東京、繁華街某所。
とっくに日付も変わった深夜帯だったが、この雑居ビルの一室は大きな盛り上がりを見せていた。トランプが開かれるたびに、賑やかな客の歓声が上がっている。
やはり人気なのは、カジノの王様とも言われるバカラである。今夜は二つあるバカラテーブルの全てが、熱っぽく浮かれた客で埋まっていた。
「シャンパン、三つお願い。あとクラッカーとチーズも三つずつ」
可愛らしいチャイナドレス姿のウェイトレスに声をかけられ、リツカは手早くグラスにシャンパンを注いだ。
「どうぞ」
「サンキュ」
ニッコリと微笑んだウェイトレスは、シャンパンと軽食の皿が乗ったトレンチを持って、足早にブラックジャックテーブルの方へと消えていった。大きくチップを賭けた客がいたのか、人々のどよめきと笑い声が店内に響いた。
リツカは手元に目を落とし、洗ったグラスを拭く作業を再開した。
ここは、非合法の裏カジノである。リツカはここで、もう二年ほどバーテンダーとして働いている。
賭博行為は違法であるため、警察に踏み込まれればその場で逮捕される可能性はあるが、リツカはこのカジノでの仕事をそれなりに気に入っていた。
客はみなギャンブルに夢中だし、注文はフロアを回っているウェイトレスに言えばいいので、店の隅にあるバーカウンターにわざわざ訪れる者は少ない。客に出すドリンクと軽食はサービス扱いで全て無料なので、売り上げを気にする必要もない。酒を作るのは好きだが接客に苦手意識のあるリツカにとっては、ありがたい職場だった。
今夜もリツカはいつも通り、賭けたチップの行方に熱中している客たちを横目に、カウンターの中で黙々と酒を用意していた。
「よぉ、リツカちゃん」
聞き覚えのある男の声に、リツカは顔を上げた。
四十歳前後の、根元まで真っ白な髪が印象的な男。そこに立っていたのは麻雀打ち、赤木しげるであった。
「いらっしゃいませ」
リツカは布巾を置いて、軽く頭を下げた。
「ソルティドッグをくれないか」
「かしこまりました」
赤木はカウンターのイスに座ると、ジャケットからタバコの箱とライターを取り出した。
リツカはロックグラスを取り、半分に切ったライムをグラスの縁に付けて濡らした。
「申し訳ないのですが、今日は麻雀の日ではありませんよ」
メジャーカップでウォッカをグラスに注ぎ入れながら、リツカは言った。
「ああ、知ってるよ」
「そうでしたか。では、バカラでも遊びにいらしたんですか」
「いや、今日も酒だけ飲みに来たんだ。本当にここはいい店だよな。うまい酒はタダだし、カワイイおねーちゃんにも会えるし」
赤木はタバコを吸いながら笑った。
このカジノには、バカラ、ルーレット、ブラックジャックのテーブルの他に、麻雀の自動卓が一台置いてある。
麻雀は一回の勝負に時間がかかりすぎるので、カジノには向かない種類のゲームである。そのため、基本的にカジノで麻雀が行われることはないのだが、この店はオーナーの強い意向で特別に麻雀卓が設置されていた。
とはいえ、麻雀に精通したディーラーが少ない都合もあり、実際に麻雀の卓が動くのは月に数度だけであった。
「お待たせしました。ソルティドッグです」
リツカは赤木の前に、ロックグラスとミックスナッツの入った小皿を差し出した。
「ありがとよ」
赤木はグラスを取ると、酒をひと口飲んだ。氷がグラスに当たって、カランと音を立てた。
一般的に裏カジノのバックには、俗にケツモチと呼ばれる暴力団がついている。このカジノも例外ではなく、オーナーはカタギの人間ということになっていたが、実質的な経営権はこのあたりを縄張りにしている暴力団が握っていた。
ここに麻雀卓が置いてあるのも、バックにいる暴力団の親分が大の麻雀好きだからだ。赤木は、その親分が連れてきた裏の麻雀打ちであった。聞いた話によると麻雀の天才であり、神域の男などと呼ばれているらしい。
