「せーんせ、」

砕けた呼び方をされて、思わず周りを確認したが、そこには俺と彼女しかおらんかった。春菜はもう帰るのか、ナースの帽子をすでに脱いでいる。仕事中は結われとる髪も、だらんと肩に垂れ下がっていた。今や茶髪が主流の世の中で、一度も染まったことがないような黒髪が、白いナース服の上でやけに目立つ。

「跡、つかへんのな」

きつく結ばれとったにも関わらず、真っ直ぐと伸びた髪が何故か興味をそそった。彼女は同じように、仕事にも真っ直ぐと向かい合っとる。患者さんからも人気で、担当外の人にも「桜田さんや」なんて声をかけられる位だ。真面目そうな外見から、男の医師はもちろん、先輩ナースにも気に入られとる。一言で言うなら彼女は、「いい子」なんや。テストがあれば1週間前から勉強しよるような、成人するまでお酒を飲まへんような、まさに真面目を描いたような人間、に俺には思えた。

「先生の髪も、すごく綺麗」
「ん?俺んはほったらかしやで」
「触っても、いい…ですか?」

まばたきを増やして、遠慮がちに聞く春菜に快く許可をくだしてやると、これまた躊躇いがちに手が伸びてくる。そこまでなるほど、俺の髪は触れちゃあかんようなものでもないし、触れられることに嫌悪感があるわけちゃう。むしろ、ずっと触れてほしかった。その綺麗な指先で触れて、俺の不満を、孤独を、寂しさを、ずっと拭ってほしかった。温めてほしい。なんとなく医者になり、気付けば親に敷かれたレールの上を歩き、期待され、隔離された俺を。

「枝毛とかないですよ」
「ほんま?」
「はい、…あっ……」

無垢な瞳に俺が映った瞬間、距離の近さに驚いて、彼女はさっと手を離してしまった。そうか、きっとこの子は、異性を知らんのやろう。可愛らしい顔つきだし、人当たりも良いし、学生時代に男が放っておいたはずがあらへん。それでも春菜は、触れることも、こんなに近づくことも、何も知らへんでおった。そう認識した途端、俺は春菜の唇を奪っとった。座ったまま立っとる彼女にキスをするのは、苦ではない。驚いているんか、目を開けたままでおる春菜の瞼を指でなぞると、困ったように眉毛を下げ、目を閉じた。ぷちゅり、下品とも言えない音が誘う。

「…ん、んんっ」

中途半端に唇を開いてまうんのも、きっと次にどうなるかを知らへんから。容赦なく舌を侵入させ、当たり前のように佇む春菜の舌に絡ませてやった。柔らかさを確かめ合うようなキス。術も分からんで固まる舌を優しく撫でて、気付いて逃げようとすれば追いかけて。生憎、俺は経験が乏しい方とちゃうんで、逃げる舌の捉え方を知っとった。たくさん触れて、音を立てて、絡めて、その後、上壁を奥からなぞる。そうすると、女はおもしろいように、後を追って舌を出してきよる。せやのに、この子は違った。出してきたんは、苦しそうな吐息だけ。

「はぅ…」
「なぁ、春菜ちゃん」
「ん…は、い?」
「ファーストキス、やった?」
「えっ、」

春菜は真っ赤な顔を、更に耳まで赤くした。ほんまに成人しとるんか?と聞きたくなるほどの免疫の無さに、俺の方が驚く。と同時に、嬉しくなった。まだ誰にも染められてへん。男を知らん。女に成りきれておらへん。唇と唇が触れ合うだけのキスはともかく、唇と唇が求め合うようなキスは、俺が初めてやった、んやろう。ニヤリと口角が上がるのを我慢できん。手で唇を隠せば、同じ格好をしている春菜と目があった。そういえば、唇にはたくさんの神経が通っとるんや。覆う皮膚もかなり薄い。せやから、血液の色が他の箇所より反映されて赤く見える。人は、手を唇に触れることで、精神状態を安定させる、という話を聞いたことがあるが、そんなのはどうでも良かった。瞳を潤ませ、未だに顔の紅がひかん春菜が俺を俺に対する絶望か、キスに対する恥じらいを含んで、じっと見つめとる。

「責任、とったる」
「…ひゃっ」

視線に我慢できんくなって、立ち上がり抱き締める。勢い余って机上のランプを倒してまい、診療室は真っ暗。右手の痛みは気にならへん。それよりも、暗闇に慣れるよう瞳孔が開くまで、彼女の顔が見えにくいのを惜しいと思った。今、どんな顔をしているんやろか。恐怖に晒された顔、官能を装った顔…色々な顔が俺の頭をよぎっていく。どれにしたって、俺の興味を駆り立てるものには、変わらへんのやけど。俺の能は大丈夫なんやろか。むしろ心臓に問いたい。と、そんなことを考える余裕が、この状況である自分を褒めてやりとうなった。中学の頃から変わらへん。冷静沈着さ、これは医者にとってや、医学に携わる上で、非常に鍵となる性質やけど。

「もー、ほんとヤだ」
「あ、216号室の人でしょ?」

扉の向こうで、巡回のナースが患者の愚痴を駄弁っとる。そんな声はきっと、この子には届いとらん。この状況をどう打破するか、はたまたどんな言葉を紡ごうか考えとる…そんなとこやろ。そうやって、ひとつに没頭することが、俺には出来んでいた。かつての友人の中に、同じように冷静な男がおったな。同じっちゅーても、そいつの冷静というのは、状況に入り込んでも自分を崩さんでいられるもんであって、俺のんとは同じであり、真逆な冷静。よく言っておったな、お前は淋しい人間だ、て。言われるまで、気付かんかった。気付いてへんフリしとったんや。俺が気付いとったのは、状況から抜けて、それを眺めている俺がおること。それが、淋しい、やなんて、思ってへんかった。

「せん、せ?」
「…ん?」

意識をこちらに戻せば、彼女は瞳を下の方でキョロキョロさせながら、どうしようもなく、だらんと垂れ下がった手を、俺の顔に伸ばしてきよった。…どないしよう。健気で可愛らしい姿に、強く抱きしめてやりたい衝動に駆られも、いざ行動を起こされてまうと、どうしたらええんか、わからんくなってもうた。そろり、彼女の両手が俺の頬に添えられる。これ、だ。俺が待ち望んどった、感触。温もり。緊張。流れる血流が、確かに感じられて、俺の鼓動が高鳴った。吐息というには、荒っぽい息が喉を抜けてゆく。

「ずっと、ね」
「ずっと?」
「触れてみた、かった…」
「え、」

素っ頓狂な声を出したのは、俺の方だった。届いたはずの声が、なかなか飲み込めん。一歩離れようにも、春菜の手がそうさせんでいる。どこにも行かせない、ちゅーよりも、どこにも行きたくない温もり。離してくれないんじゃない、離したくない。ちゅーか、そんな可愛えこと言われて、手離せる男おらんやろ。

「春菜、」
「…はい?」
「俺の専属、院長に頼んだる」

笑ってみせると、彼女は瞳を細めて、はにかんでくれた。この笑顔を、俺は遠くからずっと見とったんや。だけど、近くで見るんも、こんなに夢中になるんも、春菜が初めて。
責任、とってもらわなあかんな。











汚れたレンズ無しで見る、
彼女のまっしろな瞳の中へ。




090325 侑士先生とナース