『…このようにして、遺伝子がミューテーション、突然変異を起こすことによって地球上の生物は進化をしてきたのです。よって…』
室内を圧迫する沈黙に耐え切れずにつけたテレビは、ちょうどサイエンス番組の真っ最中だった。白人の科学者がDNAの模型を片手になにやら説明を重ねており、画面の左角には『生命誕生 38億年の歴史』というタイトルがつけられている。
時刻は19時42分。銀さんたちの打ち合わせが終わるのが21時の予定だから、まだ1時間以上ひまがある。
チャンネルをいくつか回してみたがたいして興味を引かれるものもなく、結局、さっきの生命の歴史とやらに戻ってきた。
『ヒトも動物も植物も、目に見えない小さな微生物も、すべて元をたどれば同じ祖先に行き着きます。まだなにもなかった地球の広大な海の中で生まれたひとつの命。それが現在生きる全ての生き物の源なのです』
「森田くん、科学好きなの?」
俺のとなりで書類のチェックをしていたリツカさんが、テレビをちらりと見てそう問いかけた。
「え?いや、全然そんなことないです。これはテキトーにつけたらやってただけで」
同じソファーに座ってはいるが、彼女と俺の間にはヒト2人分ほどの空間があいている。離れているわけではないが近くにいるわけでもない、微妙な距離感がもどかしい。
どうにもこの、ホテルのスイートルームってやつは俺の肌に合わない。貧乏生活が染みついているせいか、無駄に空間が広いと落ち着かないのだ。このソファーだってもっと小さければ、もっとリツカさんのそばにいられるのに。
「学校でも化学とか物理とかは苦手でしたね。もう、テストとか悲惨でしたよ。リツカさんはどうでした?なんか得意そうだけど」
「実は私ね、理系だったのよ。だからまぁ理数はけっこう好きだったかな」
「へぇ、そうなんですか?知らなかったな。てっきり経済学部出身とかだと思ってました」
「今は勉強したことなんて全く使ってないからね。ほんと、人生どうなるかわかんないわ」
リツカさんが首を動かした拍子に、そのウェーブがかった長い髪が細い肩の上ですべった。耳たぶにシルバーのピアスが光っているのがちらりと見える。
俺はなにか会話を続けようと思ったが、頭の中が真っ白でうまく言葉が出てこなかった。大学の話、学部の話、勉強の話、いろいろな話題が浮かびかけては消えていく。
いつもそうだ。リツカさんと話したくてたまらないのに、なにを話せばいいのかわからない。今だって、ホテルの部屋に2人きりという夢みたいな状況なのに、俺に出来ることといったら彼女の横顔をときおり盗み見ることくらいだ。
テレビの画面が切り替わって、単細胞生物が分裂する映像が流れ始めた。続いて熱帯の海のカラフルな魚の群れ、卵をあたためる小鳥、サバンナのシマウマが映る。
どんな生き物も38億年に渡る厳しい生存競争の生き残りなのです、と、男性ナレーターの解説がはいった。
「生き物ってどうして増えようとするんでしょうね」
半分ひとり言のような俺のつぶやきに、リツカさんは顔をあげた。
「べつに自分の子孫を残したからって、なんになる訳でもないのに」
「逆よ」
リツカさんは読んでいた書類をテーブルの上に放ると、足を組んだ。
スーツのスカートからのぞく無防備な白い太ももに思わず目が吸い寄せられたが、慌てて視線をそらす。
「増えようとしたものだけが現在まで生き残ってるの。ただそれだけ」
「あ、そっか、なるほど」
「たぶん、すごく昔の地球にいた原始的な生物の、そうね、アメーバみたいなやつの中には増えようと思わなかった個体もいたかもね。でも、そういうのは絶滅しちゃったわけ。で、自分の仲間を増やそうとしたものは生き残った」
テレビ画面に視線を固定したまま話す彼女はとてもキレイで、こんな家庭教師がいたらきっと最高だろうなどと、訳のわからない感想を抱いた。
「森田くんも、頑張らないと生き残れないかもよ」
リツカさんは横目で俺に視線を投げかけるとイタズラっぽく笑った。
俺は心臓の鼓動がばかに大きな音で耳の奥に響くのを感じながら、「がんばります」、と出来るだけ真面目な顔でうなずいた。