赤木はごくまれに、ここの麻雀卓に座ることがあった。もちろん、裏プロに素人の客が勝てるはずがないので、ギャンブルではなくエキシビジョンマッチのようなイベントである。我こそはという腕自慢が集まり、神域の男に挑戦する。赤木はそんな相手を嘲笑うかのように、華麗に圧勝してみせる。客たちはそれを見て大喜びした。赤木が麻雀を打つ日は、必ず暴力団の幹部陣もぞろぞろと来て、赤木の勝負を満足そうに観戦していった。
リツカは麻雀のルールを知らなかったが、赤木が人気である理由はなんとなくわかっていた。ひと言で言えば、打ち方に華があるのだ。あえて珍しい手を狙ったり、必要のない場面でイカサマをしてみせたりと、客を飽きさせない。赤木にはそれに加えて、とらえどころがないのに人を惹きつける、不思議な魅力があった。
「リツカさぁん、ビール二つとコーラ。コーラはビンのままで」
「はい」
空のグラスを持って、赤いチャイナドレスのウェイトレスがカウンターの横まで来た。リツカは冷蔵庫からコーラのビンを出し、栓抜きでフタを開けた。
「あっ、赤木さん! また来てくれたんですね!」
カウンターに座っている赤木の姿を見つけ、ウェイトレスは黄色い声を上げた。中華風にまとめた髪飾りのリボンがヒラヒラと揺れた。
「ね、たまにはあっちのテーブルで遊びましょうよぉ」
「悪いな、今日はもう疲れちまったから無理だ。また今度な」
「んもう、いっつもそればっかり。今度は絶対来てくださいよ」
「ははは、わかったよ」
赤木と軽口を交わし合ったウェイトレスは、リツカが渡した注文の品を受け取り、向こうの客の方へと歩いていった。
「これ、うまいなぁ。塩の具合もちょうどいい」
「ありがとうございます」
赤木はソルティドッグを飲みながら、店の中を見回した。
「今日はみんなチャイナ服なんだな」
「そうですね、先週から特別企画で制服を変えています」
「へぇ。リツカちゃんは着ないのかい」
「私はバーテンダーですので」
「せっかくだから着ればいいじゃねぇか。きっと似合うよ」
「ありがとうございます。検討します」
何がおかしいのか、赤木はタバコの煙を吐いて、面白そうに目を細めて笑った。
基本的にゲームで遊ばない冷やかしの客は入店できないが、赤木は特別なので顔パスだ。チップも持たずに酒だけ飲んでいても、受付の黒服は何も言わない。それをいいことに、赤木はたまにこうしてフラフラと現れては、バーカウンターに陣取って、リツカとおしゃべりをして帰っていくのだ。
リツカは同僚から『鉄の女』とからかわれるほど無表情の無愛想で、トークも苦手だ。この店には、賑やかで可愛いウェイトレスたちがたくさんいるのに、赤木はいつも一人でバーカウンターに座っている。リツカにはその理由がよくわからなかった。
「今日は客が多いな」
「金曜日の夜ですから」
「ああ、そうか。リツカちゃんも忙しくて大変だろう」
「そんなことはありません。いいお客様ばかりで、大変楽しく働かせていただいています」
「へぇ」
赤木はタバコを灰皿に置いて、ナッツをつまんだ。
「そういえば、ずっと聞きたかったんだ。リツカちゃん、いい腕してるのに、なんでこんな裏の店で働いてるんだい」
赤木の言葉にリツカは、レモンを切っていた手を止めた。
「それは……、そうですね……、ここの環境が気に入っているんです。スタッフはみんな優しいし、仕事内容も私の性格に合っています」
「ふーん。だけどよ、そんなバーならこの街にいくらでもあるだろ? 俺みたいな与太郎の根無し草ならともかく、カタギの女の子が犯罪組織で働く理由には、ならないんじゃねぇのか」
