彼と付き合い始めて1か月と2週間と3日。5人の帰り道、何回かに1回彼が隣に来てくれるようになった。それから、2回ほど一緒にお昼を食べた。友達とそう変わりはないような距離に感じるけれど、それでも彼が以前より僕を優先してくれるようになったのは嬉しい。
初めて手を繋いだのは3週間ほど前、いつもの5人の帰り道、前を歩く3人を眺めながら15秒ほど。ほんの少し指先を絡める程度のものでも、誰かに見られるんじゃないかとドキドキして、それから彼の体温があたたかくて、とても幸せな気持ちになった。
「……楽しいか」
「あっ、すいません……。退屈ですよね」
家に遊びに来た彼と2人ソファーに座るなりただ彼の手を握ったまま黙り込んで、どうやら5分ほど経っていたようだ。引かれただろうか、と顔を上げることができない僕の頭を、妹さんにするようにぐしゃぐしゃと撫でて、彼はふは、と笑う。
「耳、真っ赤」
「……貴方は余裕そうですね」
そうでもねえよ、と言いながらそっと握り返されて、ただ手を繋いでいるだけなのに緊張して、それから心臓は早鐘を打つ。少し呼吸が苦しくて、胸が痛い。
「古泉が楽しいならいいんだ。俺はお前を見てるだけで満足だし」
「楽しい、というか、その」
「ただなあ、手を繋ぐって言ったらこうだろ」
彼は一度手を離して握りなおす。指を一本一本絡めるこの繋ぎ方は、いわゆる貝殻繋ぎというやつではなかろうか。
「あ、の……」
普通に手を繋ぐだけでも僕からしたらかなり緊張するというのに、彼はいともたやすくその上を行く。
きっと今の僕は茹蛸の様に真っ赤に違いない。恥ずかしさと緊張と、それから彼とこんな風に触れ合える幸せと。貝殻繋ぎは恋人繋ぎとも言われているし、つまり、たぶん恋人同士の手の繋ぎ方だ。本当に僕が彼の恋人になれた証拠な気がして、それはとても嬉しい。
「なあ、古泉」
「へっ……、うわ、」
突然近くで名前を呼ばれて反射的に顔を上げると目の前に彼がいて、思わず後ずさってしまった。彼はやれやれといった表情で一歩下がり、肘掛に頬杖をつきながらやや不満げにこちらを見てくる。
「あの、」
「さすがにうわ、はちょっと傷つくな」
「……すいません、近くて驚いたもので」
普段のお前の方が余程顔が近い、と文句を言われればそれは多分その通りなので反論はできない。それに、2人きりになると途端に緊張してしまう僕に問題があるのはわかっているのだ。ただ、どうしたってやはり意識はしてしまう。
どうやって彼に許してもらおうか、と彼が下がった分近づくと、繋いでいた手をそっと引かれた。
「手繋ぐだけでそんなに緊張してて、この先大丈夫なのかお前」
「さき、ですか……」
彼はテーブルの上に出したままのDVDのジャケットを、繋いでいる手で雑に指す。何となく借りてきた恋愛もので、彼が指さしたのは隅に小さく映るキスシーンだった。
「っ、」
「お前キスくらいで死ぬなよ……」
恋人同士なら当然、キスもその先もあるだろう。付き合う前に想像したことがないとは言わないけれど、今実際に彼とするとなると、確かに死んでしまうかもしれない。
「……頼むから早く俺に慣れてくれ」
「慣れる、んでしょうか……」
「慣れてもらわなきゃ困るがな。俺はこう見えて思春期真っ盛りの高校生なんでね」
それは僕だってそうだ。彼とキスもその先もしたい気持ちはある。けれどやはり、緊張で死んでしまいそうだ。そんなことを考えていると徐に繋いでいる手を持ち上げられて、いったい何だろうと思っていると、突然手の甲に口づけられた。
「っ、」
「……そんなに緊張するなって。なんか怖がられてる気がしてきた」
「そんなつもりは……」
俺が怖いか、と聞かれて首を振るとまた繋いだ手を引かれて、それからそっと腰に手を回される。驚いている間に抱きしめられていて、彼の短い髪の毛が頬にあたって少しだけくすぐったい。
「少し冷たいな、お前。寒いのか」
「っ、い、いえ……」
答える声が少しひっくり返って情けない。こういうとき、どうしたらいいんだろうか。どうもこうも、同じように彼を抱きしめればいいと頭ではわかっているのに、体の間で折りたたまれた腕は全く動かなくて、結局ただ彼のシャツをそっと握りしめるしかできない。
こうしてくっついていると彼の体温は僕より高くて、じんわりと伝わる熱が心地よく感じる。相変わらず緊張はしているけれど、同時に不思議な安心感もあって、彼が好きだという気持ちでいっぱいになってしまう。
「……すきです」
「ん、俺も」
彼の低くて柔らかな声が耳をくすぐる。そういえば僕はこの声と話し方も好きだった。僕を落ち着かせるようにそっと背中を撫でる彼の優しい手つきも、時折ぎゅっと握られる手も、全部。きっと彼に嫌いなところなんて存在しないんじゃないかと思うほど幸せで、なんだか少し泣きたい気持ちになる。
「なぁ古泉、お前の嫌なことはしたくないけど、俺はお前に触りたいよ」
「……はい、僕も、こうして触れ合うのは好き、だと思います」
「曖昧だなぁ」
