PhaseW

45話 青臭い理想を隠し

 セントラルシティで新たに借りた家に帰る事も出来ず、軍法会議所の臭い男便所で身支度を整えている鏡に映る自分の草臥くたびれた様に辟易としつつも、ロイ・マスタングは今の境遇に自ら進んで飛び込んだこの選択を間違いだとは思っていなかった。目的を果たすためなら、便所飯、便所身支度程度は甘受すべし。東部の田舎支部から転属してきたお上りさんと見下す中央の連中をいずれは遥か上から見下ろす日を楽しみにしながら、そして親友の死の真相を明らかにし、親友と、その妻子の無念を晴らす日に焦がれながら嫌がらせのように積まれる仕事を日々こなしていた。
 しかし、こうも髭面では女性にモテないな。生憎、カミソリは自宅に置いたままであった。顎に手をやり、連日僅かな時間を見つけては書庫に通い詰めている事で分刻みとなったスケジュールの中から、どのタイミングで抜け出せそうかと自宅へ戻る手間をかける気になっていると、ガタンと物音が聞こえた。少し顔を上げると、視界に飛び込んできた鏡に映る自分の髭面。そしてその右上部には彫りの深い見知った髭面がじっとこちらを見下ろしいて、名門アームストロング家の存在を知らしめるが如く輝く存在感に、草臥れ締りのない顔が引き攣ったように感じた。

「どうも」
「ああ」
「少しお痩せになったのでは?」
「ああ」

 隣の手洗い場に並んだアームストロング少佐へ努めて無感情に返事をしながら、これ以上他に便所に籠っている者がいないか注意深く周囲の気配を探り、自分達二人だけだと確認し、周囲の気配に疎かになっていた自分を密かになじった。
 彼とはマース・ヒューズの葬儀以来だ。先日は大総統の南部戦線視察に護衛として同行していたのだと噂は聞いており、放浪癖のある大総統に振り回され、その最中に相当な事件を収束させ、同行した側近達以外にも南部軍人や軍務局の連中が未だに後始末に追われているという噂も耳にしていた。

「ケガしたのか」

 額に巻かれた包帯の下には、その際に負った傷が残っているのだろう。少佐という彼の地位や出身家系からしてみれば、自分は比較的安全な後方で陣頭指揮を採り、現場は部下に任せていてもおかしくはないのだが、家訓があるのか彼の性格故か、根っからの現場主義、前線主義、筋肉主義を貫き、部下を押しのけ自分から危険極まれる現場へと赴き、大小の怪我が絶えないのがアームストロングという男だ。
 それにしても、今回は大層な怪我をしているように見えた。部下を持つ者が簡単に負傷を許してはいけないという上に立つ者の心理、それ以上に肉体増強を趣味とするアームストロングが、ここ数年の間に目立つような箇所に怪我をしたという話は聞いていない。

「南で少しりましてな。なに、かすり傷です」

 穏やかな口調に相対し、喉元を絞るような声を発したその胸中を瞬時に察したマスタングは、今後数カ月は鍛錬漬けになるだろう勤務後のアームストロングを思い浮かべ、夕方以降に彼を捕まえるのは難しいなとぼんやりと考えていた。
 アームストロング自身もそれ以上深堀して欲しくない心理の表れか、間髪入れず、「そうそう、エルリック兄弟に会いましたぞ」と、心持ち声色を高くして言っていた。

「南方司令部に査定に来ておりました」
「そうか。まだまだ軍の狗をやる気だな」

 今度は南部にまで行っていたのか。エルリック兄弟の動向といえば、生前のヒューズから娘自慢のついでとばかりにマスタング中央招聘の件を聞きかじったあの電話口で、中央での護衛について話したのが最後であった。
 数カ月の内に東部から中央、それから南部へと渡り歩く行動力に今さら驚きはしない。それとは別に、エドワードにとって三回目となる査定がすでに終わっているという月日の早さに、マスタング自らもエドワードの国家錬金術師名簿作成に関わった過去の記憶が想起され、「鋼のも、もうじき十六だったか」と感慨が口から零れ落ちた。そして、国家資格を得てして得られる多大な特権に付き纏う、軍属としての義務を背負う小さな背中と、マスタングの中にある過去の凄惨を思い浮かべた。

