お前は十分頑張ってるよ、と彼が視線を床に落としたまま絞り出した言葉を聞いた時、僕はこの先どれほど辛いことがあろうと、例え報われることがなかろうと、頑張れる気がした。たった一言、それだけで十分すぎるほどに僕は勇気づけられた。深夜鳴り響く携帯電話に怯えることも苛立つこともなくなった。それは若しかしたら彼には少し理解しづらいことなのかもしれないけれど。
「なぁ」
土砂降りの雨が降っていようとも涼宮さんは今日もご機嫌で、嫌がる朝比奈さんに着せた新しい衣装の品評をしては写真を撮っている。長門さんは全ての騒音を遮断しているような涼しい顔で今日もページを捲っている。
彼の声は雨音にかき消されそうなほどに小さい。
「今日お前んち行くから」
「はい」
不快そうに眉を顰め視線をノートに落としたまま、彼は深い深いため息を吐いた。
そのタイミングで長門さんがぱたんと本を閉じる。いつもの合図に彼はさっさと立ち上がり廊下に出た。それを追いかけると壁に背を預け立っていた彼はまた不快そうに僕の顔を見て、やはり深い深いため息を吐く。
「おまえ、自分を追い込む趣味でもあんのか」
「いいえ」
廊下に誰もいないことを確認して、彼はまるで壊れ物にでも触れるようにそっと僕の目元に触れる。冷たい指先がじんわりと体温を奪っていく感覚に思わず目を閉じると、指先は離れ、代わりに唇に柔らかなものが押し付けられた。目を開けばほとんどゼロ距離の彼と目が合う。
「……隈、濃くなってるぞ」
「気づきませんでした」
指を彼の指に絡めれば軽く握られて、それだけで疲労感は解けて消えていくようだ。
先ほどまで騒がしかった部室内が一瞬静かになって、すぐにドアが開く。直前に離されてしまった指が寒い。
「お待たせ、帰りましょ」



僕の部屋についてからというもの彼は不快そうな表情のまま黙り込んでいて、話しかけても頷くか首を振るだけだ。僕は何かしてしまったのだろうか、と考えても何も思い浮かばない。最近はそもそも閉鎖空間の発生頻度が上がっていて、余り彼と二人きりになるタイミングもなかった。
思い当たる節は一切なく、結局ベッドの上で膝を抱えている彼の隣に座ってぼんやりするしかない。
雨は相変わらず止みそうになく、こんな雨の中呼び出されるのだけは少し嫌だな、と考えていると、そっと腕を掴まれた。
「なあ」
「……はい」
漸く口を開いた彼は、学校にいた時よりもずっと深く眉間にしわを刻み込んだ表情で僕を見上げる。
「辛いとか、疲れたとか、俺にくらいは言えよ」
そりゃあ直接助けてやることはできないけど、と言ってすぐ固く結ばれてしまった唇に思わずキスをすると、やや間をおいてから背中をグーで殴られる。
「俺は真剣な話をしてるんだ」
「すみません、つい」
呆れたようなため息に胸が痛むのは、多分ここ暫く彼の笑顔を見ていないからだろう。いつだって笑っていてほしいと思っているのに、どうやら僕は彼を怒らせたり呆れさせることばかりが得意で、思うように笑わせることができない。彼が好きだし、同じように好きでいてほしいと思うのに、こんな表情ばかりさせるようでは難しいのかもしれない。
「……僕は、辛いとも疲れたとも思ってはいないんです。ただ」
「ただ?」
「貴方に嫌われてしまったらと思うと、それだけはとても怖いです」
ぽかんと口を開いたまま何度か瞬きをして、彼はやがていつもより遥かに幼い笑い顔で僕に抱き着いてきた。
「そんなの、有り得ないだろ」
勢いのまま僕を押し倒した彼は、そのまま僕に跨ってけらけらと笑っていたが、少しして先ほどのような表情に戻ってしまう。手を伸ばして頬に触れるとその手を握られた。
「疲れたと思ってなくたって、最近隈は濃いしたまにぼんやりしてて、どう見たって疲れてるよお前は」
だから、とそこで言葉を切って彼はまた深いため息を一つ。
「俺はお前のなんだ」
「……恋人です」
「恋人っていうのは、弱いところも見せられる相手だよな」
そこで様子を伺うように僕を見下ろす彼にも、薄く隈ができていることに気付いた。
「そりゃあ、俺は代わりに閉鎖空間に行くことも機関の仕事をしてやることもできないさ」
「ですが、こうして心配してもらえるだけで嬉しいですよ」
「嬉しい気持ちだけで肉体的な疲労は取れないだろうが」
精神的には知らんが、と困ったように視線を彷徨わせる彼の腕を引いてそっと抱きしめると、汗とシャンプーの混じった匂いが鼻先を擽る。以前いい匂いだと伝えたらとても嫌がられてしまったけれど、この温もりと匂いには荒れた心を穏やかにするそんな力がある。
「好きです」
「……俺だって好きだよ。だから怒ってるんだろ。いや八つ当たりなんだが」
何で俺を頼らないんだ、と不服そうにへの字を作る唇に触れるとがぶりと噛まれた。
「閉鎖空間で僕がしていることを、他でもない貴方が知っていて、僕を心配してくれて、それだけで本当に充分なんです。確かに最近少し夜中に呼び出されることが増えていたので、寝不足ではあるのですが」
それでも精神的に辛いことなど何もない。僕は昔、ヒーローになりたかった。休日の朝にやっているような戦隊もののレッドになりたかった。それはきっと幼い子供なら抱きがちな夢なんだろう。
それが今、少し形は違うけれど叶ったのだと思う。そう伝えれば彼は今度は泣きそうな顔をして僕の頭を撫でる。
「貴方がいるこの世界を守るヒーローなんです、僕は」
「……あぁ、そうだな」
「だから、本当に辛いことなんて何一つないんですよ」
暫く僕が嘘を吐いていないか見極めようとジッと僕を見つめていた彼は、やがて呆れたような表情をしてまたため息を吐いた。
「辛くなったら言え、あと今日はもう寝ろ」
「……はい」
クロゼットから僕の寝間着を2組出すと、彼は制服を脱ぎ床に放り投げてそれに着替える。彼に倣って寝間着に着替え布団に潜り込むと、また頭を撫でられた。
「守られるばかりは好きじゃない。だから俺は、お前の心を守ってやるよ」
「頼もしいです」
「好きだ、古泉」
泣きそうな顔で僕の頭を抱え込み、視界を邪魔する前髪を耳に掛けるように払い、まるで宝物にするようにそっと、額にキスをする。それだけで何も言われなくても、彼の誓いが伝わるような気がした。
「約束します、辛い時は貴方に頼ること」
「あぁ……」
約束だからな、という彼の声に頷きながら、襲い来る睡魔に意識を委ねる。幸福に包まれているような柔らかく温かな眠りは久しぶりで、何だかいい夢が見られそうな気がした。





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