リツカは切り終えたレモンを皿に移し、ナイフを布巾で拭いた。くし形に切ったレモンがひとつ、皿からすべって転がり落ちた。
「……ここは、お給料がいいんです」
ルーレットのテーブルの方で、ワッと大きな歓声が上がった。ギャラリーが盛り上がるような、無茶な賭け方をした客がいたのだろう。
「お恥ずかしい話ですが、少し借金がありまして。どうしてもお金が必要なんです」
「金か、なるほど。でも、そんなふうには見えねぇぜ? 賭け事には興味ないだろ?」
赤木の吸うタバコの匂いが、リツカの鼻をくすぐる。リツカは目を伏せ、エプロンの裾を握った。
「……若気の至りです。昔、悪い男に騙されて、だいぶ貢がされてしまったんです」
ほとんど誰にも話したことのない、トップシークレットでもあるプライベートな話を、リツカはいつの間にか赤木に向かって打ち明けていた。赤木の持つ、独特な雰囲気にあてられてしまったのかもしれない。
「借金してまで男に貢ぐなんて、そんな情熱的な子だったとはな。知らなかったよ」
「あの頃は若かったんです。今は違いますよ。自分の男運のなさは、身に染みてわかっていますから」
かつて好きだった男の顔、男が住んでいたアパートの茶色いカーテン、借りた金の残額の明細、そんなような映像が一瞬だけリツカの頭の中を通り過ぎ、消えていった。
赤木はグラスを傾け、ソルティドッグを飲み干した。
「何かお飲みになられますか」
空になったロックグラスを見て、リツカは赤木に問いかけた。
「うーん、そうだな、なんでもいいが……。あれだ、あのなんか銀色の細長いやつで、リツカちゃんがシャカシャカやるのが見たいな」
「カクテルシェイカーのことですか」
「そう、それそれ。さっぱりしたやつが飲みたい気分だ」
シェイクをする、さっぱりしたカクテル。リツカは愛用のスリーピースシェイカーを準備しながら、頭の中で候補を検索した。
「それでは、ジン・フィズをお作りしましょうか」
「ああ。じゃあそれで」
リツカはシェイカーを開けると、ボディにメジャーカップでジンを注ぎ入れた。赤木はリツカの手元から目を離さないまま、新しいタバコに火を付けた。
材料を全て入れ終え、冷凍庫から出した氷を詰めたボディに、ストレーナーとトップをはめる。リツカはシェイカーを両手で持って、胸の前で構えた。
そこから斜め上、斜め下、とリズミカルに手首のスナップをきかせて振っていく。二段振りと呼ばれるオーソドックスな振り方である。
シェイカーの中で氷がぶつかって混ざり、カチャカチャと小気味よい音を立てた。
「かっこいいなぁ」
タンブラーにシェイカーの中身を注ぎ、バースプーンでステアしているリツカを眺めながら、赤木はひとり言のようにつぶやいた。
「お待たせしました。ジン・フィズでございます」
リツカが両手を添えて差し出したタンブラーを、赤木は受け取って口を付けた。
「うん、いい味だ。やっぱりリツカちゃんの作る酒、好きだよ」
「ありがとうございます」
赤木はタバコをくわえ、楽しそうに笑っている。目元に笑い皺のある赤木の顔を見ていると、どうにも妙な気分になりそうで、リツカは手元に視線を落とした。
「ごめーん、焼酎なんだけどさ」
ミニのチャイナドレスを着たウェイトレスがひとり、カウンターまで早足で来ると、リツカに小声で話しかけてきた。
「お湯割りなんだけど、梅干しってあったっけ? あとお水ボトルでもらっていい?」
「梅干し割り、できますよ。ボトルはそこで冷やしてあります」
「おっけー」
リツカが作った焼酎の梅干し割りと、準備してあった水のボトルを持って、ウェイトレスはまた早足で去っていった。
赤木はタバコを吸いながら、消えていくウェイトレスの後ろ姿を目で追っているようだった。
「なぁ、リツカちゃん」
