夕暮れ。四天宝寺テニス部の部室にも西日が差し込み、幾多もの長い影を生成する。刻々と時は過ぎ、燃えたぎる空の遥か向こうで、数羽の鴉が間延びした鳴き声を発しながら住み処へと戻って行く。
ふと、せわしなく動かしていたペンを持つ左手を止め、白石は顔を上げた。
「…何や…もうこんな時間か」
ベタな独り言を呟いて、部誌を静かに閉じる。完璧なまでに整理された木製の棚に仕舞い、一息吐くと同時に大きく伸びをした。
「背伸びをする時は、呼吸に気をつけるんや。大きく吸って、吐く。意識してみると意外と難しいモンなんやで」
独り言である。
テニスバッグを肩に掛け、ドアの前でぐるりと部室内を見渡した。自分以外に誰も居ないこの部屋は、昼間の喧騒など無かったかのように、しんと静まり返っている。
電気、よし。
仕舞い忘れ、なし。
地デジ、よし。
俺、白石。
完全にアウェイである。
よし、と小さく頷いて、ガチャリとドアノブを回し、自然と外の空気を吸い込んだ。季節の風が頬をかすめ、眩しいほどの夕陽を浴びる。満足気な表情で、一歩踏み出そうとした…その時。
「っ!?」
右から、左へ
一陣の風が、目前を信じられない程のスピードで駆け抜けた。
舞い上がる粉塵。靡く自身の髪と、指定シャツ。
呆然と口を開けていた白石は、慌てて風が過ぎ去った方に目をやる。
"それ"は意外にも、5、6m先で砂煙の中こちらを見ていた。
一つだけ。ただ一つを除けば、それは間違いなく、白石自身よく知る人物そのものであった。
交わす視線の不自然さに、ごくりと唾を飲む。まるで時が停止したかのように、目が離せない。その場から動けない。
じっとりと汗ばむ手を握りしめ、やっとの思いで震える唇から音を発した。
「謙也。何してるん」
「何って…見て分かるやろ」
解らないから聞いている。
「何で…逆立ちなん?」
ああ、聞いてしまった…
触れてはならない琴線をぶっちぎってしまったような気がして、白石は思わず目を逸らした。
視界の端に、逆さまのドヤ顔がチラチラと映り込む。
「俺、スピードスターやん」
「…」
「例えどんな走り方でも」
「…」
「一番でいたいねん」
そこまで聞けば、もう十分だった。
白石は確信した。彼は生粋の、スピードスターなのだと。
フッと肩の力が抜け、未だ重力に逆らい続ける謙也に微笑みかける。
謙也もまた、腕をプルプルさせながら、白い歯を見せて笑った。