生きるとは何のことか ―― 生きるとは、死にかけているようなものを絶えず自分から突き放していくことである。
    フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844〜1900)『華やかな知識』



 ヘビイチゴを見つけた。ふと視線を落としたら見つけた。都心から少しばかり離れた住宅地の片隅に。ブロック塀とアスファルトの間に。私有地と公道の間に。弱々しすぎる不可侵領域の中に。
 四ッ谷ヨイは目を細める。自分はこの不思議な植物がとてもとても好きだったことを唐突に思い出した。二十数年前のはなし。最後に集めたのは、小学生になる前だった気がする。ヘビイチゴという響きが好きだった。説明しようがない親近感を持っていたような気がする。たぶん、自分が巳年だったから。ヘビという音だけに頼った一方的すぎる親近感。そう、たしか、保育園の隅のフェンスの隙間に手をいれて、頑張って集めたような気がする。そう、毎日晴れの日が続いて、庭の緑は透かしたように眩しくて、土の匂いがして。ヨモギの季節が過ぎて、日陰ではドクダミのしけった匂いがしていた。ああ、そう。ドクダミはお茶になると聞いたからヘビイチゴと一緒に集めて持っていったら、先生に怒られたんだっけ。理由はもう思い出せない。エノコログサをふたつ結んで、ウサギを作った。ネコも作った。いっぱい作って家に帰った。ふわふわとした黄緑。立ちくらみがする濃い緑。まとわりついてくる土の匂い。田畑に流れる水の音。ぽつんと真っ赤なヘビイチゴ。
 フラッシュバックと呼ぶにはあまりに穏やかすぎる過去の情景。ほんの一秒か二秒の現実。
 溢れかえる懐かしさから顔をあげて、ヨイは自宅に向かった。チョコモナカが溶けてしまう。
 ここは東京、ベッドタウン。あれは東北、片ッ隅。
 唯一変わらないことといえば、紫外線を浴びる肌が赤くチクチク傷むくらいか。これをノスタルジイというのか。
 今年の初夏は暑い。
 天気予報が毎日毎日飽きもせずに最高気温の記録を上書きしつづけている。これぞヒートアイランド現象かと思いきや、全国各地で何十年ぶりと言い出す始末だ。地球温暖化だと騒ぐエコファシズムがエルニーニョ現象を謳う気象予報士と一緒にビールを煽っている。お決まりの「春の病」に浸る余裕もないほど暑い。
 そんな日々が続くとどうも嫌になる。食欲は失せるし、野菜は高くなるし、円安が進んでるし、コンビニのアイスはプレミア志向で値上がりするしでやってられない。
 ヨイはふと空を仰いだ。青い。
 関係のない単語を脈絡のない理屈で結びながら黙々と歩くのが彼女の職業病だった。
 四ッ谷ヨイは売れない小説家だった。細々と入る印税と気まぐれに受けるゴーストライトで飯を食べていた。本人も周囲も完全に社会不適合者だと納得しているから文句も言われない。家賃だって毎月きちんと払っている。不自由のない生活は質素。身の丈にあった生活が、しあわせだなのだヨイは思う。
 駅に背を向けて自宅への道を歩く。
 肌がじりじりと焼ける。無意識に足早になる。意図的に日陰を選んで、黙々と歩いた。
 T字路の正面に八百屋が見える。この辺りで最も大きな八百屋だ。最も大きくて、最も安くて、最も衛生管理ができていない八百屋だ。
 玉葱やらじゃがいもやらがkgあたり80円とか100円で売っている。ただし、その多くが酷く傷んでいた。どこから利益が出るのかわからない価格で、日差しと湿度の中に晒され、定休日は青いビニールシートとロープで適当に保管されている。併設してある飲食店は昼間から店主と同い年くらいのじじいが酒を飲んでおり、提供される料理は作り置きの常温保存。
 そういえば『某のグルメ』に似たような飲食店の話が載っていたなあ。いつ作ったのかわからない味噌汁とか、揚げてから三日は経っていると思われる天ぷらとか。
