殿は最近すっかり窶れた。
病が体を蝕みもう先は長くはないのだと、多分殿自身が一番よく分かっていらした。
だからこそ最期の時に側近くに居られるようにと私は殿の部屋へと足を運、
「ええい毒を盛るつもりだなっ刑部の差金かっそんな見え見えの罠に小生は掛からんからなあっ」
「きゃああっ」
…行く先で聞こえてきた罵声と悲鳴に溜め息が溢れる。

殿は日に何度か、すでに関ヶ原で自刃した刑部少輔様に殺されると暴れまわるのだ。
今も粥を運んできた女中を突き飛ばし椀を弾き飛ばしたようだった。
家中ではもっぱら殿の気が触れたと囁かれている。
だが本当は。
「なんですか。その…気違いボケ老人の真似は」
「わはははなんだお前さんには『フリ』だと見破られてしまったか」
にんまりと笑うこの人のどこが気狂いだって?
ずっとずっとお側で見てきた心の奥に火を灯すような暖かな笑みだ。
「それで……ソレは一体何のお遊びなんです。つい先日も屋敷に近所の子供入れて大暴れして襖と障子を破ったじゃないですか……まったく変な遊びはしないでください」
「お遊びって…お前さん……いやな、こうやって家臣らから嫌われておけばすんなり長政に家督を譲れるんじゃないかと思ってな」
「ふうん……そんなものですか」
「ああ、そんなもんなんだ。ってことで小生亡き後は長政を支えてやっちゃくれんかね」
まったく普通の顔をして何を言うのか。
ごく当たり前に出された『死』に胸の奥がずくりと痛んだ。
私の気も知らないでこの馬鹿殿は…!
苛立ちに任せた返事は、
「はあ?嫌ですよ」
不機嫌そのものの低さだった。
「ず、ずいぶんとはっきり言いやがったな…」
「私、若様の事は認めてませんので。それに…私の命は私の物に非ず、殿の物です。殿の命尽きし時に私の命も尽きるのです」
「今ここで返すと言ってもか?」
「残念、受け取れません」
肩を竦めつつ返せば、融通の利かんやつめと渋く言われる。
殿が困ったように頭を掻く様子を、私はただ黙って見ていた。
あと幾つの季節を数えられるだろうか。
私には分からない。

(伏見藩邸)

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