少し呆れたような声で呟いて、彼は小さく笑う。ほんの少し体が離れて、彼の体温に慣れ始めた体では若干の肌寒さを感じた。もう少しくっついていたかったのに、とぼんやり思っていると、繋いでいた手がそっと離されて頬に触れる。かさついた指先は少し痛いけれど、あたたかな手のひらに触れられるのは心地良いい。そっと彼の手に自分の手を重ねると、彼はそれを見て柔らかく笑う。その笑い方も好きだ。ほんの少し上を見ると視線が絡み合って、どこか熱のこもったような瞳とやや真剣な表情に身動きどころか、視線を逸らすこともできない。
「嫌なら逃げろよ」
聴き洩らしてしまいそうなほど小さな囁きに一瞬何と言われたのか分からず、脳内で言葉を反芻しているうちに彼の顔が目の前に来ていた。咄嗟に目をつぶると、唇に柔らかな感触。
「きょ……」
「もう1回、いいか」
もう1回、とは何のことかと考えて、そこで今更、これが初めてのキスだったと気づいた。僕には早すぎる展開に目が回るけれど、大好きな彼が僕に触れたいと言ってくれているのを断る理由なんて一つもなくて、結局僕は頷くしかできない。
「……はい」
「目、瞑れよ」
言われるままに目を閉じると、また柔らかなものに口を塞がれる。先ほどより長くて、少し皮が剥けている部分が痛いけれど、そんなことよりも。
「……あの、っ」
なんだか居た堪れなくて口を開くと、ほんの少し唇が触れる。
「嫌じゃないなら、少し黙っとけ」
そういわれて、結局僕は口を閉じるしかない。いつの間にか彼の手は耳の後ろに置かれていて、キスがしやすいように頭を固定されてしまっていた。
縋るものが欲しくて彼の背に腕を回すと、そっと髪を梳くように頭を撫でられる。
「……きょんくん」
「どうした」
黙っとけと言われたのに結局口を開いてしまった。何か言いたいことがあったわけじゃないのだけれど、しいて言えば、ただ呼びたくなったのだ。
「好きです、きょんくん」
「ああ、俺も好きだよ」
抱き寄せられて彼の肩に頭を乗せると、よしよしと頭を撫でられる。キスどころかこうして抱きしめられることすら僕にとっては初めてのことだけれど、もしかしたらどちらも好きなのかもしれない。不思議だけれど、彼とこうして触れ合うたびに彼を好きな気持ちがどんどん溢れて、彼のことで頭がいっぱいになっていくのだ。彼に好きだと伝えたくてたまらなくなるし、彼に好きだといわれると幸せで泣きたい気持ちになる。
「なんでちょっと泣いてるんだ、怖かったか」
「ちがいます、うれしくて」
僕の言葉に驚いたらしい彼は一瞬目を見開いて、それからはやり飛び切り優しい笑みを浮かべて僕の手を握る。
「手を繋ぐのも、抱きしめるのも、キスも、多少慣れてほしいと思ってたんだが」
「……だが?」
「そのかわいい反応が見れなくなるのは嫌だ。慣れずにいてくれ」
「っ、」
思わず繋いでいない方の手で軽く殴ってしまったが、彼は簡単に掌で受け止めて、ただ楽し気に笑っている。彼より僕の方が身長も高いし、自慢じゃないがそれなりにかっこいいといわれるというのに、よりにもよってかわいいだなんて、恥ずかしさで全身沸騰しそうだ。
「怒るなよ。嬉しいんだ」
彼に腕を引かれてバランスを崩し倒れ込むと、彼は益々楽しそうに笑う。
「お前が俺の前でだけは可愛いなんて、なんか俺が特別みたいで気分がいい」
「……もう、みたいじゃなくて、特別なんです」
言いながら益々恥ずかしくなって彼の首筋に顔を埋めると、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。
「好きだよ、古泉」
返事の代わりに頬にキスをすると、額にキスをされる。この前まで友達のような距離だったのに、なんだかすっかり恋人同士だ。握っている手にそっと力を込めると同じように握り返される。
「……重くないですか」
「重い」
きっぱりと答えた後彼は愛の重みだな、なんて言ってケラケラ笑う。
「もー、なんですかそれ」
体を起こそうとすると阻止されて、結局また彼の上に逆戻りだ。
「もう少しだけ、こうしてようぜ」
「……はい」
少しずつ彼に慣れてきたのか、彼の体温が心地いいからか、だんだんと緊張が解けてきて、何だか眠くなってくる。そういえば好きな人とくっついていると眠たくなるという話があったな、なんてことをぼんやり考えた。抱擁などで分泌されるホルモンが、確か心身をリラックスさせる効果があったような。
このままじゃ折角2人でいるのに眠ってしまいそうだ、と思いながら彼の肩に額を擦り付けると、ぎゅっと手を握られる。
「眠いのか」
「……ねむくないです」
嘘を吐くな、と軽くデコピンをされてしまった。彼は笑いながら体を起こして、ぐっと体を伸ばす。
「なんかあったよな、幸せホルモンだっけ」
「はい」
大きなあくびをした後、眠そうに眼をこすりながら反対の手で僕の頭をわしゃわしゃ撫でまわして、彼はまた笑う。涼宮さんに向けるものとも、朝比奈さんと話しているときとも、長門さんといるときとも違う、とても柔らかくて愛おしげな笑み。その、まるで僕が特別だとでもいうような表情に、また心臓が早くなる。彼に慣れるまでは、まだもう少し時間がかかりそうだ。





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