「元の体に戻るのが先か、人間兵器として戦場に駆り出されるのが先か」
「……あのような」

 同じ記憶を辿ったらしいアームストロングが毒を吐くように言った。家柄や功績だけ見れば、少佐などという地位に留まっていい男ではないアームストロングが、九年間も出世の道を閉ざしたかつての戦場の光景がさらに脳裏で像を結ぶ。止まらない仲間の血。簡単に散ってゆく命。銃弾。

「あのような戦場に少年を放り込むと言うのですか」
「鋼の錬金術師は、人間兵器として使われるかもしれないリスクを覚悟してこの世界に飛び込んでいる。大人も子供も例外は認められない」

 ロックベルの家で、手足と弟の身体をなくしてばかりだったエドワードへ、マスタングは元の身体に戻る一つの道筋を提示し、エドワードはそれも承知と覚悟し、アルフォンスもそのような兄と同じものを背負うのだと、自分自身が研究材料となるリスクをも負い、その結果エドワードはたった一年後に中央の試験会場へと現れていた。

「建前ですな。誰もそんな世界は望んでいません」

 そうだ。建前で、子供が国のためにと人を殺す世界など誰も望んでいない。しかし、国を守るという理想を追い求め、最も理想を実現出来るだろうと希望を持って軍の特権を享受してしまったマスタングは、エルリック兄弟の背中を最初に押したマスタングは、兄弟の覚悟を無視する事も出来なかった。

「軍人でありながら、君はこの軍事国家を否定するのか」
「否定はしません。ただ吾輩のこの力は、この国の弱き人民を守る力でありたいのです」

 避難がましくこちらを見下ろすアームストロングの、苛立つほどに自分と同じ理想を掲げる無様さに眉間に力が入る。なるほど。だからこの男は九年経っても少佐のままなのか。年甲斐もなく青臭い理想を堂々と語り、並み以上の功績を出していたとしても、過去の痴態とこの素直さで、腐りかけた上層部のお偉方は共感性羞恥で悶えているのだろう。
 そして、マスタングは案外上層部の鼻とやらは鋭いらしい事もこの時になってようやく感じ取った。

「あの内乱を経て、この国は変わらなければならぬところへ来ているのではないでしょうか。そして、それが出来るのは戦場の痛みを知り、かつ、冷静に上を目指せる人物です。マスタング大佐。……少し喋りすぎましたな」

 青臭い理想を未だに秘め、アームストロングとは別の手段を持って理想を果たさんとするマスタングのこれもまた、上層部から嫌われる所以なのだろう。
 見透かされ悔しいのか嬉しいのか、この心境を誤魔化すように「なんの話だね」ととぼけ、首にかけていたタオルで緩む頬を乱暴に拭う。普段よりも髭剃り後のひりつきが強く出るかもしれない。

「それから。南方司令部の例の・・部隊を見かけ……、いや、見かけたとは烏滸がましい。気配のようなものを感じました」
「ほう、なかなか良い体験をしたな」

 洗った手を丁寧にハンカチでふき取りながら、雲を掴み損ねた子供のような決まりの悪さを顔に映し出したアームストロングを前にして、例の部隊の関係者としては先達であるマスタングは妙な優越感を得ていた。振り回されるというより、手のひらの上で転がされている自覚がある己の身を思えば、仲間が増えて嬉しいと感じているのかもしれない。
 であるなら、アームストロング自身も今後とも彼らに都合よく利用されなくもない。その哀れさを慰めるように、マスタングは一つ助言をする事にした。

「私はかつての上官経由で教えられたが、上官曰く、あれは将来、軍の存在理由の一つとなるだろうとの事だ。近づきすぎるのは危険だが、上手く利用できれば利益は大きい。」
「……はい、あの、では南部で起こったあの事件は」
「彼らが動いていたのなら、思っているより根深い事案だったのだろう」
「実は、例の秘蔵っ子も現場で……、むしろエルリック兄弟としっかり関わっておりまして」
「つまり……、なるほどな。情報感謝する」
「いえ、構いませんが、もしや」
「それ以上は口にしない方が良いぞ、少佐。口留めされているのだろう」

