火曜日、午後四時すぎ。リツカの勤める喫茶店は静かなものだった。数人の常連客がコーヒーを片手に本や雑誌を読んでいるのみで、長いこと注文も無く、マスターは奥で暇そうに新聞を読んでいる。
 カフェーの女給といえば、かつては職業婦人の花形などと呼ばれたものだが、今は終戦から20年も経った1965年。働く女性、ビジネスガールの台頭により、ウェイトレスはありきたりな職業のひとつとなった。リツカもまた、そんなありきたりなウェイトレス稼業で生計を立てている一人である。
 近頃の巷では、ジャズ喫茶や歌声喫茶などの音楽系喫茶店が流行りの絶頂を見せている。しかしこの店は、ごく普通のコーヒーとごく普通の軽食を出すだけの店だ。店のすみに古ぼけた蓄音機があるにはあるが、前々から調子が悪いため、ほぼ置物と化している。数枚だけあるレコードも、同様にお飾りとしての役目しか果たしていない。
 少女らが夢見るロマンやアバンチュールなどとは完全に無縁。流行りも廃りもどこ吹く風で、今日も喫茶店は無難に堅実に営業していた。

「ね、リツカ。来たよ」

 突然、同僚に肩をつつかれて、リツカは食器を拭いていた手を止めた。

「来たって誰が?」
「もちろん、『窓際の君』よ」
「う、うそ、こんな時間に? まだ夕方だよ?」
「仕事が早くあがったんじゃない?」

 リツカは慌てて食器を棚に戻し、カウンターから軽く身を乗り出して店の中の様子をうかがった。
 確かに彼女の言う通り、見知った白髪の後ろ姿が、いつもの席に座っていた。間違いなく彼だ。

「いるでしょ、窓際の君」
「ほんとだ……」

 窓際の君とは、リツカらウェイトレスが彼に付けたあだ名だ。いつもいちばん窓際の、よく日の当たる席に座るからである。今日も彼は変わらず、射しこみ始めた西日を受けながら、ぼんやりと外を眺めていた。

「ねぇ、どうしよう、富美子。まだ心の準備できてないよぉ。なんでこんな時に限って早く来るの」
「知らないわよ。でもまた来てくれたんだから、良かったじゃないの」
「うん…それはそうだけど……」

 リツカは自分のエプロンの裾を握ったり離したりしながら、視線を泳がせた。それを見ていた富美子は、呆れたようにため息をついて、リツカの背中を軽く押した。

「ほら、注文行ってきなさいよ。どうせコーヒーでしょうけど」
「え、でも、む、むりだよ、富美子が行ってよ」
「ばか。あんたが行かなきゃダメに決まってんでしょ」
「だ、だって……」
「あの人もあんたに会いに来てんの! ほら! 早く!」

 富美子にカウンターから叩き出されたリツカは、仕方なく、おずおずと彼に近づいた。

「い、いらっしゃいませ、アカギさん」

 顔を上げた窓際の君、アカギは、リツカの姿を見ると、「コーヒー」とだけ言った。

「コーヒーですね、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

 リツカはそれだけ言って逃げ帰ろうとしたが、カウンターの中の富美子に無言で首を振られてしまい、その場に立ち往生することになった。
 新聞を読んでいたマスターが立ち上がって、コーヒーを淹れ始めている。ごまかすようにあたりを見回してみるが、相変わらず特に仕事はない。
 テーブルの前でまごまごしていると、アカギと目が合った。リツカは意を決して、アカギに小声で話しかけた。

「あ、あの、珍しいですね、こんな時間に」
「そうかな」
「ええ、ほら、いつも朝か夜遅くでしょう」
「あぁ、確かにそうかもな。こんな中途半端な時間に来るのは初めてだ」

