先生と生徒ぱろ。 初恋は実らないというけれど、僕の場合は最初から希望が一切ないから、やっぱり本当にそういうものなのだろう。相手は先生で、同性で、恋人がいる。 希望を抱く隙が一切なくて、でもだからこそ安心して好きでいられるのだ。 低いけれど聞き取りやすい声、時折乱暴になる砕けた口調、豊富な知識、学校の中では一番若い、誰からも好かれる優しい先生。最初のきっかけは、授業を面白いと思ったこと。今まで国語の授業なんて変わりばんこに音読して、漢字を読み書きして、作者の気持ちを答えなさい、なんていうつまらないものだったけれど、先生は作者がどんな人だったか、その時どういう時代だったか、という話を交えて授業をしてくれて、変わりばんこの音読はなしで、気づいたら授業に引き込まれてしまったのだ。国語がこんなに楽しい科目だったなんて、僕は高校に上がるまで知らなかった。先生に出会わなかったらこの先も国語が嫌いだったかもしれない、と伝えたとき、先生は僕を胡乱げに見てくるだけで、信じてはくれなかったけど。 自覚をしたのは、先生が元在校生だというかわいらしい女子大生に告白されているのを見てしまったとき。いいな、と思った。先生がじゃない、もしかしたら、先生の恋愛対象に入れるかもしれない、名前も知らないその先輩が、とてもうらやましかった。 あの日先生への恋心を自覚してから今日まで、毎日辛くて、けれど毎日が楽しい。 今日は朝から先生と会えたとか、逆に今日は一言も話せなかったとか、そんなことで一喜一憂している自分がどうしようもない人間に見えることもある。どれだけ喜んだり落ち込んだりしようが、僕は最初から先生の眼中に入っていない。 それでも、僕は初恋が先生でよかった、と思うのだ。 例えば真っ白な入道雲を見たとき、先生が入道雲を見るとソフトクリームが食べたくなるのだと笑っていたのを思い出すし、本屋で平積みにされた本の中に先生が面白かったと言っていたものがあれば買ってしまうし、そうやって先生は僕の生活に確かに組み込まれていて、少しずつつまらなかった毎日が色づいていく。今まで気にも留めなかった小さなことが、ふとした瞬間に先生の言葉を想起させて、たったそれだけで、今日という日がなんだか素敵なものになったような気になってしまうのだ。 朝校門であいさつをする当番が先生だった、帰りに廊下ですれ違えた、日直でプリントを渡しに行ったときに雑談ができた、何でもないことが楽しくて、たとえその雑談の内容が彼女とのデートの話や喧嘩の話だったとしても、そんな小さなことが嬉しくて。 実らないと分かりきっていても、やっぱり僕は先生を好きになってよかった。この恋がいつ思い出に変わるのかなんてわからないけれど。 放課後、日直としてプリントを届けに行ったとき、先生の雰囲気がいつもと少し違うことに気づいた。どこが、とはわからないけれど、なんだか少し落ち込んでいるような。 「せんせい、何かあったんですか」 「んー、そう見えるか」 「なんとなく、落ち込んでるように見えまして」 まあなんでもないよ、と笑う先生はやっぱりいつもより暗い。僕がせめて同僚だったら、話を聞いてあげられたんだろうか。先生の生徒なのが悔しいと思ったのは、初めてだった。先生と生徒では、いつでも話を聞きますよなんてことすら言えない。 「……せんせいが落ち込んでると、なんだか僕も悲しいです」 「はは、大したことじゃねえんだって」 彼女と別れただけだよ、と笑う先生に、僕はほんの一瞬、抱いてはいけない希望を、抱いてしまった。もしかしたら、心の隙間を埋められるのではないか。 そんな馬鹿げた考えを一瞬でも持った自分が余りにも愚かで、思わず自嘲した。 「古泉、どうした」 「……いえ、僕が生徒ではなく同僚だったら、気晴らしに誘えたのにな、と思いまして」 友人にすらなれない、ただの生徒。たくさんの中の一人。僕は先生の記憶に残ることすらできないのだと、そこで初めて気づいた。 先生はぐしゃりと僕の髪を混ぜるように軽く撫でて、小さく笑う。 「生徒に慰められるなんて教師失格だな」 僕は生徒でこの人は先生で、その立場が、僕と先生の絶対に埋まらない距離が、初めて辛いと思った。