切原赤也は泣き虫な男の子でした。
大好きなテニスで負けてしまうと、人目につかないところでぽろぽろと、熱の篭った涙を流すのです。
「あらまぁ、坊や。ひどく赤い目んめをしてるねぇ」
赤也の影は、さも心配そうな声を大袈裟にあげました。赤也はじろりと影を一睨みし、聞こえないふりをします。
影はブオン、と二つに分かれ、ケタケタと二人分わらいました。
「なにが悲しくて泣いたのかい」
「なにも悲しくなんかないのに」
二つの影は、赤也の足元からは動きませんが、絶え間無く揺れておりました。視界に入るその度に赤也は苛々とし、壁に打ち跳ね返ったボールを取り逃がしてしまうのです。
ぺちゃくちゃとよく喋っていた二つの影は、少しの間をおいて、つまらなそうにブオン、と一つに戻りました。
「坊や、坊やったら」
「‥‥」
「あぁ独り言ばかりつまらないなあ」
にょっきりと二本の角を生やした影は、こうして何度も赤也に話し掛けるのですが、赤也はボールを打つことをやめません。
実は、赤也は少しだけ、影がおそろしいのでありました。
赤也は小さな男の子ですが、自分の影がかたちを変えてお喋りすることがいかに奇っ怪なことであるか知っていました。
影は、赤也が泣いて目をはらしているというのに、お喋りをやめません。
「どんなお話をすれば、坊やは口をきいてくれるかい」
赤也は黙々と、何度も何度も、新品のラケットを振ります。
「ねぇ、坊やはそれが随分とお気に入りだねぇ」
返事をしないでおりますと、影はシュルシュルと細くなり、まあるく円を描きました。
「それは、こぉんな形をしているね、どうだい坊や」
それがボールかラケットかは判りませんが、影は無邪気な様子でくるくる廻ります。
影のくせにとても陽気にはしゃぐそれが、なんだか少しおかしくて、赤也は初めて笑いました。
「ふう、目が回ってしまったよ」
「‥‥」
手を止めて影を見つめますと、赤也は何とも不思議な気分になりました。
「きみは、なんなの?」
絵本のような影は、赤也の視線を全身で受け止めるかのように、大きく両腕をひろげます。
「わたしは坊やの涙を飲んで」
影は、ぐいっとコップの水を飲むような動作をして、
「坊やの心の奥で肥大する!」
またまた、ケタケタと高く笑いました。
「‥ひだ、い」
「ふとって大きくなるんだよ」
揺れていた影は蛇のように、細く長くうねうねとし、ぴたりと止まり、そして今度はぼよんと太った人間の輪郭をつくり言いました。
「わたしは君さ」
すると次はしゅるんと細身の、シルクハットを被った手品師のかたちになり、右手をくるんと回してお辞儀をします。
「どういうこと?」
変化を繰り返す影は、急にくるりと赤也のかたちに戻り、しん、と静かになりました。
「‥‥?」
やかましかった影が急に大人しくなったものですから、赤也は首を傾げます。
「なんだよ、おい」
影に話し掛けてみますが、うんともすんとも言わないので、赤也はボールとラケットをしまい、夜になる前に家に帰ることにしました。
ついてくる影は、ただの影。先程までぺらぺらと饒舌だったのが嘘のようです。
いつの間にか赤也の涙は、跡形もなく消えていました。もやもやとした気持ちまでも、最初から無かったようです。
その日から、影は頻繁に話し掛けてくるようになりました。
「泣き虫坊やが、わたしは大好きだよ」
そんなことを言いおちゃらけて、ケタケタと笑うのです。
日を増すにつれ、影は少しずつ、濃く、立体的に姿を変えてゆきました。
赤也は感じ始めておりました。うっとうしいその影とお喋りをすると、泣きたい気持ちがどこかへ吸い込まれてゆくのです。
そのせいでしょうか。徐々に赤也は影との共存を楽むようになりました。あんなにも怖がったものでしたが、結局のところどんな不可思議も、幼い心には好奇でしかありません。
そして、ある日のことでした。
赤也はまた、テニスの試合で負けてしまいました。それはそれは悔しくて悔しくて、我慢しようにも涙がこぼれます。
テニスコートにぽたり、と滴が落ちたその一瞬でした。
大人しかった赤也の影が、巨大な口をぐわんとあけたかと思うと、その涙を美味しそうに貪り、赤也を包み込むように抱きしめました。
すると赤也の涙はスッと止んだのです。
しかし周囲の人々はどよめきます。誰も影の異変は見えていませんでしたが、顔をあげた赤也の眼が、泣き腫らした眼ではない、不気味な悪魔のような深紅であったことに、たいそう驚いたのでありました。
赤也を愛おしむように抱きしめた影は、そのまま、ズズズ、と赤也の中に入り込むように、ゆっくりと一体化してゆきます。
やがて、完全に赤也となった影は、赤也がニヤリと笑うのに重なって、小さくケケケ、と笑いました。
(泣き虫坊やが、わたしは大好きだよ)
我を忘れた赤也の頭の片隅で、影の声がノイズに混じり聞こえてきます。
ザザザ、とノイズがひどくなり、赤也のボールを掴む手が、指先が、ギチギチと音を立てました。
それ以来、
影がお喋りをすることはありません。