PhaseV

35話 名前を呼んで

 師匠せんせいの攻撃をものともしなかったあのグリードが、圧倒されている。キング・ブラッドレイの攻撃を受けながら水路の奥へと縺れ込んで行った二人の戦闘の音が地響きとなって、地に伏せたアルフォンスにまで伝わっている。

「起き上がれる?」

 このような時でも冷静さを欠かない落ち着いたトーンで、しかし心配しているのだと伝える柔らかみのある声色で、アルフォンスの背中に手を添えたのは──……。

「今は、何て呼べば良い?」
「なんでも良いよ。アルフォンスが言いやすい名前を呼んで」

 次々と舞い込むあり得ない℃桝ヤに、混乱により浮遊しているような心地だったアルフォンスは思いついたまま言葉にしていた。しかし毎度毎度異なった人格を装いアルフォンスの前に立ってきた彼女の口からは、予想外の言葉が発せられた。『今ならどの名前を呼んでくれても大丈夫』と言った精肉店での休憩室とは全く違うこの環境と状況で、選択を迫るというより、委ねているかのような声で。
 今の彼女は、一体どちらだ。アルフォンスはまずそこを手がかりとしようとした。しかし胴内に居るマーテルの重みで身体を思うように動かせず、横に膝を立ている彼女の声でしか判断材料がないせいで、上手く判断がつかない。
 状況上、おそらくは本名の性質が強いのかもしれない。だが、彼女は常に誰かの意思と指示に従い動いている事を思い出し、『アルフォンスが言いやすい』名前ではなくきっと彼女はこちらの方が安心してここに居られるだろうと考え、決した。

「……フィリダ」

 すると肩を押し上げるように体を起こしてくれた彼女が、正面で腰を折り視線を合わせてくれた。マーテルの反撃がないようアルフォンスの頭部を押さえるという抜かりなさに、なんだか一抹の安心感を覚えた。

「まったく、警戒しろって言ったばかりなのに。何ほいほい誘拐されてんの」

 タッカー邸で、半日ニーナ達と遊び倒して資料検索の時間を無駄にしてしまった時のように、溜め息交じりに吐いた小言。

「ま、命があればこっちのもんか。手出して。鎖解くから」

 切り替えも早く、両手を括る固い錠と鎖を観察する目は探究者としての聡明さを色濃く映している。

「すごいね」
「そんな事ないよ。全部先生の指示に従っただけ」
「それでもだよ。ありがとう、フィリダ」
「──はっ、どういたしまして」

 称えた言葉の裏に隠れたシニック的な含意を感じ取ったらしいフィリダは、鼻で笑いながらアルフォンスの頭をガンガンと何かの合図かのように二度軽く叩いた。胴内に身を潜め、フィリダの動向を警戒するマーテルへの牽制か。それを最後に頭を固定していた手をコートの裏ポケットに入れた。
 そこから万年筆を取り出したかと思えば、キャップを開けた先はピッキング用の鉤が現れ、アルフォンスの前に膝を付くと錠の鍵穴にそれを差し込み開錠を試みている。兄のように手合わせによる錬金術を使えば一瞬だろうに、フィリダ≠フ設定が錬金術を齧った程度であるため、それをこの場で使うわけにもいかないのだろう。
 あ、案外キアーラを知った上でもフィリダとやっていけそうだ。先にあの気持ち悪さを体感したおかげかもしれないと、アルフォンスはふと思った。

「お前、何者だ」

 かちゃんと開錠の音が耳朶を打った瞬間、アルフォンスの中でマーテルの囁き声がこだました。フィリダは顔を上げず、手早く鎖を解きながら静かな声を発した。

「あなたの元同僚から、伝言を預かっています」

 それは問いの応えになっていないようにも聞こえる。しかし、アルフォンスは監禁されていたあの部屋で聞いたマーテルの過去に身を置いていた境地を知っており、フィリダが言う元同僚≠ェどこの誰を指すのか、察しがついてしまった。
 胴内に居るマーテルの呼吸が僅かに早く、浅くなってゆく。

「『すまなかった』と。他の方にも、あなたから伝えてあげてください」

 だから、まずはここから出ますよ。そう続けると鎧に阻まれているというのにアルフォンスの腹部をひと睨みし、解けた鎖を先程のナイフ同様、水路へ投げ捨てた。
 アルフォンスにだけ歯軋りが聞こえた。彷彿する何かを必死に押さえこんでいるように聞こえ、何も声を掛ける事ができなかった。

「……外はどうなってるの。グリードさんは?」

 感情を大いに揺さぶられただろうに、しかしマーテルは言葉を紡いだ。不安や怒りなどの色を表面に残しながらも、状況を確認しようとする姿勢からは冷静さを窺えるものがあった。

「わからない。暗くてよく見えない」

 先程から派手な戦闘音が絶え間なく響いていた。余程激しい攻防が繰り広げられているらしい事しか伺い知れず、フィリダが拘束を解いてくれるまでそれを聞いているだけであった。ようやく多少の自由が効くようになって、音の発生元へ体を捩る。
 ──途端、ぱたりと闘いの音がやんだ。

「ちょっと下がれる?」

 傍にいたフィリダがアルフォンスの盾になるように一歩前へ出る。おそらくは武器を体のそこかしらに潜めているだろうがそれらを持たず、体をやや斜めに構えて接近戦に備えているようにも見えた。
 暗闇から、こちらへ歩み寄っている覚束ない足音が耳朶を打つ。「誰だ!?」とアルフォンスが警戒のため声を荒らげても止まらないそれが、天井のランプで照らされた範囲に入った。
 グリードだ。自分を解体しようと目論んでいるというのに、何故か無事でよかったと安堵してしまった。情が移ってしまったのだろうかとそれ以上の感慨を抱く前に、全ての思考を離断させる刃が、グリードの後頸部を突き刺した。

「グリードさ……」
「ダメだ!!」
「うわぶ!?」

 胴内から飛び出ようとしたマーテルを間一髪のところで押し込めた。師匠に劣らない強さを持つグリードを地に伏せた大総統に対して、本能的に感じた危機感。前に立つフィリダも、じりと足底を擦り僅かに後退している。

「……っこの!開けなさい!!」
「だめだよ!出たら危ない!」
「出しなさい!」
「ダメったらダメ!」

 中を拳で打ち付けられてもこれだけは譲れない。出た瞬間に、マーテルはグリードを助けるためにブラッドレイへ飛び掛かるだろう。それをしては、殺されてしまう。人造人間ホムンクルスであるグリードだから今もまだ生きているわけで、普通の人間であるマーテルは、即座に斬り捨てられてしまう。
 するとフィリダが振り向いた。染み付いているはずの無表情な顔から汗を流し、濃紫の瞳が大きく広がっているようにも見える。その視線はアルフォンスより後方を向いていた。釣られてアルフォンスも振り向けば、血濡れのドルチェットとロアが、体をよろけさせながら水路に現れた。

「ああ、くそ。さっきの所でくたばってりゃ楽に死ねたなぁ、ロア。まったく、ツいてねぇ」


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