PhaseT

7話 人語を理解する合成獣

 いつもそうだった。天気の悪い日の朝は、肩に違和を感じて目が覚める。皮膚や筋肉が張ったような痛み。しかし痛み止めなんて高価な薬など持ち合わせておらず、肩に手を当て温めることでこの微妙な違和感に慣れるのを待つ。
 しばらく頃合いをみて、上体を起こしたキアーラはカーテンを開け、窓越しの空を見た。厚い雲に覆われ、遠くから小さく雷鳴も聞こえる。今日はきっと、雨が降るだろう。


* * *


「私、明日の午後にはここを発つよ」

 朝の挨拶もそこそこにして、タッカー邸の門前で顔を合わせたエルリック兄弟と足並みを揃えるとキアーラは開口一番帰郷を予告した。今のところ予定通りの工程を沿っているため、あらかじめ師が許容した一週間はこのイーストシティに滞在することが出来そうだ。タッカー邸で資料を読み漁り、調べた内容を擦り合わることを繰り返し、そして時折、運動不足の解消を名目にニーナやアレキサンダーと遊ぶ。キアーラがになう本来のおつかい≠ノはない楽しさだった。そして良い思い出になった。これから先、耐え難いことがあってもこの記憶が乗り越える力になってくれるかもしれない。マスタングのたくらみ通りになった決まりの悪さを、このときだけは脳裏の端に押し除けることにした。
 一歩先を歩くアルフォンスは、「そっか。残念だけど、しょうがないよね」と声を僅かに沈ませた。この時間を忘れないでおこう。キアーラは振り向いたアルフォンスの硬質な顔を見据えて、内奥にある湿っぽい気持ちを隠すように口角を釣り上げた。

「寂しい?」
「当たり前じゃないか。友達と別れるのは寂しいでしょ?」
「アル…、私…ここに住む…」
「オレらも調べ尽くしたらイーストシティ出るからな」

 こうして冗談を言えるくらいにはこのエルリック兄弟とも交流を深めることが出来た。
 知ってはいたが、本当に根無し草の旅をしているらしい。「なんか知らねーの?」と賢者の石や生体錬成の手がかりを得るのに次の探訪先のヒントを得たいらしいエドワードへ、生体錬成そっちは管轄外だからなぁ」と曖昧に返しておいた。一つ、南方軍が所有するキメラについて記した研究資料の存在をキアーラは把握しているが、それは世に出すべきものではないため、この場では伏せることにした。
 途端、遠くで雷鳴が聞こえた。朝よりさらに厚くなった雨雲を同時に見上げ、「今日は降るなこりゃ」と言うエドワードにキアーラは頷いた。
 アルフォンスが呼び出しベルを鳴らす。しかし、昨日までは鳴らした途端に聞こえた小さな足音が今日は一向になく、おずおずと扉を開け、「こんにちはー。タッカーさん今日もよろしくお願いします」とのアルフォンスの呼びかけにも返答はない。

「あれ?誰もいないのかな」
「鍵が開いてるんだからいるんじゃねぇの?」

 静かすぎる。父と娘、それから大型犬が暮らすにしては広すぎる屋敷とはいえ、キアーラたちが知る限りこの時間帯は他と違えず生活の音が絶えなかったはずだ。二日目に大泣きのニーナに出迎えられたことも記憶に新しい。三人は顔を見合わせ、緊張した足取りで屋敷に踏み入った。
 この曇り空で灯りすら点いていない廊下は随分と薄暗い。タッカーやニーナを呼びながら歩くエドワードとアルフォンスに対し、後ろに続くキアーラは意図して腰に差した拳銃を撫で付けるように触れた。南を拠点としているものの、おつかい≠フため各地を巡る非日常が当たり前の生活であるキアーラが、タッカー邸での日常を経験した上の普段と違う≠ニいう些細な非日常が、本能的にキアーラに警戒心を駆り立てさせた。
 不審者がいるのかもしれない。なにか事故があり身動きがとれないのかもしれない。一方、寝過ごしているだけか、家族全員で外出しているだけなのかもしれない。もし後者なら、何事もなかったかのよう過ごしたらいいだけ。しかし何も備えずにいるには、このような不自然から導かれる答えをキアーラは知り過ぎていた。

