毎週土曜日、午後3時から6時。区民センターの第3研修室で、井川ひろゆきは麻雀教室を開いている。
うだつの上がらないサラリーマン稼業に別れを告げ、麻雀で食べていくと決めてから早2年半。特に経験もノウハウもないまま飛び込みで始めた講師業だったが、それなりにニーズがあったのか徐々に生徒数は増えてきている。サラリーマン時代に営業用の書類を作成していた経験を生かし、自前の問題テキストを作ったりもしているが、そちらもなかなか好評だ。
もっとも、稼ぎとしてはまだまだ微々たるものだ。たまに点ピンや点リャンピンの雀荘で小遣い稼ぎをし、ごくまれに舞いこむ代打ちとしての仕事をこなして、どうにか生活しているという状況である。
しかし、それでも毎日は楽しい。本当の意味での自分の人生を、やっと進むことができ始めた、と言っても良いのではないだろうか。
今日も今日とて、麻雀講師を務めるために区民センターまでやって来たひろゆきは、玄関ロビーにある長いベンチに座り、ハンカチで首筋の汗をぬぐった。時刻は午後2時15分。外では夏の日差しが容赦なくアスファルトを焦がしているが、室内は冷房が効いていて、生き返るような心地だ。
ふと目線を上げると、自動ドアのガラスの向こうに、日傘を差してこちらへ歩いてくる、着物姿の若い女性が見えた。ひろゆきは汗で湿ったハンカチをポケットの中に押し込み、心持ちシャツの襟元を正した。
麻雀教室の開始時間には少し早いが、ひろゆきはいつも、午後2時過ぎにはここに来るようにしている。講師として遅刻が許されないからということもあるが、実は半分以上は彼女のためなのだ。
「井川先生、こんにちは」
日傘を畳んで建物の中に入ってきた彼女は、ひろゆきの顔を見ると、にっこりと微笑んだ。
「こんにちは、リツカ先生」
ひろゆきもそう言いながら笑みを返した。
「今日もお暑いですねぇ。夏ってこんなに暑かったかしら」
「ほんとですね、溶けちまいそうですよ」
ひろゆきの隣に腰かけたリツカは、手提げバッグから扇子を取り出し、ぱたぱたと顔のあたりを扇いだ。リツカは普段からいつも着物を着ており、ひろゆきはまだ、洋装の彼女を見たことがない。
今日は、白地に柳とツバメが描かれた着物に、濃紫色の帯を締めている。長い黒髪は頭の低い位置でゆるくまとめられていて、小さな桃色の花飾りが差してある。
いつものことながら、まるで着物のカタログからモデルがそのまま抜け出してきたように見えるほど、その姿は美しく上品だった。
「そういえば、昨日はとてもすごい夕立が来ましたね。わたしは家にいたので濡れませんでしたが、井川先生は大丈夫でしたか?」
リツカの首筋にうっすらと汗がにじんでいるのを、ぼうっと眺めていたひろゆきは、その問いかけに慌てて頭をリセットした。
「ああ、昨日の雨はすごかったですよね。オレはちょうどその時に買い物に出てたので、そりゃもうびしょ濡れになりましたよ。いや、傘を持たずに出かけたのが悪いんですけどね」
「あらら、それは災難でしたね」
リツカは笑いながら扇子を動かした。
彼女、大倉リツカは、この区民センターで開かれている着付け教室の講師である。着付け教室は月2回、土曜日の午後3時から6時に第4研修室で行われている。つまり、ひろゆきの麻雀教室と同じ時間に、その隣の部屋で開催されているのだ。
といっても、彼女が教室を主催している訳ではない。そもそもリツカは呉服屋の娘で、普段は実家の店で働いているらしい。この区民センターでの着付け教室は、リツカの母親の友人が開いており、リツカはその補助のためにお手伝いとして来ているのだそうだ。
時間が同じで場所が隣同士のため、教室が行われる前後の時間などに、ひろゆきとリツカは自然と顔を合わせる形になった。リツカは律儀な性格らしく、いつも教室の誰よりも早くここに来ていたので、同じように早く来るひろゆきとふたりきりになることも多かった。最初は挨拶をする程度だったが、歳がそう変わらないこともあり、仲良くなるのに時間はかからなかった。
彼女は教室の生徒たちからリツカ先生とよばれているので、ひろゆきも周りにならってそう呼んでいる。リツカの方も同じように、ひろゆきを井川先生と呼ぶ。
「ねえ、井川先生。この間いただいた問題なんですけれど、どうしてもわからないところがありまして」
