ジャンク | ナノ
 ぐっど、ばい



「別れようと思うんだ」

思い詰めたような銀二の言葉に、運転席でハンドルを握っていた巽は、勢い余って銜えていた煙草の端を噛み潰した。

「え、え?俺?俺なんかした?」
「お前な訳ねぇだろ。……女の話」
「オンナ?」
「そう、女、愛人」

銀二は煙草の煙を深く吸い込んで吐き出し、鬢のほつれ毛を掻き上げた。
外ではしとしとと秋の冷たい雨が降っている。

「俺ももう五十を越えて、人生後半戦な訳だろ。ここらでさっぱり、愛人関係を清算しちまおうかと思うんだ。さすがにあちこち手を広げ過ぎた」
「そりゃ随分と潔いことで。それで何人いるのよ、愛人さん」
「七人ほど」
「うわ、そんなに?色男は辛いねえ。でもさ、銀さんが別れたくても相手の女の方が許してくれないんじゃないの」
「そうなんだ。……情けない話なんだが、どうすれば上手く別れられるのか皆目わからねぇんだ。もう弱っちまってよ」

銀二は眉間に皺を寄せて、助手席の窓を打つ雨垂れを見つめた。

元来、銀二は鬼のように口が回る男である。欲の皮の突っ張った老獪な政治家やら資産家やらを相手に、切った張ったの駆け引きを生業としているのだ。舌先三寸、口八丁で今まで生きてきたと言っても過言ではない。すらすらと銀二の口から出てくる鮮やかとしか言い様のない弁舌には、付き合いの長い巽や安田ですらしばしば息を呑むものがあった。
その銀二が弱ったと言っている。それは謙遜や冗談の類ではなく、本心からだった。
大抵の利害問題は金を積めば丸く収まる。だが恋慕の情が絡むと、途端にその理論は破綻してしまう。一足飛びに銀二のセオリーの効かない範疇へ行ってしまうのだ。

「巽、なんか良いアイディアねぇか」
「んなこと言われてもねえ…。普通に『別れよう』って言ってみればいいんじゃないの」

車に備え付けられた灰皿に短くなった煙草を押し付け、銀二は溜息をついた。

「さっき愛人は七人って言ったがな、つい最近まで八人だったんだ」
「え、もう一人とは別れたってこと?」
「ああ。骨の折れる仕事だったよ。もっと楽に別れられると思ってたんだが、甘かった」
「ふーん、普通に切り出したわけ?」
「そうだよ。あいつの好きなケーキ買って、花束買って、ついでに多少は金も用意して、面と向かって言ったさ、『別れたいと思う』って」
「泣かれたろ」
「よく分かるな」
「まあね」
「俯いてさめざめと泣かれたよ。いっそ俺のことを思い切り罵倒して引っ叩いてくれりゃあ、まだ気が楽だったんだが…。延々と泣いた後に消え入りそうな声で『別れるくらいなら死にます』とか言うもんだから、ぎょっとした。なんとか言いくるめて納得させられたから良かったけどよ」

銀二はまた深い溜息をついた。
女というやつは、一度泣き始めると頑として言うことを聞かなくなる傾向がある。その愛人と別れた時も、銀二は一晩中、泣き続ける彼女をなだめすかして、どうにかこうにか別れることが出来たのだった。

「銀さんは優しすぎんだよ。なんで花なんか買ってくんだ。別れたいんならもう会いにいかなきゃいい話じゃんか。ま、だからモテるんだろうけど」

ワイパーが静かに動いて、フロントガラスの水滴を拭った。

何人も愛人を抱えていることからわかるように、 銀二は女にだらしない性格だった。しかしその分、女に対して滅法優しいこともまた事実だった。
まだ若い愛人たちには未来がある。次の男を見つけたり、結婚したりするかもしれない。そういったことを考えると、やはりきっちりと別れなければいけないと銀二は思うのだ。
だが道のりは長く、険しい。

「あと七人、七人もいるんだぜ?全員と別れる前に俺は刺されて死んじまうよ」

実のところ、先に別れた女は銀二の数いる愛人の中でも一番大人しく、物静かな人間であった。だからこそ銀二は、彼女ならば穏便に別れられるだろうと安心して出向いていったのだ。まさかその大人しい女の口から、死ぬ、などという物騒な言葉が飛び出すなど、予想もしていなかった。
女は怖い。静かな彼女ですらこうなのだ。他の愛人であれば、刃物が出てきて流血沙汰になる可能性も低くない。

銀二の疲れた顔に落ちる影は濃く、深かった。

「つくづく、グッド・バイ、だね」
「あ?」
「『グッド・バイ』、太宰治の短編小説だよ。読んだことない?」
「さあ。あるような気もするが、覚えてねぇな」
「簡単に言うと、愛人がたくさんいる男がその愛人たちと別れるために悪戦苦闘するって話。太宰が自殺する直前に書いてたやつだから未完なんだけどさ」
「まさに今の俺じゃねぇか」
「でしょ?んで、その主人公がとった方法ってのが、妻っていう設定のすっごい美人を連れて愛人を訪ねるってやつなのよ。そうすると愛人さんは黙って引き下がる。どう?」
「どう、って言われてもよ……」

それはあくまで小説の話だろう、と一蹴しようとして、銀二ははたとあることを思い出した。
『誰かと結婚するんですか』という件の別れた愛人の言葉である。別れると銀二が言い出したときに、涙ぐんだ彼女の口からこぼれた一言だ。
銀二は優しいから、君だけが特別、などという甘い嘘をついたりはしない。どの愛人にも、他に女がいることをやんわりと伝えてある。だから彼女も、別れる理由としてまず初めに他の女のことに頭がいったのだろう。
『妻』を連れていくというのは、なかなか面白いアイディアかもしれない。