 ダイニング、キッチン、ニーナの部屋などの生活空間、普段使わせてもらっている資料室にもタッカー一家の姿はなかった。あとは最奥にあるタッカーの研究室だが国家錬金術師の研究室だけあって部屋数は複数あり、ここに居なければ外出中かと出直しも考え始めた刹那、開け放しにされた扉の奥に片膝をついた人の影を見た。

「なんだ、いるじゃないか」

 エドワードに声を掛けられ、「ああ、君たちか」とタッカーは鷹揚に立ち上がる。

「見てくれ。完成品だ」

 その足元には長毛の四肢動物。重たいこうべを垂らしお座りをするそれはイヌのように見えるが、体を支える足は隣に立つタッカーと比べると二倍近くはあり、イヌにしては巨大すぎる。

「人語を理解する合成獣キメラだよ」

 完成品≠早く見せびらかしたいのか、ぽかんと口を開けたままの客人を置いて再びキメラの傍に膝を立てたタッカーは、「見ててごらん」と仕込んだらしい芸の披露を始めた。

「いいかい?この人はエドワード」
「えど…わーど?」
「そうだ。よくできたね」
「よく、でき、た?」

 タッカーの言葉をたどたどしくも復唱したキメラは、「信じらんねー」と度肝を抜かれているエドワードを見据え、再び「えどわーど、えどわーど」と刷り込むように繰り返す。
 復唱しただけでは言語を理解したとは到底言えないが、イヌの様相でここまで明瞭に発声することができることだけでも功績だろう。「査定に間に合ってよかった」とタッカーは言うが、国家資格を取得した際の症例以上の評価がされないと前年の二の舞ではないかという指摘は飲み込んで、キアーラはアルフォンスと共にエドワードの肩越しにキメラを観察した。

「えど、わーど、えどわー、ど」

 本来のイヌなら四本指である後ろ足には五本の指があり、頭部から尻尾にかけて身体の正中を沿うように甘栗色の長毛が生え、それ以外の部位は長毛に比べ色素が薄く短い。しかしそこに不自然さはなかった。哺乳類同士を掛け合わせたのだろうか。
 錬成式を考えるのもだが、それを実行するにも相当な練習が必要だっただろうとタッカーの努力に嘆息する。査定を乗り越える目途が立ったからか、安堵した様子が伺えた。

「これで首がつながった。また当分研究費用の心配はしなくて済むよ」
「お疲れ様です。ぜひ論文を拝見したいのですが、そちらは?」
「いやぁ、そっちはこれからなんだ。でも大丈夫。徹夜すればすぐ終わるさ。申し訳ないけど、査定に通れば科学雑誌に載る予定だからそれまで待ってね」

 首裏を掻くタッカーに「楽しみにしています」と返し、口元に笑みを浮かべる。しかし屋敷に入るより前から感じていた違和が、平常なタッカーに暗い影を落とし、警戒を怠るなとキアーラを刺激させた。元より意識の範疇にしていた銃が妙な熱を持ち始め、それが本能が訴える警告だと気付いた、そのときだった。

「タッカーさん。人語を理解するキメラの研究が認められて、資格取ったのはいつだっけ?」

 背中を丸め、唐突に問い掛けたエドワード。顎を摩るタッカーは、思いもしなかったというテイで記憶を想起させている。

「ええと…、二年前だけ」
「奥さんがいなくなったのは?」
「…二年前だね」
「もひとつ質問いいかな」

 感情を押し殺した声で質問を連ねる。キアーラがその意図を理解したとき、ついに銃のグリップを握り締めた。

「ニーナとアレキサンダー、どこに行った?」
「…君のような勘のいいガキは嫌いだよ」


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