シンタローと浮世ヒロイン



「シンタロー君はさ」

ある日、何の前触れもなしにカノがそう言い出した。

「名前の事なんで椿姫って呼ぶの?」
「――――は?」

なんでと言われても…昔からそう呼んでいたからとしか言いようがない。

「……昔からそう呼んでたから」
「でもさ、昔はそんなに喋ってなかったんでしょ? どうせシンタロー君の事だから、その喋ってる間だって"お前"としか言わなさそうだし。だったら今、僕らみんなが名前で呼んでるのにつられてシンタロー君だって名前って呼ばない?」

本当に人の事をよく見てる奴だ。

椿姫の事がどうだとか、別にそんな特別な理由がないのは事実。だから多分…こいつの言う通り高校時代に一度も彼女の名を呼んだ事がなければ、きっと俺は今頃椿姫を名前と呼んでいる(う、鳥肌…)。

しかし、一度だけあったのだ。椿姫と、彼女に対して呼び掛けた事が。
そしてその思い出をどこかで忘れられていない自分がいるからこそ、俺は未だに彼女は名字で呼ぶ存在と見なしている。
言ってみれば、世間一般では距離を置いていると思われがちな"名字呼び"こそが、俺にとっては特別なのである。

「…ね、なんで?」
「………昔さぁ―――」





子供の頃から神童だなんだともてはやされてきた俺は、大人になるよりもずっと早くにこの世界を見限っていた。何も面白い事のない、全て解りきってしまうロジックの世界。どうして周りはみんなそう顔を輝かせて生きているのか――――馬鹿らしい。

そんな調子のまま高校に入った俺は、やはり入学試験も満点だったし、小テストも中テストも定期テストも、抜き打ちテストでさえも失点がなかった。だからだろう、まぁ割と早くに俺の名は校内に広まっていく訳で。

…そこまでなら中学と同じ。

ただその時には、中学時代と違う事が1つだけあった。
それは――――

「本当に如月と椿姫ってすげぇよな〜!」
「だよねだよね、2人ともテストで満点しか取った事ないんでしょ!?」
「脳みそ取り替えてくれーっ!!」

必ず俺の名が出る時は一緒に持ち出される、椿姫という名前。

会った事も見た事すらもない奴だったが、そいつは隣のクラスにいる女子生徒で(隣のクラスなら見た事くらいはあるかもしれないが、全く興味がなかった)、友達という友達はいないそうだが誰に対しても等しく物腰柔らかに接する"良い人"らしく、これまた特別な美人という話はないものの隠れファンは存在している――――という噂は耳にしていた(主にアヤノ経由で)。

「――――でね、椿姫さんって、なんだか浮き世離れした雰囲気があって、でも仕草がとっても滑らかで綺麗なんだって。だからそういうミステリアスな大和撫子っぷりに憧れてる人は多いらしいよ!」
「ふーん」
「もう、シンタロー! 聞いてるの!?」
「んー」
「はぁ…同じ無失点仲間とは思えない……」
「勝手に仲間にすんなよ」

どうせそいつ、表面では余裕そうに見せるのが得意なだけで、家では寝る間も惜しんで勉強してたりすんじゃねーの。とは、その隠れファン達同様に椿姫とやらにキラキラした眼差しを注いでいるらしいアヤノの手前言えなかったが、俺の胸中は冷めた気持ちでいっぱいだった。

ま、それならそれで、勉強の成果が出てるって事で楽しいかもな。熱心になれる事があるなら何よりだ、なんて知ったかぶった事を考えながら俺は鞄を手に取る。

さて、授業も終わった事だし、さっさと帰ろう。

「あ、シンタローもう帰っちゃうの!?」
「なんだよ。帰んねーの?」
「…実は補習が……」
「ふーん」
「じゃあ…また明日ね」
「……………あぁ」

アヤノを1人残し、廊下へ出る。
下駄箱へ向かう道すがら、階段を降りていると、俺のいる階の1つ下から派手な音が響いてきた。たくさんの紙が一度にばらけるような、バサバサという慌ただしい音。

……誰かが持っていた書類でも床にぶちまけたようだ。

正直このまま降りて面倒くさい事になるのは…つまり書類拾いを手伝わなければならなくなるのは本意じゃなかったが、戻ってわざわざ遠い階段を使うのも気乗りしない。
仕方なく俺はしかめ面のまま階下に降りた。

そこに広がっていたのは案の定何十枚もの書類。ゆっくり1枚1枚を拾っているのは、女子生徒だった。優雅にしゃがみ、全くがさつさのない動きで、指先まで揃えて拾い上げるその姿は、なんとなくさっきまでアヤノが話していた彼女を思い起こさせる。

その時なおも面倒くささが勝った俺の心は、ここを知らん顔で通り過ぎる事はできないかと思ったのだが、彼女がばらまいた書類の数は膨大な為俺の通り道すら塞がれている状態。

流石にこれを踏みつける事はできないかと小さく溜息をつき、観念して一緒に拾うのを手伝ってやる。すると彼女は、まるで初めて俺の存在に気づいたかのように暫くこちらを見つめてから、再び自分の周りの書類を集め出した。

