古泉さん、と彼が私を呼ぶ。何ですか、と答えるといつものようにキョン子知ってるか、とドアの方を眺めながら聞いてくる。クラスメイトの涼宮さんがご存知ないのでしたら私にも分かりません、と出来るだけ穏やかに云えばつまらなそうにそうだよなと呟いた。彼はいつでも私をおまけのように扱う。私にとっては彼が世界の全てなのに。 長門さんが一定のペースでページをめくる音と朝比奈さんがお茶を淹れる音だけが響く静かな部室に、漸く彼女がやってきた。 「遅いぞキョン子!」 「掃除のあと先生に呼ばれてたんだよ!」 これでも急いで来たのに、と少し不貞腐れる彼女の表情を見て、彼が満足げに笑うのが視界の隅に映る。すぐにいつもの表情に戻ってそんなの当然だ!と彼女にじゃれる。羨ましい。 私は別にここにいらないんじゃないか。本当に私も長門さんや朝比奈さんや或いは彼女のように望まれてここにいるのか。そんなことないんじゃないか。 不思議な転校生という付加価値ももうあってないようなもので、それなら私はごく平凡な女子高生だ。 何の変哲もない私は本当にここにいてもいいのだろうか。いや、良いとか悪いとかは関係なく、私がここにいたくない。私は彼女たちに嫉妬してる。劣等感を抱いてる。憎しみすら覚える。 消えてしまいたい。 「古泉さん?大丈夫か、顔色悪いぞ」 突然涼宮さんに話掛けられてえ、と間抜けな声を洩らすと心配そうな顔が目の前にあった。 「気持ち悪いのか?もう帰るか?有希に送って貰うか?」 「あ……、すいません、大丈夫です」 できるだけいつも通りの笑顔を浮かべたつもりだったというのに、彼は私の表情を見て大丈夫じゃないだろ、と怒鳴る。なぜこんなに気に掛けてくれるのかが分からなくて、怖くて震えると彼は罰が悪そうに怒鳴って悪かったな、と呟いた。 「俺が送ってくから、ほら帰る支度しろよ。お前らも今日は帰っていいぞ」 ほら、ともう一度急かされて、大急ぎでコートを着ると彼が私の鞄を持って部室を出ていく。慌てて彼についていくと階段の辺りで待っててくれて、すいません、と駆け寄ると馬鹿走らなくていい、と心配そうに体を支えられた。 「体調が悪いならちゃんと云わなきゃ駄目だろ」 「……すいません」 「次からは云えよ、気持ち悪いですとか、お腹痛いですとか。無理に出る必要なんかないんだから」 無理に出る必要はない、という言葉が彼なりの気遣いだということは分かっているのに、普段は何があっても来いと無茶を云う彼だからか、お前は必要ない、と云われた気がして目の前が暗くなる。 やはり私は不要なのだろうか。 そう思ったら胸が痛くて、我慢できずに泣いてしまった。 「えっ、古泉さん?」 「す、すいませ……」 どこか痛いのか?俺もしかして何かした?と心配そうに顔を覗き込んでくる彼にただ首を振ることしか出来ずにいると、部室から彼女たちも出てきた。 「どうしたんですか?」 「古泉?大丈夫か?」 慌てて涙を拭いて、いつものように笑みを浮かべて大丈夫です、と答えると視界の隅で涼宮さんが不快そうに顔を歪めたのが見えた。けれど他にどうすればいいのかなんて私には分からなかったから、ただ見ないふりをして帰りましょうか、と4人を促す。 帰り道では涼宮さんが私の横に並んでゆっくりと歩いてくれて、さっきは申し訳ないことをしてしまったなと今更ながら罪悪感が湧き上がる。けれど本当は彼女と歩きたかっただろうに申し訳ないと思いながらも他でもない彼に気遣ってもらっていることが嬉しいのもまた事実だ。 いつもの分かれ道で、彼が3人に俺は古泉さん送ってくから、と手を振る。 普段なら一人でも大丈夫ですよ、とでも答えるのだろうが今日は何故だかそんな言葉も出てこない。 そんな私に涼宮さんも多少の違和感を抱いているのか、はたまた先ほどの私の振る舞いが気に食わないのか、押し黙ったままだ。 結局無言のままに家について、マンションのエントランスで彼が漸く、部屋までついていくとと言葉を発した。 「え、いえ、ここまでで平気ですから」 「具合が悪いのは分かってるから手短にすませるよ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」 エレベーターに乗り込むと彼が深く溜息を吐いた。 「あのさ、古泉さん」 「っ、はい」 怒気を孕んだ静かな話し声に思わず震えると彼がふっと息を吐き、ガシガシと頭を掻く。 「なぁ古泉さん、俺が怖いの?」 「いえ、あの、」 ただ嫌われるのが怖いのであって決して涼宮さんが怖い訳ではない。けれど別に恋人でもなければ特別親しい訳でもない彼にそんなことを云うのは違う気がして、上手く説明が出来ない。 ポーン、と到着を知らせる音が響いて会話が中断する。降りて彼を先導して、部屋に通すと彼は靴を脱ぎながら先ほどと同じ質問を繰り返す。 「……涼宮さんが怖い訳じゃないですよ」 「ふーん」 イマイチ納得していなさそうな彼がそれでも頷くと寝室に入る。そして私をベッドに引き倒すと自分はベッドを背凭れにして床に座り込んだ。 「寝たままでいいから、本当に気持ち悪くなったら云って。そしたら帰る」 「はい」 さっき泣いた理由は俺には教えられない?