誕生日、というものを特別視するような年齢ではもうない。昔はケーキやプレゼントが嬉しかったし、友人たちからのおめでとうも照れ臭いけれど有難かった。 けれどもう17だ。顔面パイとか、ふざけた鼻眼鏡とか、そういう高校生らしいお祝いのされ方も、楽しい人たちは楽しいのだろうけれど、僕には少し良さが分からない。それに、どうせ僕の誕生日を知っている人間なんて機関以外にいないし、世間はゴールデンウィークだ。 行くところも、やることもない。 ただ今日という1日がカミサマの機嫌を損ねることもなく平穏無事に終わってくれれば、それでいい。 そんなことを思いながらぼんやりと着替えて、どこかへお昼でも食べに行こうかと思っていると、インターホンが鳴った。 『よう』 「え、どうして」 『今日用事あるのか』 カメラに映るのは、どこか照れくさそうな居心地の悪そうな顔をした彼。頭をガシガシと掻いて目線を彷徨わせる。 「……何もありませんよ、どうぞ」 解錠ボタンを押して、通話を切り、玄関のドアを開ける。 通路の向こうには青空が広がっていた。風はまだ涼やかで、けれど日差しはじりじりと肌を焼く。何となく、夏も遠くないのだと感じさせるような天気だ。雲は綿菓子のようにふわふわと真っ白で、風に押し流されて、日陰は少しだけ肌寒い。 広いとは言えない廊下にポーンと間の抜けた音が響いてエレベーターの到着を知らせる。すぐに彼のスニーカーの音が聞こえて、それは僕の横まで来て止まる。 「よう」 「おはようございます」 彼の手には何やら小さな紙袋。朝比奈さんと立ち寄ったことがある、可愛らしい小物を売っているような雑貨屋さんのものだ。 彼を招き入れてお茶を出すと、垂れてくる汗を拭いながら彼はそれを一気に飲み干す。 「歩くとあっちーな。上着は余計だった」 薄い生地のパーカーを脱いで、ソファーに掛けると、彼はぐったりと沈み込む。 「今日は、ご家族でお出かけでは……」 「でもお前誕生日だろ、今日」 驚いて瞠目する僕を見て、彼は照れくさそうにまた頭をガシガシと掻いて、あー……、と小さく唸る。 「学生証、見た」 そういえばいつだったか、落としたのを拾ってもらった気がする。あの一瞬で、把握したのか。 確かに覚えやすい日付ではあると思うけれど。 「誕生日おめでとう、古泉」 「あり、がとう、ございます……」 彼は紙袋から箱を取り出して、僕に差し出す。 「これ、は」 「プレゼント。気に入らなかったら、使わなくていい」 黒に濃い灰色のドット柄の包装紙に、ターコイズブルーのリボン。リボンを解いて包装紙をできるだけ破かないように外し、出てきた茶色の箱の蓋を開けると、可愛らしいキーケースだった。一番表側は夜の闇のような紫、その下は少しくすんだ黄色。開けると中は一番表と同じ色で、全体的に少し派手な色合いのような気もするけれど、どちらもくすんでいるというか、ぼやけた色だから、案外使う分には悪くなさそうだ。 「可愛いです」 「まあ、若干母さんと妹の意見が反映されちまった感は否めない」 俺はもっと地味なのにするつもりだったんだ、と言いながら彼はまた頭を掻く。 「……3人で、選んでくださったんですか」 「おお」 彼の隣に座ると、当然のように腰を抱かれて引き寄せられた。いつも彼が顔が近いと怒る時よりももっと、距離が近い。それこそ、少し身動ぎをしたら唇が触れそうなほどに。 「嬉しいです」 目を伏せるとまるで隙を狙っていたようにキスをされる。 「今日、どこか出かけようぜ」 「それって、デートですか」 「そーだよ」 彼の背に腕を回すと、ほんの少し湿っていた。 「ふふ、汗かいてます」 「塗りつけてやろうか」 そんなことを言いながら、彼は僕の手を取って自分の首筋に当てる。