 アカギは窓の外を見ながら小さく笑った。その笑顔に、リツカの心はキュッと跳ねた。急に心臓がドキドキと脈打ち始め、顔が火照るのを感じた。
 多少、前言を撤回させていただこう。この喫茶店にも、ささやかなアバンチュールならば存在していた。ウェイトレスと工場勤務の青年の、今どき安っぽい映画にすらならないような、ありきたりなラブロマンスである。
 しかし、当の本人であるリツカにとっては、人生を揺るがすほどの大事件なのであった。

 アカギはこの店の近くにある、金属加工をしている小さな工場で働いている工員だ。彼は工場に併設している寮に住んでいるのだが、あまり他の同僚たちと馴れ合う気がないのか、仕事が始まる前や仕事が終わった後に、この喫茶店に一人で来て一服することが多かった。
 いつも同じ席に座る、窓際の君。何をする訳でもなくただタバコをふかす、名前も知らない彼。そんな彼のことを、リツカはいつの間にか好きになっていた。
 彼は大抵、作業服を着たまま来ていたから、近くの工場で働いていることはすぐにわかった。その工場に知り合いがいる友人を通して、彼のことを聞いてもらい、『赤木しげる』という名前であること、まだ工場に入ったばかりであることを知った。
 名前がわかれば、もうそれだけでいいと思った。たまに彼の横顔を見ることができれば十分だと。しかし人間は欲深い生き物で、恋心が膨れれば、ただ黙っているだけでは満足できなくなるものだ。それは、臆病で小心な性格のリツカとて、例外ではなかった。

 コーヒーの用意ができた気配に、リツカはそそくさとカウンターの中に帰った。マスターは既に新聞を読む作業へと戻っている。湯気を立てるコーヒーのカップをお盆に乗せていると、富美子がまた背中をつついてくる。

「チャンスじゃない。次のデートの約束、しちゃいなさいよ」
「えっ、でも…」
「でもじゃないわよ。一回行ったんだから、次は簡単でしょ。ビビりのあんたが友達でもない男をデートに誘ったんだもの、びっくりよ」
「うん……」

 リツカはカップの中で波打つ、真っ黒いコーヒーに目を落とした。

 先週の土曜日、リツカはアカギとデートをした。
『芝居のチケットを2枚貰ったから、今度一緒に行きませんか』
 そんなありきたりな一言を告げるのに、どれだけの勇気を要したことだろうか。リツカにとってはまさに、清水の舞台から飛び降りるようなものだった。今までの人生の中で、一番の思い切った行動だったかもしれない。
 極度の緊張で倒れそうになっているリツカの心を知ってか知らずか、誘われたアカギは特に表情を動かすこともなく、『いいよ』とだけ言った。拍子抜けするほどあっさりと、デートは決まった。

 土曜日、リツカとアカギは連れ立って浅草まで行って芝居を観て、それから食事をした。……はずである。
 実を言うとリツカは、芝居の内容も食べた夕食の味も、ほとんど覚えていなかった。ただ、パーマをかけたばかりの髪が変な方向に跳ねていないかが気になって、着ているワンピースの裾がめくれていないか、化粧が崩れていないかが気になって。アカギがどこを見ているのか、退屈しているんじゃないかと気になって、気になって、そればかりだった。
 食事をした洋食屋の前でアカギと別れてから、リツカはフワフワした気持ちで家に帰った。その夜はなんだか目が冴えてしまって、なかなか眠れなかった。今日のことは全て夢だったのではないかと、そんなことばかりを布団の中でずっと考えていた。

「ほら、早く次のデートの話しに行きなさいって」
「で、でも、ぜんぜん上手く話せなかったし、なんだこいつって思われたかも。というか、もしかしたら嫌われたかも……」

 リツカが相変わらずうつむいていると、富美子は小さくため息をついた。

「あのねぇ、そう思ってたらもうここに来るわけないでしょ。コーヒー飲めるとこなんていくらでもあるんだから。窓際の君も、言わないだけでリツカに気があんのよ」

 富美子の言葉に、リツカは目線だけを上にあげた。

「そう、かな…?」
「そうよ。決まってるじゃない」
「…そ、そうだよね、嫌ならもう来ないよね」
「だからさっさと行きなさいって。せっかく淹れたコーヒーが冷めるでしょうが」
「うん、うん、わかった。行ってくるね」