 ヒューズの葬儀後の詰問を思い出したのかむぅと小さく唸るアームストロングへ、マスタングはさらに空気を一変させる言葉を口にした。

「兄弟にヒューズの死は知らせたのか?」

 マスタング自身の体内に燻る毒気が充満するような気配がした。再び顔を固くさせ、言い出せなかったと応えたとアームストロングへここ数日得た内容を突き付けた。

「第五研究所と賢者の石。石の材料は生きた人間。世話好きのあいつの性格だ。エルリック兄弟が調べていた事に首を突っ込んで、知らなくてもいい事を知ってしまった。違うか? 自分達に関わりを持ったせいでヒューズが死んだと知れば兄弟が傷つく……か。人が良いな、君は」
「……ずいぶんお調べになりましたな」
「もうひと息だ」

 ヒューズを殺した人間を見つけ出すまで。
 彼らが関わっているのなら、丁度良い。こちらも利用してやろうとアームストロングの本意に反して首を突っ込む気満々のマスタングは、次の行動を起こすべく、軍服に袖を通した。
 アームストロングはそこまで知っているのならと追従する気持ちになったのか、一つ頷き、男便所の扉を開けると先に上官を通した。

「気を付けてください。どこで誰が聴いているかもわかりませんので」
「ああ」

 背後の警告を聞き入れたマスタングは、さてどこから彼らとコンタクトを取ろうかと新たな計画を練り始める。賢者の石など見向きをしなかったはずの彼らの所属元が、一体どういう訳があってこちら側錬金術と関わる事になったのか。国防と国益を遵守する彼らの所属元の理念を考えると、ヒューズが知ってしまった国の暗部の根深さをさらに深刻なものへと認識を改める事も出来た。
 悠長に構えられないな。元よりそのような気概ではあったが、疲労など感じている場合ではないと尻を叩かれた気持ちだった。
 そして、その翌日であった。あれからきちんと髭を剃り、外回りの仕事から中央司令部総合庁舎へ戻ったのと同時に、かのエルリック兄弟と思わぬ再会を果たした。国家錬金術師のスカウトのためリゼンブールへ赴いた際に出会った彼らの幼馴染の少女を伴い、マスタングには決して見せない無垢な笑顔でヒューズ中佐に挨拶をと言うその言葉に応える事も出来ず。
 妻子を連れて田舎に帰ったとうそぶき、残念そうに肩を落とす彼らとこれ以上同じ空間にいたくないという大人げなさから総合庁舎へ足を向けるマスタングは、しかしエドワードの「あっ、ちょっと待てって!」という声に振り向かざるを得なかった。

「なんだ」

 急いでいると言外に伝えつつも、意図してマスタング相手に生意気に接している自覚があるエドワードが隣に立ち、内緒話をするように顔の横に手を添えて囁いた。

「実は、キアーラも一緒に来てるんだ。今は別行動だけど、しばらくはフィリダとして一緒に行動する事になってる」

 そんだけ! と最後は声を張り、弟と幼馴染の元へ駆け戻ったエドワードはさっさとこの場を立ち去る様だった。
 幾らか彼らと距離を取り、会話が聞こえる距離に自分達以外居ない事を確認したホークアイ中尉が、まず今さら子供扱いするのかとマスタングを詰った。アームストロングの青臭さをこれ以上責められないという諦めが口にも出てしまい、しかしホークアイはそれを安心したような微笑みを浮かべつつ、溜息を吐いていた。
 その次の瞬間には、上官へ上げるべき報告を口にすべく、固さを取り戻した表情で複数枚の書類を纏めたバインダーをマスタングへ差し出した。

「その少佐の部下ですが、ヒューズ准将殺害の重要参考人として聴取を受けている者がいます」
「本当か!?」
「マリア・ロス少尉。本人は犯行を否定していますが」

 名前を聞き、書類に記録されている顔写真や所属、経歴以外にエルリック兄弟が南部へ旅立つまで護衛として勤めていた最近の職務内容を素早く目に通しながら、急浮上した仇疑惑の女性への怒りが胸中を渦巻く。しかしそれ以上に、それらの記録からヒューズ准将殺害に至るまでの動機のなさ故の違和感が勝っていた。

「ロス少尉に関する資料を集めろ」
「どこまでですか?」
「洗いざらいだ。急げ、だが極秘にだぞ」

 何がどうして、国の暗部を知ったはずのヒューズの死の真相を知る者が、なぜ堂々と犯人として名前が報道されるのか。ある程度内情を知ってしまえば、表からでも気配を放つ裏の思惑を嗅ぎ付く事など容易で、マスタングはホークアイへ左腕を摩りながら指示を出した。

「あの子の仲間が近くにいるはずだ。巻き込め」
「はい」


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