「原田さん、いらっしゃい。お待ちしておりました」
ドアを開けて店内へ入ってきた原田に向かって、床屋の亭主は深く頭を下げた。
「おう。野暮用で少し遅れてしもたわ」
「いえいえ、お気になさらず。いつも通り今日は貸切ですから」
原田が脱いだコートを、亭主は笑いながら受け取り、ハンガーへとかけた。
「ほんじゃあ、いつものとこへどうぞ」
亭主にうながされ、原田は慣れた様子でまっすぐ店の真ん中の椅子へ向かうと、そこへ座った。貸切なので店内には原田と亭主以外は誰もおらず、うっすらと聞こえてくるラジオの音以外、店は静かなものだった。
おおむね月に一度、原田はこの理髪店に通っている。ここは組の事務所から近いこともあり、組関係者の御用達の店である。
ヤクザは見得を切るのが仕事なので、みな身だしなみに気を遣う。原田もまだ駆け出しだった頃からこの店に通っており、亭主との付き合いはもう十五年以上になるだろうか。還暦近い亭主はさっぱりした性格で、腕が良く、口が固い。原田は亭主のことを親父と呼び、多大な信頼を置いていた。
「毎度貸切にして悪いな。親父も商売あがったりやろ」
「何を言うてはるんですか。おかげで楽さしてもろてますよ」
組長に就任してからというもの、原田は散髪に訪れる際、店を半日ほど貸切にするのが常となっていた。筋者ばかり来る店とはいえ、一般の客も来店するので、余計な恐怖を与えないようにという配慮でもあるが、最も大きな理由は安全対策のためである。暴力団の抗争において、床屋は襲撃場所になりやすいのだ。来店する間隔さえ掴めば待ち伏せがしやすいし、散髪中は長い時間座ったままになる。実際に殺された者も存在し、某有名任侠映画でも、理髪店でひげそり中の極道が鉄砲玉に襲われるシーンが描かれている。
それに、部下を外に待たせ、馴染み深いカタギの亭主と二人で過ごす時間は、多忙な原田にとって、つかの間の息抜きのようなものでもあった。
「今日もいつものように、根元を染めて整える感じでええですか」
原田の首に、散髪用の銀色のケープを巻きながら、亭主は尋ねた。
「いや、それなんやけど……」
目の前にある鏡の中の自分を見つめながら、原田は言いにくそうに言葉を切った。
「形はいつも通りでええが、色をな、黒くしてくれるか」
「えっ、黒、ですか」
「ああ」
「原田さんがええならやりますけども……。もう長いこと金髪にしてましたのに、何やありましたか」
若い頃に特に意味もなく染めて以来、辞め時を逃してそのまま貫いてきた金髪は、いつの間にか原田のトレードマークのようになっていた。原田はケープの中から手を伸ばして、髪を掻き上げた。
「……実は結婚が決まったんや」
亭主は目を丸くし、それから破顔して頭を下げた。
「それはそれは! おめでとうございます!」
原田は無表情のまま、やや決まりが悪そうに自らの色の抜けた髪をつまんだ。
「ほんで嫁が……、いや、まだ籍は入れてへんから厳密には婚約者なんやけど、もう結婚式のことばっか考えとってな。式じゃ紋付袴着るんやから、髪くらい黒くしてこい言うてやかましいんや。まだなーんも決まってへんのに」
「なるほど、それでですか」
「まあ、俺もええ歳やろ。この機に黒くしとくんもありかと思てな」
「かしこまりました。ほんなら、自然な感じで黒くしましょか」
「ああ、頼むわ」
原田の髪にクシを通して髪質を見ながら、亭主は目を細めて微笑んだ。
「しかし、原田さんが結婚ですか」
「なんや似合わんか」
「いえ、原田さんがまだ若衆だった頃から髪をやらせていただいてますから、なんというか、すっかり大人になりはったなぁと」
「はははは、大人か」
「組長さんになった時も感無量でしたけどねえ」
亭主は喋りながら薬剤の棚の方へ行くと、カラー剤をいくつか選んだ。今までは決して使われなかった、黒色のカラー剤である。
「奥様になる方のこと、聞いてもええですか」
手早く薬剤を作りながら、亭主は原田に尋ねた。
「ああ、俺が昔から世話になっとる人のお孫さんや。親父も知っとるやろ」
「というと……、松山の親分さん?」
「せや」
「あの、娘バカ、孫バカで有名な?」
「その松山のおやっさんの孫娘や」
「ははあ、つまり親分さんからの縁談ちゅうわけですね。孫をもらってくれと」
「いや、そやったら良かったんやけどな、それがちゃうねん。あのおやっさんは昔から、孫はヤクザの嫁にはやらん言うとってな。近づく男みんな斬り殺しかねん勢いやったわ」
亭主の手元にある黒色のカラー剤を見て、原田は小さな声で「黒いな」と当たり前の感想をこぼした。もう長いこと金髪用のカラー剤しか見てこなかったので、不思議な心持ちだった。
「じゃあお見合いやのうて、恋愛結婚っちゅうことですか」
「ああ……、まあな。なんやそう言われると小っ恥ずかしいな」
「ええことやないですか。それにようあの方が、お孫さんとのお付き合いを許してくだはりましたね」
「……いや、許されてはおらんな。ずっと黙っとったから」
「ははは、付き合うとるの隠してたんですか」
「別に隠してたんとちゃうで。どうせ言うんなら腹くくって結婚決めてから、バシッと伝えたろ思うとっただけや。あれ、ちゃんとやったで。横に彼女置いて、親の前で頭下げて『お嬢さんを僕にください』ちゅうやつ」
