PhaseU

19話 撒き餌

 一年を通して最も日中が長くなるこの時期、閉店間際の十八時前であっても窓から見える景色は随分と明るい。特に最近は人の行動時間も長くなり、この時間帯になってもまだまばらに人の行交いがあった。
 ロバート・シアラーは半日座り続けていた椅子からようやく重い腰を上げ、凝り固まった身体を両手を上げてぐっと伸ばした。壁掛けの時計を見上げてみると、時刻は十七時四十八分。あと十分と少しもすれば閉店予定ではあるが、オーナーも客もいない店内できっちり就業規則に則るつもりは微塵もなく、シアラーはぽっこり突き出た腹を抱えるように、レジ下の金庫にある鍵を取り出すべく身を屈めた。

「あーくそ、腰痛ぇ」

 国を想い、内乱に国境戦に軍事演習にと明け暮れた心身は退役から八年も経てば随分と劣化し、今やのらりくらりと晩の酒と肴を求めるだけの体たらく。膝や腰の痛みも感じ、今日は女を買うのも止めておこうかと思い悪態を吐きながら立ち上がれば、扉の前に女の姿を見た。
 ブロンドの髪に、青の瞳は典型的なアメストリス人の配色。今日は妙に女の客が多い。昼前に来たガキ二人よりもこの女の歳は上だろうが、首筋やスカートから伸びる脚の肌の張りは妙齢の瑞々しさがあった。

「……もう終いだ。また明日にしてくれ」

 男の欲が喉元までせり上がる。しかし出口が開放され外部から目につきやすい場所である事を思い出し、努めて悪態を吐いたシアラーであったが、商品に目もくれず真っ直ぐこちらへと歩み寄る女にそれ以上は口を噤むしかなかった。
 明らかに客として来店した様子ではなく、元軍人として警戒に値する不自然な行動であったが、直線だった女の口元が目が合った途端に優しい弧を描いたそれに、シアラーは息を飲む。不意に十年前に別れた妻の若い頃を思い出してしまい目が反らせなかった。
 肩に掛けられたバッグに手を伸ばす仕草も、軍人の自分であったなら瞬時に戦闘態勢を敷いていた。しかし妻の面影を見てしまった今、息子の結婚を見届けた時に流した涙を拭うためにハンカチを取り出そうする姿が鮮明に脳裏を過り、バッグに伸ばした反対の手の中に忍ばせていたらしいスプレーによって顔面に吹きかけられた蒸気への反応が遅れてしまっていた。
 激痛が目に走る。のた打ち回るその前に口腔内には布を押し込まれ、悲鳴を上げる事すらできない。涙で滲む視界が最後に映したのは、出入口の扉の前に現れた複数の影と、醜く歪んだ顔で右手を振り上げた知らない女の顔だった。
 そして、首筋に鈍痛。シアラーの意識は暗闇の底へと陥ち込んでいった。


 隊長達の後に続いて半日ぶりの店内へ足を踏み入れたキアーラは、まず扉を閉め、店内全てのカーテンを引いた。

「無力化完了」

 振り返れば、先陣を切ったクローブも含め、要員が整然と己の役割を遂行していた。キアーラもシアラーを外部へ引き渡す役割を与えられていたため、先にシアラーの脱力した四肢を折り畳み大型の旅行バッグに詰め込むフィーランを手伝いながら、キアーラは外部で待機するトーマスへ「オブジェクトの無力化確認。連れ出します」と無線を送った。
 途端に裏路地側の小窓のカーテンに人の影が映る。ちらと外を確認し、静かに小窓を開くと手筈通りトーマスへ二人がかりで重い旅行バッグを引き渡した。そして、バックヤードへと続く扉の傍に膝を付いた隊長の下へ静かに集結する。
 この先へ進むべきか否か。最終的なこの判断は隊長が一任されていた。一日中ここ周辺を監視していたトーマスとオルセンの報告では店内への人の出入りは客のみで、直接シアラーと言葉を交わしているキアーラの見解では、この日のオーナーは出勤していないだろうという事。この奥には、おそらく誰もいない。

「クローブ、鍵はあったか」

 隊長はバッグヤードへと続く扉を指差しながら静かに発した。

「カウンター下にありました。このように」

 即答したクローブが手袋越しに持ち上げたキーホルダーには、『入口』『バックヤード』『裏口』…その他にもそれぞれ使用箇所がしっかりと明記された鍵がまとめてあった。なるほど、怠け者のシアラーを店先に立たせる代わりと言ってはなんだが、店を管理する側の人間はほどほどに几帳面な性格をしているのかもしれない。これなら迷わず鍵を使う事ができる。

