青葉の息吹く季節だった。
 ぼくは、やらなければならないことがたくさんあるのだけど、母から一方的にひまなやつと判断されて、姉と一緒におつかいに出ていた。
 頼まれたのは、姉が大好きなトマトサラダの材料で、別に、特別むずかしいものはない。姉がしっかりと握っているメモには、大きな文字で【トマト!】と赤い文字で書かれていて、それについて、ぼくは頷いていた。だって、トマトサラダにトマトがないのは、ただの葉っぱの寄せ集めだからだ。

 母は、冒険だと言って何かとぼくたち姉弟をおつかいに出したがる。もう日常に馴染んでしまったから、ぼくにもかつてあったはずの不安なんかはとっくになくなってしまっているけど、母は毎回心配そうに玄関先をうろついている。自分で送り出すくせに、おんなごころは複雑なんだな、と思うのだった。少しやっかいだ。
 でも、心配になってくる前に、「いざ大海原へ!」とぼくたちを送ってくれる母は何か勘違いしていると思う。冒険といっても、目的地は公園に行くよりも近い八百屋さんだったし、なにより、ぼくたちは陸路を使うからだ。(りくろというのは、最近になって父が教えてくれた言葉で、すぐ使ってみたかった。)もっとやっかいなのは、姉が、やる気満々だということだった。
「ねえ、サラダって、トマトがなきゃだめ?」
「たぶん、だめってことはないけどさ」
「じゃあ、買わなくていいんじゃないかなあ」
 頷いていたぼくは、もう過去のものだ。
「あんた、ほんとう、トマトきらいだねぇ」
「……お姉ちゃんは、ほんとう、トマトすきだねぇ」
「あっ。今のちょっと、なまいき」
 ぼくは、新鮮な野菜の選び方も知らないのに、品定めの真似っこをしている姉の横で、八百屋の隅にある小さな冷蔵庫を見ている。いつもここで、ジュースを買ってもらう。今日のおつかい、もとい冒険にも、これ目当てでついてきたのだから、買ってもらわないとこまる。
「お姉ちゃん、はやくしてよ」
 姉のスカートを引っ張りながら、ぼくなりに急かす。姉は意外と話下手だから、ぼくがこうやってじゃまをしてやらないと、八百屋のおじさんとの会話をなかなか終わらせられないのだ。あとから、「いやはや、助かったよ。べろがもつれちゃう」とぼくを抱きしめてくれる姉のことを考えると、これは間違いなかった。

 ぼくは、トマトを食べたことがない。美味しそうな身なりをしていても、どうしてもだめだ。背中からつむじまで、ムカデが這ったみたいに震えて、しぬ、と思う。
「……お姉ちゃんは、死なないの?」
「えぇ? 死なないよ。あんたいっつもそれ聞いてくるけど、トマト食べたくらいで死ぬわけないじゃん」
 姉に「食べてみれば?」とすすめられることがしばしばあるけれど、その度に両手で口を塞いで首を横に振った。ぼくがあまりにも必死なので、姉がむりやり食べさせようとすることはなかった。ちょっとだけ、淋しそうな顔をするだけだ。
 大好きなものを、はっきり嫌いと言われると、もやもやとした気持ちになる。その気持ちにどんな名前がつくかはわからないが、ぼくは、ちゃんと知っている。でも、嫌いなものを、大好きだと嘘をつかれてもそんな気持ちになるということも、知っている。だから、どうしてもだめだと言う。
 それに、すごく相手を気遣ったふうに話していてなんだけど、ぼくにはトマトを食べるそもそもの勇気は、ないのだ。

 八百屋のおじさんに手を振って、来た道を戻る。ぼくたち姉弟の冒険は、あまりにも生活感に溢れすぎていて、冒険らしいどきどきは全くない。現代社会の平和な商店街にモンスターは出て来やしないし、姫や、仕掛けももちろんない。でも、八百屋のおじさんに褒められるのは、いやじゃない。ちょっとしたイベントだ。大きな手でがしがしと頭を撫でられると、もう、ぼくひとりでも冒険くらいへっちゃらだな、と思うのだった。
「なんで?」
「えっ」
「トマトのことだよ。なんで死ぬ心配してるの? お姉ちゃんのことそんなに好き?」
「べつに……」
「ちょっと」
 立ち止まった姉とは手を繋いでいたので、ぼくも立ち止まる。姉のことは大好きだ。ただ、なんとなく、そう答えてしまった。怒られると思ったけどそんなことはなくて、姉は意外にも笑っていた。ぼくなりの理由があるんだって、たぶん、知っているんだ。ぼくは、姉と手を繋ぎ直して、言った。
「お姉ちゃんが、テストで百点とったら、おしえる」
「なにそれ! わああ! お母さんみたい!」
「それまで、ぼく、トマトを食べようともしない」
「えーっ」
 なんでなんでなんで、とうめきだした姉が再び歩き出して、ぼくもまた歩き出す。歩いているうち、石を拾ったり、虫を観察したりして、どんどんトマトやその他の野菜が鮮度を落としていく気がした。ぼくは食べないから、いいけど。
「でもさあ、あんたがいつも選ぶジュース、トマトジュースだよね?」
「えっ、フルーツジュースだよ。おかあさん、言ってた」
「ばっかだなあ、だまされてやんの」

 *

「つまり、おかあさんは、ぼくをだましていた」
「いや、あんたがあんまりトマト嫌うもんだから……フルーツの方が勝ってるジュースだし、いいかなって」
「なにか言うことは」
「……ご、ごめんね」
「だめ」
「えっ!?」
 ぼくは、知ってしまったのだ。今日まで繰り返されてきた小さな冒険の数々は、いたずらっ子の笑顔を浮かべる姉を倒すための、布石に過ぎなかったことを。こうして、勇者は立ち上がるのだということを。
 ぼくの背中のムカデは、まだまだ息を潜めている。「今のうちに、ぼくのごきげんを上げておくことだ」と言ってから、ぼくは母の分のお菓子の袋をあけた。

 おわり


執筆野菜:トマト
『勇者、八才。』 ―月下 燈子 様

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