4. ルンペルシュティルツヘン




午後九時過ぎ、梨代子の家にやって来た赤木は「もう家の場所は覚えたよ」と言って笑った。
梨代子はその時、次の勉強会で読む絵本をなににするか考えていたところだったので、居間のテーブルの上には何冊も絵本が広げられており、他にものを置くスペースがないほどだった。

「あの、ごめんなさい、すぐに片づけますから」

梨代子は慌てて絵本をまとめると、テーブルの端に重ねて置いた。赤木は興味深そうに積まれた絵本の山を眺めた。

「すげぇなぁ、こんなに絵本を持ってるのか」
「これはごく一部ですよ」
「もっとあるのか?」
「はい。きちんと数えたことはありませんが、絵本だけで五百冊近くあった気がします」
「五百?そんなにあるのか」
「ええ。私の母も文学に熱心な人で、母が集めたものが大半なのですが」
「絵本なんて、俺は読んだこともないよ」

赤木は絵本の山のいちばん上に置いてあった、『だいくとおにろく』を手に取った。

「こんなにたくさん広げて、なにやってたんだい」
「実は来週、お話の勉強会があって、そこで読む絵本をどれにするか考えていたんです」
「ん?その勉強会ってのは」
「ああ、えーと、うちの区には児童文学界の偉い先生がいらっしゃいまして、その先生主催の、子どもに語るお話を勉強する会、っていうのが定期的に開かれているんです。私も都合が合う時は参加しています。その会では集まった人たちが語りをやったり、絵本を読んだりして、感想を言い合ったり情報交換をしたりするんです」
「へぇ、そんなのがあるのか」
「それで私は今回、なにか絵本を読もうと思っていまして」
「なるほどな。野村さんといると知らないことばかりだよ。世の中にはいろんな世界があるもんだな」

赤木はソファーに座って『だいくとおにろく』のページをめくりながら、真面目くさった顔でうんうんと頷いた。
語りとは、本を開いて字を読む朗読とは異なり、物語の内容をすべて暗記して聞き手に語る、落語や漫談などに近い手法である。落語などの話芸とは違い、身振り手振りをいれたり声色を使ったりすることなく、覚えた通りに淡々と話すのが特徴だ。
赤木は語りがなんであるか知らないだろうと梨代子は思ったが、ずいぶん集中して絵本を読んでいるようなので、黙っておくことにした。

「それ、いい絵本でしょう」

赤木が最後のページをめくり終えて本を閉じたので、梨代子はそう声をかけた。

「ああ。この、絵がいいな。素朴な感じで」
「勉強会で読むの、その本にしようかしら」

赤木は絵本をテーブルの上に戻すと、梨代子に目をやった。

「なぁ、またなにか話を読んでくれないか」
「構いませんけれど…、お風呂に入ってからでもよろしいですか?私、まだなんです」
「ああ、もちろんだよ」
「本ならそこの本棚にありますから、ご自分でお読みになってらしてもいいんですよ」

梨代子はソファーから立ち上がると、居間の大きな本棚を示した。本棚には文庫の小説や雑誌、ファイルに入れられた書類など、様々なものが詰めこまれていた。ちょうど目線ほどの高さのところには、グリム童話や世界の民話などの本が置かれている。
赤木は眉の間にわずかなしわを寄せると、うーんと静かにうなった。

「いや、本はなぁ……。少し前…二、三年くらい前からかな、本を読むと活字がちらちらするようになってよ。特に小さい字はかなりきついんだ」
「あら…、そうでしたか。そういえば、私の父も似たようなことを言っていた記憶があります」
「たぶん老眼が始まってんだろうな。俺も歳だよ。だから、読んでもらうほうがずっといいや」

そう言って、赤木はほがらかに破顔した。



***



夕飯はもう食べたと言う赤木のためにウイスキーを用意しながら、酒だけというのは味気ないものなのかもしれない、と梨代子は考えていた。台所の棚の中を探ってみたが、梨代子は酒を飲まないので、つまみと呼べそうなものは特に入っていない。
そこで仕方なく、パスタの袋と紅茶の箱の間からチョコレートの大袋を取り出した。ひと口サイズのチョコレートがアソートで入っている、梨代子のお気に入りだ。その袋の中からチョコレートをひと掴み取り出して皿に盛って、盆の上に乗せた。