リツカはバッグの中から、ふたつ折りにされた紙の束を取り出した。ひろゆきが作った麻雀の問題プリントだ。プリントには、形の整った女文字でメモが書き入れられていた。
「はい、どこですか」
「えーと、ここなんですけどね……」
数ヶ月前になるだろうか、リツカが残念そうに、『わたしも井川先生に麻雀を習いたかったなぁ』と言った。
リツカの祖父は麻雀好きで、家族で卓を囲むことがそこそこあるのだそうだ。しかし、なんとかルールがわかる程度のリツカは除け者にされてばかり。人数不足などで入れてもらえても、負け続けでつまらない。だから、ずっと誰かに麻雀を教わりたいと思っていた、と。
だが、教室の時間がかぶっているので、リツカがひろゆきの麻雀教室に通うことはできない。そこでひろゆきは考えた。問題プリントは余っているし、どうせお互い早めにこの区民センターへ来ているのだ。部屋が開くまでの間、さわりだけ少し教えるくらいなら、いくらでもできる。
リツカは申し訳ないと恐縮していたが、これはひろゆき個人のための提案でもあった。よくわからないが、もしリツカがどこか違う教室で知らない男に麻雀を習い始めたらと考えたら、なんとなく嫌な気がしたのだ。麻雀打ちとしてのちっぽけなプライドである。それに、リツカともっと時間を過ごせるのならという、密かな下心もあった。リツカは大和撫子と呼びたくなるような、和顔の美人だ。ひろゆきだって男だから、若くてきれいな女性と一緒にいられるのは単純に嬉しい。
それで結局こうして、20分弱の個人レッスンが行われるようになったのだ。
「なるほど…、だから八萬切りなんですね」
「はい。確率上、この形がもっとも効率的です」
リツカはうなずき、プリントにペンでメモを書きこんだ。真剣な横顔に映える白い着物が爽やかで眩しい。ずっと見ていたいような気さえする。
「あの、着付けの先生に素人がこんなこと言うのもあれなんですけど、今日の着物もすごくお似合いですね。えーと、なんというか涼しげで、夏っぽい感じで…」
ひろゆきの言葉に、リツカは照れたように髪に手をやった。花の髪飾りが小さく揺れた。
「やだ、そんな大層なものじゃないんですよ。ただのどこにでもある夏用の着物です。柄だって、柳にツバメっていう、よくある柄ですし」
「柳にツバメ…ですか」
「あ、あの、そうだわ、井川先生、聞いてください。この前わたし、ついに国士無双をあがったんですよ。ツモあがりでしたけど、初めて役満あがっちゃいました」
「それはすごい、やりましたね」
「九種九牌だったから流そうかなとも思ったんですけど、きっと井川先生だったら狙いにいくだろうなと思って、がんばりました」
はにかんだようにリツカが笑うので、ひろゆきもつられて笑った。
「役満はいつあがっても嬉しいですよね」
「井川先生の教えの賜物です」
「いやぁ、国士ツモあがりはリツカ先生の運の力ですよ」
「そうでしょうか?」
「麻雀は運も大事な要素ですからね。いくら強くても配牌やツモが悪ければどうにもなりませんし」
ひろゆきはそう言いながら自分のカバンを開け、プリントの詰まったファイルを取り出した。とりあえずリツカに、今日の分の問題を渡してしまおうと思ったのだ。
どこまで渡しただろうかとファイルの中を探っていると、
「それで、あの、井川先生」
と、リツカが声をかけてきた。
「はい?」
ひろゆきが目線を上げると、リツカは畳んだプリントを膝の上でいじりながら、妙に緊張したような面持ちで下を向いていた。
「あの、わたし、以前からお金も払わずに教えていただいていて、やっぱり少々申し訳ないなと思っているんです」
「そんな、ぜんぜん気にしないでください。ほんとに大したことしてませんし」
「いえ、でも、少しでも先生にお礼がしたくて…。ですので、あの……」
リツカは顔を上げ、ひろゆきの顔を見た。少しばかりの沈黙が流れ、リツカはまた耐えられなくなったように視線を下に流し、小さな声で言った。
「もしよろしければ、今度一緒にお食事でもいかがでしょうか…?」
ひろゆきはカバンからファイルを半分出した状態のまま、ぽかんとリツカを見つめた。リツカは心なしか頬を赤く染め、口をきゅっと引き結んでいる。
「お、お食事、ですか」
「ええ、お代はわたしが持ちますので、いつも教えていただいているお礼に……。その、ご迷惑でしたら、いいんです。すみません、こんな突然」