「はい」
「聞いた話によると、この店、女の子のお持ち帰りができるんだってな」
梅干しのパックを冷蔵庫に戻していたリツカは、赤木の言葉に一瞬だけ手を止めた。
「……ええ。上の許可がおりましたら、お客様との一時外出が可能です」
公にはされていないうえ、VIP客に限る対応だったが、このカジノには『一時外出』という制度があった。ウェイトレス本人の合意と店側の許可があれば、好きなウェイトレスを外に連れ出すことができる制度だ。名目上は、客とウェイトレスが買い物などのために一時的に店外へ出るだけということになっていたが、それはあくまでも名目上の話である。
赤木はVIP扱いなので、一時外出が使用可能だ。好きな子を好きに持ち帰ってもいいと、暴力団の組員からでも聞かされたのであろう。
「誰か、お気に召した子がいらっしゃいますか。指名していただければ、私がマネージャーに話を通しますが」
今日のシフト表の並びを思い出し、フロアに誰がいたかを考えながら、リツカは言った。
赤木はタンブラーを持ち上げ、ジン・フィズを飲んだ。氷が揺れて、炭酸の泡が浮かんで消えた。
「リツカちゃんはどうなんだ?」
「……はい?」
「リツカちゃんは、お持ち帰りできるのかい」
赤木はまっすぐリツカのことを見ていた。
リツカは目を丸くして何度かまばたきをし、それから頭を下げた。
「……申し訳ありませんが、私は外出いたしかねます」
「どうして?」
「それは……、人員の都合です。今日、バーテンダーは私しかおりません。私が抜けたら代わりの者がおりません」
「そりゃ残念」
赤木はタバコを灰皿に押し付けて火を消した。
「私よりも、若くて可愛い子がたくさんおりますよ。みんないい子です」
「うーん。ああいうナウい感じの女の子ってのは、どうも苦手でよ。俺はリツカちゃんみたいに、落ち着いてる子が好みだな」
店の薄暗い照明の中、白髪で薄い色のスーツを着た赤木は、そこだけぼんやりと浮かび上がっているかのように見えた。
「そうか、人がいないんなら、店の営業が終わったあとならいいのか?」
「……いえ……そういうお話では……」
「実は、ちょっと困っててな。どうも財布をどこかに忘れてきたみたいでよ、今、完全に文無しなんだ。おかげで今日これから寝る場所もないよ。このままじゃ野宿だ」
「それは、大変ですね」
「だからどうかな。リツカちゃんの家に、俺を泊めちゃくれねぇかい」
穏やかな赤木の顔からは、リツカは何も読み取ることができなかった。
「……つまり私の方が、赤木さんをお持ち帰りさせていただく、ということでしょうか」
「ははは、リツカちゃんもそんな冗談言うんだな」
「冗談を言ったつもりはないのですが……」
リツカは自分の男運の悪さと、人を見る目のなさを自覚していた。リツカに声をかけてくる男は、どんなに優しい顔をしていても、十中八九が悪い男であった。
そもそも赤木は麻雀打ちで、ヤクザの関係者で、真っ当に生きている人間ではない。この男に深く関わってはいけないと、心のどこかで警報が鳴り響いていた。
「泊めてもらうんだからメシくらいは奢るよ。……あ、しまった、金がないから無理なんだった。うーん、仕方ないから皿洗いでもしようか?」
「ふふふっ」
リツカは思わず笑い声をあげていた。赤木はそれを見て、ゆっくりと微笑んだ。
「やっと笑ってくれたな」
カウンター上の間接照明に照らされ、透けて光る白い髪が美しかった。赤木はまるで、カクテル用に作る純度の高い氷のように、どこまでも透明であるように思えた。
「どうだい?」
警報は音量を増すばかりだったが、リツカは耳をふさいで聞こえないふりをした。
そして、それが甘美な転落への第一歩であることを感じながら、「いいですよ」と答えてしまったのだった。