日報 ブログ ::酒場にて(ホフマン) 17日 サルヴァドールさん ヴェルヌの「神秘の島」を特撮怪獣ものに書き直した「SF巨大生物の島」という映画。 ネモ船長が来るべき人口増加と食糧危機に備え、動物を巨大化させてその肉を食糧にあてるため、ある島を実験場にします。 そこに紛れ込んだ主人公たちが、ハリーハウゼンの例のストップモーション特撮で、ばかでかい蟹(かわいい)や鳥とかと戦います。 けどネモ船長のこれは、人類の食糧危機に対して、ふつうに逆効果ではないのかな。 大型化した生物を養うだけのえさ分を、人間がとったほうが中抜き少ないです。 巨大生物が、とったえさより多くの肉を出すのだとしたら、熱力学の法則に反します。 こういうあれを、それしちゃうものですから、いろいろ難しくって、腕組みしがちのホフマンです。 垂れ流してましたが、長文気味だったのは情熱がほとばしったというか、初のパソコンから入りで勝手よくわからず、ボックスに直接テキスト打ってて、自分の文がどれだけ分量いったか、よく判らなかったのもあるかもです。 やりづれー、と往生しましたが、後で気づきましたけど、ワードとかで作って貼ればいいやんな(馬鹿)。 科学的なあれは私ほんとうに素人で、この日の内容も、ちゃんと勉強されてる方が見たら、失笑なことを言ってたかと思いますが。 まあそれゆえの盲人ヘビに怖じずで。ファンタジーですし、正しいも間違いもなく、世界を考えて見たいものですよね。 ビッグフリーズ、ビッグリップ、ビッグクランチからのサイクリック。 といった宇宙の終末図や方向性というか、たぶん、サルヴァドールさんは、人類の文明社会、文明生活の持続可能性をおっしゃられていたのかと思います。 でも魔法に制限のない世界では、エネルギーでも食糧でも環境でも、無から産み出せば済みます。産廃も時空の狭間へ投げて済みます。 だから、魔法にも限界が、言い換えれば、熱力学的エントロピーのような方向性があるのかが、とりあえずの問題になるかな?とおもいまして。 終末でなくても。例えばドラゴンは何を食べているのか。つまりそのエネルギーの出どころは。 それを不問に付すことは、世界に無限の性質を与えることにもなるわけです。 ドラゴンのは、あれです。 映画「コンタクト」で、ジョディ・フォスターが、宇宙人に会ったら何をしたいですか?との記者の質問に「何故、自滅せずやってこれたのか聞きたい」と答えます。 文明のどん詰まり、肥大化のしっぺがえし、進化の罠を、どう回避したのか。 ファンタジーなら、宇宙人ならぬドラゴンが、えてして人間より古く大きな力を得た存在。 彼らに対する反応で、いろいろのファンタジー観が占えるたりするようにも思います。 戦いたいという方。倒して栄光を得たい方。教えをこいたい方。素材にしたい方。食べてみたい方。なるべく会わずに暮らしたい方。飼いたい方。愛玩したい方。乗って飛びたい方。友達になりたい方。彼らとの間に子をもうけたい方。その牙に掛かって死にたい方。絶滅に瀕した彼らを助けたい方。人類のために根絶したい方。 あらゆる関わりかたが許されるはずです。 そしてホフマンは、おまえら何食ってんだ!と小一時間どころでなく問い詰めたい方。これはつまり「世界観、生態系の連鎖の中で、その存在をとらえたい」ということなのですけど。 目の前の対象を、なるたけよく理解しようと思えば、当然連鎖的に世界のことになるだけで。神の視点なんてとんでもない。 公平なんかじゃ全然なく、ネージュさんや馬たちには、全力でもってえこひいきします。 だれも先ずはそうして、世界観よりシナリオ上の役割や、思い描く関わり方ありきでドラゴンをデザインして、そうしたら当然ぼくのかんがえたドラゴンはロマン盛りとなり、普通の生物としてエネルギー収支の感覚に合わないものも多くなります。 けど描写されたことは真実で、基本的に認められるのだから、一見わからない仕組みでもって、現に彼らも生きているわけです。 その謎の仕組みを、とりあえず「魔法」という未知数Xとして、そのまま式を立てて考えを進めていく。ファンタジーとはそういう試みでもあるはずではないかな。 もうこの時点でそこそこ答え出てる気もします。 「こうあってほしい。