 帰ったら本を読もう。そんなことを考えながら通りすぎようとした。日差しと緑と湿度と腐敗臭。そのなかに、大根を見つけた。丸っと1本80円。菜っ葉が疲れてしんなりと頭垂らしている。西洋の呪術を彷彿させる、足がある大根。
 そんなもんも置いているのかと視線をやれば、隣には白菜。根元の切断面がだいぶ茶色がかっていた。
 普段なら流して終わるだけの風景が無性に寂しくなった。
 それは郷愁病にも似ていたし、美化した過去との対比にも見えた。
 その八百屋を贔屓するわけではない。サラダにするなら隣駅の大型食料品店の新鮮な野菜がいい。
 くたびれた足のある大根、茶色がかった白菜、褪せた野沢菜、老婆の腕のように細い薩摩芋。
 その隣に、つやつやと光るトマトの尻がある。凛とした肌のキュウリが並ぶ。季節を知らないレタスが、可愛い玉葱が、小ぶりのジャガイモが、我を見よと言わんばかりに並んでいる。
 そういえば、そろそろ買い出しに行かねばならない。それを思い出してしまったら、この呆けた八百屋で野菜を買っても別にいいような気がした。寧ろ、価格を見れば食料品店より遥かに安い。そう、安い。もう、迷うのがめんどうくさい。太陽光が熱い。早く家に帰りたい。
 結局、大根・白菜・薩摩芋を持って店に入った。店番の老婆は傷んだそれらをレジ前に並べて
「これは……これはお金、いいわ。傷んでるから」
 はっきりとそういった。だから薩摩芋5本分、100円だけを払った。
 やっぱり、どういう商売をしているのかよくわからない。脱水症状気味のヨイの頭は、かろうじてそんな感想を抱く。
 重い野菜を持って、てくてく歩く。
 件の八百屋から50メートルもいけば自宅がある。廃墟予備軍みたいな木造の一軒屋だ。最近は廃墟が増えているらしい。だから土地と建物を持っている人間は、行政の指導が入る前に貸してしまうらしい。建物を取り壊すにも管理するにもお金がかかるし面倒だから、管理費込みとして他人に安く貸してしまえという考え方らしい。意外にも東京にはそんな物件が多くて、人間的な理由付き物件として不動産屋で静かに眠っている。だから木造平屋であるヨイの自宅も、家賃は月々3万円だ。
 玄関の近くに、自転車が停めてあった。コンビニとは逆方向に住んでいる、彼女の姪のものだ。今年大学進学の為に上京してきた姉の娘。最近震災が続いているし、首都直下型地震などの不安要素が多い。せっかくなら親戚の近くにという姉の希望によって、ヨイ宅から15分ほどの距離にアパートを借りている。アパートの最寄駅から大学まで乗換無しでいけるので都合がよかった。姪は年齢の近い伯母によく懐いていたし、ヨイも彼女を妹の如く可愛がっていたから。
「ただいま」
 ガラガラと音をたてて玄関の引き戸を開ける。なんとなく呟く。冷房を消して出かけたことを後悔していたはずなのに、ひんやりとした風が足元を通りすぎていった。
「おかえり、ヨイ。勝手にあがってたよ」
 玄関の正面にある居間にうつ伏せに転がって、姪が漫画を読んでいた。
「アキ、いつも言ってるけど、先に連絡くれればいいのに」
 クロックスのサンダルを脱ぎ捨てて上がる。涼しい。太陽光に焼かれた肌はやっぱり薄い赤みを帯びていた。背中に汗が滲む気がする。
「別に急いでないから。待ってればそのうち帰ってくるでしょ? ヨイの外出なんて、コンビニかスーパーくらいじゃん、いつも」
 漫画を置いて、体を起こしたアキが笑う。不快とも困惑とも図星ともとれる顔で、ヨイはわざとらしい溜息を吐いた。
「一応、編集部に行ったりもするけど。……たまに」
「うん。たまに、ね」
 アキはヨイの手にあるふたつのビニール袋を見る。
 ひとつは三桁の数字が並んでいる、コンビニの袋。恐らく、ヨイの好物である最中アイスと小豆バーがいくつか入っていると思われる。
 もうひとつは、野菜?