やがて全ての書類が集まったので、まとめてそれを手渡す。彼女はそれを受け取ると、にこりと微笑んだ。

「……えぇと、如月君、よね。手伝ってくれてありがとう」
「いや別に…って、俺の事知ってんの?」
「そりゃあ。あなたの事を学年で知らない人はいないわ」

とすると、こいつも1年か。仕草やら喋り方が妙に大人っぽいから、年上かと思ってた。そこまで考え、またさっきのアヤノの話。

これは、もしかしなくても…

「お前、もしかして隣のクラスの…」
「私の事、知ってたの。……椿姫と言います」

俺を知らない生徒がいないなら、お前を知らない生徒もいないんだろ…その言葉はとりあえず呑んでおいた。

やはり目の前にいるのは、さして興味はなかったものの一応頭にインプットされていた噂の張本人。

なんだか、イメージと違う…それが第一印象。
いくら物腰柔らかで大人っぽいといっても俺の彼女へのイメージはガリ勉の自己満女。もっと不健康そうで、高慢な表情を浮かべる奴かと思っていた。
しかし実際は不健康というよりは、どこか儚さを感じさせる繊細そうな雰囲気に、高慢とはかけ離れた…言うなれば日本人が美徳とする謙譲に最も近いと思わせるような人間だ。

本当に、勉強にだけ価値を見いだし、躍起になって1位を取るような人間だろうか……?

初対面の相手に対してあれこれと憶測を立て、雰囲気がどうだという事まで考えてしまうのは、後から思えば俺らしくない事だったかもしれない。
ただその時は、初めて理屈なんて抜きで、つまり直感でこう思った。

"彼女は自分と同じなのではないか"と。

努力などせずともついてくる結果は最高のもの。しかしそれを喜ぶだけの純粋さなど、とうの昔に忘れていて。

残るのは、自分でも呆れる程の空虚さ。


もし、もしも――――そんな人間が、自分のすぐ傍にいたとしたら?


「じゃあ、私はこれで。手伝ってくれてありがとう」

そうしている間にも彼女は目で礼をし、俺の隣を通り過ぎて行く。


―――もしかしたら、俺の人生観も、少しは変わるのかもしれない。


そう思った瞬間、つい俺は必要のない大声で叫んでいた。

「―――――椿姫!」

椿姫は振り返り、階段の途中で俺を見上げる。

「お前……人生、楽しいか?」

…まぁそれは、普通に考えればドン引きレベルの質問だったと思う。初対面の名前くらいしか知らない人間に、突然人生について訊かれるなんて。

しかし椿姫は変な顔などしなかった。強いて言えば無駄に長い時間俺の事を見つめ、視線を彷徨わせてたくらい。
そしてその後に、こう一言だけ呟いた。

「………全く、正反対よ」

――――俺はその直感が正しかった事を知った。





「――――まぁそういう訳で、忘れようもない初対面の時に名字しか名乗られなかったのも相俟って、俺の中であいつは"椿姫"以外の何物でもないっていうのが定着してたんだよな、ずーっと」
「シンタロー君て昔から名前には変な事しか聞けなかったんだね」
「昔からってなんだよ!」
「だってソーシャルアイランドで名前から能力の事を聞いた時も、ただ"成績が良い"って言っただけの名前に"能力ですか?"とかトンチンカンな事聞いてたじゃん」
「う……」
「ま、そのお陰で今最大の理解者が得られてるんだから良かったじゃん。もうそういう運命だったのかもね」

そう言って、いつもの含みのあるニヤニヤ笑いを浮かべながらカノは自分の部屋に入ってしまった。
ひとりソファに座りながら、久々に思い出した昔の話を反芻する。

確かに、あの出会いはなかなか衝撃的だったと思う。主に俺の態度が。

しかし今思えば彼女への第一印象は間違っていなかったし、きっとあの様子では彼女も俺に似たような同族意識を感じ取ったのだろうという事は想像できる話だ。

まぁ…あれから間もなくして俺は学校を去ってしまったから、彼女によって当時の俺の人生観が変わったかと訊かれればきっと首肯はできないだろう。しかしまた当時は、彼女がここまで俺と言外の意志疎通を叶えてくれるなんて考えてもみなかった訳だし、偶然が重なっただけとはいえ今の彼女の存在は確実に俺にとってそれなりの大きさを占めている。

そんな彼女に向ける気持ちの名前は判断しかねるが……結果論を許されるなら、あの時の俺の行動や思考は決して間違いではなかった筈だ。

そう、確かに彼女との出会いはそれ以前にもそれ以降にも経験しえなかった、一番感覚的なものだったのだから。
――――それをカノの言う通り運命などという簡単な言葉で片付けて良いかはまた別、として。

「こんにちは。みんないる?」

あぁほら、噂をすれば。

ゆっくり扉を開けてにこにこと入ってきたのは、2年前の思い出より幾らか表情の明るくなっている彼女。

「カノは部屋。あとはみんな出てる」
「あら残念。如月だけだったの」
「悪かったな」

……そうだ、今度はこいつにも、何故俺だけ名字呼びなのか訊いてみようか。

そんな風に思いながら、鞄を置いて台所に立つ彼女の姿を、俺はぼーっと眺めていた。

「椿姫」
「何?」
「あのさ、なんでお前って……」









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