 ­­­­リツカはコーヒーカップをお盆に乗せると、ちょっとだけ富美子に笑ってみせてから、店の中へと出ていった。
 アカギはやはり、何をするでもなく窓の外を眺めている。珍しく、今日は工場の制服ではなく私服だ。その足元に、見慣れぬ大きめのボストンバッグが置かれていることに、リツカはそこで初めて気がついた。

「コーヒーでございます」

 テーブルにカップを置くと、アカギが「どうも」と答えてくれる。リツカはドギマギしながら、アカギのことを見つめた。

「あ、あの、アカギさん」
「なに」
「あ、その、えーと……」

 アカギの視線がリツカに刺さる。この冷たいような優しいような、まっすぐな目で見られると、何も考えられなくなってしまう。リツカは空のお盆を握りながら、なんとか次の言葉を探した。

「お、お仕事、今日はお仕事、お休みなんですか? それとも、早上がりなんでしょうか。あ、えっと、いつもよりいらっしゃるのが早いから、そうかなぁと、思って」
「ああ、そのことね」

 アカギは少し笑って、コーヒーに口をつけた。

「辞めてきたんだ」
「えっ…?」

 思いもかけぬ言葉に、リツカは目を見開いた。

「や、辞めたって、その…」
「工場。働いてたとこ」
「あの、あそこの部品工場のこと、ですよね?」
「そうだけど」
「い、いつですか?」
「さっき」
「さっき!?」

 思わず大きな声を出してしまった。奥の席で本を読んでいた常連客が、ちらりとこちらを伺ってくる。リツカは慌てて口に手を当て、声を抑えてアカギに問いかけた。

「え、その、どうしてお辞めになったんでしょうか」
「さぁ。なんとなく、かな。もういいかなと思ったから」

 アカギは涼しい顔で、悪びれもせずにそう言った。

「次のお仕事は…?」
「まだ特に決めてない。まぁ、なんとかなるよ」
「あ、あの、たしか工場の寮にお住まいでしたよね? これから住む場所は…?」
「それもまだだな」

 アカギは本当に、なんの計画もあてもなく工場を辞めてしまったようだった。以前からアカギは特に定職につかず、色々な仕事を転々としているのだということを、リツカは聞いて知っていた。だからアカギにとっては、今日いきなり住所不定無職になったのも、そう珍しいことではないのかもしれない。
 しかし、辞めるとなると、やはり何か気に入らないことがあったのだろう。どうしてもそう思ってしまう。リツカはテーブルと床のあたりに視線をさ迷わせ、エプロンの端をぎゅうと握りしめた。

「あの、ぜんぜん的外れかもしれないんですけど、もしかして、わたしのせい、ですか」
「え?」
「お仕事、辞めたの」

 リツカはアカギの顔を見ることができずに、軽くうつむいた。

「なんでそう思うんだ?」

 アカギの白い髪が、視界の端で揺れる。

「わた、わたしが、一緒に出かけてくださいなんて、言ったから…。アカギさん、このあたりにいるのが嫌になって、それで……」
「ふーん、ずいぶん面白い考え方するんだな」

 ゆっくり目を上げると、アカギはコーヒーを飲みながら静かに笑っていた。

「別にあんたのせいじゃないよ。単純に俺があそこで働くのが面倒になっただけで、それ以上の意味は特にないんだ」
「本当ですか…?」
「ああ。嘘ついたってなんにもなんないだろ」
「……はい」

