カランカランと玄関のベルが鳴った音に、リツカは麻雀牌を拭いていた手を止めた。

「すみませんけど、今は開店前なので……」

 そう言いながら振り返ったリツカは、思わぬ来訪者に目を丸くした。

「よう」

 玄関を後ろ手に閉めた白髪の男は、軽く手を振ってにやりと笑った。

「びっくりした。お久しぶりですね、赤木さん」
「ああ、しばらくぶりだな」

 白髪の男、赤木はずかずかと店の中に入ってくると、手近な雀卓の前に我が物顔で座った。リツカは持っていた布巾を折り畳み、エプロンのポケットの中に突っ込んだ。

「あの、うちは十時から開店なんで、営業時間外なんですけど」
「知ってるよ」
「それにご存知だと思いますけど、赤木さんはうちの店、出禁ですからね」
「それもわかってる。だからわざわざこんな朝早くに来たんだろ」

 半分だけ開いたカーテンの隙間から、午前の柔らかな光が射し込んでいる。赤木はリツカの顔を見ると、眩しそうに目を細めた。
 リツカは雀荘のロゴが入ったエプロンの端を握った。エプロンの左胸には、「店長」と書かれたネームプレートが光っている。

「その、せっかく来ていただいたのに申し訳ないんですが、今、父はいないんです。ちょっと、入院してまして」

 赤木は胸ポケットから取り出した煙草の箱を掴んだまま、眉間にしわを寄せた。

「親父さん、やっぱり悪いのかい」
「いえ、今回はただの検査入院なので、何もなければすぐ退院できる予定です」

 赤木は灰皿を引き寄せると、煙草をくわえた。

「……そうか」

 リツカの父はこの雀荘のオーナーである。リツカの父と母が二人で始めた店であったが、母が病気で早くに他界してからは、娘のリツカが店長を務めていた。

「何か飲みますか? 麦茶で良ければありますよ」
「じゃあ貰おうかな」

 リツカはキッチンの方へと引っ込むと、冷蔵庫を開けた。麦茶が入ったガラスボトルに手をかけると、その冷たさで指先が凍えるようだった。
 赤木はリツカの父の麻雀仲間だ。リツカも詳しくは知らなかったが、だいぶ昔から付き合いがあるらしい。少なくともリツカは学生だった頃から、既に赤木と顔見知りであった。赤木はリツカの父よりひと回り以上年下ではあるが、年齢差を感じさせない気楽な友人関係といった様子だった。

「はい、どうぞ。でも、居座ったって打たせませんからね」

 リツカが麦茶のグラスを置いてそう言うと、赤木は煙草の煙を吐きながら笑った。

「いいじゃねぇか、一局くらい」
「ダメですよ。うちは初心者でも安心で楽しい低レートの雀荘なんです。赤木さんみたいな人がいたらお客さんが来なくなります」
「けちな女はモテねぇぞ」
「赤木さんの出禁は父からの厳命ですから」
「親父さんもひでぇや」

 赤木は笑いながら麦茶を飲んだ。指に挟まれた煙草の先から細く白い煙が立ち上り、空気に溶け込むように消えていった。
 赤木しげるは不思議な男である。歳はまだ四十手前のはずだが髪は真っ白で、それでいて少年のような澄んだ目をしている。性格はとらえどころがなく、根無し草の風来坊で、何もかもに無頓着。だが、ひとたび牌を握れば、鬼神の如き圧倒的な力を見せる。美しく華のある打ち回しに、周囲は思わず息を呑む。
『あいつは天才なんだよ』
 リツカの父はいつもそう言った。
『普通の天才じゃない、天才の中の天才だよ。きっと麻雀をするためだけに生まれてきたんだ。だからあんなに人を惹きつけるのさ』
 リツカもかつては、魔法のように牌を操る謎めいた白髪の青年に憧れたものだ。少女という生き物は皆、年上の甲斐性なしに懸想するものなのかもしれない。もう立派な大人になった今でも、彼の顔を見ると少しだけ面映ゆいような気持ちになる。

「それで、今日はなんのご用ですか」

 麦茶を飲むたびに上下する喉仏を見つめながら、リツカは言った。

「カレー」

 赤木は雀卓に手を伸ばすと、揃えて端に寄せてある麻雀牌を指で撫でた。

「え?」
「今日はリツカちゃんのカレーを食いに来たんだよ。毎週金曜日はカレーが出るんだろ? 俺、リツカちゃんの作るカレーが好きなんだ」

 雀卓の方へ視線をやることもなく、ほとんど無意識のような動きで、赤木の指が牌をつまんで転がしていく。小手返しの要領で、いくつかの麻雀牌がくるりくるりと入れ替わる。

「それは嬉しいですけど……。カレーサービスは夜からなので、これから仕込むとこですよ。まだ具を切ってもいません」

 リツカは少し困ったように眉を下げた。毎週金曜日に行っているカレーライスのサービスは、この雀荘で一番人気のイベントだ。リツカが母から受け継いだ特別な、マイルドな辛さの家庭的で平凡なカレーが人気の秘訣である。以前、赤木にも何度か振る舞ったことがあった。