「いつも悪いな」

窓を開け、外を眺めながらタバコを吸っていた赤木は、梨代子を見ると軽く笑った。

「お、チョコレートかい。洒落てるじゃねぇか」
「なにかおつまみをと思ったのですが、良さそうなものがなにもなくて、私のおやつで申し訳ないんですけれど…」
「いや、嬉しいよ。ウイスキーにチョコレート、けっこう合うんだ」

ウイスキーのボトルと水割りを作るためのセット、それからチョコレートの盛られた皿をテーブルに並べてから、読む話を選ぶために梨代子は本棚の前に立った。

「いつだったか、どこかのバーだかスナックだかで飲んでた時につまみでチョコが出てきたことがあってよ。俺はいつも甘いもんは食わねえから遠慮しようと思ったんだが、食ってみるとこれが意外に酒と合うんだよな。驚いたよ。それ以来ホテルの部屋なんかでひとりで飲む時も、たまにチョコレート買ってきて食ったりするんだぜ」

赤木はくわえタバコのままソファーに座り、グラスに氷を入れながら、なかばひとり言のような調子でチョコレートに関する意見をつらつらと述べた。

梨代子は本を片手に戻ってくると、赤木のななめ前に座った。
梨代子の家の居間には、ふたりがけのソファーが二つあり、テーブルに向かってL字になるように配置されている。ソファーはふたりがけなので赤木の隣に座ることもできたが、本を読むとき、梨代子はいつも赤木がいる方とは違うソファーに座った。おはなし会に慣れている身としては、話し手と聞き手がお互いに顔を見ることのできる位置にいるほうが自然だからだ。

「さっき、大工と鬼六を読んでらしたので、同じく名当ての話をお読みしますね」
「名当て?……ああ、名前を当てるってことか」
「ええ。名前には不思議な力がある、というお話は世界各国にあります。大工と鬼六でも、鬼六、と名前を当てられた鬼は消えてしまいましたよね。名前を知ることができれば、その相手を支配することができると信じられていたんです」

梨代子は本を開いてページをめくった。

「他の国にも、そういう話があるのか」
「はい。いくつもありますよ。それでは、グリム童話より、ルンペルシュティルツヘン」


ルンペルシュティルツヘンは小人の名前だ。とある娘を助けた小人は、将来お前の子どもをもらい受けると言って去っていく。その後、王と結婚した娘のもとに、その小人が約束を果たすためにやってくる。どうか子どもを持っていかないでくれと泣く娘に、三日後までに自分の名前を当てることができたら許してやると小人は言うのだった。

話を聞き終わった赤木はタバコに火をつけると、梨代子の顔をじっと見た。

「なぁ野村さん」
「はい、なんでしょうか」
「下の名前を聞いてもいいかい」

梨代子は眉を持ち上げて、驚きの色を示した。

「お教えしていませんでしたか」
「ああ」
「…梨代子…、梨代子といいます」
「梨代子、か。なんだ、野村さんより言いやすいじゃないか」

赤木は楽しそうに言って、タバコの煙を吸いこんだ。内部でくすぶる火の温度が高くなり、タバコの先が赤く光った。

「これからは下の名前で呼んでもいいかな」
「……ええ、どうぞ」

梨代子、と赤木の口が動く。
そんな風に呼ばれるのはずいぶんと久しぶりだった。両親は海外だし、職場では名字で呼ばれている。思えば学生時代も名字で呼ばれることが多かった。

「赤木さんのお名前をお聞きしても」
「ああ、俺も言ってなかったか。しげる、だよ。俺は赤木しげるってんだ」
「しげるさん」
「そう呼んでくれてもいいんだぜ」
「…いえ…、赤木さん、で大丈夫です」
「そうかい?」

赤木はタバコを灰皿に置くと、グラスにウイスキーをつぎ足した。

「梨代子」
「はい」

自分の名を呼ぶ赤木の声に、梨代子は心のやわらかい部分をくすぐられるような感覚を覚えた。その感情がいったいなんなのか、なぜそのくすぐったさの中に喜びにも似た期待があるのか、梨代子にはわからなかった。

「もうひとつ、違う話を読んでくれないかな」




Rumpelstilzchen
KHM 55