「いやいや、迷惑だなんてそんな、滅相もない。ちがうんです、ちょっと上手く言葉がまとまらなかっただけでして…」
ひろゆきは口元に手を当て、働かない頭を必死で動かした。
まさか彼女からそんな誘いがくるなど、夢にも思っていなかったのだ。つい、自分に都合よく解釈してしまいそうになる。
ちらりとリツカの方を見ると、同じくこちらを伺っていた彼女としっかり目が合ってしまい、ふたりで慌てて視線を外した。
「あの、リツカ先生」
「はい」
「リツカ先生がそうおっしゃるなら、ぜひ、ご一緒したい、です。はい、ぜひ、その、いつでも」
年上の余裕として、なんでもないように朗らかに答えようと思ったのだが、気恥ずかしさが勝ってしまい、なんとも中途半端にしどろもどろになってしまった。ひろゆきの言葉に、リツカは下を向いたまま嬉しそうに笑って、襟元のあたりを忙しなく指でいじった。
「ほ、本当ですか、良かったです。でしたらあの、井川先生がお暇な日でも教えていただけましたら、わたしが合わせますので」
「そんな、リツカ先生よりオレの方がずっと暇ですから、リツカ先生の空いてる日で大丈夫ですよ」
「そうだわ、あの、連絡先を…」
リツカは横に置いていた手提げバッグから手帳のような冊子を出すと、中から小さなメモ用紙を一枚、抜き出した。
「これ、わたしの携帯の番号です」
「あ、ありがとうございます」
リツカから差し出されたメモ用紙には、電話番号とメールアドレスが書かれていた。
「いつでもいいので、連絡いただけたら嬉しいです」
ひろゆきがそれを受け取ると、リツカは下を向いたまま体を外側に向け、そっぽを向いてしまった。そのせいでリツカの表情はわからなかったが、まとめられた黒髪の間からのぞく耳の先が真っ赤に染まっているのが見えて、ひろゆきは自分も顔が火照るのを感じた。
「あら、後藤さんと吉崎さんがいらっしゃったみたい」
リツカは言い訳するようにそうつぶやき、立ち上がった。ドアの方を見れば確かに、着付け教室の生徒である中年女性ふたりがセンターの中に入ってくるところだった。
「こんにちは、お早いですね」
「あらあら、リツカせんせ、こんにちはぁ」
「あー、暑い。まいっちゃうわ」
「ほんと、今日もいいお天気で日差しがすごいですね」
リツカがいつもの調子で、生徒たちと世間話を始めた。
ひろゆきは貰ったメモをちょっと見つめ、それから隠すように折り畳んだ。このメモをどこに入れておこうかとしばし考えたが、ここなら忘れたりなくしたりすることはないだろうと、シャツの胸ポケットに忍ばせておいた。
信じられないことに、リツカと食事の約束をしたうえ、連絡先まで貰ったのだ。ほんの数分前の出来事なのに、まるで夢のように感じる。
ひろゆきはおしゃべりに興じているリツカを眺めながら、メモの入った胸ポケットを上から軽く撫でた。
「それにしてもリツカ先生、今日も素敵なお着物ねえ」
「ツバメの柄ね、かわいらしいこと」
「ほんと、かわいいわぁ」
「そういえば、大久保先生がこの間おっしゃってたわよね、着物の柄には意味があるって」
「ああ、そんな話されてたわね。オシドリは夫婦円満とか、ツルは長寿とか、そんな感じのやつよね」
「ツバメはなんだったかしら?」
どうやら三人は、リツカの着物のツバメの話をしているらしい。
着物の柄に意味があるなんて話は知らなかったので、ひろゆきはカバンの中を整理しながら聞き耳を立てていた。
「あっ…、えーと、もともとツバメが家の軒下に巣を作るのは吉兆と言われていますので、幸運とか家庭円満の意味があると……」
「そうそう、縁起物よ」
「あ、そうだわ、思い出した。ツバメは恋を呼ぶとかで、恋愛に効くってのもあったわよね?」
リツカがとても小さな声で「あう」と呻くのを、ひろゆきは聞いてしまった。
「…はい……。そういうふうにも言われているらしいですね……」
「まぁ、お若いリツカ先生にぴったりだわ」
「ほんとねぇ。あたしたちみたいなオバチャンが恋を呼んでもしょうがないもの」
「リツカ先生みたいな美人さんには、いい恋が来るわよきっと」
リツカはうつむいて、恥ずかしそうにしている。ひろゆきの視線に気がついたのか、リツカは目線だけをひろゆきに投げ、両手で顔を隠すように覆ってしまった。その耳は先ほどよりも真っ赤に染まっていた。
このあと自分がきちんと講義をできるのか、ひろゆきは自信が持てなかった。