水精の睡

今ではもうほとんど意味のある言葉を吐くことはない。
時折物言いたげに口を開くこともあったが、しばらく考える素振りを見せた後に苛立った様子で口を閉ざしてしまう。
何と言えばいいか分からなくなる。
あまり症状が進んでいない頃に――それでも一つ一つ掬い上げるようたどたどしく――男がそう零したことがあった。苦悩が色濃く影を落とした顔をして、その内に声を出すこと自体をやめてしまった。
そんな男へ無理に言葉を強請ることは出来なかった。
唯一、躊躇いなく口の端に乗せられるのは、
「みつ」
私の名前。
濡れ縁に腰を下ろした男が私を呼ぶ。
傾きはじめた陽の白い光を浴びて、眩しさに細められた目が柔和な顔を形作っていた。
「どうした壱矢。今日は気分が良さそうだな。…ああ、日差しが暖かいといってもまだ風は冷たい。羽織を持ってこさせよう。そうだ腹は空いているか。上物の菓子があるのだが……そうか……いらないか。ならばせめて茶でも用、」
「みつ」
ひとり言のように並べた私の言葉をたったの一言で遮り、自由にならない両腕を僅かに差し出してくる。
青白く濁る水晶の指が光を受けてきらりと輝き……それがとても悲しくなった。痛む胸に当てた拳は無意識だった。
男が困ったよう眉を下げる。
その様な顔をお前にさせたい訳では無いのだ。その言葉は私の耳の中だけで響く。
手を伸ばす。
冷たい。石の硬さが手に触れる。
思わず逃げそうになったがぐっと堪えた。
言葉を失っても、突き詰めて言えば男が痴れたとしても……私の名を呼ぶのなら、それならば、私は耐えられる。
だが。
差し出された手を取り、縋るように強く掴む。痛みに眉を寄せても可笑しくはない強さにも、男は気づかず稚気のある笑みで嬉しそうにもう一度名を呼んだ。
永遠に喪うことだけがただ恐ろしい。
言葉が不自由になるにつれ、それは体にも及んだ。
失くしていく言葉が澱のように降り積もり固まっていくようだった。
槍を握るどころか箸を持ち上げることも出来ない。
戦場を駆けるどころか満足に歩くことも出来ない。
男は起き上がることすら手伝いなしでは困難になっていた。
いつか、呼吸をも出来ぬ体になるのだろう。
いつか来る明けぬ夜が怖い。
「壱矢、壱矢壱矢壱矢……壱矢、」
何度も繰り返されるそれが己の名だと分からぬ様子で私をじっと見ている。
黒黒とした双眸は深く、どこまでも凪いでいる。その静謐さは死に似ていた。
「っ、……大丈夫だ、必ず、治る」
触れた頬は温かみがあって、熱く脈打つ命を感じる。
確かに生きていて……それなのに今この一瞬にも逸れることなく死へと向かっていた。
こんなのあまりにも惨すぎる。
かたん、と首が傾く。幼い表情だ。
言葉の意味を考えているのだろう長い間のあと。
目で見えている以上に触れた場所から男が笑うのが分かった。
そして。

「治らない」

男が死んだら、私はその時の優しい顔を思い出すのだと思う。

(石田壱矢は体が指先から結晶化してゆく病気です。進行するとひとつひとつ言葉を忘れてゆきます。星のかけらが薬になります。)

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