こうあるはず」が先にたって方程式に入れられた数、といえば、アインシュタインの宇宙定数、Λ(ラムダ)です。 ハッブルの発見の後、宇宙定数導入は自分の観念を混ぜて理論をねじ曲げて、科学者として人生最大の失敗だったとアインシュタインは悔いたともいいますが、それが、今で言う観測できないダークエネルギーの予測になってたかもと、後に見直されたり。 魔法は、ファンタジー世界の成り立ちと行き先をになうΛのようなもの。 だからそうしたドラゴンありきで、世界を考えてみることも、出来るのでしょう。 Roll&role誌の「うちファン」の小林裕也さんのうけうりで言えば、ドラゴンを設定すると、それを養う住環境の生態系も設定する必要が出てきます。 一頭の虎が生きていくためには年間数十頭からのシカやイノシシが必要。そのシカ達を養うには、その数十から数百倍の草が必要。 ドラゴンのコストは虎の比じゃないでしょう。大きいうえに、羽ばたきで飛ぶとなると、消費カロリーは。 彼らが暮らすなら、まわりの住環境はよほど濃い生物相に満ちていて、どれだけ食べてもぽこぽこ生命が生まれてくる場所でなければ。それに、のべつ一日中もぐもぐ食べていなければならなくなったり。 となると土壌の地味の消費が激しそうです。そんなペースでいつまで持つのでしょう。 となると、そこは「マナが濃い」のような魔法的な理屈が要請されるでしょうか。 この大食らいという特質は、そのまま環境への圧であり撹拌でもあり、それ自体が環境でもあり。 例えば牛。 牛肉1キロ分を生産するには、カロリーベースでその11倍ほどの飼料が必要と言うでしょう。目減りしたぶんは牛が生きるのに使って、空中に熱として放出したのです。 人間からすれば、飼料を直接食べたほうが経済です。 ただ生物濃縮とか、食べるものの住み分けがあるから、一概にその限りではないのでしょうが。 いくらたくさん草が生えていても、人間はセルロースを分解できないので、直接利用できない。 牛はそれをエネルギー利用でき、その牛に養われた肉や乳なら、我々にも利用できる。 人間の都合からいえば、牛は草を肉に変換してくれてる装置です。けどその過程で牛の取り分はある。牛からしたらかえって人間を利用してるつもりかもしれません。 実際はその牛も自分で草は分解できなくて、胃の中の微生物がやってくれてるぶんから、いわば家賃をとってるんですが。これも細菌としては、牛を利用してるつもりかもしれません。 だから共生関係に安易な罪悪感をもちこむのは、かえって対象への奢りや無理解でもあるのかもしれません。 でも、彼らを可愛いと慈しんだり、逆に怖いと避けたりする気持ちは、それとは無関係にあるのじゃないでしょうか。 人類の終末自体は相対化できることでも、そこに恐怖なり悲しみなりが残るという、そこのところをホフマンとサルヴァドールさんも話してました。 たとえば可愛いのは、動物の生存戦略だったり。 恐怖のようなアラーム機能も生存戦略だったり。 そういう機能性からの視点のことはいくらでも言えますけど、それは目的論的です。 また、小心者が世界を救うか。 勇気によって生き残る者と、慎重さによって生き残る者と、どちらもあるはず。多様性。 しかし多様性は種が一様に共倒れにならない「ために」あるという目的因から考えるのは、ダーウィニズム的には誤謬です。 進化は無作為で目的なんかなく、たまたまバラけて対応してたものが残るだけ。 感情が生存の機能として役立ったなら、たまたまで。感情を持ってる者が生き残った結果、今も居る。 でも淘汰でなく共生から考える進化論もあります。このあたり、無理にいい話にするとかでなく、考えて見たいですね。 そして勇敢と小心のどっちが正しい、と、状況の設定もなくひとからげに二項で優劣や正否を問うとしたら、解を得たいためでなく、自分がそのどっちか陣営だとして、その主語を拡大したいためでしょうか。 そうしてやり込め、統一する。多様性の減少と収斂にむかうベクトルですが、この収斂により生き残る自然選択も無論あるでしょう。 でも統一して皆同じもの食べるようになると引っ張りあいです。 えさごとの住み分け。 中抜きではあっても、草は人間食べないから、牛とは競合しないから、共生できる。 