お前にいつでも俺を思い出すまじないを掛けてやろう、と言った時、彼は僕がここまで縛られることになるとは、きっと思っていなかっただろう。僕にとってこれは間違いなく、のろいなのだ。
『今日の満月を、古泉にやるよ』
『何ですかそれ』
二人で顔を見合わせて笑ったあの日を、僕は満月を見るたびに思い出す。それどころか、何をしていたって想うのは彼のことだけで、現に今だってただ部屋でコーヒーを飲んでいるだけなのに、彼のことを考えている。
会いたいですとだけ打ち込んだメールは、宛先不明で返ってくる。覚えていた電話番号も、今はもう全く知らない女性のものになってしまった。
あれだけ濃密で忘れがたい青春を過ごした僕たちは、彼曰く吊り橋効果によって生み出されたモノに突き動かされて、人生のほんの少し、けれど最も大切な期間を、恋人として生きた。お互い気を許しすぎた部分もあって、喧嘩が絶えず、それなりに話し合ったり縋り付いたりしながらどうにか続けた関係は、結局は終わらせるしかなくて、あの5人での集まりだってとっくになくなっていて、だからもう、連絡先も分からないような遠い人になってしまったのも仕方のないことなのだろう。
彼にとって僕への感情は勘違いだったのかもしれないけれど、僕にとっては間違いなく真実で、今だって忘れることもできないままだ。一人が寂しい夜には名前も知らない女性と肌を重ね合わせたりもしたけれど、特定の誰かを人生の伴侶に選択することもできずにいる。
僕の心にはいつだって彼がいて、例えば柔軟剤一つ買うのにも、記憶の中の彼に従ってしまう。彼が好んでいた無香料のものは余り店先で見かけなくなって、適当にフローラルの香りなどと書かれたものを買ったこともあったけれど、結局気に食わなくてネット通販で取り寄せたりもした。僕の人生から彼の痕跡を消そうとしてもきっともう無理だろうと思うほどに、彼が僕の一部になってしまっている。
きっと彼は、もうとっくに僕を想い出にして人生を共にする誰かを見つけているだろうに。
もう二度と会えないと思うから余計忘れられないのだろうか。楽しかったこと嬉しかったことよりもずっと、腹が立ったこと悲しかったことの方が鮮明に思い出されるのに、それでもなお、全てをひっくるめて愛おしくて泣きそうになる。失恋の痛手は新しい恋で癒すだなんていうけれどとんでもない。僕は一生、他の誰かに恋をすることはないだろう。
或いは穏やかな友情のような愛ならと思ったこともあるけれど、あの能力に目覚めたその日から失うまでの特異な経験を共有することができないのはストレスで、どちらにせよ僕はもう誰かと親しくなるのは無理に違いないとすら思える。
今や会社と家を往復するだけの毎日で、誰かと出掛けることもない。
『月が綺麗ですね』
『あぁ……、死んでもいいわ、だったか』
何を見ても何をしても全て彼と過ごした日々の記憶に結び付く。上書きできるほどの思い出も作れずにこの先もこうして生きていくのか。そんなことを思って口から出るのは忌々しいという彼の口癖。
こうしてぼんやりコーヒーを飲みながら彼の思い出に浸る日課をやめればいいのに、新しく何かをする気力もない。どこかへ出掛けようと考えるたび浮かぶのは彼と行った観光地や行楽地で、だから結局家から出ることすら僕にはとても難しい。
いっそ興信所でも使って彼の居場所を突き止めようかと考えたこともあるけれど、実際に彼が家庭を築いている事実を突きつけられたらきっと、僕は呼吸すらできなくなる。だから結局それもできなかった。人並みに幸せになりたいし愛したいし愛されたい。そんな希望を捨てることができなくて死ぬこともできないというのに、僕が愛しているのは今も彼だけで、それならやはり、彼が今どこで誰と何をしているのかを知って、気持ちに区切りをつけた方が良いに違いない。それでもこうして彼の記憶と生きる今だって幸せなのだと考えてしまうから、いつまで経っても前に進むことができない。
涼宮さんなら或いは、まだ彼の連絡先を知っているのだろうか。
そんなことを思い立って、ダメもとで電話帳を開き、彼女に電話を掛ける。
1コール目、まだ通じるのかという驚き。
2コール目、別の誰かに繋がるかもしれないと気付き。
3コール目、やはり切ろうかと迷い。
4コール目、もしもし、という聞き覚えのある凛とした声。
「……古泉です」
『古泉君!?久しぶりじゃない!』
元気だった?どうしたのよ何かあった?言葉の洪水に溺れそうになりながら、部屋を大掃除していたら懐かしくなってしまって、なんて適当なことを言えば彼女は古泉君らしいわねと相槌を打つ。
そのまま暫く思い出話に花を咲かせ、もう彼のことはいいかと思いかけた時にそういえばね、と涼宮さんが思い出したように言った。
『この前キョンも電話かけてきたのよねえ。古泉君とおんなじこと言って』
「そう……なんですね……」
彼女の口から彼の話題が飛び出した瞬間、僕の心臓は正しい速度を忘れてしまったように暴走し、大きく脈を打つ。
『転勤したんですって、前古泉君が住んでた家の近くに』
「……では、どこかで会うかもしれませんね」