指先が冷えているから、気持ちいいんだろう。汗を拭っても少しぺたぺたしているというのに、彼だからか嫌悪感はない。 「で、どこ行きたい」 折角の誕生日、外はいい天気で、気温も高い。きっと絶好の行楽日和だ。 「……貴方と2人なら、僕はどこでも」 それは、嘘偽りのない本心だ。僕には行きたいところはないけれど、彼と一緒なら、どこだって楽しい。 彼は少し困ったように僕を見て、小さくため息を吐いた。 「昼飯、食いに行くか。帰りにDVDでも借りてきて見ようぜ。別にショッピングモールとかぶらついてもいいしな」 「はい」 いつもと変わんねえな、と彼は言うけれど、それが僕にとってどれだけ嬉しいことか。 「何か、してほしいこととかねえの」 「……今日が終わるまで、一緒にいてくれませんか」 彼は一瞬、忌々しいとでも言いたげな顔をして、それからすぐ、眉根を寄せてしょうがないなといった表情で笑う。 「そんなの、当たり前だろ」 「嬉しいです」 戯れのようなキスを繰り返して、彼は満足したのか立ち上がり、僕を引っ張り起こす。 「行くか」 腹減ったし、と笑う彼と手を繋いで家を出た。 少し早いお昼ご飯を食べて、服を買って、レンタルショップでDVDを借りて、スーパーで夕食の買い出しをして、十分に楽しんでから帰宅した。 家の中は蒸し暑い。冷房をつけて部屋が冷えるのを待つ間、二人でシャワーを浴びることにした。脱いだ服を洗剤とともに洗濯機に投げ込んで、スイッチを押す。 広くない浴室に僕と彼が入るととても狭いけれど、何となくそれすらも楽しく思えるのは、僕が彼を好きだからだ。 彼に浴槽の縁に座るように指示されて、壁と向き合うように浴槽の中に足を入れて腰掛けた。彼は泡立てたスポンジで僕の背を洗いながら、時折首筋に歯を立てる。 「っ、ふぁ……」 「後でまた、汗かくのにな」 「ん、っあ、……もう」 彼の泡に塗れた指先が戯れのように胸の突起を摘まんで、その腕はそのまま僕を抱きしめる。後ろから軽く伸し掛かられて、やや苦しい。 「うおー滑る」 「もう、お風呂場でふざけると危ないですよ」 泡をお湯で流されて、再度抱きしめられる。蒸した状態のお風呂では、流したばかりの汗がまたじんわりと滲むけれど、不快感はない。 「ポップコーンまだあったっけ」 「ありますよ」 レンジでチンするだけのポップコーンは彼が家族でアメリカ発祥の大型スーパーに行ったときに箱で買ってきたものだ。まだ半分ほど残っている。先ほどの買い物で2Lのコーラも買ってきた。映画を見るための準備は万全だ。 体を拭いて、彼にねだられ先ほど買ったばかりの服に着替える。彼の服は何着か僕の家に置いてあるから、彼もそれに着替えたようだ。 「やっぱいいな」 「でも余り僕らしくないような……」 絵画をオマージュしたプリントが大きく入ったオーバーサイズのTシャツに、7分丈の緩いサルエルパンツは、どちらも着ていて楽だけれど、普段の僕のイメージからはかけ離れている気がする。けれど彼は満足そうだ。 「俺が選んだ服着せて脱がすってのがいいんだよな」 そんなことを言って彼はシャツの裾から手を入れてくる。くすぐったさに身を捩ればソファーに引き倒されて、上に伸し掛かられる。丁度いいタイミングで洗濯機が鳴り、彼は舌打ちをしながら洗濯物を干しに向かう。ハンガーを持って追いかけると、彼が洗濯機から洗濯物を取り出しているところだった。 「その服、俺の前でだけにしろよ、着るの」 僕からハンガーを1つ受け取って服を掛けながら、彼がそんなことを言う。 「え、やっぱ変ですか」 「……似合ってるよ、だから誰にも見せんな」 彼は僕から残りのハンガーをもぎ取ると、映画見る用意しとけ、と僕を追い出した。