僕はこの人の私生活に関わることはできないし、たとえ卒業したところで、元生徒という更に遠い立場に変わるだけなのだ。 「そんな顔するなって。悪かったな。でも、まあなんだ、お前に話せる程度には吹っ切れたんだな、俺」 「……なら、よかったです。先生なら、また素敵な人に出会えますよ」 それは本心からの言葉だったけれど、口にしながら胸が痛んだ。僕がせめて女性だったら、卒業した後にいつかの女子大生の様に告白くらいはできたんだろうか。 僕は決して選ばれることはない、ただの熱心な生徒だ。 「さんきゅ。っと、話し込みすぎたな。早く帰れよ」 「はい」 家に帰る気にもならず、ぼろぼろの旧部室棟に向かう。文芸部室、と札のかかったその部屋は、以前先生にこっそり教えてもらった秘密の場所だった。 「熱心に勉強してるお前にだけ特別」 そう言って誰にも邪魔されない勉強部屋として紹介してもらったそこは、折り畳み式の長机とパイプ椅子、それから何も入っていない本棚があるだけの殺風景な教室で、けれど窓を開ければ気持ちのいい風が入ってくるし日当たりもよく、すぐにお気に入りの場所になった。ここにいる間の僕は、優等生でも何でもない、ただの僕になれる。 窓をあけて、窓際にパイプ椅子を置いてそこに座る。風は冷たいけれど日差しは暖かい。 窓枠にもたれて目を閉じると吹奏楽部や軽音楽部の練習の音、或いは運動部の掛け声が、風に乗って運ばれてくるのが聞こえる。視界を遮断すると嗅覚や聴覚が鋭くなる、というけれど、たぶんこういうことなんだろう。目から入る情報はとても多くて、だからそれがなくなると耳や鼻で補おうとするのだ。 以前先生が、高校生だったころにこうして過ごすのが好きだったと教えてくれた。 部活のほかのメンバーがいない日に、こうして一人窓際で微睡んでいたのだという。 不思議を集めるという団に無理やり参加させられていたという先生の話は、何の面白味もない生活を送っている僕にはまるで物語のように聞こえたし、それを思い出す先生は忌々しいと言いながらもどこか楽しそうで、何となく今の先生を作り上げたものに少しふれられた気がして嬉しかった。 何をしても何を見ても何を聞いても感じ取るものすべてが先生に結びついている。 本当にいつか思い出に変わることがあるんだろうか。初めて人を好きになった。同じクラスの女子をいいなと思ったことがないわけじゃない。人並みには綺麗な人やかわいい子が好きで、いわゆるアダルトビデオで抜いたことだってあって、別に男性が恋愛や性の対象ではないはずなのに、なのにどうして、こんなに好きなんだろうか。卒業したら、そんなこともあったと思えるようになるとは到底考えられない。 僕が女性だったら例えば体だけでも関係できたかもしれない、そんな汚いことを考えたこともある。自分を慰める右手を先生のものだと思いながらしたこともある。 先生はただ、僕を優等生だと思ってあれこれしてくれているだけなのに、その好意を汚している僕は、先生を好きでいてもいいんだろうか。 叶うことのない恋で構わない、初恋が先生で良かった、それは今だって変わらない僕の本心で、けれど、もっと先生に近づきたい、ただの生徒で終わりたくない、先生に愛されてみたいという気持ちが芽生えてしまった。 先生を好きでいる資格なんてないのかもしれない。 誰からも好かれる、誰にでもやさしい、みんなの先生。 お前はいい生徒だな、と言われるだけでうれしかった。先生の役に立つことで、少しでも先生にとって特別な生徒になりたいなんて、小さな小さな望みを持っていた。いい生徒であれば、少しだけ、本当に少しだけ他の生徒と差がつけられるような気がした。馬鹿げた考えかもしれないけれど。 ふと廊下から誰かの足音が聞こえることに気づいて身を固くする。ここにいることがばれたら、もう二度とここに入れなくなってしまう。 旧部室棟には警備員さんや事務員さんですら踏み入れないと聞いていたのに、いったい誰が、どうかこの部屋にだけは入ってこないで、と思いながら息を殺していると、足音はドアの前で止まる。 ノブが回り、がちゃりと誰かが入ってくる。 僕は動くこともできずそれを見つめるだけだ。 「……なんだ、帰ってなかったのか」 「せ、ん、せ……?」 片手に携帯灰皿とたばこを持った先生が困ったように僕を見る。 