そのあとの会話はよく覚えていない。いずれまた会いましょうという適当な社交辞令を述べて電話を切る。
彼がこの近所にいるかもしれない、と思うと居ても立っても居られず、財布だけ持って家を出た。
もちろん、行く当てなど全くない。ただ、引っ越してきたばかりなのだとしたら、ホームセンターなどにいるかもしれない、と根拠のないことを思って、昔彼と色々買ったチェーン店へ向う。
当然いるはずもなく、けれどじっとしていることもできず、公園、スーパー、コンビニ、商店街、喫茶店、思いつく限り彼と一緒に行った場所を覗いて、歩き疲れて漸く諦めが付き、結局家に戻った。ズボンのポケットから鍵を取り出して階段を上ると、玄関前にしゃがみ込む彼が見える。会いたさの余りついに幻覚が見えるようになったのか、と呆然としていると、その幻覚と目が合った。
「よう、久しぶり」
片手を上げてだるそうに立ち上がる彼は、仕事帰りなのかスーツを着ていて、目尻に寄る皺が流れた時間を物語っている。幻覚にしては良くできている、と感心していると軽く肩を叩かれて、漸くそれが本物であることに気付いた。
「え、なぜここに……」
「さっきハルヒから電話があってな」
入れてくれ、と言われて慌てて鍵を開けて招き入れる。
懐かしそうに靴箱に触れ、慣れた手つきで靴をしまう彼を見て、記憶も感情も溢れて止まらない。それでもどうにか平静を装えるのは、高校時代の経験のお陰かそれとも年齢の所為か。
インスタントコーヒーの入った瓶を手に取って、そこで初めて自分が震えていることに気付いた。予期していなかった展開なのだから仕方のないことだろうと思うが、それにしたって随分と情けない。
お湯を沸かしている間何となく彼と同じ空間にいるのが気まずくてやかんの前から動けずにいると、彼がふらりと隣に立つ。
「なんか懐かしいな」
「……ええ、そうですね」
なぜそんなに平然としていられるのだろうとやや腹立たしい気持ちが沸き上がるが、彼は涼宮さんの電話で何かを思って自分の意志でここに来たのだろうから、当然と言えば当然か。
「……とっくに同棲なり結婚なりしてると思ってたが、この様子だとまだ独り身か」
「残念ながら」
苛立ちが隠し切れない声音に彼は小さく笑うとそうでもないさ、と答えた。
「俺としてはラッキーだ」
沸く直前の、微かに笛が鳴るタイミングで彼は火を止めマグカップにお湯を注ぎ、冷蔵庫から取り出した牛乳と氷を入れる。
「別れた恋人にわざわざ会いに来る理由なんて、一つしかないと思わないか」
「……と、言いますと」
彼の言葉に思い当たる節がなく困惑している僕に、彼は苦笑しながらマグカップに口を付ける。嚥下すると上下する喉仏が何となく好きだったのを思い出していると、一歩距離を詰められた。
「あの」
「言い訳は色々あるんだが、とりあえず、言いたいことは一つだ」
一歩逃げようとした瞬間に首筋を掴まれて、驚く間もなく雑に唇を重ねられる。
「好きだ古泉」
「順序が逆だと前にも言ったでしょう……っ!」
思わず口から出たのはそんな言葉で、狼狽える僕を見て彼は楽しそうにけらけらと笑いながらさっさと扉一枚隔てた部屋に戻っていく。どうせ彼は部屋に入ってからのほんの数分で部屋を観察して脈ありだと判断した上でキスをしてきたのだろうが、僕からしたら晴天の霹靂だ。
そもそもアドレスも番号も変更したのは向こうで僕は部屋も何も変えていないのだから向こうから連絡を取ろうと思えばいつでもとれたはずなのに、何年も放置されてきたこちら側の気持ちを一切無視してこの暴挙。こういうところがとても嫌いで、それと同時に、やはり好きなのだ。
「……言い訳は色々あるとおっしゃってましたね。全部聞いてあげますよ」
「ああ、助かる」
まあ座れよ、とまるで家主のように振る舞う彼に蹴りをお見舞いするとまた楽しそうに笑う。
「なあ、悪かったよ遅くなって」
「僕が一体どんな気持ちで……っ」
隣に座った瞬間堪え切れず涙が流れてきて俯くと、そっと抱え込まれた。頭を撫でる彼の少し雑な手つきも、やや乱暴にぽんぽんと背中を叩くのも、ずっと僕が求めていたものだ。
「俺の言い訳聞いてくれるか」
「……ええ、聞きますよ」
「長くなるぞ、朝まで掛かるかもしれん」
「構いません。でもきちんと僕を納得させてくださいね」
わーったよ、という返事と共に解放されて、その代わりに手を握られる。少しぺたぺた張り付くような感触に、彼が実は緊張していたのだと知った。平然としているように見えても、先ほどの僕と同じように表面だけ取り繕っている状態に過ぎなかったらしい。
それだけで単純な僕は嬉しくなって、全て許してもいいような気さえする。けれどここで言い訳も聞かずに僕も好きだから許しますなんて、連絡が取れなくなってから今日までの苦しみを思うとそんな簡単に許すのも癪なので、告白の返事は言い訳を聞いてからと決めて、彼の方に体を向けた。きっと僕の考えていることなんてお見通しだろう彼に、わざと怒っていますという表情を作って。





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