「カレー、ないのか?」
「夜からですから」
「じゃあ夜にまた来ればいいか」
「赤木さん、出禁なんですよ?」
「そういやそうだったな。……あ、これ、おかわり」

 赤木はあっけらかんとした顔で、空になったグラスを差し出した。リツカはグラスを受け取ると、外側に浮いた水滴を指でぬぐった。

「リツカちゃんがここの店長になって、もう結構たつよな。やってみてどうだ」
「うーん、そうですね……。色々大変なこともありますけど、やっぱり楽しいですよ。常連の方はみんないい人達ですし」
「そりゃ良かった」
「それに、母のことがなくても、もともとこの店は継ぐつもりでしたから」

 リツカは冷蔵庫から出したボトルから、グラスに麦茶を注いだ。グラスの中には、沈んだ目をした女の顔が映っている。リツカは所在なさげに自分の後頭部に手をやると、一つで結わえた髪の束を撫でた。

「店の経営は順調かい」
「……おかげさまで、すこぶる順調ですよ」

 リツカは赤木の前にグラスを置き、ぎこちなく微笑んだ。

「嘘だな」

 赤木はリツカのことを見ながら、指に挟んだ牌を卓の上に打ち付けた。カーンと小気味よい音が部屋に響いた。

「立ち退き、ふっかけられてるんだろ」

 リツカは驚いて目を見開いた。

「……どうしてそれ、知ってるんですか」
「まあ、俺にも色々と情報網があんのさ」

 赤木は薄く笑うと、二本目の煙草に火を付けた。うつむいたリツカは、エプロンの端を握りながら視線をさ迷わせた。

「その、再開発がどうのこうのとかで、来ましたよ、ヤクザみたいなのが。断って追い返しましたけど」
「ここ売って親父さんの治療費にしろとかなんとかってか?」
「ええ。しつこく迫られました。でも、私はこの店を手放す気なんかありませんから」

 リツカは近くの椅子に腰を下ろした。その顔には隠し切れない疲れが表れていた。
 この店がある近くの駅前一帯に、再開発の話が出ているのは本当のことだ。しかし、ここはその再開発の区画内に入っていないはずなのである。それなのに、連日のようにガラの悪い男達がやって来ては、強引に立ち退きを迫るのだ。
 どうしてもこの土地が欲しい理由が向こうにはあるらしいが、その訳を話そうとはしないので、何かきな臭い事情なのであろう。金銭の交渉もそこそこに、いきなりヤクザまがいの男が暴力をチラつかせてきたのだから、よほど急いでいるのかもしれない。もしくは、こんな立ち退きなど楽な仕事だとなめられているのだろうか。この雀荘の店長は若い女で、他の従業員はアルバイトの大学生ばかり、オーナーは病気で臥せっている。いかにも簡単そうではないか。

「向こうは納得してないんだろ?」
「そうですね。どうしても立ち退かせたいみたいです」

 小さくため息をついて、リツカは眉根を寄せた。

「それで話がこじれた挙句、それじゃあ麻雀で決めねぇかって持ちかけられたわけだ」

 赤木はまた、掴んだ牌をくるりと回した。五萬と東が、東と三筒が、赤木の手の中で目にも止まらぬスピードで入れ替わる。

「なんでもお見透しなんですね」
「俺も長いこと代打ち稼業やってっからな。そんな話は腐るほど見てきたよ」

 リツカは連日の脅しにも負けず、店長として毅然とした態度で対応していたが、正直なところ限界が近かった。

「向こうのお偉いさんが麻雀がお好きらしくて、雀荘のことなんだから麻雀勝負で決めないかって言われたんです。私の方が勝ったら、もう二度とここには来ないからって」

 赤木は煙草の煙を吐き出し、問いかけた。

「それでリツカちゃん、打つのかい」

 リツカはしばらく黙った後、小さく頷いた。

「本当は父の病気、あんまり良くないんです。だからこのお店は私が守らないと」
「このこと、親父さんには?」
「言っていません。余計な心配をかけたくないんです。それにもしこのことを知ったら、自分が打つって病院を抜け出してきちゃうでしょうし」

