ソファーに座って、今日のオペは軽かったと思った。無論、どんな命も重いのだけれども。医療ミスだの、医療殺人だのなんだのと言われる世界とは遠い存在やな、とまでも感じる。傲り高ぶっとるんやろか。いや、それだけの能力が彼には十分備わっていた。
「披露宴はどちらで行われる予定ですか?」
テレビをつければ、有名な一流財閥の社長が映っていた。というのも、こいつは中学の頃からの知り合いだ。もちろん今でも小まめに連絡を取る仲で、親友ちゅーてもそれは過言ではないくらいや。昔から、振る舞いや世間体といった表面ばかり気にしとったような男だが、たかが記者会見ごときで有名ホテルを会場にするなどと、やはりこいつは変わっとらん。せやけどそんな男も明後日には結婚だ。もちろん、式や披露宴に俺も呼ばれとる。
ピンポーン
渇いた音が俺を呼んで、見れば画面には春菜が映ってはった。びっくりしたのも束の間、テレビを消さずに玄関へ向かう。春菜が、寒い〜早く〜なんて言うて、ヒールをカチカチさせていたので、どちらさんですかぁ?なんて言ってふざけてみた。
「もうっ、早く開けてよ」 「ハハ、なんや、どないしたん?」
駅からここまで歩いてきたんか、春菜は寒さで赤くなった鼻をマフラーに埋める。お味噌汁、と一言とともに小さな箱を俺に押し付けて、彼女は部屋へ上がった。彼女は俺の作る料理が好きだ。なんでも、味の薄さがちょうどええさかいに、特に味噌汁は飲めば落ち着くらしい。手元の箱を開けてみれば駅前で売ってるケーキが入っとった。
「お相手の方はどのような方なんですか?」 「賢くて、美しい女だ」
そういえばテレビを付けっぱなしにしていたんやった。テレビの中の跡部はそれはもう満遍の笑みで、止まない質問の声と頻りに鳴るシャッター音に包まれとる。流れてくるテロップには「経済界の王子様」なんて書かれてはった。
「こんなの見ないで」
パチン、春菜がテレビを消す。跡部は真っ黒になった。跡部が消えて、俺と春菜だけの世界だ。怒っているような、哀しんでいるような春菜の瞳は、確かに真っ直ぐ俺に向けられている。氷った空気を溶かすべく、温かい味噌汁の準備にかかった。
「なぁ、ネギと豆腐しかないねん。ええ?」 「いいよ、それが一番好き」 「おおきに、」
お礼を言うと、春菜は必ず照れるように笑った。俺はその顔が好きだ。ちゅーよりか、春菜の笑顔が好きだ。春菜が俺に向けて放つ全てが、俺だけのために創られると思うと、嬉しさのあまり表情をくずさずにはいられへん。かつてはポーカーフェイスだのと謳われとった俺も、たった1人の女によってこんなにも変わってしまった。それは、あいつもおんなじや。
「侑士、」 「ん?」 「…あたしもやりたい」 「ええけど、」
エプロン1個しかないねん。そう言うと春菜は、何の躊躇いもなしに、俺のエプロンへと入ってきよった。頭ひとつ分の背丈を恋しく思う。行動とは裏腹に赤くなっている春菜の耳元だけが熱かった。冷たい手を重ねると、すっぽり収まる。綺麗な大人なのに、付いてる手は昔と変わらんで、包丁を持たせれば、猫の手でしょ?なんて言ってきた。
「可愛いな、自分」 「ちょっ!耳元やめて!」
ハハ、ほらまた赤くなった。真剣な眼差しが、崩れる瞬間は、美しい春菜が可愛くなる。照れた春菜の体温が上昇したんか、はたまた、俺の心の温度が上昇したんか、肌寒さは消えていた。暑いくらいだ。いや、熱い、やろか。包丁を持つ手を上から包んで、一緒にネギを切ってやる。ネギはな、押す感じで切るんや。教えてやると、わかったとまた真剣な眼差し見せた。ああ、このまま切腹して、心中したろうか。
「切れた」 「お、上手やね」 「侑士が教えてくれたから」 「そか」 「全部そうだよ」 「ん?」 「あいつじゃなくて…全部全部、侑士が教えてくれた」 「春菜…」 「飾りになるのはイヤ…っ」
包丁を置いた春菜を、こっちに向かせて抱き締めた。すぐ腕が首に絡み付いてきて、これ以上無いほど密着する。痛みなんかない、苦しみは他からやってくる。きっと1つになれてしまうんやないか。なんてことは、人間に生まれてきた以上、無理な話。だけど、2人が別々に生まれてきたことを恨んだことはなかった。ただ、許嫁とか、政略とか、そんなものを春菜から奪ってやれない、この無力さを俺は嘆いていた。大きさがバラバラなネギが、2人の不器用さを表す。どうして人は、1人しか愛せんのやろか。俺は春菜しか愛せない。春菜も、俺しか愛していない。もし、同時に2人を愛せたんなら、春菜は俺もあいつも愛せたやろし、俺も春菜と誰かを愛せた。こんなにも苦しむことはなかったんやろうに。
「侑士のあたしでいさせて」 「んな、当たり前や」
誰よりも愛してる。友情なんてものは、力なく砕けちってしもうた。春菜の名字は捕られても、心は誰にも渡しはせん。俺の意志は強かった。春菜の瞳の中で、揺れる俺はもういない。引き寄せられるようにしてキスをすれば、もうこの感触は手放せないな、とさらに思うのだった。太陽の日差しが、暗い闇を照らし出す。2人が心を凍らせるまで、あと1日。
朱に染まる水平線 090201
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