神は神でも、私を見守るのは貧乏神に違いない。最近、そう思うようになってきた。
「姉上ッ、どこにいらっしゃるのですか!姉上ッ……姉上ェェェ!!!」
ドタドタ、バタバタ、ギュイイイン。荒々しく足音を踏み鳴らしている弟には申し訳ないのだけど、姉上はいま姿を現したくても現せない状況なのですよ。
弟が「おのれェェェ」と叫びながら猛スピードで明後日の方向へ去っていく気配。どうにかやり過ごすと、私の口元を押さえてがっちり身体も抱え込んでいた犯人が、ようやく私を解放してくれた。素早く離れ、相手を軽く睨みつける。
「なにをなさるのです。無礼ですよ、家康殿」
「この状況で礼儀を説くとはさすがなまえ殿だな!」
参った、なんて輝かしい笑みで頭を掻くのは敵軍大将……のはずの男。西軍の本拠地に軽装備で忍びこんでくる不届き者でもある。
「今なら見逃して差し上げます、ですから速やかに去りなさい」
「何を言うなまえ殿!貴方も共に参る!そうだろう?」
この男が我儘なのは昔からでも、力づくにならないだけまだマシというもの。これが長曽我部殿や真田殿になったらとても危険で、二人きりなんて到底無理な話になってしまう。やだ、お二方とも味方軍。
「貴方が去らないなら私が去ります、左様なら」
「貴女お一人ではすぐに捕まってしまうとワシは思うが」
狸は逆光を背に微笑んでいる。私は隠すことなく溜め息をついた。
「捕まったらまた監禁生活だろうな。更に厳重に警戒されて」
「ええ、ええ、そうでしょうとも」
まだ拘束具が無いだけ良かったのに、今度捕まったら足枷か手錠つきで座敷牢行きになる。そんな自分が容易に想像できて溜め息がとまらない。
弟を始めとする西軍の将の皆さんはそれはもう私を大切にしてくださる。私が傷つかないように周りのものは全て排除し、私が奪われないようにと頑丈な檻に入れようとし、私がさみしくないように四六時中監視し愛を囁く。私は兎か。そんなことあったら天下統一しろよ暇人どもと声を大にして叫びたい。叫んでも届かないだろうけど。
そんな状況下で自室から脱出できたのは奇跡に近い。もう武将だけでなく女中も忍びも全力阻止してくるから。あの人たちも命掛かってて必死だけら。ほんと仕えるところ間違えたねって同情してあげたい。同情するだけなんだけどね。
本当に優しい人なら、西軍の武将やら女中やら忍びやらの命とか精神の健康とかのために我が身を犠牲にできるのだろう。私は自分可愛さに彼らを裏切る非常ものに過ぎない。私を盲信する人々にその現実を見せつけてやりたい、けど。
やっぱり私は恐ろしいからできない。ここまで手遅れになるまで放っといて、それで私が偽の聖者だとばれてしまったら。彼らは私の裏切りにどんな裁きを下すのだろうか。
西軍の武将たちは私を神聖視して崇めるように持て囃す。しかし東軍は逆に人間臭いというか、私もそんなに張り詰めなくても良いだろう。と、家康殿の顔を見ながら私は腹の内で算段を重ねる。
「でも、やろうとしていることは結局三成たちと同じ」
「そんなことはない!ワシらはなまえ殿の愛が欲しいんだ!だから無理強いはしない!約束する!」
まあ家康殿も伊達殿も、その点では安心できるかもしれないけれど、でも。西軍には三成がいる。あの子は、私が東軍についたと知ったら無事でいられるのだろうか?行方不明ならまだいい、けれど実の姉、敬愛を通り越して崇拝する姉の裏切りにきっと耐えられない。
私は聖人ではないけれど見下げた下衆になりたいわけじゃない。過剰な愛情表現には辟易しているけれど、愛されていることには感謝している。恐ろしいけれど、実の弟を愛してないわけじゃない。ただ、少しでもその歪みが直ればいいと思うだけ。
「なまえ」
気取った声に耳を疑った。振り向けば、独眼竜。東軍にもロクな人はいないとは知っていたけど誰か止めろよ。
「なまえに見せてやれよ、家康」
「ん?……ああ、すっかり忘れていた!」
家康殿が人好きのする笑顔で懐から取り出したのは、幾枚かの手紙だった。
「これは……」
「ワシらに裏切りを確約してくれた西軍武将の返書だ!」
「読んでもいいぜ、kitty」
「ここまで集めるのは苦労したぞ!」
震える手で手紙を開く。中に書かれた、「毛利元就」の字と花押に目眩がした。
「それは毛利か!毛利はなまえ殿が手に入るならいいと……他にもあるぞ。小早川……これは脅しで……こっちは利で釣って……黒田は……」
急な吐き気に襲われてふらつく私を、伊達殿が優しく支えた。下心がまるで無いような手つきでも、怖くて顔を合わせられない。
この武将たちは、女ひとりのために天下を揺るがす大戦を仕掛けようとしている。
「今は表面上では互角だが、奴らが裏切れば……」
なんて非道な男たち。必ず負けるとわかっている戦をするか否か、日の本の歴史を左右する決断を私に迫っている。姉として寄り添い弟を敗者にして殺すのか、裏切ってでも弟を生かすのか、と。そんなこと、私に決められるはずがないのに。
「……姉上」
廊下の奥で、三成が幽鬼のように佇んでいる。青白く燃えながら、私を、東軍の将たちを、睨んでいる。
「姉上……」
「逸るな三成……なまえは主の実の姉、主を裏切ることなど絶対に無いであろ」
大谷殿がふわりふわりと、三成の後ろにつく。その眼は私を許さないと言うように赤々と燃えていた。大谷殿は構わないのだ、三成が死んでも私が死んでも。自分の死が見えているから、道連れを求めている。
「なまえ殿、決断の時だな」
勝利を確信した声で、英雄となるべき男が私に囁く。貧乏神が耳の中でけたたましく嗤う声が聞こえた、気がした。世界だとか未来だとか、私には重すぎるというのに。