 リツカの父は若い頃から麻雀に入れ込んでおり、自分の店を持つまでは各地の雀荘で小金を稼いで暮らしていたらしい。それだけに、麻雀の腕はかなりのものであった。そんな男が今、病に侵されて牌も握れぬほどに弱っているのだ。無駄な心労をかける訳にはいかない。
 この雀荘はリツカの父と母の夢のようなものである。店を構えるまでには、多大な苦労があったらしい。今、どうにか安定して営業できているのも、両親の努力があったからだ。リツカはそんなこの店が好きだった。

「言っちゃ悪いが、向こうがセッティングした勝負に乗るなんて、相手の思う壺だぜ」
「……それはわかってます。絶対に勝てると思ってるから、こんなこと言い出してきたんでしょうし」

 リツカは膝の上でぎゅっと拳を握った。向こうはヤクザだから、何をしてくるかわからない。イカサマがあるかもしれないし、土壇場で約束を反故にされるかもしれない。暴力を受けるかもしれない。それでも、リツカは勝負に行くつもりだった。

「私は店長だけどなんの力もないから、こうするしかないんです。今はまだ何もされてませんが、このまま立ち退きを断り続けたら、きっとお店に嫌がらせをされたりとか、そういうことになると思います。そしたら私じゃ負けてしまいます。このままじゃ、もうダメなんです」

 握った拳はかすかに震えていたが、リツカはきっぱりと言い放った。

「それなら、最後まで自分の力で足掻いてみようかと思っています。私、麻雀はそこまで強くないけど、それでもずっと雀荘の娘をやってきましたから」

 赤木を見つめるリツカの目には覚悟があった。赤木は灰皿に煙草の灰を落とし、いかにも美味そうに吸った。

「それで、相方は? 麻雀なんだから二対二だろ」
「もう一人は……父には頼めませんから、うちのバイトで一番強い子にお願いしようかと思ってます」
「じゃあ、そいつはキャンセルしな。学生バイトレベルじゃ勝てるもんも勝てねぇや」

 赤木はにやりと笑って、煙草を挟んだ指でリツカを指した。

「俺が入るよ」

 赤木の言葉に、リツカは椅子から立ち上がった。

「そ、そんな……、い、いや、それはいけませんよ……」
「どうしてだ?」
「だって……、これは私の店の問題ですから、無関係な赤木さんに迷惑かけられないです」
「迷惑じゃねぇさ、代打ちが俺の仕事だ」

 赤木の視線は穏やかで、何か眩しいものでも見ているかのようだった。リツカは困惑した顔でひとしきり考えていたが、悲しそうに小さく首を横に振った。

「その、お申し出は本当にありがたいです。……けど……お恥ずかしい話ですが、うちには赤木さんを雇えるだけのお金がないんです」
「金? リツカちゃんは面白いこと言うな」

 煙草を灰皿に放って、赤木は楽しそうに笑った。

「金なんかいらねぇよ。俺だってこの店がなくなったら困るんだ」
「いえ、でも……」
「わかったわかった、じゃあ金はあれだ、勝って向こうからぶんどりゃいい」
「それは……その……」

 ためらっているリツカを尻目に、赤木はくすぶる煙草を灰皿に押し付けて揉み消した。

「勝負の場所には、先にリツカちゃん一人で行ってくれ。俺はちょっと遅刻してくからよ。俺が着くまでにリツカちゃんは向こうさんと交渉して、レートを釣り上げられるだけ釣り上げとくんだ。どんな相手だろうと俺は負けねぇから、上げた分だけこっちの儲けになる。簡単な話だろ?」
「……ものすごい自信ですね」
「当たり前だろ、俺を誰だと思ってるんだ」

 赤木は脚を組んで不敵に笑っている。リツカは泣きそうな表情で赤木を見ていた。

「いいん、ですか」

 リツカは毎日毎日、一人で疲弊しながらずっと思っていた。このどうにもならない状況を吹き飛ばしてくれるような、誰かが現れてくれないかと。悩み苦しみ、赤木の顔を思い浮かべては、雲上の存在にすがるようなみっともない真似はできないと諦めていた。

「本当にお願いして、いいんですか」

 自信に溢れた赤木の姿は、リツカが願っていた救いそのものだった。

「この神域の男が打つって言ってるんだぜ? 大船に乗ったつもりで任せてくれよ」

 赤木は立ち上がると、リツカの方へと手を伸ばした。リツカは思わず肩をすくめたが、赤木は気にせずリツカの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「親父さんには世話になった。俺にも恩返しさせてくれや」

 そう言って微笑む赤木の目は、リツカが初めて会った青年の頃と全く変わっていなかった。気まぐれで飽きっぽくて暖かくて、そして美しかった。

「そうだ、代打ちの報酬はリツカちゃんのカレーでいいぜ。俺が来たら、いつでもカレーをサービスしてくれよ」
「そんなものでよければ、いくらでも作りますよ」

 ぼさぼさになった髪を直しながら、リツカはようやく笑顔を見せた。


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