二ヶ月ほど前のことだ。原田は挨拶のために、彼女──リツカの両親と祖父である松山を呼び出した。場所は松山の屋敷である。
だだっ広い座敷で、巨大な黒檀の座卓を挟み、原田は三人の正面に座った。そして「娘さんとはかねてよりお付き合いをさせていただいております。必ず幸せにしますので、娘さんを俺にください」と、畳に付くほど頭を下げたのだ。
「おお! ほんで親分さんは大喜びで、ぜひうちの孫をよろしくと」
「んなわけあらへんやろ。ブチギレもブチギレやったわ」
亭主は黒い薬剤を、クシで原田の髪に塗り始めた。そのひんやりした感触に、原田はわずかに眉をひそめた。
「顔上げたらおやっさんが般若みたいな顔しとって、無言で湯呑みぶん投げてきてな。せやけど俺の動体視力が良すぎたんか、うっかり普通にかわしてしもうて。あかん逆にやってもうた思て、次に飛んできた湯呑みはあえて当たって、しっかり茶ぁ引っかぶったわ」
「それで親分さんの気は済んだんですか?」
「済むわけないわな。なんや怒り狂うとってようわからんかったが、孫は極道にはやらんちゅうようなことを言うとった。正直、そこまでは想定の範囲内やったから驚きもせんかったわ。俺もおやっさんとは付き合い長いし慣れとるねん。こういう時はとにかく黙って聞いとればええんやから、神妙な顔で静かにしてたんや」
「なるほど。ほんで場はおさまったわけですか」
「いや……、俺が茶に濡れて黙っとったら、なんや知らんけど隣の彼女がえらい怒り始めてな。俺が上手いことやるから大人しくしとけ言うといたのに、アイツ、変なとこで気ぃ短いっちゅうか猪突猛進やねん。おかげでとんでもないことになったわ」
髪に薬剤が塗り付けられ、だんだんと黒くなっていくのを眺めながら、原田は小さくため息をついた。
結婚について、原田とて頭を下げるだけで済むとは思っていなかったし、反対されるだろうことは承知だった。その上で、松山を頷かせる算段があったのだ。極道にとって交渉は生業とも言える。伊達に何度も修羅場はくぐっていない。
しかし、隣にいたリツカが突然「じいちゃんに結婚まで口出しされたくない!」と怒鳴りだしたので、原田の思い描いていた計画はすべて水泡に帰したのだった。
顔を真っ赤にして怒鳴る祖父、負けじと怒鳴り返す孫。老人と若い女が掴み合いの喧嘩に発展するという、まさに前代未聞の大騒ぎであった。暴れるリツカを原田が必死で止め、松山の方を彼女の両親が二人がかりで止め、騒ぎを聞きつけた若い衆も集まってきて、現場は混乱を極めた。
最終的に、リツカがボロボロ泣きながら「克美さんと結婚できないならじいちゃんを殺して私も死ぬ!」と叫んだのが決定打となった。可愛い孫にそこまで言われ、松山は怒りを上回るショックを受け、顔面蒼白でフラフラと倒れた。
原田はひとまずお互いを引き離した方が良いと判断し、松山が倒れた隙に、泣きわめく恋人を肩に担いで退室した。こうして、参加者全員が満身創痍で、顔合わせは終了したのだった。
「そのお嬢さん、なかなかのタマですね」
「ヤクザもんに囲まれて育っとるからか、悪い方に肝が据わってんねん。かなわんでほんま」
「でも結局、親分さんも結婚を許されたんでしょう? 良かったやないですか」
「まあ、どうにかな」
雨降って地固まるではないが、あの大騒ぎが嘘のように、その後の婚約についてはトントン拍子に進んでいた。孫に泣きながら殺すとまで言われたのが、松山にはかなり効いたらしい。それに聞くところによれば、リツカの両親が毎日のように松山を説得してくれたようだ。
松山は孫にとことん甘い。最初は反対するだろうが、リツカの意思を無理に曲げさせるようなことはしないだろうと、原田はわかっていた。リツカの両親については計りかねていたが、「あんなじゃじゃ馬を貰ってくれるのは原田さんくらいです」と逆に頭を下げられてしまった。
原田は今のところ、松山から結婚の是非については何も言われていない。というか、意図的に避けられているようである。だが松山は「早くリツカの白無垢が見たい」というようなことを周囲に言っているらしいので、ひとまずは認められたと思ってよいだろう。
「うん、ええ感じやと思います。このまま少し置いときますね」
髪にカラー剤を塗り終えた亭主は、鏡の中の原田に向かって微笑んだ。見慣れないせいか、髪の黒い自分はひどく滑稽に見える。原田は視線を下に落とした。
「親父は息子が二人おるんやったか」
「ええ。上が東京で働いとって、下が大学生です」
「俺は家庭っちゅうもんをよう知らん。父親は元からおらんかったし、母親も途中からおらんようになった。結婚いうんがなんなのかも、ほんまはようわかっとらん」
「不安ですか」
その問いかけには答えず、原田は静かに目を閉じた。
「上手いこと続けてくコツはなんやと思う」
使い終わった道具を片付けながら、亭主は首をひねった。窓の向こうから、連れ立って下校する小学生達の笑い声が聞こえた。
「私のアドバイスなんかが役に立つんかわかりませんが……。ま、ひとつ言えるとしたら、喧嘩した時は変に意地を張らんと、さっさと謝ってまうことですかね」
「はは、親父らしいな」
原田は頬をゆるめて、亭主の方を振り返った。
「そや。俺の結婚式ん時の髪のセット、親父に頼んでもええか」
「もちろんです」