 アカギの静かな声に、心が震える。いつも思っていたことだが、少し目を離していたら消えてなくなってしまいそうな、そんな不確かさが彼にはあった。

「これから、どうするんですか?」
「そうだなぁ。次のことはまぁ、適当に考えるよ。仕事なんかいくらでもあるだろうし。……ああ、でも、ここでコーヒー飲めなくなるのは少し残念かな」
「あの、ってことは、アカギさんは今日、どこに泊まるかも決めてないってことですよね……?」
「そうだけど」

 アカギのコーヒーは減っていく。このコーヒーがなくなってしまったら、彼は店を出ていってしまう。そうなれば、もう二度と会うことはないかもしれないのだ。そんなこと、リツカは絶対に嫌だった。
 アカギと離れたくない。ずっと傍にいたい。リツカの気持ちはそれだけだった。

「あ、その、もし、もし良かったら……う、う、うちに、来ませんか……?」

 リツカはエプロンの端を握ったまま、小さな声でそう言った。心臓は口から飛び出るのではないかと思うほど、大きく早鐘を打っていた。

「ひとり暮らしなので、せ、狭いですけど……。でもあの、何日かだったら、たぶん大丈夫、です…」

 アカギはコーヒーカップを持ち上げた状態のまま、リツカのことをじっと見つめていた。その表情には、今までリツカが一度も見たことがない、驚きの色が差していた。

「それ、本気?」
「はい」
「本当にいいの? こんな、どこの馬の骨ともわからないような男なんか、家に上げちゃって」
「それはだって、アカギさんだから、です。アカギさんだったら、なんでも平気です」
「ふーん。あんた、やっぱり面白いね」

 アカギはカップをソーサーに戻すと、楽しそうに笑った。薄い唇の奥から、形良くそろった白い歯が覗いた。

「いいよ。じゃあ、今日はリツカさんの家に行こうかな」

 カコーン!という音が店内に響き渡り、周囲の人間が一斉にリツカとアカギの方を見た。リツカが空のお盆を取り落としたのだ。

「し、失礼いたしました…」

 リツカは慌ててお盆を拾うと、小走りで逃げるようにしてカウンターの方へと引っ込んだ。
 帰ってきたリツカを見て、富美子が眉をひそめる。

「リツカ、あんた顔真っ赤じゃない。何話してたの?」
「…………名前呼ばれた……」
「は?」

 火照る顔に手をやり、リツカは目を閉じた。もはや制御できない心臓は恐ろしく大きな音を立て、手足は小さく震えている。頭がぼんやりして、今にも倒れてしまいそうだ。

「ちょっと、大丈夫?」
「……ねぇ、富美子って今日、早上がりだったよね…?」
「え、うん、そうよ」
「わたし、閉店までなんだけど……」

 リツカは唇を噛んで、ばっと頭を下げた。

「今日だけ、今日だけ替わって欲しいの。早退させて! 一生のお願い!」

 必死の様子のリツカに、富美子は圧倒されたように一歩後ろへさがった。富美子は戸惑った表情であちこちへと視線をさまよわせ、最後には背後のマスターの方へと振り返った。

「いや…アタシは別に予定もないし……、マスターがそれでいいなら大丈夫だけど……」

 新聞の向こうから二人の様子をうかがっていたマスターは、突然出た自分の名前に、ぎょっとしたような顔をした。リツカはマスターの顔を見つめ、また頭を下げた。

「マスター、すみません、お願いします」
「……い、いや、まあ、富美子くんがいいなら、ボクは別に構わないけど……」

 マスターの言葉に、リツカは嬉しそうに顔をほころばせた。

「ありがとうございます! 富美子も、ありがとう」

 そう言って何度も頭を下げると、リツカは緊張した足取りで、またアカギの方へと向かって行った。それはもちろん、今日これからの話をするためである。
 頬を火照らせ、心臓を高鳴らせながらも、リツカの表情は輝かんばかりだった。

「恋ってのは人を変えるんだねぇ」

 アカギとリツカの姿を見ながら、マスターがぼそりとつぶやいた。


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