少し顔が赤いのは、きっと暑いからではない。 普段僕が女子に告白されても何ともなさそうな顔をしている彼が時折見せる独占欲は、とても心地いい。僕は確かに彼のものなのだと思える。 ポップコーンをレンジに入れて3分半、その間に氷を入れたグラスにコーラを注いでテーブルに置く。 彼はベランダに洗濯物を干して戻ってくると、僕を抱きしめて胸のあたりに顔を埋めて不満そうに呻いた。 「くそー、独占欲とかかっこわりい」 僕と同じシャンプーとコンディショナーを使って、普段より柔らかな手触りになっている髪をそっと撫でると、抱きしめられている腕に力がこもる。 窓の外で、洗濯物が風にはためく。空に浮かぶ小さな雲は、風に流されてすぐに視界から消えた。 「……僕はもっと、束縛されてみたいです」 「俺はお前が思ってるより独占欲強いし、すぐ面倒になるぞ」 「そう、なんでしょうか」 もっと小さかった頃に憧れとそう変わらないようなとても曖昧な恋を何度かしたけれど、付き合いたいとか、独り占めしたいとか、そんな強い想いを抱いたのは、彼が初めてだ。 「お前だって、全然やきもちとかねえだろうが」 「そんなことありませんよ」 いつだって、涼宮さんや朝比奈さんや長門さんや、それどころか谷口氏や国木田氏にだって嫉妬している。いつか、彼を取られてしまうんだろうと不安で仕方なくて、だからせめて面倒くさくない恋人でありたくて、涼宮さんに抱き着かれていても、朝比奈さんの胸に興奮していても、長門さんと図書館デートをしていても、何も言わないようにしているだけだ。だって彼も僕も男で、高校生で、いつか女性と付き合うことが正しいと彼が気づいてしまうかもしれないのだから。その瞬間を少しでも先延ばしにしたい。 「本当はいつでも、貴方に触れる人たちに嫉妬してます」 「谷口にすらか」 胡乱げな顔で僕を見上げる彼に曖昧な笑みで返せば、彼は頭をガシガシと掻きながら大きな溜息を吐いた。 「何でも無さそうな顔でニコニコしてるくせに、妬いたならちゃんと教えろよ。俺も言うから」 氷が解け始めたグラスは汗をかき、テーブルを濡らしている。いつの間にかレンジも止まっているようだ。 彼は僕の頭を軽く叩いて、約束な、と言いながらキッチンへ向かう。慣れた手つきで戸棚からボウルを出してポップコーンをあけると調味料の棚から塩を取り出して掛け、ローテーブルに置く。勝手知ったるなんとやらだ。もうすっかり、ここは彼のもう一つの家のようになっている。それだけで、僕がどれだけ嬉しいのかを、きっと彼は知らない。 DVDをセットして再生ボタンを押した彼はソファーにどっかりと腰を下ろして、僕の腕を引き隣に座らせる。 「あの、」 それは借りてきたものとは違う、彼が以前置いていった音楽グループのライブ映像だ。 「BGM代わり。テレビじゃうるせえけど、静かだとお前何も話さないだろ」 そうだ。僕はしんと静まり返った部屋で彼と向き合って離すのが得意ではない。機関や涼宮さんが絡む時のような話しておきたいこと話さなくてはならないことがある場合なら兎も角、僕と彼の個人的な関係についてだと、途端に言葉が出てこなくなるのだ。何か音があれば、少しだけ気が紛れる。 「僕、あの」 「俺はお前が女子に告白されてんのも面白くねえしへらへら笑いながらすいませんて謝るのも面白くねえよ」 付き合ってる人間がいるなんて言えないことは俺だって分かってるけど、と言いながら彼は濡れたグラスを掴んでコーラを呷る。 「……僕も、涼宮さんに抱き着かれてるのも、朝比奈さんにデレデレしてるあなたを見るのも、嫌です」 彼は濡れた手を自分のシャツで些か乱暴に拭うと僕の顔に触れる。