「お前がいるんじゃ吸えないな」 「……あの、えっと」 先生は僕の目の前まで歩いてきて、それから眉を下げて笑う。 「何かあったのか」 ハンカチを渡されて困惑していると、なんで泣いてるんだ、と聞かれて、そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。 「あれ……なんで、ぼく」 「……疲れてるのか、それとも嫌なことでもあったか」 休んでもいいんだぞ、学校なんて。そう言って僕の頭を撫でる先生の手の暖かさが無性に嬉しくて苦しくて、気づいたら涙が溢れていた。高校生にもなってこんな風に泣きじゃくる男なんて見苦しいに決まっているのに、先生はもう一つの椅子を引っ張り出してただ黙って隣にいてくれる。 ただ、泣いている生徒が放っておけないだけと分かっているけれど、こんな風に優しくされたら益々好きになってしまう。先生に、迷惑をかけているというのに。 「愚痴とか相談できる友達、いないのか」 「……いないです」 「じゃあ、俺で良ければ聞いてやるよ」 先生が好きで苦しいですなんて、本人に言うわけにはいかない。僕はせめて、卒業まで先生にとってのいい生徒でありたい。どうせ忘れられるとしても。 「……だいじょうぶ、です」 「俺じゃ不満か」 「……僕、先生にとっての、いい生徒でいたいんです」 先生は驚いたように僕を見て、それから持っていたたばこを咥えて火をつけた。 「今の俺は先生じゃなくてただのおっさんだから、お前もただの古泉として話してみろよ」 「……どうして、僕なんかのためにそんなことしてくれるんですか。それとも、僕じゃなくても誰にでもそんな風に優しいんですか」 思わず口をついた言葉は先生を責めるようなものになってしまって、思わず口を押えたところで後の祭りだ。第一先生なのだから、困っている生徒に手を貸すのは当たり前のことなのに。先生は小さく笑いながら煙を吐き出す。 「俺は誰にでも優しくできるほど器用じゃねえよ。生徒に彼女と別れたなんて迂闊な話だってしないさ」 そもそも他の奴らは俺に彼女なんかいないと思ってるだろ、と言われて思い返す。確かに、クラスの中心にいるようなお洒落で明るい子たちはみんな、先生かわいい女の子紹介してあげようか、なんて先生をからかっていた。 「俺はお前を依怙贔屓する悪い教師だよ、お前が思ってるようないい先生じゃない」 「……僕も、僕もいい生徒なんかじゃないです」 先生はぐしゃぐしゃと僕の頭を撫でて、それでいいんだよ、と笑う。 「高校生なんだから、優等生であろうとする必要なんかないんだ。そうしたいなら別だけど」 今しかない楽しいことがいっぱいあるんだぜ、と灰を灰皿に落としながら懐かしそうな顔をして目を細める先生は、今まで見たことがあるどの表情とも違う顔をしている。 「恋愛だって、バイトだって、なんだって、今しかない特別なもんだよ。だから、無理にいい子 である必要はない」 「……でも僕は、僕は先生にとってのいい生徒でいたいんです」 だって、迷惑をかけるような、距離感を間違えたような生徒では、本当に他の生徒と同じになってしまう。埋もれてしまう記憶でも、今この瞬間だけでも、少しでいいから先生にとって特別でありたい。 僕は先生が好きだから。 「どうしてお前は俺にこだわるんだろうな」 他に幾らでもいい先生はいるのに、と不思議そうにしながらたばこを吸う先生は、きっと生徒たちは知らない姿だ。そんなことでこんなに優越感を抱いている。僕を依怙贔屓している、という言葉一つで、もしかしたらなんていう期待をしてしまっている。 僕は浅はかで醜い。 「……りくつ、じゃ、ないんです。先生は僕にとって特別だから、僕も、ここにいる間だけでも、先生にとっての特別でありたい。軽蔑、しますか。気持ち悪いですか」 何かに気づいたらしい先生は、たばこの火を消して立ち上がる。ああ、特別な時間はもうおしまいなのか、と迂闊なことを口走った自分を責める。テストでいい点が取れないとか、志望校に入れそうにないとか、そんな優等生らしい尤もなことを言っておけば、卒業まで特別な生徒であれたかもしれないのに。こんなの、もう殆ど告白みたいなものだ。 気づいたら先生は僕の足元にしゃがみこんでいた。 