「スーパーまで行ったの?」
 何気なく聞くと、ヨイは首を振る。
「いや。なんかこう……久しぶりに干し野菜作ろうかな、って」
 戸惑いがちに曖昧な返事をすれば、アキが疑問符を浮かべる。
「干し野菜?」
「あー、ええと。干し芋と漬物……?」
「……この時期に?」
 アキの疑問はもっともだった。
 ヨイは農家の娘だ。上京してからも実家で作っていた干し野菜を毎年作る。暇潰しがてらに。だけれどもそれは秋から冬にかけてのこと。空気が乾燥して、程よく寒い日を選んで軒先に干す。人参やきのこは甘味や旨味を縮んだからだに閉じ込めて、冬の味覚へと変化する。逆をいえば、湿気の多い夏場、特に梅雨の時期にはカビが生えやすくて難しい。
 ヨイが床に置いたビニール袋の中身を見て、アキがまた疑問符を浮かべる。
「……結構傷んでない? それ全部」
「……うん」
 ヨイは頷いた。素直に認める。今思えば、どうして買ってしまったんだろうとさえ考える。安かったけど、確かに安かったけれど。
「干すの?」
 アキの疑問に、ヨイはうなった。どうしたもんかねと、間延びした声で。
「どうせもうセミドライくらいにはなっているから、除湿してる部屋で干せば大丈夫」
 だから不可能ではない、程度の基準で答えて、野菜を部屋の隅に押しやる。
 干し野菜を作るには体力がいる。薩摩芋は一度ふかしてから薄切りにして干す。白菜と大根は一口大に切ってから干す。切断面が広く、厚さは薄いほうが水分が抜けやすい。除湿にした部屋のエアコンの前に、干し野菜用にしている洗濯ネットに入れてぶらさげておけば梅雨の時期でも干せなくはない。
「ヨイが何考えているのか、よくわからないのはよくわかった」
 小首を傾げてアキは呟く。
「まあ、あれよ。あれ」
「あれ?」
「なんかこうさ、先が見えている感じ? このままほっといたらこの猫死ぬなあ、とか、この100円がアフリカの子供たちの3日分の食糧になるんだなあ、とか、そういうの考えちゃったらほっとけないってこと、無い?」
「……無いかなあ」
 アキは困ったように答える。
「私は結構あるんだけど。この野菜も、どこかの農家の誰かが手塩にかけて作ったって考えたら、ちょっと買ってみようかなーって。つまりそんな感じ?」
「ヨイはいつから慈善事業するようになったの?」
 アキの眉毛がハの字を作る。だんだん下がっていく眉尻に、ヨイもヨイなりの困惑を隠せない。
「……アキには、ない?」
「だって、そんな……別にヨイが今このタイミングで野菜買ったって、農家の人は既に出荷分のお金とかもらってるわけだし……」
 だんだんとヨイの顔色を窺いながらぼそぼそと答えるアキに、ヨイはばっと立ち上がる。拗ねた。アキの伯母は、時々突然子供っぽくなる。
「あーもういいや。うんうん。喧嘩になる前にこの話は辞めよう。全く、せっかく最中半分あげようと思ったのに。今年の夏の浅漬けは、アキにやらん! 干し芋作るの手伝ってくれないならアイスも晩飯もやらん!」
 自分から辞めようと言っておきながら脈絡無く他の用事まで挙げだす始末だ。そのあからさまでわざとらしく、子供っぽくて無自覚な拗ね方に姪は苦笑するしかない。アキの伯母は、そういう人だ。
 長くなった陽。随分明るくなった夕方。東京郊外の住宅街にはいつの間にかカレーの匂いが混ざり始める。太陽は徐々に西へと傾き、穏やかな夕暮が空に滲んでいく5月31日。2015年の半分が、もうすぐ終わろうとしていた。

【完】


執筆野菜:冬の野菜(大根、白菜、薩摩芋、他)
『ふゆのやさい。』 ―椎名 小夜子 様

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