ドラゴンとだと、種によれば人間と食べるものが競合しそうだから、大変かもでしょう。 人間や家畜でなくゴブリンとかを主な餌にしてるドラゴンとかだと、益獣として共生できそうでしょうか。勝手な話ですが。 けどゴブリン根絶したら、バランス崩れるから、結局安心したモデルはなく、考え続けることになるのでしょう。 住環境がそれほど無際限の餌に恵まれていないなら、どこかから取ってくることになります。 ここに巨体で、かつ飛ぶ、というドラゴンの不利そうな生体にも考察の余地はあって、飛来してあちこち襲うために飛行能力や攻撃能力が発達しているのだと。 その結果大食らいになるとは、生物というより、コスト度外視のロマン兵器の考え方ですが。男子。でもそれも何かの撹拌を担うのでしょう。 逆にダンジョン型のドラゴンは、こちらから飛んでいかなくても、餌から来てくれるように、稼働化したとも考えられます。 彼らが財宝を集めるのは別に光りものが好きなのでなくて、人間をホイホイするための釣り餌で。で、ダンジョン内に張り巡らしたワナにかかった冒険者がいないか、蜘蛛か、アリジゴクか、定置網漁のように見回っているのかもしれません。で、彼らが残した装備はまた餌の財宝に加増され、吸引力はより強まり、事業が軌道に乗る。と。 そうでもないドラゴンは、霞かマナを食ってたりと、魔法説明になるかもです。 例えばこれも、マメ科の根につく菌が、空気中の窒素を土壌に固着して、植物が栄養として使えるようにしている、ああいうようなことと考えて。ドラゴンが空気中のマナを受肉し物質変換し、死んだ後は土壌になり、というサイクルを担っているのかもしれないですね。 そしてドラゴンが魔法生物なら。同じく、獣人がもともと魔法的存在だから、出力として魔法を行使できない説。 つまりこの世界では全ての生物は魔法的生物か、魔法を使えるか。というのは魔法の国ザンスのようなことです。 そして、だれもがそうして、実はある意味で魔法を使っているのだとしたら、この相対性には何か見覚えがあります。 我々は皆、時空間を光速で移動している。質量0なら。質量持ってると光速には達さない。 光速ではウラシマ効果が最大になるから、時間は経過しない。空間内を最大速度(光速)で移動するなら、時間内は移動できない。 この相対性は、獣人とエルフと、身体能力と魔法能力の相対性とも似ています。 ならM=mc^2のような相対性は、あってもいいような気はしますね。もちろん勝手に定義してはいけないですけど。仮説。 こう考えていくと、宇宙定数、また宇宙の7割を占めるというダークエネルギーなどが、魔法と対応して見ることができると先に思ったあたりが、何を示すのか、全然示さないのか、面白いです。 ダークエネルギーがある値をとるときに予想されるという、ド・ジッター宇宙のモデルは、ファンタジー作品のいくつかのラストにも対応しているような。 ド・ジッター宇宙では宇宙の加速度膨張により、ある程度密な重力系より外の空間は光速よりはやく離れていき、バラバラの小島のようになるみたいです。 我々にとっては、この太陽系が属す天の川銀河より外は事象の地平面となり、なにも見えなくなるとか。 この離別と存続。 ゲド戦記で、黄泉の石垣が崩れ、「別の風」に乗って、アースシーから全ての竜が去っていくように。 指輪物語で、力の指輪が葬られたことで、三つの指輪の力も失われ、中つ国からエルフ達が西へ去っていくように。 ナルニアのラストはちょっと違うかもですが、あれも現世に残った姉妹とは別々になって。 三大ファンタジーの全てが、幻想生物や幻想世界との離別を描いています。 またはマナの木と魔法が消えて、ポポイが見えなくなる。 または昇っていくラピュタ。 幻想の終わりと別れ、しかしそれは悲しいばかりのこととは描かれない。クラークがその終末を、いみじくも「幼年期の終わり」と題したように。 でもだんだん取り上げる例が、あれもこれもと節操なくて、MMRみたいになってきました。ではこの辺で。 あんまり無責任に共通項さがして我田に水引いてほらほら言ってると、四丁目のカドから、キバヤシが、来ちゃうぞ〜(ドルバッキーの音で) back ×
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