「お目覚めですか?」


呟いたのはウェーブがかった髪の女性だった。

薄く笑った長いまつげに、瞳が揺れる。


彼は言葉を出せず、
重い頭で彼女をちらりと視線だけで見る。


「思っていたよりも早くお目覚めになられて、
安心いたしました。」

彼女を見たことがあるかどうか、
彼にはわからなかった。

けれど纏う雰囲気は彼の目覚めに安堵していて、
自身の人よりも優れた本能が
彼女は敵ではないと強く彼に告げた。


「...お知りになりたいのでしょう」

ふんわりと落とされた声に主語はなくとも、
彼は彼女はなんのことを
言っているのか見当がついた。

ーー同時に彼女は、
自分の知りたいことを知っていると。


「お教えいたします。
ですが、貴方にはもう少し休養が必要です。」

私の主人から伝言です。


【大切な人の手を離さないように】と。


そう呟くと人形のような彼女は、
ゆったりと静かな笑みを浮かべた。










「...蹴った」

「本当?すっごく元気なの、この子」


にこ、っと笑顔をたたえた優姫に、
お腹に触れていた零はそっと手を離す。


...母は強し、とは言ったもので。

玖蘭枢がいなくなってから
彼女が持っていた悲哀な雰囲気は、
お腹が大きくなるにつれて、
だんだんと薄れていった。

それに比例するように、
彼女自身子供が愛しくてたまらないと、
喪ったものの欠片をわずかに得て、
強くなっていくように見えた。

そんな姿にほっとしたのは、
きっと零だけではなかったはずだ。


「あと少しで予定日だな...」

机上に置かれたカレンダーには、
あと数十日の所に丸がついていた。

「まあ、ヴァンパイアは妊娠期間が長いから...」


人間のよりはあてにならないんだけどね、
ましてや私は純血種だし。

なんて呟きながら、
そばに置かれた絵本に手を伸ばす優姫に、
零は不思議だな、と思った。

四年前に優姫が純血種だとわかった時には、
あんなにも彼女を拒絶した。





だが、再会してから、
妊娠した彼女に会い続けて、
やはり分かったことがある。

ーー純血種であろうが、吸血鬼であろうが、
彼女は彼女...優姫なのだと。

そう思うとやはり、自分にとって彼女は
大切な存在だと、痛感させられた。

だからこそ、彼女には幸せになってほしい。
どんな形であってもだ。

彼女を不幸せになど絶対にさせない。


「この本、かわいいでしょ?」

そんな零の考えにも気づかず、
優姫は手に取った絵本を開く。

紺色の表紙のそれは、
妊娠してから度々優姫がお腹の子に
読み聞かせてきたものだった。

表紙には丸い月と三日月、
そして星々が可愛らしくイラストされている。

「...これ、枢に小さい頃よく、
読んでもらってた本なの。」

そう言われて見れば、
確かにその絵本は少し薄ぼけていて、
ところどころ目立たない程度に
色が薄いのがわかった。

「わたしは...小さい頃玖蘭の家にいた頃は、
家の外に出られなかったの。」

それは零も知っていた。

元老院から、玖蘭李土から守るため、
優姫の両親は彼女が生まれたことすら隠し、
ひっそりと屋敷の地下で彼女の兄とともに
慈しみ、大事に育ててきたのだ。

「だから...わたしは外の世界を
見たことがなくて、」

太陽、空、雲、海、雪。


「でも見たい、とは
お父様たちには言えなくて...
ずっと黙って過ごしてた。」

桜、向日葵、薔薇。


「おにいさまはわたしが見たいって、
気づいてたみたいで...これをくれたの。」

そしてーー月。


「おにいさまは...月が好きだって、
だから優姫にもみせてあげたい、って」


【いつか必ず、優姫が月を綺麗と思える場所に、
ずっと居られるようにしてあげる】

【ほんと?うれしい!おにいさまっ!
あ...でも...】

【どうしたの?優姫】

【おにいさまも一緒?】

ずっと、一緒?


少し見開いた、ダークレッドの瞳は
また優しい光を戻して、


【うん、ずっと一緒にいるよ】



「...って、言ってたの。」

「...」

「今なら、枢の気持ちがわかる。
わたしは...この子が自由に外で暮らせる、
世界をこの子に作ってあげたい。」


純血種として過剰な保護を受けずに、
のびのびと外の世界で安らかに。

吸血鬼と人間としての隔たりもない、
お互いをわかりあい共存できる世界に。


「...そのために、わたしもがんばるから、」

零も応援してね、と微笑んだ優姫に、
やはり彼女は強くなったと零は感じた。


「...当たり前だろ」

くしゃりと髪の毛を片手で崩せば、
なにするの、と怒るけれど楽しそうで。

彼女は彼女で変わらないと実感した。



「あ、零!そろそろ時間じゃない?」

そう優姫に言われ、時計を見ると
確かにそろそろ鉄道の時間が迫っていた。


「...そうだな...」

少し名残惜しさを感じながらも、
仕事が残っているため、
優姫につきっきりそばにいてはやれない。

「...帰る前に、飲んどけ」

鎖骨が見えるくらいに開けていた前襟を
手で押し上げて、首筋を空ける。

「え、いいよ!」

私は零からはもらってないんだしー、と
応えても、零はそれは言い訳だとわかっていた。

「だめだ。そんなんで周りを襲ったらどうする」

「え、それは、うーん...」

「もう少しで出産日だし、
次いつ来れるかわからない。
飲んどいて損はないだろ。」

当初妊娠1年目くらいまでは
まだ優姫も不安定で、
時折激しい飢えに襲われていた。

けれどそれ以降安定してからは、
こうしてほぼ会うたび零に血をもらいつつも、
飢えを感じることはほとんどなくなった。

「ほら、鉄道、遅れる」

「う...」

いつか枢ともこんな会話したっけ、
なんて思いながら首筋に牙をたてる。

じゅる、と音を立てて、
零の血が躯の中に染み込む。

肩に置かれた零の手な力が少し入って、
爪を立てられていく。


「...ごちそうさまです」

「...お粗末さまでした」

浅く笑った紫色に、優姫も笑みを返す。

「ほら、じゃあ帰って。見送る。」

「いらねえ。架院先輩のとこ寄っていくから。 」

そう?と首を傾けながら、
じゃあ廊下まで見送るね、と肩にかけるため
ストールをソファから持ち上げる優姫。


「...優姫」

「なに?」

「最後に、あと一つだけ。」


俺と約束してほしい。

そう言って話された内容は、
全く想像していなかったものだった。



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