まだ少し濡れていて、それから指先が冷たい。 「谷口とか国木田もか」 「……僕といるときより楽しそうに笑っていて、肩抱き合ったりとかも、」 勢いよく抱き寄せられてバランスを崩し彼の上に倒れこむ。彼は足をソファーに上げて僕を抱え直すと頭を撫でて、小さく笑った。 「いいな、お前がそうやってあいつらに妬いてるの」 「なんでそんな、嬉しそうなんですか……」 「嬉しいだろ、妬かれるの」 風が強くなってきて、ハンガーが窓に当たり音を立てる。それに驚いて跳ねる僕を宥める様に背を撫でられて、額にキスをされる。 「告白されたら、好きな人がいるって断れよ」 「……はい」 「今日買った服、似合ってるから誰にも見せるな。余計モテそうで気が気じゃない」 「……はい」 彼の首筋に顔を埋めると僕と同じ匂いがして、それが嬉しいと同時に、まるで彼が僕のものになったような気がして、独占欲が満たされるどころか膨れ上がっていく。軽く吸い付くと、普段なら全力で抵抗されるのに、ただ頭を撫でられた。口を離せば薄く鬱血していて、一目でキスマークと分かる。そっと舐めると、彼のシャツを握る手を掴まれる。 「なあ、俺にもつけさせろよ」 肩を押されて起き上がると、そのまま押し倒される。 「どこならいい」 「っ、制服に、隠れるなら……」 彼は僕がつけたのと同じ場所に強く吸い付いて、ついでに軽く噛み付いた。 「っい、た……」 「今日お前の誕生日だし、何でも言うこと聞いてやるよ」 頬に触れる彼の手を握れば、もう片方の手で頭を撫でられる。 「……なんでも、ですか」 「あんまり金がかかるのは厳しいがな」 「僕、じゃあ、ずっと、」 一緒にいてほしい、という言葉はキスで遮られる。彼はどこか慌てているような、困惑しているような顔で僕を見下ろして、小さく溜息を吐いた。 「お前なあ……、プロポーズは俺からタイミング見てするから今はやめろ」 「……はい」 それが例え方便だったとしても、構わない。彼がいつかしてくれるというのなら、それを信じたい。彼が僕とずっと一緒にいてくれるつもりなのだと、そう言ってくれるのなら、僕はその言葉だけで本当に幸せでいられる。 「好きだ、古泉」 「僕も、好きです」 彼の首に腕を回せば、体重が掛けられて体がソファーに沈む。彼の頬にキスをすると同じように頬にキスされて、それから時折耳を噛まれる。 「っん、ねえ、キョンくん」 「んだよ」 「借りてきたDVD……、」 あぁ、と短く答えて彼は起き上がるとDVDを入れ替える。 氷が解けて水ばかりの彼のグラスをキッチンに持って行って、中身を捨て軽く外を拭いてから氷を入れてもう一度コーラを注ぐ。ポップコーンはきっともうとっくに冷めてバターが固まっているだろう。 戻ると彼が冷房を止めて窓を開けたところだった。 「風、気持ちいいですね」 「あぁ」 僕がソファーに座ると彼が再生ボタンを押す。 彼はポップコーンを抱えて僕に凭れると小さくあくびをした。目が合うと視線だけでなんだよと怒られてしまって、言葉がなくても何となく言いたいことが分かるのはいいな、とぼんやり思う。 「にやけるな」 「いたいです……」 軽く頬を抓られて文句を言えば、宥める様にキスをされた。たったそれだけで誤魔化されてしまう僕は、いったいどれだけ彼のことが好きなんだろう。だけど少なくとも、彼がわざわざ会いに来てくれてお祝いをしてくれて、それだけで、今までの誕生日よりずっと嬉しくて楽しい日になったのは違いない。 「ねえキョン君、今日が一番いい誕生日です」 「そーかよ」 彼はやれやれと言いたげな顔で僕の頭を撫でて、本編の前に流れるCMを早送りしながらポップコーンを口に投げ込んだ。 |