「撒き餌≠ナすね」

 先に想定されていた一つの道筋の方向性がこれによって定まった事を、要員達は暗に確信した。肩透かしを食らい、疲労や苛立ちも一挙に押し寄せたように感じているのはキアーラだけでなく、一連の作戦に随行してきた他の要員達も同じである。しかし隊長はそんな事すら感じ取っていないかのような平然とした顔で全員の顔を見、僅かに揺らいだ空気を引き締める声で言った。

「違えるな。これは手はず通りに進んでいる。急ぐぞ」


* * *


 一日の軍務を終えようとしていた時、南方司令部司令官執務室に一本の電話が入った。軍回線によって連絡されたその電話を取ったマイアルは一言二言だけやり取りをすると、執務卓にて仕事をこなすレイチェルへそっと耳打ちした。それに対して一切の感情を表す事なく、マイアルや同室にいる他の補佐官達へ軍務の指示を出したレイチェルは、「今日は先に失礼する」と言って執務室を後にした。
 門前に立哨する下司官の敬礼を背に司令部からも出たレイチェルは真っ直ぐ帰宅した。このようにどこにも立ち寄らず帰宅するなどいつぶりだと思いつつ秘密の作戦指揮所も素通りし、自室へ足を踏み入れたレイチェルは軍服のまま電話のダイヤルを回した。

『久しぶりだね、少将。折り返しの電話をありがとう』

 三度のコール後、開口一番穏やかな男の声がそう言った。「今は中将だよ」と同じ調子で返すと、『あぁ、そうだった。ついでに司令官だ。出世したね』と感慨深げな言葉に混ざり、その腹の内に怒気を孕んだ様子も垣間見せる。当然だろう。男の過去を、現状をおもんぱかると電話を介して会話ができる事すら奇跡とも言えた。
 傍にあった椅子と電話機ごと窓際に移動したレイチェルはゆったりと椅子に腰を据え、夕日が白亜の建築物群に沈みゆく景色を眺めながら、「まだまだこれからさ」と囁いた。電話越しに鼻で笑う気配がして、しかしそれは男自身が抱く諦念けいねんにも思え、レイチェルは男の気が済むまで沈黙を保つ事にした。

『…中将、君の尽力には感謝している』
「………」
『もちろん今もだ。そして国内に住む多くのアエルゴ系の人間も、南方司令部君達の行いは正しいものだと思っていた。いつの日か、かつての母国へ帰る日が来るだろうと。細々と、しかし確実に交流を重ねていけば、国交も次第に開かれていくだろうと私達に夢を見させてくれた』

 一九一一年に勃発した第二次南部国境戦。その発端とされているアエルゴ人密輸業者と取引していたのが、この男が社長を務めていた板金屋だった。レイチェルが司令官へ就任する前から南部の業者との会食で何度か顔を合わせた事のある相手であり、彼らの目的を暗に同意し黙認していた筆頭が、当時少将のベティ・レイチェルであった。
 尽力と言えど、レイチェルは黙認し、彼らが隠ぺいに失敗した際には少々尻拭いをしたくらいでそう大した事をしたつもりはなかった。彼らの目的が果たされた時、国交正常化のため紛争はなくなり血を流す事もなくなるだろうと、レイチェルは期待もしていた。

『しかし、夢は夢だった。三年前に実感できた。君は上級将校だが、ただの地方の将校でしかなかった。…中央の、国の力とはおぞましいものだな、全てを飲み込んでしまった』

 中央軍に逮捕されたアエルゴ人業者は中央へ移送後三か月で秘密裏に処刑されたと、レイチェルは二回目勃発から一年経った頃、マイアルの報告でそれを知った。そしてこの男の会社は閉業を余儀なくされ、会社の重鎮達はアエルゴ人業者と同じく一度逮捕され中央へ移送されていたはずだった。レイチェルはそれ以降の男の行方を知る事はできなかった。
 ところがつい先日、男が改名し中央で工具店を開いている事を知った。弟子が私事で通っていた工具店が偶然にも男の店で、しかも中央司令部司令官副官付きの息子の顔も知っていると。件の任務で〇一であった男経由に聞いた弟子の話によると、店番をしていたオーナーとの会話の最中、家族の話になり写真も見せてもらった事があったのだという。息子に覚えがあったのも、その時があったからだ。
 今は工具店であるそれを板金屋≠ニ呼んだのは、元々南部を拠点にしていた板金屋≠ニ話していた事が印象に残っていたからだという。そこに至るまでどのような会話であったのが想像する他ないが、おそらく男がそこまで口を滑らせてしまったのも、弟子に同情したからだろう。アエルゴ人でもごく少数の家系に現れるという深紫色の瞳は、アメストリスでは殆ど現れない色彩だ。小国を取り込み膨れ上がった多国籍国家であるアメストリスでは、肌や髪、瞳の色などただの身体的特徴でしかないが、アエルゴ系アメストリス人として人種を意識し、活動していた男の身上がその些細な特徴を注視し、察してしまったからなのかもしれない。


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