けて。
私の願いは虚しく、この広い家を訪れてくれる味方はいつまで経っても現れなかった。
シリウスはそれでも顔を上げ、何度もヴォルデモートに呪いをかけ続けていた。反対側では、彼にぴったり息を合わせたジェームズがシリウスの呪いに相乗効果をもたらす呪いを重ね掛けしている。
それでもヴォルデモートにそれが効くことはなかった。ジェームズの家にある家具を全て宙に浮かし、あるものは呪いの盾として、そしてあるものは私達へまっすぐ凶器となって飛び掛かってくる。
「オパグノ!」
しかし、彼らとてやられているだけではない。ジェームズは自分に向かって飛んできた何丁もの包丁に魔法をかけ、逆にヴォルデモートの方へ向けて襲わせるよう細工をした。
ヴォルデモートは包丁を全て薙ぎ落とすと、杖で大きなアーチを描き、その一撃でジェームズに石化呪文を、シリウスに射撃呪文を放った。
────まさか、杖の一振りで2つの呪いを────!?
ジェームズは盾の呪文でなんとかヴォルデモートの呪いを弾いた。
しかしシリウスはその呪いを跳ね返そうとしたのだろう。「フリペンド!」と同じ射撃呪文を唱え、ヴォルデモートの杖と真っ向から勝負を仕掛けた。
すると、ヴォルデモートが再び笑った。
「!?」
何をしようとしたか、気づいた時には遅かった。
ヴォルデモートは杖先を僅かに動かすと、2つ分の閃光を────私に向けて方向転換させたのだ。
「っああああああ!!」
ぐりんと方向を捻じ曲げられた、ヴォルデモートとシリウスの射撃呪文。それは私の左肩にもろに当たってしまい、骨がバリバリととても聞いたことのないような音を立てたのがわかった。激痛と、燃えるような熱さ。
膝をつくなと言い聞かせていたのに、あまりの痛さに私は立っていられなくなる。
「限界だ!」
そう言ったのはジェームズだった。
「逃げろ! 僕とリリーが夫婦になった場所へ!!」
その号令と共に、シリウスが私の右腕をぐいと掴んだ。何を言うより先にぐるりと体が回るのを感じる。ジェームズはピーターを連れて、リリーがリーマスを無理やり引き離して、それぞれが姿くらましをした。
────着いた場所は、ホッグズ・ヘッドだった。
"僕とリリーが夫婦になった場所"────つまり、彼らが結婚すると報告したところ…そういう意味か。
客はいないようだった。突然6人もの魔法使いが現れたことでアバーフォースは相当驚いた様子を見せていた。印には気づいていたのだろう、「すまん、さっきまでこっちにも死喰い人らしき奴らがたむろっていたせいで向かえなかった」と謝った後で、「2階に上がってすぐの客間が空いているからそこを使え。今すぐに医療道具を持ってくる」と言った。
シリウスに支えられながら、なんとか客間に腰を下ろす。
痛みを堪えながら仲間の状況を確認する。
ジェームズは顔に切り傷だらけ。シリウスは骨折でもしたのかここに上がるまでずっと片足を動かせないというように引きずっていた。リーマスはグレイバックと取っ組み合いでもしたのだろうか。体中に痣と擦り傷ができており、口の端も切れていた。リリーは髪が少し切れてしまっている。しかしやはりグレイバックはヴォルデモートほどの力は持っていなかったらしい。シリウスとジェームズの傷に比べれば、いくらか彼女達は元気なように見えた。
「あと少しで殺せたんだ…! あと少しで!」
「でもそれを待ってたら、イリス達を殺したヴォルデモートに私達が殺される番よ! ちょっと落ち着きなさい!」
憤るあまり壁をダンと叩いたリーマスを、リリーが叱りつけている。
良かった、私以上に深手を負った人はいないようだ。
リリーはリーマスが大人しくなったのを見ると、すぐこちらに駆け寄ってきた。
「なんとか皮1枚繋がってるってところね。骨も砕けてるわ。私の持ってる魔法薬はあくまで応急処置のものしかないから────アバーフォースの魔法薬を借りて、この場で強力な薬を調合するわ」
「ありがとう、リリー…」
「何を言うの、そんなの当たり前────で…」
その時だった。
リリーは私から急に顔を背けたかと思うと────床に思い切り嘔吐してしまった。
「リリー!?」
私とジェームズが一番早かった。シリウス、リーマス、ピーターも慌てて後ろからリリーの様子を窺いに来る。
ジェームズはすぐにリリーの吐瀉物を魔法で消すと、彼女の背をさすった。
「どうした、何か変な魔法でも食らったのか?」
「いいえ、違うの────これ────…ちょっと前から同じようなことがあったから────…」
どうして早く言ってくれなかったんだ、とジェームズが言いたいのが伝わってきた。しかし彼が何を言うより先に、アバーフォースが魔法薬を一通り揃って持って来てくれたので、その話は一旦中断されることとなった。
「一番重症なのはイリスだな。他の奴らは自分で治療できるか? 傷口に塗る軟膏ならこのポケットに入ってる。リリー、お前はどうした? 気分がかなり悪そうだが」
「い、いえ…大丈夫です。それより────イリスの怪我はかなり酷いので、私の持ってる魔法薬と調合させてください」
「だが、お前のその体じゃ────」
「大丈夫です。イリスは、私が守ります」
そう言うと、真っ青な顔でリリーは小瓶をいくつか並べると、アバーフォースの持っている薬を吟味し始めた。そのうちいくつか選び取り、薬包紙の上に粉薬と液体を少々混ぜ合わせ、泥のような紫色の軟膏を作った。
「まずはこれを傷口に塗って。外側はこれで塞がるわ。粉砕された骨は────ええと、これとこれを混ぜて────」
授業で見てきた時よりもずっと素早い動きで、私には初めて見るものばかりの薬品を的確に混ぜて行くリリー。私が唖然としている間に、彼女は別の薬包紙に今度は黄緑色の粉薬を作ってしまった。
「これ、飲んで。少し痛いけど、一晩で治────…ごめんなさい、お手洗いをお借りするわ」
そう言って私に薬包紙を押し付けると、リリーはトイレへ行ってしまった。
「…本当に大丈夫なのか? リリーは」
「わ、わかりません…」
粉薬はショウガを生で齧っているような味がした。いつまでも口に残る味に顔をしかめていると、すぐそんな味のことなど忘れてしまうほどの激痛が肩に襲う。まるで何かの生き物が肩の骨で遊んでいるようだ。砕けた時でさえあんなにも痛かったのに、今は神経という神経が痛むので気を失いそうなほどだった。
「イリス、少し横になると良い」
シリウスが私をベッドまで運んでくれる。しかし私は痛みの中でも、リリーのことが気がかりでとても意識を手放せそうになかった。
「リリー…どうなるか、わかるまでは…」
「僕達で聞いて、然るべきところに運んで行くから。君はまず自分のことを」
「リリーは私を守ってくれたんだ、私だってリリーを守らなきゃ!」
暴れる元気もないのに叫び出した私に、アバーフォースが杖を取り出し何かの魔法をかけた。
リリー、リリー、と吠える自分の声がだんだんと遠くへ聞こえてくる。
嫌だ、眠りたくない…私────リリーを────守らな────。
私の意識は、眠りの奥底へと引きずり込まれていった。
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