「俺、他に好きな子いるんでしょって振られたんだ」 「せん、せ……」 「ただのかわいい生徒にこんなことしねえよ」 手を握られて動けずにいると、今まで見たことがない意地の悪そうな顔で笑う。 「逃げないと、悪い大人に掴まっちゃうぞ、古泉」 「……ぼく、せいと、なのに」 「言ったろ、今は俺は先生じゃないし、お前は俺の生徒じゃない」 そんなのは詭弁で、けれど、先生のその言葉に僕はもう考えていたことなんて吹き飛んで、ただ、先生が好きという気持ちに支配される。 「好きです、先生」 先生は、何も言わずに僕の首に手を回して、ぐい、と引き寄せて。 「っ、」 キスされた、と思うと同時に先生に抱き寄せられた。 「好きだぜ、古泉」 耳元で囁かれた言葉に今度こそ頭が真っ白になる。 思わず口を押えると噴き出すように笑われて、それから思いきり腰を抱き寄せられて椅子から落ちる。そのまましゃがみこんでいる先生に思いきり抱き締められて、僕は何もできない。 「……なあ、後悔すんなよ」 「しま、せん」 手を握られて、またキスをされた。 どうしよう、夢じゃないのかこれは。先生が、僕を好きだなんて。 「ぼく、先生のこと好きでいていいんですか」 声が震えている。手も、それどころか全身が。怖いわけじゃないけれど、とても緊張している。僕は誰とも付き合ったことがないし、キスどころか手を握られるのだって初めてだ。 「良いに決まってんだろ、俺だってお前が好きなんだから」 思わずキスをすると、驚いた顔の先生と目が合う。 「……あ、すいません」 「謝るなよ、恋人なんだから」 恋人、そうか、僕は先生の恋人になったのか。そう思うと嬉しくて、今まで触れられるとすら思っていなかったのに、もっとたくさん触れて、触れられてみたくなる。 「……さわってもいいですか」 「お、おお」 繋いでいない方の手で先生の顔に触れる。少しだけかさついていて、それからもう夕方だからか微かに髭が生えている。 「俺も触っていいか」 「……はい、触ってください」 頬を包むように触れられて、親指で涙をぬぐわれる。少し乱暴で、けれどとても温かい。そのまま下がった手は猫にするように顎をくすぐって、それから。 「お前の唇はやわらかいな。乾燥もしてないし」 「そう、ですか」 指で唇をなぞられて、それだけで何だかぞわぞわする。手つきが、ただ撫でているだけなのに、どこか性的というか。 「ちょっとえろい」 「っ、もう」 思わず手首を掴むと先生は悪い、と笑いながら顔を近づけてくる。目が合って離せずにいる間にそのままキスをされた。唇が離れるときに少し舐められて、どっちがえろいのか、と思う。こんなの、僕はアダルトビデオでしか見たことがない。 「おまえ、慣れてないのな」 「な、だ、だって、先生が初めてなんですよ」 「……まじか」 参ったな、と口元を押えて呟いた先生は僕を抱きしめて小さくため息をついた。 「せん、せ」 「大事にしてやるから、嫌なこととかは言えよ。約束できるか」 腕を先生の背に回すと、より強く抱きしめられる。 「……やくそく、します」 本当に夢みたいだ。初恋は実らないと思っていたのに。だって、この人は先生で、同性で、この前まで彼女がいた人なのに。生徒で同性でかわいくもなんともない僕が、先生の恋人になれるなんて。 「うれしいです、ぜったい、叶わないって思ってた」 「ああ」 絶対告白だってできないと思っていたのに。 「好きです、大好きです」 「……泣くなよ」 好きといえるだけでこんなにうれしい。 「これがゴールじゃないんだぞ」 「……はい」 付き合えたってきっと苦しいこともたくさんあるしもしかしたら後悔することもあるのかもしれないけど、でも僕はいま、本当にうれしくて幸せで。 先生が好き、という気持ちが溢れている。 「よろしくな、古泉」 「……はいっ」 涙を拭ってくれる手に頬ずりをするとまたキスをされる。先生の唇は、少し皮がむけていて、小さな切り傷が少し痛い。けれど、もっと何度でもしてほしい。 先生の肩に額を擦り付けると頭を撫でられる。今までのような、ほんの数秒の雑なものではなくて、大事にされていると思える優しい手が、日が沈み始めるまでの間ずっと、撫でていてくれた。 |