「……存外、悪くねぇかもな」
「お、使ってみる気になった?グッド・バイ作戦」
「しかし、すごい美人なんてどこにいるんだよ」

銀二は五十路であるとはいえ、歳を感じさせない細面の美形で、非常に見た目に気を使う男である。そんな銀二の愛人はみな美人揃いであった。
その愛人たちを諦めさせるとなると、これはもう本当にものすごい美人でなければならない。

「いるだろ、一人。誰もが振り返るようなすんごい美人」

巽はサングラス越しに銀二へ視線を投げかけ、へらりと笑った。

「宝田リツカ」
「…………あいつか」

銀二は沈んだ声を出した。

宝田リツカは、巽の馴染みのとある小さな劇団に所属する女優で、銀二は仕事の都合で何回か関わっている。
なるほど確かに、文句のつけようがないほどすごい美人だ。歳は二十四、五。まるで美術彫刻のように恐ろしく整った顔だちをしていて、色は白く、手足は細く、背は高めでスタイルも申し分ない。どこかこの世のものではないような気品を備えている。あまりの美しさに声も出ない、という形容が、お世辞でもなんでもなく当てはまるような、そんな女だった。

外身は最高。まるで女神。ついでに付け加えると演技も上手い。
だが肝心の中身はと言うと、これが残念なことに最悪なのだ。

あの容姿だから、幼い頃から蝶よ花よと育てられ、苦労などしたことがないのだろう。わがままで高飛車で、他人を尊重する気持ちなど生まれてこのかた持ったことありません、とでも言いたげな慇懃無礼な態度。さらに粗野で横暴。
本当に色んな意味で『すごい』美人なのだ。

顔も演技も良いのだからもっと有名になってもよさそうなものだが、いつまでたっても小さな劇団から抜け出せないのは、その残念すぎる性格に寄るところが大きいらしい。

「俺、苦手なんだよあの女」
「へぇ、俺はけっこう馬が合うんだけど」

女は淑やかで清楚なもの、という少々古めかしい感性を持つ銀二にとって、礼儀知らずのリツカは不快以外の何物でもなかった。二回ほどしか会ったことはないが、正直、二度と関わりたくない部類の人間である。
だが、あれほどの美人などそうそういない。

銀二は眉間の皺を一層深くした。



****



待ち合わせ場所である新宿のバーにやって来たリツカは、銀二と巽を見つけるとひらひらと手を振った。

「やっほー、来ったよー」

約四十分の遅刻である。

「リツカちゃーん、久しぶり。会いたかったよ」
「たっちー!あたしも会いたかったよぉ!もー、ぜんぜん連絡してくんないんだもん」
「ごめんよ、最近忙しくてさ。いや、今日も綺麗だね」
「でしょ?知ってる」

巽とリツカが楽しそうに話している様子を見ながら、銀二は苦虫を噛み潰したような顔で手元の酒を喉に流し込んだ。
一回り以上は年下の女から『たっちー』などという舐めくさったあだ名で呼ばれているにも関わらず、巽はへらへらと脂下がった笑みを浮かべている。そのあだ名は若い娘が使うところの『アッシー』やら『メッシー』やらと同じ語感だということに、巽は気がついているのだろうか。

「それで、ギンちゃん。今日は何の話?」
「……その呼び方はやめてくれと言ったはずだが」
「え?いーじゃん、カワイイよ」

リツカは銀二の向かいの席に座ると、カクテルを注文した。遅刻をしたことに対する弁明は無いようだ。初対面で勝手につけた妙な呼び名を変える気もないらしい。
銀二はすでに萎えた気分で、目の前に座る女を眺めた。口の利き方は最低極まりないが、さらりと着たシンプルなワンピースは細身の身体に良く似合っていて、本当に目が眩むほど美しい。それは事実として認めざるを得ない。

「実はさ、銀さんがリツカちゃんに相談事があるんだって」
「相談?あたしに?ああ、悪いけど彼氏なら間に合ってるから。……んー、でもギンちゃんって年の割にはけっこーイケてるし、まあ内容によっちゃ考えてあげてもいいかも」

銀二は黙ってウイスキーを煽った。
お前のような女なぞこっちから願い下げだと言ってやりたかったが、曲がりなりにもものを頼む立場であるので我慢する。

「いや、違うんだよリツカちゃん。その逆」
「逆?」
「銀さんはね、女の子と別れたいんだって」
「なにそれ」
「それがさ、笑っちゃうような話なんだけど……」

自分の愛人問題が巽によって面白おかしく説明される様を、銀二は無表情で聞いた。リツカの下品な笑い声が癪に障るが、これも身から出た錆だ。仕方がない。

一通り話を聞き終わったリツカは、目の前の銀二をまっすぐ見て、にやりと笑った。

「ふーん、なるほどねぇ。それであたしに『美しい妻』役をやって欲しいってことね、ギンちゃんは」

俗に言う裏社会で長年生きてきただけあって、銀二の目線は鋭く、その瞳の中をじっくりと覗きこめる人間はなかなかいない。だが、どうやらリツカは例外のようだ。むしろ銀二の方が気圧されるような、そんな感覚。

「ああ、そうだ。引き受けてくれるか」
「お給料は?」
「……金ならいくらでも払う」
「へぇ?」

リツカは芝居がかった仕草でカクテルグラスを回した。

「ま、面白そうだし、やってあげてもいいよ。んー、でもギンちゃんってさ、なんかあたしに冷たくない?気のせい?まずはその態度を改めてちょーだいね。それからあたし、とりあえず新しいバッグが欲しいわ」

銀二はもう、うんざりとしてしまって、すがるような気持ちで煙草に火をつけた。






ここで挫折!つづかない!


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