と聞かれて、最近少し情緒不安定で、と答えるとその理由は分かる?と更に重ねて質問される。理由なんて、私がSOS団に居場所を求めているから、世界の鍵である彼女になりたいと思ってしまったからなのだけれど、そんなことは云えずに濁す。 彼は分からないなら良いよ、と軽く頷いてそれから気持ち悪くない?と私を気遣う。今日の彼は何だかとても優しくて、それが嬉しいような辛いような複雑な気分だ。大丈夫です、と絞り出した声は震えていて、あぁまた泣きそうだと人事のように思う。 体だけは横を向いたまま枕に顔を埋めると少しだけ気分が楽になる。冷たくて静かな部屋だけれど今日は横に涼宮さんがいる。思考を放棄して事実だけをなぞれば彼がいてくれるのは嬉しいことなのだから。 彼が動く気配がしてほんの少しだけ顔を上げると目の前に彼の顔があった。 「っ、」 「あ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」 やっぱりそろそろ帰るよ、と彼がゆっくりと立ち上がる。咄嗟に彼のブレザーを掴むと驚いたような表情で振り向いた。けれど彼より私の方がびっくりした。こんな行動を取るつもりは欠片もなかったのに。 「す、すいません……。外も暗くなってきましたからお気をつけて」 今日はありがとうございます、と云い終わる前に彼が目の前にしゃがみこんだ。 「そうじゃないでしょ」 「え……」 「俺にどうしてほしい、古泉さん」 帰っていいの?と聞かれて反射的に厭です、と答えると彼は今日初めて私に向けて笑ってくれた。 「それから?」 「……もう少し、ここにいてください」 先ほどと打って変わってすっかり上機嫌になった彼は分かった、と頷いて完全に座り込むとベッドに頬杖をついて、私の手を握る。え、と驚いていると彼は別にイヤじゃないだろ、と普段よりもずっと優しい笑みを浮かべた。 「俺、古泉さんは俺のこと嫌いなんだと思ってたけど違うみたいだな」 「……きらい?わたしが、涼宮さんを?」 少し間の抜けた声でそう呟くとだって俺とは目も合わせようとしなかったじゃん、と拗ねてみせる。 「……そう、でしょうか」 「そうだよ」 「それはきっと……」 「きっと、俺のこと意識し過ぎてだよな」 分かってるって、と私の頭を撫でながら満足げに笑う。 人に頭を撫でられるなんていつぶりだろうか。優しくて暖かくて、後ろ暗い感情が解けていく。気付いたらまた泣いていて、けれど彼は何も聞かずにただ優しく撫ぜてくれる。 「古泉さんは」 「……はい」 「自分のこと要らないやつだと思ってるだろ」 「え……」 当たりだろ。見てれば分かるよ、団長だからな。 そう呟いてまたガシガシと頭を掻く。 「SOS団に要らない人間なんていないんだよ。キョン子も有希もみつるも必要なように、古泉さんだって必要なんだ」 「……はい」 「それと、俺が好きなのはキョン子じゃない」 え、と彼の顔を見るとなんだよ、と不満そうに口を尖らせた。 「俺が好きなのは古泉さんだよ」 「……うそですそんな」 思わずそう返答すると困ったような表情で何で嘘なんだよ、と弱弱しく呟く。 「すいませ……」 「あーいい、もう謝らなくていいから」 返事は要らないけど覚えといて、と云われて、あぁ返事をする機会を逸してしまったなとぼんやり思う。 けれどここで何も云わなければ本当にこの先も返事などできずに終わる気がして、あの、と声を掛ける。 「わたし、その、」 何て云えばいいのだろう。何も言葉が出てこない。 「……学校で泣いてしまってすいませんでした」 結局出てきた言葉はこれだけだ。彼はいいよ、と困惑を隠し切れずに滲ませながら笑う。 「あの、涼宮さんが、無理にこなくていいと云ったとき、私は必要ないと云われた気がして、」 「……そっか」 そんなことないってのはさっき云ったろ、と優しく涙を拭われて頷く。 「……最近情緒不安定だったのもその辺りが原因?」 「……私にとっては涼宮さんが全てなのに、涼宮さんは私のことなんて興味ないんだと、そう思ってましたから」 俺が全て?と目を見開いて驚いたあと、幾らなんでもそんな大層な人間じゃないよ、と困ったように笑う。 「……やはり迷惑ですか?」 「そんなこと一言も云ってないだろっ」 怒るぞ、と彼が眉を吊り上げるのであぁ怒らせてしまった、とぼんやり思う。けれど彼は直ぐにまた困った表情に戻ってしまった。 「そんな顔するなよ、怒ってないから」 「……はい」 すいません、と謝ろうとするとすいませんもなし!と彼が私の頭をぐしゃぐしゃ撫ぜ回した。 「俺は古泉さんが好き、古泉さんも俺が好き、それでいいじゃんか」 「……はい、私涼宮さんが好きです」 乱れた髪を直している彼の手を握ると涼宮さんが嬉しそうに笑う。 具合悪いの治った?と聞かれて治りました、と答えるとじゃあ帰るよと彼が立ち上がる。 「もう帰っちゃうんですか……?」 「……今日はな」 一瞬困ったように笑って、今度来たときは泊まるから準備しておけよ!と云うと彼は出て行ってしまった。 けれど不思議と寂しさはなくて、胸に残るのは暖かなものだけだ。久しぶりに、本当に久しぶりに、明日がとても楽しみに思えた。 |